ったくのところ、ぜん、せんなにもなかったのたし、現に、ありはしないのた。つまり、わたしの 肉体は、過去も現在も、物質ではない目に見えぬなにものかによって、わずかに、それと認めら れているたけの、たえすうつり変る物質にすぎないのである。たえまなくつぎつぎにうつり変っ ている肉体は、この物質ではない目に見えぬなにものかに把握されて、はじめて、自分のものー ー自分のからだとして認められるわけなのである。わたしの肉体は、もうなん十たびとなく、完 全にいれ変ってしま 0 ている。筋肉も、内臓も、骨も、脳髄も、なにもかも、古いままのものな どないくらい、すっかり変ってしまっている。 こうしてたえす変化している肉体を、たたひとつのもの、自分のものと、わたしが認めている のも、そこに、あの物質とは違ったなにものかの働きがあるからなのた。この物質とは違ったな にかというのが、われわれのいう意識にほかならないのである。つまり、たたこれだけが肉体と いうものを、なにからなにまで、ひとまとめにひっくるめて把握して、それを一つのも ? ーー自 分のものと認めるわけである。こうして自分をほかのいっさいのものと違ったものと認めるこの っさい、知らな 意識がなかったならば、わたしは自分の生命のことも、ほかの生命のことも、 論 いない。だから、ちょっと考えると、この意識ーーいっさいの根本となる意識という 生ものは、永久に変らないもののように、思われるかもしれない。しかし、それはまちがいだ。意 人識は永久に変らぬものではない。現に、一生のあいだには、眠りという現象がしよっちゅうくり 返されているではないか。われわれは、だれしも、毎日のように眠りをとるわけだから、こんな 現象はごくごく簡単なとるにもたりないことのように思いがちなものだけれども、しかし、もう
苦痛と快楽は、きりはなして別々に考えられぬほど、たがいに密接な関係をもった正反対の二つ の状態だということが、わかるのである。では、理性をもった人の自間する間題ーーーなぜなんの どういう意味があるのだろう ? 苦痛が快楽とむ ために苦痛があるかという間題は、いったい すびついていることを知る人が、また、どういうわけで、苦痛はなぜなんのためにあるかと間い かけながら、快楽はなぜなんのためにあるかとたすねないのだろう ? 動物や、動物としての人間生活は、いすれにせよすべて、たえまない苦痛の連続である。動物 の活動、動物としての人間の活動は、ことごとく、苦痛によってよび起こされているにすぎない。 苦痛は病的ないとわしい感覚だが、それがかえって活動力をよびさまし、この病的な感覚をなく して、ここちょい状態をうみだすものとなっている。動物の生活も、動物としての人間の生活も 苦痛によってそこなわれないばかりか、むしろ、苦痛のあるおかげで、どうやらもっているよう なものである。したがって、苦痛は人生を前進させる原動力にほかならないのだから、どうして もなくてはならないものなのだ。たとすれば、苦痛はなぜなんのためにあるのかなどと間うとき にしったい、なにをその人はたすねるつもりでいるのだろう ? 論動物はそんなことはたずねはしない 生飢えたスズキがウグイを苦しめたり、クモがハエを苦しめたり、オオカミがヒッジを苦しめた 人りする場合、そうした動物は、みなそれぞれに、当然しなければならないことをしているまでの 9 ことだと思っているに違いない。だから、こんどは、スズキや、クモや、オオカミがほかのもっ と強い動物から逆にそういった苦しいめにあわされた場合には、スズキにしろ、クモにしろ、オ
