なそ なん世紀もなん世紀もたったけれど、人生の幸福についての謎は、大部分の人にとって、やは り、こうして未解決のまま残される。ところが、この謎は、実は、とうのむかしに解決されてい とうしてそれが自分でとけなかったのか、不 るのである。そして、その解決を知った人たちは、 思議でたまらす、ほんとうは、とうに知っていたのだけれど、ただちょっと忘れていただけなの だというような気さえする。現代のまちがった教えのうちではしごく困難なものとされているこ の謎の解決も、実際には、それほど簡単で自然なものにすぎないのである。 「おまえはすべての人がおまえのために生きるのを望んでいるだろう 2 ・すべての人が自分自 身よりももっともっとおまえを愛すのを望んでいるたろう ? 」理性の意識は、こんどこそ、はっ さりと力強く人に語りかけるに違いな、。 「おまえのこの望みがかなえられるような状態は、た だひとっしかないのだ。それは、すべての人が他人の幸福のために生き、自分自身よりもいっそ う他人を愛すような状態である。そのとき、はじめて、すべてのものがすべてのものによって愛 されるようになるだろう。もちろん、おまえも、そのひとりとして、望んでいたとおりの幸福を 手にいれることになるだろう。こうして、すべての人が自分より他人を愛するようになるとき、 論はじめて、おまえが幸福になれるとすれば、おまえも、人間のひとりとして、当然、自分よりも 生 他人をいっそう愛さねばならぬはずではないか」 人 理性の意識のしめすとおり、この条件がととのって、はじめて、人間の幸福、人間の生活は可 能となるのである。この条件がととのって、はじめて、人間の生活を毒するようなものはなくな るのである。生存競争も、なやましい苦痛も、死の恐飾もなくなるのである。
230 すます遠ざかっていくいっぽうなのである。 はしめに、哺乳動物が研究され、ついで、ほかの脊椎動物、魚類、植物、サンゴ虫、細胞、微 生物へと研究がすすみ、ついには、生物と無生物との区別、有機物と無機物とのけじめ、ひとっ の有機体とほかの有機体の違いさえあいまいになってしまうところまで、こうした研究は細分化 していく。とどのつまりは、研究と観察のもっとも重要な対象として、とても観察などできない ようなものまでがあらわれてくるようになる。生命の秘密といっさいのものの解明は、きよう発 見されたかと思うとあすはもう忘れられてしまうようなごくごく小さな微生物ーー・、ぜんぜんもう 目には見えないのだから推測するよりほかはない微生物にかかっているとされるわけである。こ うして、顕微鏡的な微生物のうちにふくまれている微生物、その微生物のうちにさらにまたふく まれている微生物といったふうに、こまかくわけてどこまでもさかのぼっていくことによって、 いっさいのものが明らかにされると、人々は思いこんでいるのだ。どこまでも無限に大きいもの をたどっていくのとは違って、ものをこまかくわけていくというこの無限には、かぎりがあると でも、きっと思っているのだろう。小さいものの無限がとことんまできわめつくされたとき、神 秘はすっかり明らかにされるというわけだが、これよ、 ( しいかえれば、つまり、そんな日はけっし てこないということなのである。人々は、ものを無限にわけていって問題を解決するというこの 観念が、間題のたてかたの正しくないなによりの証拠だということに、気がっかない。研究の意 味などまるきり失われてしまっているこの愚劣きわまるどんづまりの段階が、ほかでもない、科 学の勝利たと考えられている始末なのた。いわば、めしいの極が視力の最高段階とみなされてい
そうなった場合でも、わたしが自分や他人のうちにどういう思想や感情をよび起さなければなら ないかというだいじな間題は、解決されるどころか、ほとんど手つかずのまま残されるのである。・ わたしは、この間題の答をだすのに科学者がいっこう困った顔をしないのを、知っている。こ いとも簡単に思われるのである。ちょうど、どんなむすか の問題の解決は、科学者からみると、 しい間題の解決でも、それを理解しない人には、いつも簡単に思えるようなものだ。人生をど ) ととのえたらいいかという間題も、人生がわれわれの手にゆだねられているかぎり、科学者の考 えによれば、しごく簡単なものでしかない。科学者はこういうのだ。