当時 - みる会図書館


検索対象: 千曲川のスケッチ
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1. 千曲川のスケッチ

だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多 もうろう くの人に残る記憶も前後して朦朧としたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの ほとん 二十年代にはじまったと言っていい。今日明治文学として残っているものの一半は殆どあの十年 に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの 出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。これには種々な理由があろう。当時は 新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったこ はせがわふたばてい とも、その理由の一つとして数えられよう。長谷川二葉亭の「浮雲」があれほどの新しさを私達 チ あざや ケの胸中に喚び起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほど鮮かに当時を反映し、 の当時を批評した作品もめすらしか 0 た。一方にはまた、鵰外漁史のような人があって、レッシン とり - 」 グの「俘」、アンデルゼンの「即興詩人」、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時 曲 みなわしゅう ( 六一 ) 千の文学の標準を高める上に、少からぬ影響を多くの作者に与えた。「水沫集」一巻は、青春の書 と言うにはあまり老成なような気もするが、明治一一十年代の早い春はあの集のどの頁にも残 0 て いる。 もし明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあっ たろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な 原因がなくてはならない。 ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったこと

2. 千曲川のスケッチ

124 君に言って置いた。この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」の潮流の中で、何時まで突き 壊されずに続くものだろうか。とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待っ て、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特に そう感ぜられる。 長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかり くわ ちょうにう だし、それに眺望の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもので、実際どういう人があるのか、精 しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。連添う老 ッ 婦人もなかなかのエラ者だ。この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶活動を忘れな ケ おえぞう のいでいるという風だ。その寺では、丁度に家に法事があるとやらで、御画像というものを箱に入 ていちょう れ鄭重な風呂敷包にして借りて行く男なそを見かけた。一寸したことだが、古風に感じた。 千君は印度に於ける仏蹟探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、 むすこ この老僧の子息さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。学士は当時英国留 セイロン あいくおう ( 四四 ) たいくひっさ 学中であったが、病弱な体驅を提げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭に於ける阿育王の遺跡な ぞを探り、更に英国の方〈引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山 こと の寺に遺っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなそは殊に、私の心を引いた。 ふる 老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。旧い朽ちかか 0 たような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生れている。そしてそういう人達の背 ぶっせぎ なお

3. 千曲川のスケッチ

千曲川のスケッチ 164 ( 四〇 ) Naive 〔英〕うぶな。素朴な。 ( 四一 ) ガンギ長野地方の方言で、家のひさしのこと。 ( 四 (l) 爪掛防寒・防雪用に、わらじの先にしばりつける藁製品。 まゆだま もち おさくだて 、正月の前祝いの行事。餅で農具・農作物・繭玉など ( 四三 ) ものづくり物作。御作立ともいう。り の小さな模型を作って祭る。 ぼん・こ ( 四四 ) 阿育王 Asoka 〔梵語〕インド・マウリア朝第三代の王 ( 在位 ca. 2 ー 2 B. C. ) で、 インド統一に成功し、古代インド文化を築いた。また、仏教を国教とさだめ保護した。 てんてっしゅ ( 四五 ) ポイント・メン pointsman 〔英〕転轍手。線路のポイント ( 転轍器 ) を操作する鉄道従 業員。 ( 四六 ) 三世相人の生年月日、人相などを占って、過去・現在・未来の吉凶、善悪などを説くこと。 ( 四七 ) 六三の呪禁〈六三〉はいまの神経痛にあたる病気の俗称。症状のある患者の数え年を九 ( 六 のぎば と三の和 ) で割って、〈六三〉にあたるかどうかを確かめ、家の軒端に線香を立てて呪文をと なお なえるなどのまじないで癒そうとすること。 おおっき ( 四八 ) 言海国語学者大槻文彦 ( 一「ー一 0 ) の編修した国語辞典。明治十九年に刊行され、当時 もっとも重んじられていた辞書。のちに増補改訂され、「大言海』となった。 もみおさ ( 四九 ) 俵にもある当時、佐久地方での年貢の慣行は、籾納めの場合、一俵六斗入りで、その上に くちます ロ枡と称する籾三升を加えた重さが俵ぐるみで十八貫なければならなかった。俵自体の重さ は一俵一貫百匁が標準だったが、小作人によってはしばしばそれより重い俵を使うこともあ るので、地主がそのことを暗に指摘していった言葉。 ( 五〇 ) 坊主籾に毛のない稲の品種。北海道、信州などの寒冷地で産する。坊主籾は毛籾に比べ

