こうした大天井の噂を聞いていると、洪作は自分までが気が大きくなって行くのを感じた。 翌日、杉戸と洪作はいつもより少し早く起きて、十時頃鳶の下宿に行った。鳶は下宿の裏庭の ポンプ井戸のところで、バンツ一枚の裸姿で、大きな盥を抱え込んで洗濯をしていた。 、、「どうだ、感心だろう。お前らも洗うものがあったら出せ。俺が洗ってやるぞ」 鳶は言った。 「早く洗濯をしてしまえよ。金石に遊びに行くことになっているんで、大天井が待っていると思 海うんだ 杉戸は言った。 の「そう急ぐな。シャツがもうすぐ乾く。他に着るものがないんだ」 鳶が言ったので、 北「シャツなんて要らんですよ。着なくてもいいでしよう」 洪作は言った。 「あれ、しゃれたことを言う奴だな。お前、シャツを着ていないのかー 「着ていませんよ、そんなもの。夏だからシャツなんて要りませんよー 「ほんとか、上着を脱いでみろ」 言われるままに洪作は上着を脱いでみせた。二、三日前からランニング・シャツは着ていなか った。 「末恐ろしいのが現れたもんだな」 433 うわさ かないわ たらい
に寝て、その二本の脚は杉戸の肩のところに伸びていた。 杉戸がその脚を払いのけようとして、体を横に廻したのがいけなかった。あっという間に杉戸 の上半身は富野の脚に纒いっかれ、それを逃れようとしている間に、三角締めにはいられ、下か ら右手の逆をとられてしまった。 しかし、杉戸は逆をとられたまま、″参ったの合図もしないで、相変らずぬうっとしていた。 いつまでも杉戸が参らないので、権藤が、 「一本だな」 海と、杉戸の方に確かめると、杉戸は黙って首を横に振った。 「折るぞ」 富野が言っても、杉戸は依然として黙ってい 「よし」 富野は逆をとっている両腕に力を入れたらしかったが、杉戸は平気で空いている片方の手で顔 の汗を拭いていた。 「変な奴だな、痛くないか のぞ 権藤が杉戸の顔を覗き込むと、 「なんでもない」 杉一尸は一一一口った。 「なんでもない。よし」 また富野は力を入れたらしかったが、い の っこうに効果がないと知ると、
4 1 4 次は杉戸の番である。杉戸に替って、鳶が審判に立った。 杉戸は相変らず隙だらけの構えで、お念仏を唱えながら、相手が出て来るのを待っていた。富 野が一歩踏み込んで来ると、杉戸は一歩あとにさがっている。 「まん中に出て」 鳶が注意した。道場のまん中に出ると、また同じだった。杉戸はだんだんあとずさりして、剣 道場の方にまではいった。 「まん中に出て」 海また鳶が言「た。その時、淇作は一一人が互いに相手の柔道着の袖をむのを見た。瞬間剣道場 の板の上に、大きな音を立てて杉戸の体は倒れた。その杉戸の体に富野がのしかか「て行くかに の見えたが、そのまま停った。富野は杉戸の三角締めに捉えられていた。 異変がいかにして起きたか、洪作には判らなか「た。三角締めを決めているのは杉戸の方であ 北り、杉戸の長い二本の脚が作「ている三角形の中に、首と片方の手を捉えられ、身動きできなく なっているのは富野の方であった。 審判の鳶が、 「手を貸してくれ。 と、洪作の方に言った。鳶は、杉戸と富野の二つの体を、そのままの形で、柔道場の畳の上に 移そうと思ったのである。 しかし、そうする必要はなかった。
373 すると、 「いいの、杉戸さん」 と、娘は杉戸の方に念を押して、 「じゃ、杉戸さんに九本つけておくわよ」 「九本なんて飲まんよ、俺たち。 六本だ」 杉戸は真顔で抗議した。 「だめ、だめー 海「困っちゃうな。六本しか飲まんのにな」 杉戸が言うと、 の「だから空壜をしらべろと言っている」 ~ は一一一口った。 「空壜なんて、あそこにたくさん並んでいるわ。さっきも黙って飲んで行った人があるわ。あん たたちじゃない ? 「ご、ご冗談でしよう」 旗色が二人に悪くなっているので、洪作が口を出してやった。 「本当に六本なんです。一一本ずつ飲みました」 淇作が言うと、娘は洪作の顔を見守っていたが、 「じゃ、あなたの言うことを信用して上げるわ。 「判った、判った」 杉戸さんに六本ね。もう五十本近くよ .