つまり、人生は人々がそれ ぞれその要求をみたせるようにととのえられねばならないのであって、そのために、科学がいろ いろな方法をうみだしているのたから、いすれは、ます、そうした要求の満足が正しくわりふら れ、つぎには、し 、つさいの要求をすぐに満足させる方法がいろいろとわけなく作られるようにな というのである。 って、人々は幸福になるに違いない 要求というのはなにか、要求の限度をどこにおくのかなどとたすねたところで、科学者は、こ れにもやはり、簡単に答えるだけだ。科学は要求というものを肉体、精神、美、さらに、道徳の・ 要求がどの程度に正しくないか 要求がどの程度に正しく、どういう 面からも分類して、どういう ということをはっきりきめるためにあるので、それだからこそ科学は科学なのだ、とこう答える だけである。 科学は、したいに、こんなことまできめるようになるのだろう。もしだれかが、正しい要求と そうでない要求とをきめるのになにが基準になるのかと、たすねたにしても、科学者は、ためら
れば、科学そのものもまちがったものとなるほかはない。 科学とわれわれのよんでいるものが人生を定義するのではなくて、われわれの人生観が科学と 認めねばならぬものを決めるのである。したがって、科学が科学となるためには、まず、なにが 科学で、なにが科学でないかという間題が解決されなければならないのであ 0 て、そのためには、 人生観がはっきりしていなければいけないのである。 わたしは率直に自分の考えをのべることにしよう。ほかでもない、われわれはみんなこうした まちがった実験科学の信仰をささえる根本のドグマを知っているのだ。 物質とそのエネルギーがある。エネルギーは運動し、エネルギーの機械的な運動は分子の動 にかわり、分子の運動は温度とか、電気とか、神経や脳の働きとなってあらわれる。生命の現象 いっさいこのエネルギーのさまざまな関係として説明される。こうして、科学に も、例外なく、 よれば、すべては簡単で、明瞭で、美しく、わけても、都合がいいから、もしわれわれの人生ぜん たいをこれほど単純なものにしてしまう解決ーーわれわれがこれほど求めている解決がなにもな というのである。 いのならば、なんにせよ、そうしたものをぜひとも考えださなければならない、 論つまり、わたしの不遜な考えをす 0 かりぶちまけると、実験科学の活動をささえる情熱や = ネ 生ルギーの大半は、こんな都合のいい襯念を裏づけるようなものならなんでも考えだしたいという 人欲望によって、あおりたてられているだけなのである。 だから、こうした科学のいっさいの活動には、生命の現象を研究しようという欲求よりも、そ っそうは の根本のドグマの正しさを証明したいという身についたふたんの心づかいのほうが、い
以前は、よく、こんなことがいわれていたものだ。「考えるな。ただわれわれの命じる義務を 信じるがいし 。・理性は人をあざむきやすい。信仰だけが真の人生の幸福を説きあかすだろう」そ こで、人は一心に信じようとっとめ、信じたのである。しかし、いろいろ人とまじわっているう ちに、ほかの人々がまったく別のことを信じているのを見るばかりか、その信仰のほうがいっそ う大きな幸福をもたらすのに、気がつく。こうして、人は、数ある信仰のうち、どれがいっそう 冫。しかなくなる。これを解決することができ 真実に近いものかという問題を、解決しないわけこよ、 るのは、たた理性たけなのである。 人は、いつも、 いっさいのものごとを理性安つうじて理解するのであって、信仰をつうじて理 解するのではない。 はじめのあいたは、ものごとを知るのは理性によるのではなくて、信仰によ るのだなどと、確信ありげに説ききかせて、人をあざむくこともできるが、しかし、人が二つの こころから信 信仰を知り、ほかのものが自分とはちがった信仰を、自分の場合とおなじように、 じているのを見れば、もう、人は理性によってことのぜひをきめずにはいられなくなるのである。 マホメット教を知った仏教徒が、やはり、もともとどおりの仏教徒でいるならば、それは、もう、 論信仰によるものではなくて、理性によってきめたことなのだ。別のひとつの信仰を知って、自分 生のいままでの信仰と、この新しく知った信仰のどちらをすてるかという問題がおこれば、どうし 人 ても、こういった間題は理性で解決するほかはないのである。それに、もしマホメット教を知っ たうえで、仏教徒が、なお、もとの自分の信仰をすてないとすれば、仏陀にたいするそれまでの その盲目的な信仰は、当然、理性にもとづいた信仰にかわらすにはいないわけである。
