関係 - みる会図書館


検索対象: 人生論
47件見つかりました。

1. 人生論

三二死の迷信は、人が世界にたいするそのさまざまな 関係を混同するところから、生れる そう、人生をほんとうに正しい意味で見たならば、死というこんな奇妙な迷信が、しったいな んであるのか、ほとほと合点がいきかねるに違いない やみのなかでふ 0 とみた恐ろしげなものも、じ 0 とこころをおちつけて見てまぼろしだとわか りさえすれば、もう恐ろしくもなんともなくなるのと、おなじようなものである。 たったひとっきりしかないものを失うというこういった恐れは、人が、ちゃんと知ってはいる ものの、目には見えない特別なひとつの関係ーー・世界にたいする理性の意識の関係のうちにこの 人生を認めるたけではなくて、目には見えてもよくはわかっていない関係。ーー世界にたいするそ の動物的な意識や肉体の関係のうちにまで、真の人生を認めるところから、おこるのだ。人間に とって存在するものはすべて、この三つの関係として認識されるのである。つまり、世界と人 論間の理性の意識との関係、皀世界と人間の動物的な意識との関係、世界と人間の肉体を形づ裟 生る物質との関係がこれである。人は、世界と自分の理性の意識との関係に、そのかけがえのない 人真の人生があるのを理解しないで、世界と動物的な意識や物質との目に見える関係のうちに、自 分の人生があると考えるから、自分自身のうちで、その肉体を形づくる物質や、動物的な自我と 世界とのもとからの関係がやぶれたりすると、自分の理性の意識と世界との特別な関係まで失わ

2. 人生論

178 三〇生命の本質はこの世界にたいする関係だ。しかも、生 命はたえす動いて、さらに高い新しい関係を形づくっ てゆく。だから、けつきよく、死も新しい関係にうつ るひとつのきっかけにほかならないのである われわれは、生命をこの世界にたいする一定の関係としてしか、理解できない。われわれは自 : ほかのいっさいの生物の生命も、やはり、こうい 分のうちの生命をこう理解しているばかりカ うふうに理解しているのである。 しかし、目分のうちの生命を、われわれは、この世界にたいするただのあるがままの関係とし て理解するだけではないのだ。さらにすすんで、動物的な自我を理性のきすなにますます強くむ すびつけ、愛のひかりをいよいよあきらかに輝かしながら、世界にたいする新しい関係をうちた てていくいとなみだと考えるのである。現に、われわれと世界とのいまみるような関係がふだん につづくものではないこと、したがって、新しい別の関係をうちたてるようにしなければならな いことを、われわれの痛切に感じる肉体にささえられた存在のいやおうない破減という事実が、 しいかえれば、生 はっきりと教えてくれているではないか。この新しい関係の樹立ーーっまり、 命のたえまない運動をほんとうに理解しさえすれば、死の観念などいっぺんにふきとんでしう に違いない。人が死にとらわれたりするのも、自分の生命を、成長していく愛のうちに実現され

3. 人生論

きみがもし動物だとすれば、なにも恐れる必要はない。もし物質たとすれば、なおさら恐れるこ とはない。物質の存在は永遠に保証されているからである。 しかし、もしも動物的でないものを失うのがこわいのたとすれば、それは、つまり、この世界 にたいする自分の特別な関係ーー、生れながらに身につけてきた関係を失うのが恐ろしいというこ とになる。しかし、その関係が誕生とともに生じたものでないことは、もう、はっきりしている ではないか。それは動物的な自我の誕生とは、ま 0 たくなんのかかわりもなしに、存在している のだから、したがって、死ということとも関係のあろうはすはない。 三三われわれの目に見えるこの人生は、生命の 無限の運動の一部分にすぎない わたしには、わたしの地上の生活、ほかのすべての人々の地上の生活が、つぎのようなものに 見える。 論わたしをはじめ、生きているすべての人々は、この世に存在する自分というものが、世界にた 生いするある一定の関係をもち、ある一定の程度の愛をもっていることに気がっかないではいない 人のだ。はしめ、われわれは、世界にたいするこの関係といっしょに、われわれの生命がはじまっ たように思うのだが、しかし、自分や他人を見ているうちに、世界にたいするこうした関係や、 それぞれの愛の度あいというものが、この人生から始ったものではけっしてなくて、すでに肉体