4. 千曲川のスケッチ

ふうさい に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采の中にも、何処か往 しようしゃ 時の瀟洒なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかす ふぎだ えりどめ ると見慣れない襟留なそが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯したくなる。 白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類 かばん を入れた鞄を提げて歩きながら、 すもう せがれ 「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜が、あれで子供仲間じやナカナカ相撲が取れるん つるほうび こないだ チですトサ。此頃もネ、弓の弦を褒美に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑しいんですよ。 さめ ケ何だッて聞きましたらネ・ーー沖の鮫」 ス の 私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、 「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだか 曲 千 ら、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなもの ですネ」 こういう阿爺さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達 に挨拶して通った。 学士は見送って、 「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔ーーー何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よ % く何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありや おとっ どこ ( 一三 ) むか

5. 千曲川のスケッチ

171 歳月の経過のうちに、千曲川流域の自然と人生が写生されているのである。こういう形式上の整 合はおそらく原『千曲川のスケッチ』にはなかったもので、明治四十四年にリライトしたとき、 藤村自身が新しくエ夫したものだろう。したがって、文章のスタイルなども明治四十四年現在の ぎつくっ ものであって、原『千曲川のスケッチ』はおなじロ語文といっても、もっと佶屈なところがあっ たのじゃないか、と想像される。すくなくとも『緑葉集』の文章のスタイルと原『千曲川のスケ ッチ』のそれとは同質のものだったにちがいない。しかし、ラスキンの『近代画家』の方法にま 説なび、画家がスケッチするのとおなじ態度で、山国の自然と人生にたちむかった藤村の観察の結 果が、後年の藤村の含みおおい、それだけに多義的な文章のスタイルとは遠く隔っていただろう ことは、リライトされた『千曲川のスケッチ』からもこれをうかがうことができる。かって伊藤 あいさっ 整は藤村の文章を日本人情緒の思い入れたつぶりな挨拶のスタイルになぞらえたことがあった あいまい が、そういう曖昧な挨拶のスタイルと『千曲川のスケッチ』のそれとは、やはり質的に異なって いる。これは意外に論理的であり、合理的であることによって、全体としてリアリスティックな むさしの 文体を形成しているのである。国木田独歩の『武蔵野』や徳富蘆花の『自然と人生』にくらべて ゆえん も、『千曲川のスケッチ』がはるかに近代的たる所以だろう。もしかしたら、藤村は当時愛読し ていたらしいツルゲーネフの『猟人日記』のことなどを頭において、リライトしたかもしれな この『千曲川のスケッチ』や「千曲河畔の物語」と名づけた短編集『緑葉集』などの集大成と

6. 千曲川のスケッチ

「千曲川のスケッチ」奥書 しなの このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にもわたしがあの信濃 の山の上でつく 0 たスケッチは少くなか 0 たが、人に示すべきものでもなか 0 たので、その中か 書 奥ら年若い人達の読み物に適しそうなもののみを選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明 へんしゅう しょざん チ治の末の年から大正のはじめ〈かけ当時西村渚山君が編輯している博文館の雑誌「中学世界」に さくら ちくまがわ 毎月連載した。「千曲川のスケッチ、と題したのもその時であ 0 た。大正一年の冬、佐久良書房か の ら一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。 曲 かわ 実際私が小諸に行って、饑え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山 ぎつば 山ーー浅間、牙歯のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような さんてん 山巓の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映 0 た時から、私はもう以前の 自分ではないような気がしました。何んとなく私の内部には別のものが始ま 0 たような気がし ました。 これは後にな 0 てからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。自 151 第 ) もろ

7. 千曲川のスケッチ

げている。しかし、青年から壮年 ( の必然的な推移の文学的反映のなかには、詩人・作家をふく めた当時の文学者の社会的地位の低さに対する藤村個人の怒りみたいなものも、なにほどか含ま れていたはずである。でなければ、どうして最初の長編小説の自費出版などということを、藤村 が思いっこうぞー いま私のいいたいことは、明治三十二年四月に単身小諸〈赴任した藤村が、明治三十八年五月 に小諸を辞して三人の子の父として上京するまでの在任中に、曲りなりに「詩から散文〈」とい スタディ チうコース変更は完成したということ、そういうコース変更のための最初の「研究」が『千曲川の ケスケッチ』という結実にほかならぬことなどなどである。年譜によれば、藤村は明治三十三年 の『雲』の発表とほとんど同時に、『千曲川のスケッチ』の執筆をはじめる、とある。さきに引用し たところからも明らかなように、おなじ写生の「稽古」とい 0 ても、『雲』はまだまだ美文調の 千 文語体であ 0 て、おそらく散文らしい散文の最初のスタディは、この『千曲川のスケッチ』 . のロ 語文にはじまるとみるのが至当だろう。 そこでようやく本題の『千曲川のスケッチ』のことになるわけだが、原『千曲川のスケッチ』 は明治三十三年から書きはじめられたにしても、今日私どもの読み得る『千曲川のスケッチ』は 明治四十四年六月号から九月号まで『中学世界』に連載され、のち「はしがき」をつけて大正元 年十二月に一本にまとめられたものである。「はしがき」に明らかなように、年少の友・吉村樹 によびかける形式で本文は統一され、陽春四月にはじま 0 て翌年の陽春四月におわる満一カ年の

