429 鳶が一一一中っと、 「参考書は鳶には頼まん。杉戸、お前、選んでくれ」 大天井は言った。 「よし、俺が選んでやる。と言っても、何の参考書を買うのかなし 杉戸は言った。 「任せるし 「任せると言っても、それはだめですよ。英語の参考書は何冊もあるから、国語の参考書がいい 海でしよう」 「国語は苦手だな。国語だけは、だめだな、俺は」 の「苦手だから買うんですよ。それにしても、国語の参考書もあるじゃないですか。蓮実さんから 貰ったー 「だめだ。あれは古い。あれでやったから落ちたんだ。もっと新しくて効果的のがあるだろう」 「じゃ、探してみましよう 杉戸は同じ道を書店の方に引き返し出した。 「早く買って来い」 大天井は言った。 「一緒に見に行かなくては」 杉戸が言うと、 「贅沢を言うなー
「お、大天井が来た」 はかま と、杉戸は言った。見ると、なるほど向うから大天井が歩いて来た。白い絣の着物に小倉の袴 うちわ をはき、着物の片方の袖をまくって、大きな団扇で胸に風を人れながら、ゆったりと足を連んで 来る。洪作はそうした大天井の姿を見た瞬間、大天井が天狗に見えた。体格も堂々としているが、 それより身に着けている雰囲気が、何となく山から降りて人間の世界にはいって来た天狗でも持 ちそうなものであった。 「よお」 海どちらからともなく、天狗と鬼たちは道のまん中で立ち停った。 「金が来たー の天狗は言った。それから鬼たちの反応を確かめるようにしてから、 「持つべきものは親だ。ちゃんと金を送って来てくれる。親というものは有難いものだ。それで、 俺は参考書を買いに来た。一冊ぐらい参考書を買わんと申しわけがない。杉戸、よさそうなのを 一冊選んでくれ」 天狗は甚だ天狗らしからぬ神妙なことを言った。 大天井のところに金が来たと聞くと、鳶も杉戸も、自分のところにでも送金があったように明 るい顔になっこ。 「親というものは有難いものだ。親が送ってくれた金は仇やおろそかに思ってはいかん。親は子 供に期待して、金を送ってくれるんだ。 親の期待に応えなければいかん。大天井さんはまず 参考書を買うという。それはい、 しことだ。何はともあれ、まず参考書を買いに行こう」 428 ふんいき あだ てんぐ かすり
です」 「そうでしようか す - ると、・Ⅲ川カ 「僕もその方法に賛成だな。僕も英語は中学のリーダーだけでや「た。それで、試験に判らない し。ただほかの科目は参考書が要る」 単語が出たら、出す方が悪いと思えば、 と一一 = ロった。 それで、もしも判らない問題が出たら、 「参考書もいいのを一冊に決めて、それだけやればいし 海出す方が悪いと思えばいし 杉戸は言って、 の「僕の使った参考書をひとそろいあげます。それだけやればはいれる」 聞いていると、ひどく簡単だった。そこへ給仕嬢が料理の皿を連んで来た。 三人がフォークとナイフを動かしていると、そこに鳶がはいって来た。鳶は洪作たちの席に眼 を当てると、 「覗いてみるものだな」 そんなことを言いながら近付いて来た。そして卓の上の料理の皿を見て、 「贅沢なものを食っているな。俺にも食わせろ」 と言って、あいている椅子に腰を降ろした。 「だめ、だめ。俺たち、御馳走になっているんだ」 杉戸が言うと、 335
393 「結構ですな、伺いましよう」 「では」 老人は出て行った。 「やあ、すまん、すまん 大天井は二人のところへやって来ると、 「さっき聞き棄てならんことを言ってたな。肉だとか、何だとか」 と一一 = ロった。 海「鳶が肉を買って来ます」 「そうか、それはいい。俺はいつばい飲むが、君たちにも暑気払いに少しだけ飲ませてやろう」 の大天井は言った。 「どう、稽古は ? 大天井は杉戸に言って、 「もう二、三日したら、俺も道場へ出して貰おうと思っている。 「参考書はあげたんですか」 杉戸が訊くと、 「あげた」 「何の参考書ですか」 「詳しく訊くな」 大天井は笑いながら言った。そして、 しいだろう、もうそろそろ」
