人間 - みる会図書館


検索対象: 北の海
75件見つかりました。

1. 北の海

川幅の広 い川たという以外、夜目に 洪作は川の面をすかしてみた。川瀬の音は聞えているが、 はその川の表情も、姿態もはっきりしなかった。両岸に燈火が点々とついているところから推す と、人家が立ち並んでいるものと思われた。 二人は橋を渡ると、かなり急な坂をじぐざぐに登って行った。 「この坂は坂というんだ。字型に折れ曲っているでしよう」 杉戸は説明してくれた。なるほど少し登ると折れ曲り、また少し行くと折れ曲っている。 「腹がヘると、何とも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂ですよ。あんたも、あしたから、僕の 海言っていることが嘘でないことが判る。稽古のひどい時には、この辺で足が上らなくなる。なん で四高にはいって、こんなに辛い目にあわなければならぬかと、自然に涙が出て来る」 の「はんとに涙が出るんですか」 「そりゃあ、出る。一年にはいって、一学期の間は、毎日のように、この坂の途中で涙を出す。 実際に足が上らなくなるんだから、涙だって出て来ますよ。だが、一学期が終ると、大体諦めて しまう。こういうものだと思ってしまう。僕などは、現在、そうしたとこへ来ている。鳶のよう に深刻に考えたりしない。たいしたことではない。三年間、捨ててしまうだけの話なんだ」 「鳶さんも一年ですか 「そう」 「僕は一一年生かと思いました」 コ一年の部員はすじ金人りですよ。人間らしい血なんて、一滴も持たなくなる。さかさにして振 っても、人間の血なんか一滴も出て来ない。出て来るのは汗ばかりだ。そうなると、みごとです 340

2. 北の海

127 「どうしてそういう人間ができたか、研究に値すると思うね。 なんとか一一一口いなさい 「はあ」 「落第してもからっとしている。大きな顔をして中学へ遊びに来る。毎日、中学生たちと道場で どたんばたんやっている。寄宿舎の風呂にははいる。 最近は食堂まで使っているそうじゃな いか」 「食堂で食べたのは二回だけですよ」 「二回にしても、みごとなものだ。普通の神経だとそうは行かない。 来年の受験もいっこう 海に気にしていよい。 普通なら、来年も落第したらどうしようかと、少しは心配になるものだが、 そんな気配はいささかもない。 両親もあるのに、い っこうに会いたくもないらしい。弟も、 の妹もあるだろうし 「あります」 「家の者に会いたくないということは、これだけは余人の及ばぬ見上げたところだと思うんだが 「はあー 「卒業したのに、家の者と一緒に生活しようという気を起さないということは、一体、どう説明 すべきかね」 「さあ、たいして深い意味はないと思いますー 「それ、そういう他人事のような言い方をする。そういうところが、君の少し違っているところ 羨ましい限りだ。僕などはそうは行かん」 ね」 うらや ひとごと

3. 北の海

207 につかねえ。苦労が苦労にならねえ。苦労の方で根敗けして引込んでしまう」 その時、風に乗って、子供たちの声が聞えて来た。 洪チャ。洪作サン。 節をつけて、子供たちは洪作を呼んでいる。洪作は立ち上って、声の聞えて来る方に視線を投 げた。墓地の向うの隅に子供たちの固まっているのが見えた。 待ッテロヨ。 洪作も節をつけて怒鳴っておいて、またくめさんの横に腰を降ろした。くめさんとの話を打ち 海切る気持はなかった。くめさんと話しているのが楽しかった。 「眷の顔を持っている者は、そんなにたんとはねえ。苦労が苦労にならねえんだから得な性分だ。 のただ春の顔で困ることは、とかくのんべんだらりと一生を送ってしまいがちなことだ。たいして 金にも困らない替りに、どうもなんにもしねえで一生を終ってしまいがちだ。結構と一言えば結構 北だか、やつばり人間というものは何かしねえとな」 それから、ちょっと口調を変えて、 「わしは思うんだが、人間という奴は、一生のうちに何かに夢中にならんとな。何でもいいから 夢中になるのが、どうも、人間の生き方の中で一番いいようだ。女に夢中になるのもよかろうし、 金山を掘り当てようと、一生山の中をほっつき歩くのもよかろうさ。そうすりゃあ、人間、死ぬ 時悔いはなかんべ」 くめさんは言った。 「夢中になれるものにぶつかれま、