えりつか た。杉戸はいつも仕合になると、相手の柔道着の襟をむまで、ロの中で何か呟いていた。何を 呟いているか、誰にも判らなかった。杉戸自身にも判らないらしかった。この杉戸の呟きを、他 の部員たちは″お念仏をと呼んでいた。 鳶は大きく右廻りに廻っていた。その鳶が描く大きい円の中心で、杉戸はお念仏を唱えながら、 少しずつ体の向きを変えていた。 その時、道場に富野がはいって来た。 海「それまで」 淇作は叫んで、一一人の稽古を中止させた。 の「感心だな、杉戸も来ているか」 富野は言って、着替室にはいって行った。 富野がやって来るまで、鳶と杉戸は道場の隅の方に坐っていた。柔道着に着替えた富野は、道 場へはいって来ると、 「おい、君はどうした [ と洪作の方に言った。 「見学します」 「どこか悪いか」 「どこも悪くありませんー 「どこも悪くないのに、道場に来て、そんな恰好で居る奴があるか。着替えて来い」 412
杉戸は言いながら、洗面所にはいって行った。 「あなたも、気をつけないと、あんなになりますよ」 おばさんは一一 = ロった。 「でも、杉戸さんは秀才でしよう。一番で入学したというから」 「そういうことだけど、間違いでしようね、何かの」 おばさんには、杉戸は全く信用がなかった。 一時に、洪作は杉戸と連れ立って、下宿を出た。稽古は三時から始まることになっていたので、 海それまでに多少の時間の余裕があった。兼 , ハ公園は四高のすぐ傍にあるということだったので、 ちょっとでも、そこに足を踏み人れてみたかったが、杉戸はそれに反対した。 の「兼六公園なんて、ただの公園ですよ。見たって別に面白いことはない。むだですよ、 杉戸は言った。 「でも、有名な公園でしよう」 洪作が一 = ワっと、 「池があって、木がやたらにそこらに生えているだけで、どうしてあんなところが有名なのか、 っこ , つに判、らんー 「そんな公園ですか 「そうですよ。誰もあんなところへは行かんー 「誰も行かないですか」 「そりゃあ、行っている奴もある。行っている奴もあるが、僕などはめったに行かん。ーーー大体、 353
た。四高にはいって初めて柔道着を着た連中も居たが、そうした連中の中では鳶と杉戸が目立っ 柔道をやり始めて何ほども経っていなかったが、鳶と杉戸は将来を嘱望されていた。鳶はその 闘志において、杉戸はそのねばりにおいて、他の部員の到底及ぶところではなかった。 誰もが鳶と稽古するのを嫌った。生命がけでぶつかってくるので、怪我をすることも多かった し、他の者と稽古する場合の何倍か疲れた。 杉戸もまた、少し別の意味で、稽古の相手としては歓迎されなかった。杉戸は脚が長く、その 海長い脚を利用して、相手の首を捉える三角締め専門だった。ばかの一つ憶えとでもいいたいくら それだけを武器とした。 杉戸の脚は痛いからな。 みんなが言った。一年の部員たちのはれ上っている耳の半分は、杉戸の脚のお蔭であった。二 かなひばし 三回、その金火箸のような脚で叩かれると、大抵の耳がはれ上った。 毎日の稽古で、先輩たちは鳶と杉戸を特にマークしていた。柔道は始めたばかりだが、この二 人には大ものになる素質があると見ているようであった。 こうした一年の部員に較べると、一一年の部員は見劣りした。粒は揃っていたが、特にずば抜け ている選手は見当らなかった。小柄で、稽古稽古で叩き上げていた。みな蓮実と同じタイプであ った。そのくらいだから、技術はすぐれていた。 蓮実は一一年の部員の中では、一級選手三、四人の中にはい「ていた。二年の蓮実たちと、一年 の南、宮関たちと仕合したら、どちらが強いか、洪作には見当がっかなかった。稽古を見ている 486 の のち