168 なすびあわす、なにか、別のもののうちにあるに違いない 時間の流れるままに、とぎれとぎれにつづいていく意識を、すべて、一つにむすびあわすこの 別のものというのは、じゃ、 いったいなんだろうか ? このもっとも根本的で特殊なわたしの目 我。ーーっまり、わたしの肉体の生存と、肉体のうちにおきるさまざまな意識とによって、くみた てられるような単純なものではなくて、とぎれとぎれにあとからあとからあらわれる意識を、一 匐合財、くしにでもさしとおすようにして、いちいちまとめていくこの根本的な自我とは、ほん と一 ) に、 いったいなんなのだろうか ? この問題はおそろしく深遠でむすかしいものに思えるけ れど、しかし、子どもなら、たいてい、ちゃんとその答を知っていて、日に二十ペんくらいはロ 「これが好きた、あれは好きでない」とよくいっている、あれであ にしないことがないほどだ。 る。この言葉はたいそう簡単だが、それでも、そこには、すべての意識を一つにむすびあわせて いる特別な自我とはなにかという問題の解答があるのだ。これは好きだけれど、あれはきらいだ というものが、つまり、ほかでもない、 この自我なのである。なぜ人にそれぞれ好ききらいがあ るのか、そんなことはだれも知りはしないが、しかし、この好きだきらいだということが、ひとり ひとりの人間の生侖の根本になるものであって、とぎれとぎれてばらばらになっているさまざま な意識を、一切合財、ひとまとめにむすびあわせる役をしているのである。外部の此界というも のはすべての人間に一様に働きかけているが、ぜんぜんおなじ条件におかれた人たちの印象でさ え、そのうけとり方しだいで、いくらでも、雑にもなればくわしくもなり、強くもなれば弱くも なるので、いちいち数えたてればきりがないくらい、実にさまざまなものなのた。こういっこ印
罪のないたくさんの人々が生きうめになって、恐ろしい苦痛にさいなまれながら死んでいく。こ うしたことこま、 どういう意味があるのだろう 2 ・ ふいにおそいかかってきて、なん の意味もなく人に苦痛を与える恐ろしい事件が、なんでこう、数かぎりもなく起こるのだろう ? もっともらしい理論的な莞明は、まったくのところ、いっこうなんの説明のたしにもなってく れな、。 こうした現象の理論的説明ときたら、いつもきまって問題の核心となるところをすどお りしてしまうものたから、ことの不可解さをますますはっきりさせるぐらいの役にしかたたない。 わたしが病気になったのは、なにかの細菌がとりついたからだとか、子どもが母親の目のまえで 汽車におしつぶされたのは、空気中の湿気が鉄に作用したその結果たとか、また、ヴェールヌイ が陥没したのは、ある地質学上の法則がそこに働いたためだとか、こうした説明しかしないので ある。問題はそんなところにあるのではない。なぜこの人たちがこうした恐ろしい苦痛を受けな ちんじ 冫ーしったい、わたしはどう ければならなかったか、こういった恐ろしい楙寓からまぬがれるこま、 すればいいのかという点が、かんじんなのだ。 だが、これには答はないのである。反対に、理性は、こうした偶然の出来事にあるものが支配 され、あるものが支配されぬというところに、法則などはなにも働いていないし、また、働くは ずもないこと、こういったたぐいの出来事は数かぎりもなくあるのだから、どういうてだてをわ たしがつくそうが、わたしの生命は、たえす、恐ろしい苦痛をもたらす危険にさらされているの だということを、はっきりと、しめしているのである。 もし人々が、自分の世界観から論理的にわりたされる結論だけに、忠実にしたがうものだとし
近づいているどころか、すでに来ているのである。 人々は理性的な意識にますます目ざめ、自分をほうむった暗い無知の墓のなかでつぎつぎとよ みがえっているのた。そして、人間生活の根本矛盾は、それを見まいとして立ちすくむ人々の足 もとから、おそろしく力強くはっきりと、みんなの目のまえに、その姿をあらわしはじめてきた のである。 「自分の生活というものは、けつきよくのところ、自分が幸福になりたいという望みいがいの なにものでもない目ざめた人は考える。「だが、理性のささやきにひとたび耳をかたむければ、 こんな自分ひとりの幸福などという考えはまったくの妄想でしかなく、自分がなにをしようが、 なにを手にいれようが、行きつくさきは、かならす、苦痛や、死や、破減と相場がきまっている。 幸福になりたい、生命を味わいたい、理性にかなった生き方がしたいと自分は思っているのに、 その自分を見ても、自分のまわりを見ても、あるものといえば不幸と、死と、無意味ばかりであ る。どうしたらいいのか ? どんなふうに生きたらいいのか ? なにをしたらいいのか ? 」 しかし、答はないのだ。 論人は自分のまわりを見まわして、答をもとめるが、見つからない。自分になんのかかわりもな 生い疑間になら答えてくれる教えもいろいろあるが、かんじんの自分のいだいている疑間となると、 人どこを見ても、なんの答もない有様、ただ目につくものといえば、他人がわけもわからずやって いることを、やつばり、自分もわけなどわからすやっているこの世の人々のむなしい生活図絵た けである。