4. 人生論

も、また、ただの外見の違いなどからひきだされてきたのではなくて、その動物の、それぞれに、 位置をしめているこの世界にたいする特定の関係ーー : なにをどの程度に好いたり、きらったりし ているかというそれぞれの立場の違いによって、しだいに、形づくられたものにほかならないの である。また、わたしが動物のいろいろ違った種類を見わけるのも、厳密にいうならば、その外 見の特徴によるわけではないので、さまざまの動物ーーーたとえば、シシなり、魚なり、クモなり が、それそれ、この世界にたいしてその種族に共通した独特の関係をしめしているという事実に よって、区別しているのである。すべてのシシは、どれもおなじように、あるものを好み、すべ ての魚は、やはり、おなじように、別のあるものを好み、すべてのクモは、また、おなじように、 それとは違ったあるものを好む。こうして、いろいろな動物は、それぞれ族ごとに、ちがった 別のものを好むからこそ、わたしの観念のうちで、みんな、ちゃんと、別の生物として、区別さ れるわけなのである。 わたしが、たとえ、こうしたさまざまな生物のうちに、この世界にたいするそれぞれの特定な 関係を見わけなかったとしても、そんなことはそういう関係が存在しないという証拠には、ぜん この世界にたいするそのクモの特定な関係が、 論ぜん、ならない。一びきのクモの生活の内容 生わたしとこの世界との現在の関係から、あまりにもかけはなれているために、シルヴィオ・ペリ 人 コが一びきのクモをほんとうに理解したほど、まだわたしには理解がとどいていないということ を、それは物語るだけの話である。 自分自身のことでも、ひろい世界のことでも、なにによらず、わたしのいまもっているいっさ

5. 人生論

動物を支配する法則によって自分を知ることなどわれわれにはできないけれど、自分のうちに 8 認める法則によって動物を知ることならできるのだ。たから、まして、物質の現象におきかえら れてしま「たような生活の法則から、自分を知ることなど、とてもできない相談だといわなけれ ばならない 外界について人の知るすべてのことは、人が自分を知「て、自分のうちに、この世界にたいす る三つの違「た関係を恝めているからこそ、知られるようにな 0 たのである。その関係というの は、一つには、自分の理性的な意識との関係、二つには、自分の動物的な自我との関係、三つに は、その動物的な自分の肉体にふくまれる物質との関係である。人はこの三つの違った関係を自 分のうちで知っているので、そのために、この世界で見るいっさいのものを、理性的存在、 それぞれたがいに異なった三つの部分からなる遠近法にしたがって、 動植物、無生物という、 あんばいして見るわけなのである。 人がこの世界にいつもこうした三種類のものを見るのは、目分自身のうちにこの三つのものが ふくまれているのをちゃんと知っているからだ。人は自分をつぎのようなものとして知っている。 つまり、動物的な自我をしたがえる理性の意識として、理性の意識にしたがう動物的な自我 として、動物的な自我にしたがう物質として、知っているのである。 普通に考えられているように、われわれが有機体の法則を知ることができるのは、物質の法則 を知っているからではないし、また、理性の意識としての自分を知ることができるのは、有機体 の法則を知っているからではない。むしろ、その逆である。まず、第一に、われわれの知ること