8. 千曲川のスケッチ

169 解 れば、真の好い写生は出来ない」 このほかにも「例えば深山に炭焼の煙の立ちのぼるのを眺めるにしても、そこに生死する人が あると心着くまでには、多少物を観る稽古が要る」というような含蓄のある言葉も、そこには読 スタディ まれるのである。この「写生」という短文が、主として小諸時代の藤村の「研究」によるもので あることは明らかだ。こういう道すじをへて、藤村は小諸時代に「詩から散文へ」というコース を自分流に完成していったのである。 説よく知られているように、藤村の最初の詩集『若菜集』は明治三十年八月に春陽堂から刊行さ れた。翌三十一年には、おなじく春陽堂から『一葉舟』と『夏草』の二詩集がつづけざまに刊行 あけぼの されている。これは藤村の詩集が「うつくしき曙のごとく」「新しき詩歌の時ーの到来を告げ、当 時の青年読者に歓迎されたからである。しかし、明治三十二年四月に小諸に赴任すると同時に結 婚生活にはいった藤村は、一夏を姉高瀬園のもとに暮し、そこで『夏草』を書きあげたような暢 気な書生生活ともわかれなければならなかった。藤村はみずからの青春の記念たる詩集がどんな によく売れても、それは出版元の春陽堂をうるおすだけで、自分のふところのたしにならないこ とを痛感せずにいられなかったのである。当時はまだ印税制度も確立していなくて、詩集などは みな包み金程度で買い切られていたようである。おなじ原稿料ということになれば、詩よりも枚 数の多い小説の方がトクなのはわかりきっている。無論、藤村が「詩から散文〈」と文学上のコ ースを変更した原因を、詩の稿料と小説の稿料との比較から、多少とも類推することなそは迦 その

9. 千曲川のスケッチ

川は人と異 0 たところがあったと見えると言われたのも同感だ。 紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか まれ 東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることも稀になって行っ たが、おそらく外漁史なそはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎 かんちょうろう とする観潮楼の窓から、文学の推し移りなどを心静かに、注意深くも眺めておられたかと思う。 りゅうろう チそして柳浪、天外、風葉等の作者の新作にも注意し、又、後進のものの成長をも見まもっていて ようや ケくれたろうと思う。明治文学も漸く一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を の始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。 曲 こわ 千旧いものを毀そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、 ぎた 旧いものは既に毀れている。これが仙台以来のわたしの信条であった。来るべき時代のために支 度するということも、わたしに取っては自分等を新しくするということに外ならない。このわた ひら しの前には次第に広い世界が展けて行った。不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れるこ かな とも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶い、それらの書物からも毎日のように ( 五九 ) 新しいことを学んだ。わたしはダルウインが「種の起原」や「人間と動物の表情」なそのさかん ( 六 0 ) な自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。その時になってみる

10. 千曲川のスケッチ

141 たくあん ると半分は氷だ・それを日にあて、氷を叩き落し、それから水を汲入れるという始末だ。沢庵 も、菜漬も皆な凍って、噛めばザクザク音がする。時には漬物まで湯ですすがねばならぬ。奉公 人の手なぞを見れば、黒く荒れ、皮膚は裂けてところどころ紅い血が流れ、水を汲むには頭巾を 冠って手袋をはめてやる。板の間へ掛けた雑巾の跡が直に白く凍る朝なそはめすらしくない。夜 更けて、部屋々々の柱が凍み割れる音を聞きながら読書でもしていると、実に寒さが私達の骨ま しみとお で滲透るかと思われる : かえ チ 雪の襲って来る前は反って暖かだ。夜に入って雪の降る日なぞは、雨夜のさびしさとは、違っ ケて、また別の沈静な趣がある。どうかすると、梅も咲くかと疑われる程、暖かな雪の夜を送るこ のとがある。そのかわり雪の積った後と来ては、堪えがたいほどの凍み方だ。雪のある田畠へ出て 蝌見れば、まるで氷の野だ。こうなると、千曲川も白く氷りつめる。その氷の下を例の水の勢で流 千れ下る音がする。 学生の死 私達の学校の生徒で 0 という青年が亡くな 0 た。曾て私が仙台の学拠に一年ばかり教師をして いた頃ーー私はまだ二十五歳の若い教師であったがーー・自分の教えた生徒が一人亡くなって、そ の葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共に 0 の家をさして出掛けた。若くて あまよ たはた