れば、科学そのものもまちがったものとなるほかはない。 科学とわれわれのよんでいるものが人生を定義するのではなくて、われわれの人生観が科学と 認めねばならぬものを決めるのである。したがって、科学が科学となるためには、まず、なにが 科学で、なにが科学でないかという間題が解決されなければならないのであ 0 て、そのためには、 人生観がはっきりしていなければいけないのである。 わたしは率直に自分の考えをのべることにしよう。ほかでもない、われわれはみんなこうした まちがった実験科学の信仰をささえる根本のドグマを知っているのだ。 物質とそのエネルギーがある。エネルギーは運動し、エネルギーの機械的な運動は分子の動 にかわり、分子の運動は温度とか、電気とか、神経や脳の働きとなってあらわれる。生命の現象 いっさいこのエネルギーのさまざまな関係として説明される。こうして、科学に も、例外なく、 よれば、すべては簡単で、明瞭で、美しく、わけても、都合がいいから、もしわれわれの人生ぜん たいをこれほど単純なものにしてしまう解決ーーわれわれがこれほど求めている解決がなにもな というのである。 いのならば、なんにせよ、そうしたものをぜひとも考えださなければならない、 論つまり、わたしの不遜な考えをす 0 かりぶちまけると、実験科学の活動をささえる情熱や = ネ 生ルギーの大半は、こんな都合のいい襯念を裏づけるようなものならなんでも考えだしたいという 人欲望によって、あおりたてられているだけなのである。 だから、こうした科学のいっさいの活動には、生命の現象を研究しようという欲求よりも、そ っそうは の根本のドグマの正しさを証明したいという身についたふたんの心づかいのほうが、い
しかも、科学者の大部分は、この : : : なんといったらいいかちょっと困るけれど : : : 意見のよ うで意見でたい、逆説のようで逆説でない、まあ、てっとりばやくいえば、しゃれか、なぞとで もいったらいいようなものに、後生大事と、かじりついているのである。 生命は物理的な力、機械的なカー・、・われわれがたた生命という観念と反対の意味で物理的、機 械的とよんでいる物理的な力のたわむれから発生したと確信されているわけである。 こうして本来の観念とは縁もゆかりもないようなまちがった使い方をされている「生命」とい うこの言葉は、ますますもとの意味から離れていって、われわれが普通の意味で考えると、生命 なそとてもありつこないと思えるようなところに生命を予想するくらい、かんじんかなめの中心 から遠ざかってしまっているのである。円周のそとに中心のある円なり球なりがあるというのと、 似たようなことが信じられているのだ。 実際、不幸から幸福にむかう欲求としてよりほか、わたしの想像しようもない生命は、わたし が幸福も不幸も見ることのできないようなところに、移されてしまった。生命という観念の中心 がすっかり置きかえられてしまっているのだ。そればかりか、この生命とよばれるなにものかに ついて研究したものをいろいろとしらべてみると、こうした研究が、わたしの知っているどの観 念にも、、せんぜんといっていいくらい触れていないのに、気がつくのである。わたしはたくさん の新しい観念や言葉を見るけれど、それが、どれもこれも、科学用語として条件つきの意味をも ってはいても、実際におこなわれている観念とはまるきり一致しないものばかりなのである。 わたしの知るところとなったこうした生命の観念は、すべての人の理解しているのとは、違っ