6. 人生論

196 つづけて、ついには、いままでたえす自分でしてきたことが完全におこなわれることになって、 肉体の生存を終るわけなのたが、その途中でもって、人生のこうして完成されていくのが、なん だか、急に、痛ましいような気がしてくるのだ。肉体の死にともなう自分の状况の大きな変化が 恐ろしいのである。しかし、こうした大きな変化は、もう自分の生れたときにもちゃんと起こっ ていることなのた。しかも、その結果は、いまの状態に執着しているところをみると、悪いどこ ろのさわぎではなくて、たいそう好もしいものだったようではないか。 なににおびえることがあろう ? 現在のような感情、思想、世界観をもっているこの自分自身 世界にたいして、いまのような関係をもっているこの自分目身がいとおしい、とでもいうの 世界にたいするこうした自分の関係を失うのが恐ろしいというけれど、しかし、いったい、そ れはどういう関係だろう ? どういうあり方なのだろう ? もしそれが食ったり、飲んだり、子どもをつくったり、家をたてたりといったふうに、なにや かや他人や動物と交渉することによって作られるものたとすれば、こういったものは、すべて、 考える動物である人間ならだれしももたぬわけのないこの人生にたいする関係なのだから、そう いった関係はけっして消減するはすがないのである。数百万の人々が、過去から現在にわたって、 こうして生活してきたし、これからさきも生活していくだろう。その種族は、物質の分子とおな じことで、しつかりと維持されていくだろう。種の保存ということは、あらゆる動物のうちに深 く根をはっている本能であって、したがって、なにがこようとびくともしないほど、強いものた。

7. 人生論

空間と時間というこの条件は、もともと、人間があるものを好み、あるものは好まないというど うにも動かしようのない本性を、この世に、もって生れてきているために、人間に働きかけたり、 働きかけなかったりするだけのことなのである。だからこそ、おなじ空間と時間の条件のうちで 生れ育った人たちでも、その内部の自我をみると、まるつきり傾向が正反対たったりするような ことも、ちょいちょ い、おこるわけなのだ。 われわれの肉体ときってもきれない関係にある意識ーーそれぞれ違ったばらばらのいっさいの 意識を、一つに、むすびあわせているものは、空間と時間という条件からまったく独立してはい るが、あやふやなものどころか、きわめてはっきりした動かしようのないものであって、空間も 時間もこえた世界から、この世に、われわれがもってでてきたものである。これこそ、わたしと このわたしというもののまがうかたも この世界とのあいだに特定の関係をなりたたせるもの ない真実の自我なのである。この根本の本性ーー世界にたいする関係を自覚することが、自分自 身を知ることなのた。いや、自分ばかりではない、わたしが他人を知るとすれば、やはり、世界 にたいするその特定の関係をつかむほかはないわけである。ひとと精神的なまじめなまじわりを とりかわすとき、われわれはその人の外見などにはとらわれす、ひたすら、その本質にふれよう と、つとめるたろう。つまり、どの程度になにを好み、なにを好んでいないかという、この世界 にたいする態度ーー関係を知ろうとするのである。 それぞれに違った動物ーーー馬なり、大なり、牛なりをわたしが知っているとすれば、知ってい るばかりか、精神的なかけがえのないつながりまでもっているとすれば、そうしたわたしの理解

8. 人生論

からのほうが、すっとずっとわたしをしばるのだ。わたしの兄弟の身うちに燃えていた生命のカ はほろびたのではない。衰えたのでもない。そっくりもとのまま残っているのでもない。かえっ て、まえよりも大きなものとなって、はるかに力強くわたしに働きかけているのである。 かれの生命の力は、その肉体の死ののちにも、生前と同様、いや、それ以上に力強くこうして し学 / —> 働きかける。生きているいっさいのものとちっとも変らす、働きかける。それなのに、 どんな根拠があって、わたしの死んだ兄弟がもう生命をもっていないなどと、断言したりできる わたしの兄弟がこの世に肉体をもって生存していたときと、まったくおなしようにそ いいかえれば、わたしの目を、この世界にたいするわた の生命の力を感じていながら、つまり、 しの関係に、ひらかせるよすがともなったかれと世界との関係というものを感じとっていながら、 どうしてそんなことがいえるだろう ? わたしはここではっきりということができる。ほかでも ない、かれは、世界にたいするごく低い関係ーー動物としてかってかれのとどまっていた、そし て、現に、まだわたしのとどまっている低い関係から、ぬけだしていってしまったのた。けつき よく、それつきりのことなのである。もっとも、ことわっておかなければならないが、わたしに 論も、世界にたいするいまのかれの新しい関係を形づくるものが、見えるわけではない。しかし、 生かれの生命を否定することはぜ 0 たいにできない。なぜなら、わたしは自分の身にその力をはっ 人 きり感じているからである。ちょうど、だれかが自分をつかんでいるのを、鏡のうえで、見てい 5 たのに、その鏡がふっとくもったようなものだ。どうやってつかんでいるのか、もうわたしには 見えはしないが、 それでもやつばり、だれかが目分をつかんでいて、まえとおなじように、ちゃ

