びん ガラスくだ ろうそく 上には、大理石の屑、塩酸の壜、コップ、玻璃管などが置いてあ 0 た。蝋燭の火も燃えていた。 学士は、手にしたコップをすこし傾げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋の間から流れた。蝋燭の 火は水を注ぎかけられたように消えた。 まわり まる 無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、ロを開いたり、眼を円くしたりして眺めていた。 ほほえ ほお・つえ 微笑むもの、腕組するもの、頬杖突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か ねずみ すぐ 鼠を入れると直に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。 チ「先生、虫じゃいけませんか」 「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」 の 問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあら われた。 曲 千「アア、虫を取りに行 0 た」 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく つかま 何か捕えて戻って来た。それを学士にすすめた。 「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。 「ア、怒ってるー・・ー螫すぞ螫すそ」 口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反らして、螫されまいとする様子をした。その 蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑 0 た。「死んだ、死んだ」と言うものもあ はち ふた
しりましより わらぞうり じゅばんよだぬ ぬぐいかぶ 拭を冠り、襦袢腮抜ぎ尻折という風で、前垂を下げて、藁草履をいていた。赤い荒くれた髪、 ( ニ五 ) 組野な日に焼けた顔は、男とも女ともっかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画 の中に出て来そうな人物だ。 その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見え た。でも、健かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。 母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休めて、私達の方をめすらしそうに眺めてい ケ メ草を負った この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦な松林の中へ出た。リ あた の男が林の間の細道を帰って行った。日は泄れて、湿った草の上に映っていた。深い林の中の空気 は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。 がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。 かまかき くまざさ ぎのこ 熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌で掻 2 」っだ、ノ たま 除けて見ると稀にあるのは紅蕈という食われないのか、腐敗した初蕈位のものだった。終には探 こし・こ かぼちゃ し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠を提げたまま南瓜の花の咲いた 畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。 すこや べにたけ も や たいら よもぎ
つて引絞られたり、矢の羽が頬を摺「たりする後方に居て、奇警な批評を浴せかける。戯れに、 「どうです。先生、もう弓も飽いたからーー・・・貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にや えいたい まゼかえ あ、それこそ此方のものだ : : : しかしこの弓は、永代続きそうだテ」こんなことを言って混返す ので、折角入れたカが抜けて、弓もひけないものが有った。 小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。愛蔵する鷹 の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。 急に、熱い雨が落ちて来た。雷の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見え ケた。いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。雨は通過ぎたかと思 また まととり のうと復急に落ちて来た。「いよいよ本物かナ」と言って、学士は新しく自分で張った七寸的を取 はず 除しに行った。 午城址の桑畠には、雨に濡れながら働いている人々もあ 0 た。皆なで雲行を眺めていると、初夏 らしい日の光が遽かに青葉を通して射して来た。弓仲間は勇んで一手すっ射はじめた。やがて復 ひきあ たザアと降って来た。到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚げた。 にじ 私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹を見た。実 に、学士はユックリュックリ歩いた。 こっち にわ うしろ
ふうさい に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采の中にも、何処か往 しようしゃ 時の瀟洒なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかす ふぎだ えりどめ ると見慣れない襟留なそが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯したくなる。 白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類 かばん を入れた鞄を提げて歩きながら、 すもう せがれ 「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜が、あれで子供仲間じやナカナカ相撲が取れるん つるほうび こないだ チですトサ。此頃もネ、弓の弦を褒美に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑しいんですよ。 さめ ケ何だッて聞きましたらネ・ーー沖の鮫」 ス の 私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、 「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだか 曲 千 ら、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなもの ですネ」 こういう阿爺さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達 に挨拶して通った。 学士は見送って、 「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔ーーー何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よ % く何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありや おとっ どこ ( 一三 ) むか
て貰わなければ、それから後に来る祗園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。 やど 秤を腰に差して麻袋を負 0 たような人達は、諏訪、松本あたりからこの町〈入込んで来る。旅 舎は一時繭買の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行 く光景も、何となく町々に活気を添えるのである。 ようや 一一十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成 0 て漸く晴れた。霖雨の後の 日光は殊にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなか「た遠い山々まで、桔梗色に顕われた。 チこの日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待 0 ていた日だ。 ケ 私は町の団体の暗闘に就いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思 のわない。ただ、祭以前に紛擾を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させな しめかざ いとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾りが漸く七日目に町々の空 千〈掛 0 た。その余波として、御輿を担ぎ込まれるが煩さに移転したと言われる家すらあ 0 た。そ ういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多 くの商人は殊に祭の賑いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであ るから。 ちょうちん やしろ 夜に入 0 て、「湯立」という儀式があ「た。この晩は主な町の人々が提灯つけて社の方〈集る。 あめがし それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子を売「ている人に逢 0 た。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。 みこしかっ ながあめ