533 おばさんは言った。 「判っています」 「判っているような顔はしていませんが」 「信用ないんだな」 「杉戸さんの方は勉強しなくてもできるらしいが、あんたの方は、そうは行かんでしよう」 「一にも勉強、二にも勉強 . 洪作が言うと、 海「ロだけうまいことを言「て、おばさんをたぶらかそうとしても、その手にはのりませんよ。本 当に四高にはいりたかったら勉強なさい。そして、四高にはいったら、悪いことは言わないから、 の柔道部にははいらんこと。わたしがよく杉戸さんに言「て上げる。杉戸さんの方はもう仕方がな いが、あんたの方はまだ何とでもなる おばさんは言った。 洪作は十何日か過した下宿を出た。荷物は風呂敷包み一個である。来る時は手ぶらだ「たが、 帰りは風呂敷包みがふえていた。杉戸が家に持「て行くのは面倒臭いからと言って、菓子折を一一 個くれたので、大きな菓子折が四個になり、そのほかに杉戸から貰った参考書が三冊、それらを 風呂敷包みにしたのである。駅までは杉戸が送ってくれた。 駅に行くと、鳶が姿を見せていた。 「これ、持って行けよ」 鳶もまた菓子折を一個寄越した。
「ただいま」 杉戸は言「たまま、玄関の土間に立っていた。すると、奥から " はー 暫くすると五十年配のおばさんが現れて、雑巾をあがり框の前に置いた。 「遅かったのね。おなかすいたでしよう」 「ごはんは食べて来ました」 杉戸が雑巾で足を拭いて上ったので、洪作もそのようにした。 「このひと、伊上君と言「て、柔道部からの預かり者です。僕の部屋にいっしょに寝ますが、蒲 海団はあるでしようか」 杉戸が言ったので、洪作は黙っておばさんの方に頭を下げた。 の「蒲団はありますけどー おばさんは洪作の方に当てた視線をすぐ杉戸に返して、 「今夜だけですか と訊いた。すると、 「何日ぐ , らい ? ・ こんどは杉戸が洪作に訊いた。 「多分、四、五日です」 洪作が一言 , っと、 「そのくらいならいいけど おばさんは言って、 343 をという返事が聞え、
「ここに網を張っていると、いまに誰かがひっかかるー 杉戸は前を向いたままで言った。しかし、何がひっかかるか判らなかったが、杉戸が待ち受け ている獲物はいっこうに網にかからなかった。そのうちに柔道部員らしいのが三、四人通りかか 「よお と、杉戸は声を発しただけで、その方には眼もくれず、 「いっこうに来やあがらんな」 海と文句を言った。 「誰を待っているんですかー の「下宿の飯はあまりうまくないんで、あんたを御馳走しようと思ってね。ところが、みんな夏休 みで帰省してしまったんで、貧乏神しか歩いていない 杉戸はなおもそこを動こうとしなかった。 「僕は御馳走は要りません。何でもいいんですし 洪作は言ったが、 「物事は忍耐が必要ですよ。もう少し待ってみましよう。誰か来やあがらんかな」 杉戸はきよろきよろあたりを見廻していたが、 「おつ、来たぞ」 と言うと、すぐ道の向う側へ渡った。 330