9. 人生論

る新しい関係ーーこの世界にたいする理性的な関係をうちたてていくいとなみにあると認めない ひくい愛の段 で、いつまでも、もとのままの関係、つまり、自分のもって生れた好ききらい 階にかかずらっているからにすぎないのである。 生命はたえまない運動なのだ。それで、人は、この世界にたいするもとどおりの古い関係、も って生れたはじめのひくい愛の段階にとどまっているかぎり、生命の停滞を感じなければならす、 その結果、死を目のまえに見なければならなくなるのだ。 こういった人にだけ、死は、はっきりと目に見える。目に見えるので、恐ろしい。こうした人 この からみると、人間の生存は、一から十まで、かたときのやみまもないふたんの死でしかない。 人たちにとって、死はただ未来ばかりのものではないのだ。この現在にも、たえす、不吉な姿を あらわす。小さいころから年をとるまで、動物的な生命の衰弱のしるしがあらわれるたびごとに、 いつも、まざまざと目に見えて、恐ろしい思いをさせるものなのだ。なぜなら、子どもから大人 になる成長期の活気にみちあふれたのびゆく力でさえ、けつきよく、ほんの一時たけのみせかけ のものにすぎす、本質的には、生れてから死ぬまで休みなくつづくあの肉体の器官の便化、柔軟 論性の減少、生命力の衰弱という現象の一部にほかならないからである。そこで、こうした人は自 生分の目のまえに、たえす、死を見る。しかも、死の救いになるようなものはなにもないのである。 人 一日ごとに、いや、一時間ごとに、 こういった人の境遇は悪くなるばかりで、よくなる見込みな 四どま「たくないのだ。世界にたいする自分の特別な関係、その特定の好ききらいというものが、 こうした人の目には、ただ自分の生存の条件の一つぐらいにしか見えず、人生のたったひとつの

10. 人生論

8 に生きる人汝は、だれであろうとみな、これとおなじものを見るのである。 たとえどんなにその人の活動範囲がせまくても、よしんば、それがキリストだろうが、ソクラ テスだろうが、よろこんで自分を犠牲にする善良で名もない老人や、青年や、婦人だろうが、そ の人がもし他人の幸福のために自我をすてて生きるならば、そうした人は、もう、現在のこの地 上の生活のまま、世界に対する新しい関係ーーこの世に生きるすべての人のもとめてやまぬ死の ない新しい関係に、ふみこんでいるのである。 人は、理性の法則にのっとって、愛のこころを発揮しながら生きるとき、すでに、この地上の 生活のうちで、こうしていま自分の目ざしてすすんでいる生命の新しい中心からさす輝かしい光 をはっきりと見るばかりか、その光の輝きが、自分をとおして、まわりの人々に及んでいくさま まで、目にするのである。そして、それが、かれに生命の永遠のカ、不減の力にたいする動かし ようのない強い信念を、与えるのだ。この生命の不減という信念を、そっくりそのまま、だれか 他人から受けとるなどということはできないし、いくら自分で生命が不減だと思いこもうとした ところで、思いこめるものでもない。生命の不減という信念が形づくられるには、現に、生命の 不減という事実が存在することをよく認識しなければならす、そういった事実が存在することを 認識するには、自分の人生を、その不減という点でとらえて、ちゃんと理解しなければならない のだ。未来の生命をほんとうに信じることのできるのは、けつきよく、この人生で自分のっとめ をはたして、そこに世界にたいする新しい関係ーーーこの世のわくのなかにはもうおさまりきれぬ ような新しい関係をつくりあけることになった人だけなのである。