4. 北の海

「無駄をしない人間だってあるでしよう」 「めったにない。君も、いま、無駄をしている。まっすぐに高等学校へはいっていれば、浪人生 活なんて無駄なことをしなくてすむのに、勉強を怠ったばかりに情けないことになっている。君 の場合は、朝から晩まで、無駄な時間を生きている。僕も無駄をしている。沼津のようなところ で、君みたいなのを相手にしているのは、どう考えても、君、無駄だよ。しかし、こういう無駄 をするのが、まあ、人間というものだろうね。無駄をしない人間だって、そりゃあ、たまにはあ るさ。めったにないが、。 こくたまにはあるだろう。教頭などは、そのめったにない口だよ。 海珍しい例だ。珍重すべき存在だ - 「英語の菅沼さんだって、めったにない口の一つでしよう」 の「菅沼君は、君、無駄の方だよ。むしろ、強いて捜せば、もう一人の英語の教師の方だろうね」 「三原ですか」 「呼び棄てはいかん」 「じゃ、三原さんですかー 「いや、もう一人あるだろう、英語の教師がー 「池上さんですか」 「そう、池上、 この方は呼び棄てにしてもよかろう。こんなことを言わなくても、君たちは みんな呼び棄てにしているらしいが」 「呼び棄てにはしていません。カミチャンと言っています。チャンづけです」 「イケガミのカミたね」

5. 北の海

悪いことではない。俺もやってみるかなー 「何のためにやるんだ」 「だから、修養だと言っているじゃないか。理科のお前には判らんが、人間というものはいろい ろ悩みを持っているー 「お前にも悩みがあるか」 「ある」 . 「嘘を言え」 海「嘘とは、失礼なことを言うな。一番大きい悩みは性慾だ。俺は毎日性慾に苦しめられている」 「性慾だと、贅沢なものを持っているな」 のそれから、杉戸は富野のロまねをして、 「それというのも、練習が足らん、練習が。 稽古にもっと身を入れろ。そうすれば、性慾な 北どというものはいっぺんにふっとんでしまう。人間、稽古さえ励めば、食気と睡気だけになっち まう。人間、食気と睡気だけあればそれで結構、ほかのものは要らん」 と一一「ロった。 426 三人はいつものように呑林坊を歩いて行った。四高の学生の姿は殆ど見られなかった。たまに 居れば、家が金沢にある者に決っていた。そういう連中はこぎれいな恰好をしていて、いかにも 育ちのよさそうな上品な青年に見えた。そういう学生にぶつかると、 「坊や。 こんにちは」

6. 北の海

三部作は井上氏の自伝小説のように言われているが、もしこれを自伝小説と言ってよければ、 解漱石の『坊っちゃん』だって自伝小説だろう。だが、『坊っちゃん』を漱石の自伝小説と思うの は、よほど単純な人間観と文学観を持った読者だろうが、井上氏の三部作、ことに『北の海』を 作者の自伝と思いこむのも同様のことである。井上氏があの中に描かれた洪作少年のような単細 胞的人間であるとは、考えられないことである。それは漱石が、『坊っちゃん』の主人公のよう な単純な人間でありえないのと同じである。『坊っちゃん』においても、『北の海』においても、 作者は人間の持ついろいろの面を捨象し、その一点を支えとして性格を単純化し、平面化してい るのである。そしてその操作によって、見事に小説としての統一された世界、言わばコスモスを 作り出しているのだが、それは登場人物の個性とか内面とか発展とか、近代小説の多くが執心し 「練習量がすべてを決定する柔道ーが如何なるものか、つぶさに体感し、来春は四高へ入学し、 柔道部へ入部しようと決心して、ひとまず父母のいる台北へ向う、半年ばかりのことが描かれて らんだ はう かなえ いる。『夏草冬濤』につづいて、洪作の遊び仲間、藤尾や木部や金枝が登場して、懶惰とも、放 らっ 埒とも、文学青年ともっかぬ、自由な世界、むしろ青春の目標のない反抗のようなものが漾って がんこう いるが、それと雁行して、四高の柔道部の規律のような、自分を進んで律しようとするストイツ クな世界が現われ、それに惹かれ、その中に自分の心も体もとつぶりと浸して、それを快しとす る心情が現われてもくる。言わばこの、自由と規律ともいうべき相反する心情が、青年洪作の心 説の両面なのである。 671 ただよ