いのはそんなものではなくて、自分の意識た、自我なのだ、それがいとおしいのだと。 しかし、この意識というものにしてみても、いつもおなし一つのものだったわけではなくて、 オしか。一年まえはいまとは違っていた。十年まえはも 0 ともっと違 いろいろに変ってきたじゃよ、 っていた。それよりもまえは、まったく、ぜん、せん違 0 ていたではないか。記憶をざっとたどっ てみただけでも、意識はたえす変 0 てきているのだ。それなのに、なんた 0 ていまのこの意識に そうまで未練がましく執着するのだろう ? もしもそれがいつもおなじものだとでもいうのなら、 わけもわかるが、そうではなくて、ひ 0 きりなしに変化しつづけているものなのだ。その初めを 自分のう 知りもしなければ、見つけることもできないのに、この意識に終りがこなければいし 。しいなどと、いまさらのようにあわてて思うのだから、おかしい ちにある意識が永遠につづけよ、 もの心ついてからというもの、たえすこうや 0 て進んできたではないか。どうしてこの世にや 0 てきたのか自分では知らすに、この世の生命をうけたのだが、しかし、こういう特別な自我を身 につけて、生れてきたのはよく知 0 ているわけではないか。それなのに、すでにもう人生のなか ばを過ぎてから、どうしたのかわけもわからす、ふいに、立ちどま 0 てしま 0 て、せいい 0 ばい 論足をふんばると、さきのようすの見当がかいもくつかないからなどとい 0 て、あとはひと足た 0 生て進むまいとしている。ところが、この世にでてくるまえのことにした 0 て、や 0 ばり、かいも 人く見当などっきはしなか 0 たのに、それでも、こうして生れてきているではないか。入口をちゃ んとくぐりながら、出口をくぐろうとはしないのである。 人生は、すべて、肉体の生存という形をとって、進んでいくわけで、生れて、いそがしく歩き
くて、ただその関係や形態にすぎないということを考えもせすに、こうしたようなことを言うのである。 ( 原註 ) 一一人生のまちがった定義についてのべた巻末の「つけたりの一」参照。 ( 原註 ) 三「つけたりの二」参照。 ( 原註 ) パリサイの徒と学者たちのにせの教えは、真の生活の意 こうして、 味も、生活の指針も、示してくれはしない。 いま、人々の生活の指針となっているのは、唯一つ、理 性的な意味などなにもない生活のたたの惰性だけである 「なにも人生を定義しなくたっていいじゃないか。人生がどんなものだぐらい、だれだって知 っているんだから、それたけでたくさんさ。そんなことより、ひとつ、生きていこうじゃない か ! 」まちがった教えを拠りどころにしている人々は、自分が誤りをおかしているのにも気がっ かないで、こんなことをいうものだ。人生とはなにか、人生の幸福とはなにかということを知り 論もしないのに、こうした人たちは、自分がい「ばし生きているように、思 0 ているのだ。ぜんせ 生んなんのあてもなしに、波のまにまにただよっている人が、ちゃんと目的地にむかって泳いでい 人ると、ひとりぎめにして思いこんでいるようなものである。 。リサイ式か、学者式の教 ひとりの子どもが、貧乏人のうちなり、金持のうちなりに生れて、ハ 人生の矛眉とか、人生間題とかいったものも、だいたし 育を受けたと、考えてみるといい。 五
いまの時代に、理性によらす、信仰をつうじて、なにか精神的なものを人の心にふきこもうと いうのは、ちょうど、ロをとおさないで、人をやしな 0 てみようというこころみと、なんの変り もないのである。 人々のあいだの交流が、こうして、すべての人に共通する認識の根本をみんなに明らかにしめ したので、人々は、もう、二度とむかしのまちが 0 た考えにはもどることができなくな 0 ている。 死者が神の子の声をきくときが一聞いてよみがえるときが、近づいているのだ。いや、そのとき はもう来たのである。 その声をうちけすことはできない。なぜならば、その声はだれかひとりの声ではなくて、人類 せんたいの理性の意識の声たからである。その声は、ひとりひとりの人間のうちで、人類のも「 ともすぐれた代表者のうちで、いや、いまでは、人類の大部分の人々のうちで、たからかにひび いているのである。 一八八七年