年ほど前に、一度インド洋で酔ったことはありますが」 一一人の話を聞いていて、洪作はもしかしたら、自分も酔うかも知れないと思った。食堂を出る と、洪作は船室にもどって、シ ー・シックを捜した。鞄をひっくり返してみたが、どこからもそ んなものは出て来なかった。 洪作はシー ・シックを飮むことは諦めて、英語の参考書を持って休憩室にはいって行った。勉 強するのは何カ月ぶりのことであろうか。 休憩室には誰も居なかった。ソフアも上等であるし、卓も上等であった。そこに坐って、参考 海書を開いていると、ポーイがお茶を運んで来てくれた。洪作が飲み終ると、再びポーイがやって 来て、茶碗を取り上げ、 の「今夜は少し荒れますよー と一一一口った。 洪作は夜半まで休憩室にはいっていた。一、一一度、参考書が卓の上から落ちた。 鉛筆は卓の上に置くと、すぐ転がり落ちた。 船の事務員が見廻りに来て、 「強いですね。このあらしの中を、勉強とは見上げたものです」 と言った。人から褒められたことなどないので返事に困った。 夜半に、洪作は船室に引き揚げた。一歩一歩、足を連ぶのがやっとなほど、船は大きく揺れて いた。しかし、洪作はふしぎに平気だった。気持など少しも悪くはなかった。 寝台に身を横たえ、体を船の揺れに任せているうちに、洪作は眠った。夜半に一度眼覚めた。 668
431 「よし、よし 大天井は杉戸から受け取った紙包みを懐中に押し込んだ 「最初の一頁からやらなけれはだめですよ。とばしたらだめだ 「よし、よし」 「本当ですよ。そういう性質の参考書ですからね。 「判っている」 「判ってはいませんよ」 海「くどいな、お前は。 読み方もくそもあるか。 の大天井は言った。 「処置なしだな」 杉戸は言って、 「今日はてんぶらは結構ですよ。下宿で泥鰌鍋が待っている。 それより、あすどこかに遊び いかにして に行きたいから、その方を頼みますよ。洪作君をどこかに連れて行ってやらないと、 も可哀そうだ。金沢に来ても道場しか知っていない」 「そうか」・ 大天井は思案深げに考えていたが、 こうぜん 「そうか、じゃ、あす海を見に行くか。日本海を見て浩然の気を養うか」 「今日はてんぶら、あすは海か」 豪そうなことを言うじゃないか。なんだ、たかが参考書の一冊や二冊、 お前にはもうてんぶらは食わしてやらん」
の と言って、洪作は朝から晩まで町をぶらついたり、千本浜を歩き廻ったりしているわけではな かった。やはり来年の人学試験のことが、頭のどこかに居坐っていて、それが時折、頃合を見計 ったように、ちらりちらりと意地悪い言葉を囁いて来た。 もう五月になったぞ。すぐ夏が来、あっという間にそれが過ぎると、秋風が吹いて来る。 そうなると、入学試験は目の前に迫って来る。 英語は大丈夫か。単語帳ぐらい作たらどうか。どこへ行く時にも、単語帳だけは肌身離 さず、持っていることだ。 代数と幾何はお前の苦手な科目だ。正直なところ、三年生ぐらいの実力しかない筈だ。の んきに柔道などやっている時ではなかろう。 こういう声が聞えて来ると、洪作はうんざりした。向うへ押しのけようとすると、執拗に何回 でも話しかけて来る。 洪作はこの意地悪い声に脅されて、午前中は代数と幾何、午後は英語、夜は国語と、それぞれ の参考書を机の上で開くことにした。午後は英語の勉強に割当てあったが、三時になると、道場 へ行かねばならぬので、柔道のために大幅に時間を取り上げられる結果になった。 寺へ帰るのは暮方である。夕食を食べると、昼間の練習の疲れで眠くなった。このために国語 の参考書のページを開くのにはたいへんな努力を要した。 ある日、道場からの帰りに宇田と顔を合せた。 「勉強は始めたかね . 「やっていますー ささや しつよう