7. 北の海

交通事故で負傷した万葉研究家の千沼は神の 井上靖著夜の亠尸声を聞く。「人間の心を正せ、世の紊れを直 せ」使命を自覚した彼は孫娘と共に家を出た。 孤独な足音を残して消えていった身近な人々 に思いを馳せ、幾度かの異国の旅で出会った 井上靖著道・ローマの宿 さまざまな風景や人の姿を描く珠玉短編集。 従車記者として渡った中国から、荒廃した日 檀一雄著リッ「卞・その愛本に戻「てみると妻リッ子は胸の病に伏して 。みずみずしい文章で愛を謳う名作。 中国戦線で夥しい死を経てきた著者を襲った 檀一雄著リッ「才・その死最愛の妻の死。眼前に横たわる不幸を突き抜 けて、純粋の愛と美を追究した生命への讃歌。 : 。たとえわ 女たち、酒、とめどない放浪 : ・ 檀一雄著火宅の人が身は " 火宅 ~ にあろうとも、天然の旅情に 忠実に生きたい 。豪放なる魂の記録 / 日本文学大賞受賞 ( 全一一冊 ) 戦国時代、宣教師に随行して渡来した外国船 辻邦生著宀女土、仕皿「心員を語り手に、乱世にあ「てなお純粋に世の 道理を求める織田信長の心と行動をえがく。

8. 北の海

木谷上等兵に罪を着せたのは何者か ? 戦後 野間宏著百【空地丗市初めて、軍隊機構の末端である兵営の緻密な 毎日出版文化賞受賞描写を通して日本車国主義を批判した問題作。 業者と政治家の闇取引による手抜き工事で、 安部公房著の眼満水になれば決壊は必至のダム。推理小説の 手法で、現代の政治と人間関係を抉る異色作。 徴兵を拒否し、故国日本を捨て、満洲の地を 一人、自己の占有をめざして歩きつづける男。 安部公房著終りし道の標べに 人間存在の条件を問う著者の処女長編。 《こんにちは火星人》というラジオ番組の脚本 安部公房著人間そっくり家のところへあらわれた自称・火星人ーー彼 はいったい何者か ? 異色の長編小説。 戦後初の留学生として赴いたフランスでの若 遠藤周作著牧 歌く苦渋にみちた青春の日々ーーー信仰を、愛を、 真摯に模索したエッセイと海外紀行文を収録。 神の教えに背いて結婚し、教会を去っていく 遠藤周作著法師カトリック神父の孤独と寂寥ーーー名作「沈 黙」以来のテーマを深化させた表題作等編。

9. 北の海

というものは、またいいものだな。さあさあっと、軽く払いのけるんだ」 藤尾は言ったが、淇作は黙っていた。 「何とか一一 = ロえよ。お前、さっきからひと一一一一口も口をきかないぞ」 「そうかなー 「俺が何を言っても、何とも言わないじゃよ、 / し力」 「そうか。俺はいま考えることがし 、つばいあって、お前どころじゃないんだ」 洪作は言った。 海「お前は、沼津に一人にしておいたら、少し人間が変ったぞ」 藤尾は言った。人間が変ったと言うなら、それはお前の方だと、洪作は言いたかった。 の「お前はどうも神経衰弱にかかっているらしい こんなところで浪人して、遠山などと付合って しると、ろくなことはよい 「いや、俺はいま恋をしているんだ . 淇作が言うと、 「うえっ と、大袈裟な驚き方をして、藤尾はどんと卓を叩いた 「だいたい、お前は恋の仕方を知らないじゃよい、 「そうでもない 「嘘を言え。小説も読まないし、活動写真も見ないんだから、恋の仕方を知りようがない。木部 が心配していたぞ。あいつに何とかして恋の仕方を教えないと、親にすまないって言っていた」

10. 北の海

杉戸は言って、 。いい人間なんだが、すぐかあっとなりゃあがる。しかし、 「鳶の奴、すぐ昻奮するんでいかんよ 鳶の言っていることは、ある程度本当なんだ。みんな富野に期待して、少なくとも一人か二人は 弓き分けられちゃった。仕合を見ていると、カは格段 抜いてくれるだろうと思っていたんだが、ー の差だった。相手は白帯で、有名でも何でもない選手だったが、初めから引き分けに出て、いっ さい攻めて来ない。だが、よくねばった。押え込まれても、何とかして逃げてしまうんだ」 「富野さんでも勝てなかったんですかねー 海「勝てなかったな。相手を手玉にとっておきながら、どうしても一本とれなかったー 「それにしても、あす、鳶さん、道場へ出るんでしようか」 の「さあ」 杉戸も判らないらしく、 あとで鳶にすすめてやろう。折角の休みに稽古する手はな 「ばかな奴だ、謝ればいいのに。 「富野さんにしても迷惑でしよう。ああ言った手前、道場に行かなければならんでしよう」 洪作が言うと、 「富野は違うよ。普通の人間じゃない。柔道をやるために生れて来たようなもんだ。あの人は別 だよ。特別だ。あす休みにならず、稽古ができるんで悦んでいるよ . 「そんなに柔道が好きなんですか」 「好きかどうか知らんが、ああいうのは一種の習慣なんだろうな。毎日毎日休みなしに道場に出 388