「ああ好い月だ、冴え冴えとして」 と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白い泡を吹いて、湯気も立のぼった。 「さア、もういいよ」 「肉を入れて下さい」 「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て すく 亭主は貝匙で芋を一つ掬った。それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。芋は肉を入 ぎゅう れても可い程に煮えた。そこで新聞紙包が解かれ、竹の皮が開かれた。赤々とした牛の肉のすこ あぶら 久し白い脂肪も混ったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。 の「どうも甘そうな匂いがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」と亭主が君に言った。 ぜんちやわんぬりばし 細君は戸棚から、膳、茶碗、塗箸などを取出し、飯は直に釜から盛って出した。 曲 千「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしよう」 と細君に言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。その時は余程空腹を感じていた。 もてなしがお 「さア、肉も煮えやした」と細君は給仕しながら款待顔に言った。 「お竹さん、勘定して下さい、沢山頂きますから」と君も心易い調子で、「うまい、この葱は あっ うまい。熱、熱。フウフウ」 「どうも寒い時は肉に限りますナア」と亭主は一緒にやった。 三杯ほど肉の汁をかえて、私も盛んな食慾を満たした。私達二人は帯をゆるめるやら、洋服の かいさじ とだな あわ
138 、、ト乍人中司の物識と立てられるだけのことがあった。地主 隠居の話し振には実に気の面白 > / イイド と隠居の間には、台所の方に居る同居人母子のことに就いてこんな話も出た。 「へえ、あれが娘ですか」 かわい 「子も有るんでさあね。可哀そうだから置いて遣ろうと言うんですよ。妙に世間では取る : : : 私 だって今年六十七です : : : この年になって、あんな女を入れたなんて言われちゃ、つまらないー ーそこが口惜しいサ」 「歳に成 0 たって気は同じよ」 チ ケ御蔭で私もめ 0 たに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を送 0 た。 ちそう ス 蒻と油揚の馳走に成 0 て、間もなく私はこの隠居の家を辞した。 の 曲 千 一 ~ わ、く
むぎわら 三つの麦藁帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。 「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。 「ええ、すっかり釣られて了いました」 「どうだネ、君の方は」 ひぎ 「五尾ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺されて了いました」 「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ : : : 」 まぜかえ こんなことを言って、仲間の話を混返すものもあった。 チ ケ この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸し こころもち よくそう のて、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも ぶどうだな ふけ こ耽ることであった。林檎畠、葡萄棚なそを渡って来る涼しい風 飲みながら、書生らしい雑談ー 曲 千は、私達の興を助けた。 「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましようか」 と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。 「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」 「菓子もいいが、随分かかるネ」 「僕は二年ばかり辛抱した : : : 」 「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
147 春の先駆 あたたか 一雨ごとに温暖さを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅の蕾も次第にふく らみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。楽しい春雨の降った後では、湿っ あおごけ た梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。長い間雪の下に成 0 ていた草屋根の青苔も急にき返 ここち チる。心地の好い風が吹いて来る。青空の色も次第に濃くなる。あの羊の群でも見るような、さま ッ ケざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、微かな風に送られる。 ス の 私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形が ぎえ したが あらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随って消て行 千 く。すると復た、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。そして同じように展開する。柔かな にゆうせい 乳青の色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。 星 月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の 空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せ かす つにみ
ズボンをゆるめるやらした。 おっしゃ 「さア、おかえなすって -—ー山へ来て御飯がまずいなんて仰る方はありませんよ」 と細君が言ううち、つと君の前にあった茶碗を引きたくった。君はあわてて、奪い返そう とするように手を延ばしたが、間に合わなかった。細君はまた一ばい飯を盛って勧めた。 君は笑いながら頭を抱えた。「ひどいひどいーーーひどくやられた」 「えツ、やられた ? 」と亭主も笑った。 「その位はいけやしよう」 チ ためいきっ ケ「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」と君は溜息吐いた後で、「チ、それじゃ、や のるか。ど一フも一ばい食っこ オーーええ、香の物でやれ」 楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。「お前も御馳走に成れ」という亭主の蔭で、細君も飯 曲 千を始めた。戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。山の中のことで、亭主は牛肉を 包んだ新聞紙をもめずらしそうに展げて、読んだ。君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠 しばらく ったまま暫時あおのけに倒れていた。 うさぎ 炭焼、兎狩の話なそが夫婦の口からかわるがわる話された。やがて細君も膳を片付け、馬の飲 料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の あちら 家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方に おそろ 倒れて、可恐しい思をしたことを話した。めったに外へ泊ったことの無い夫がその晩に限って本 ひろ おまんま