人は、人生をよりよいものにしたいばかりに、その研究にしたがうのである。人類の知識をお しすすめた人たちは、こうして人生を研究した。しかし、この人類の恩人、真の教師とならんで ' 考える目的をすて、そのかわり、なせ生命が起ったか、なぜ水車がまわるかという問題に没 ている思想家が、いつの時代にもいたし、いまもいる。あるものは水のためだと主張し、ほかの ものは構造によるものだと主張する。議論は白熱し、かんじんの考えなければならない題目から はいっかしだいに離れてしまって、とどのつまり、まったく別の題目がそれにとってかわってい るという始末なのてある。 けんか 古い筴い話に、キリスト教徒とユダヤ教徒の喧嘩をあっかったものがある。キリスト教徒がユ ダヤ教徒のもちたした複雑微妙な問題にこたえながら、相手のはげた頭をびしやりとたたいて、 いまの音はどこからでたか、手のひらからでたのか、はげ頭からでたのかと質間したので、信仰・ についての議論が、いつのまにか、とうてい解決のつけようのない新しい問題にかわってしまっ た、という話である。 むかしから、人間の真実の知識とならんで、人生についての問題でも、これと似たようなこと が起っている。 生命の起源が精神的なはじまりによるものか、あるいは物質のさまざまな組合せによるものか、 というこうした問題についても、むかしから、いろいろ議論がわかれていたのである。この問題 はまだいっ . こう解決される見込みがなくて、いまでも議論がつづけられている。というのも、つ まり、考える目的が忘れられて、その目的とは無関係に生命が論議されているために、「生命」と
尸題を解決しないうちは、こうした この解決しにくい司 ばならない。よく考えてみないうちは 愛の感情を正しく完全に発揮することなどできないのである。 ところが、実際、人は目分の赤ん坊とか、友人とか、子どもとか、祖国とかいったものを、他 いっそう好ましいと感じて、この感情を愛とよ 人のどの子どもや、妻や、友人や、祖国よりも、 んでいるのだ。 しかも、普通、人はこの愛するという言葉のうちに、よいことをするという響きを感じとって いる。われわれはみんな愛をそういうふうに理解している。また、そう理解するほか理解のしょ うがないのだ。わたしの場合を考えてみても、現に、自分の子どもや、妻や、祖国をわたしは愛 している。つまり、わたしは他人の子どもや、妻や、祖国の幸福をねがう以上に、自分の子ども や、妻や、祖国の幸福をねがっている。しかし、たた自分の子どもや、妻や、祖国たけをわたし が愛すなどということはけっしてありはしないし、また、ありえないのだ。けつきよく、人はだ れにせよ、みんな、赤ん坊も、妻も、子どもも、祖国も、ほかの人たちのことも、同時に愛して いるのだとしか、考えられない。たが、それにもかかわらす、人がその愛するもののためにそれ 論ぞれねがう幸福の条件は、こ : 、 ナカしにどれも複雑にからまりあい、密接に結びつきあっているから、 生愛するもののひとりにささける愛の活動は、すべて、ほかのものにささけようとする愛の活動を 人さまたげるばかりか、そこなうことにさえなるのである。 愛のために、どう行動したらいいか ? どう ここからいろいろ間題が起こってくる。どういう 。しいか ? だれをよけいに愛し、だれをもっとしあわ いう愛のために、ほかの愛を犠牲にすれま、
136 ことか ? ま 0 たくのところ、だれにどの程度奉仕したらいいのか、どうやってきめよう ~ 人 人か、祖国か 2 ・祖国か、友人か ? 友人か、妻か ? 妻か、父か ? 父か、子どもか ? 子ど もか、自分か ? ( 必要な場合、 いつでも、すぐに他人に奉仕できるようにするためには、こう した間題が解決されていなければならない ) なにしろ、そうしたものはすべて愛の要求であるうえ、どれもたがいにす 0 かりからまりあ 0 ているから、ある要求を満足させると、こんどは、ほかの要求がそのためにどうにも満たせなく な 0 たりするのである。たとえば、かりに、いま、わたしがめぐんでくれといわれた着物を、目 分の子どもにいっかは要るようになるからという理由で、こごえているよその子どもに着せてや らすにすませるものなら、ほかの愛の要求にだって、やはり、自分の子どもの将来の幸福という ことをたてにとって、従わなくてもすむわけである。 