も同じようなものである。いま、ここに集まっている人たちは、それぞれお互いに未知の人たち である。たまたま、ある夏の朝、同じ列車に乗るために、ここで落合ったのである。が、やがて 列車に乗ると、それぞれが思い思いの駅に下車して行く 離合集散。 まことに人生は旅であり、旅は人生である、と思う。 三十ぐらいの女の人の背で、嬰児が泣いている。その泣いている嬰児にもまた、淇作は旅情を し、カ / 感じていた。この嬰児もまた、裏日本のどこかの町か村で、生い育って行くであろう。 海人生がこの嬰児に訪れるであろうか。 洪作は汽車を待っ時間を、多情多感な極めて充実したものとして過した。 の汽車に乗りこむと、洪作は窓際の席を占めた。がらあきと言っていいくらい、乗客の数は少な ーカ子 / 洪作は荷物を持っていなかった。腰のベルトに手拭を一本さげているだけである。沼津を発っ かばん 時、藤尾から借りた鞄に参考書と単語帳を一応は詰め込んでみたのであるが、結局何も持たない ことにしてしまったのである。どうせ五日か六日の短い旅であるし、その間勉強しても、しなく ても、たいした差はないと思った。四高生のいつばい居る町に行くというのに、参考書を持って 行くのも気が利かない気がした。着替えは初めから持って行く気はなかった。着ているものが汚 れたら洗えばいいのである。 米原駅を出ると間もなく琵琶湖が見えて来た。湖面はいやに白っぽく、まだ早朝だというのに、 小舟が何艘か浮かんでいる。
「何という人です」 「大天井というんだ」 「ああ、大天井さんですか」 「もう会ったのかー 、え、手紙を貰いました」 すると、 「ほう、それは珍しいな。親にも手紙を出さんのが、どうして君なんかに手紙を出したのかな」 海富野は笑った。そして、 「とにかく一度、杉戸にでも連れて行って貰うといし のと一一 = ロった。 「いま金沢に居るんですかー 「いまはかりじゃよ、。 三年前から金沢に居る」 「道場には来ないんですか」 「道場へ来ることはとめてある。参考書を一冊あげるまでは、道場の畳を踏んではいけないこと にしてある。あまり当てにはならぬが、毎日勉強していることになっている」 「そうですか。毎日勉強していますか。驚いたな」 洪作が言うと、 「くことはないよ。受験生が勉強したって、いっこうにおかしくはよい。 ーー大体、君ものん きな方だな。 しかし、まあ、精いつばい頑張って四高にはいって貰わねばならぬ 382
それから大天井は傍に洪作が居ることに気付いた風で、 「君も一冊買えよ。奢ってやる」 「いいですよ、僕はー 洪作が言うと、 「遠慮するな。勉強せんと、来年もはいれんぞ」 大天井は言った。書店の内部には杉戸一人がはいって行った。 「夏の夕暮というものはいいものだなー 海店先に立って、鳶は言った。 「いいものだ。夕暮は夏に限る。金ができると、人間は気持にゆとりができる。夏の夕暮のよさ のが判る , 大天井は言って、 うなぎ 「みんなに何を食わせてやるかな。鰻か」 「今日はてんぶらカししオ ゞ、、よ。鰻はあすにしたらどうカ 鳶は言って、またうおっとライオンの吼え声を口から出して、 「てんぶら」 と、怒鳴った。 やがて、杉戸は国語の参考書を一冊買って、書店から出て来た。 「これが一番纒まっていると思う。これだけ完全にやれば、みんなできますよ」 杉戸が言うと、 430