祖国にたいする愛、選ばれたある特定の職業にたいする愛、いっさいの人にたいする愛、こう した愛と愛との関係にしても、これとまったく同じことだ。しかし、たとえ人が、こんなふうに、 将来の大きな愛の要求のためなら、現在の小さな愛の要求などこばめるものとしても、将来の要 求に名をかりて、い 0 たいどこまで現在の要求をこばんだらいいかという間題になると、どんな 大胆な人でも、そこで、はたと当惑しないわけにはいくまい。そのため、この問題を解決するカ もなしに、かってに適当な判断をくださなければならぬわけだから、自然、人はいつも自分にと ってこころよい愛のあらわれだけを選んで「けつきよく、愛のためどころか、自分の自我の満足 のために、行動することになるのである。だから、もし人が将来の大きな愛に名をかりて、現在
134 せにしようーー妻か子どもか、妻子か友人か ? 妻子や友人にたいする愛を傷つけず、愛する祖 国につかえるにはどうしたらいいか ? 他人に奉仕するために、どのくらい自分の自我をきりす てて犠牲にすることができるだろう ) この点につきまとう間題をどう解決したらいいか ? 他人 を愛し、他人に奉仕するにあたって、いったいどの程度、目分自身のことで心をわすらわすこと がゆるされるものか ? こうしたいっさいの間題は、自分たちの愛とよぶ感情を検討し、たしか めようとしてみたこともない人たちには、し 、とも簡単に思われようが、その実、簡単どころか、 まったく解決しにくい難問題なのである。 むかし、ひとりの律法学者が、ためにするところあって、キリストにやはりこれとおなじ意味 ルカによる福音書一〇 ) 実際、 の質問、「隣人とはだれのことか ? 」という質間をだしたことがあ 0 た。章二五ー = 一七節参照 こうした問題に答えるのがたやすいなどと思うのは、ただ人間生活の真の条件を忘れている人だ けである。 もし人間がわれわれの想像するような神たったとすれば、たしかに、そのときは、ある選ばれ た人だけを愛することもできようし、また、ある人をほかの人より好ましいと思うだけの気持が 真の愛にもなるだろう。しかし、人は神ではない。それどころか、すべての生物がたがいにあい てを利用して、実際の意味でも、また、譬喩的な意味でも、食いあって生きるという生存の条件 のうちに、投けだされているのだ理性的な存在である人間はその事実を、いやでも、認めなけ ればならない。さらに、動物的な幸福というものは、なににせよ、ほかのものを傷つけぬかぎり 手にはいらないものだということも、さとらなければならないのだ。
しているこうした人々のほかに、生産のある時期、いや、ときとしては一生産をつうじて、ただ 動物的な生活しか念頭になく、人間生活の矛盾の解決に役だっ入生の定義を理解しないどころか、 それが解決している人生の矛盾さえも知らずに生活している実にたくさんの人々がいつもいたし、 いまもいるのである。そして、こういう人々のあいたにたちま」って、うわべの特別な地位のた めに、自分を人類の指導者のように思いこんで、人間生活の意味がわかりもしないくせに、自分 のわかりもしないこの人生のことを、人間生活は個人的な生存にほかならないなどと、他人に教 えるような人々がいつもいたし、また、いまでもいるのである こうしたにせ教師たちはどんな時代にもいるもので、第代でもあとをたたない。あるものは、 自分たちがその伝統を受けてそだった人類の教師たちの教えを口にはするが、実のところ、その 合理的な意味などいっこうわかっていないので、そうした教えを人々の過去や未来の生活にかん する超自然的な啓示にしてしまったあげく、ただもう儀礼の実行だけを重んじている。これはご く広い意味でのパリサイの徒ー・ーっまり、不合理なこの人生を正すには、形式的な儀礼をひたす ら実行して、来世を信じるようになればよいと説く人々の教えである。 また、あるものは、目に見えるこの人生のほかに、来世などというようなものはいっさい認め ず、奇蹟や超目然的なものなどはあたまから否定して、人間の生活は生れてから死ぬまでが動物 的な生存いがいのなにものでもないと、断言してはばからない。これは学者たちーーっまり、動 物としての人間の生活に不合理なものはなにもないと説く人々の教えである。 この二つの教えはどちらも、おなじように、人生の根本矛盾というものをろくろく理解しない