二階 - みる会図書館


検索対象: 夏草冬濤
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1. 夏草冬濤

「俺が借りに行くんか」 「そりや、そうだ。お前が借りるんだからな」 「いいや、俺、歩いて行く」 洪作は藤尾の家へ行くくらいなら歩いて行く方がいいと思った。 「これから歩いて行くと、七時か八時頃になるだろう」 木部は言って、ちょっと考えていたが、 「よし、俺が借りて来てやる」 濤そう言って、歩き出した。 二人は千本浜を抜けて、沼津の街〈はいった。街には春の白っぽいタ暮が来ていた。魚町へは 冬 いると、藤尾の家はもうすぐそこにあった。 草 「厄介だな。何と言ってはいって行くのかな」 夏木部は急に尻込みし出して、 「自信ないな。姉さんなら、まだいいが、親父さんとおふくろさんには全然信用がないんだ。の このこ姿を現わしただけでも呶鳴られそうなところへ、金を借りに行くんだからな。大体、藤尾 に会えないと思うんだ。藤尾に会うには二階へ上がって行かなければならないが、到底二階へは お前の方が、まだいいだろう」 上げて貰えないと思うんだ。 「いいよ、俺、歩いて行く」 洪作は言った。 「歩いて行くのは大変だろう」 559 しりご

2. 夏草冬濤

剛「味噌汁のにおいがする」 「味噌汁卩」 伯母はちょっと鼻をくんくんさせたが、 「どこにも、味噌汁のにおいなんてしていないじゃないの」 と言った。洪作も鼻をくんくんさせたが、その時はどういうものか、味噌汁のにおいはしてい なかった。 「変だなあ」 濤「何を言ってるのよ、あんた」 あき 伯母は呆れたような顔をして、 冬 「日曜だというと、なんだ、かんだと、早く起きるんだからね」 草 「だって、本当に味噌汁のにおいがしたんだ。二階へ行ってごらん。ほんとにするんだ」 夏「それ、確かに味噌汁のにおい ? 」 「・ーー・だと思うんだ」 「変ね。味噌汁のにおいなんてする筈はないし、まさか、漏電でもしているんじゃないでしよう 伯母は急に憂わしげな顔をした。 「こげ臭いんじゃない ? 」 「ううん、味噌汁のにおいだ」 洪作が言うと、伯母はさきに立って二階へ上がつ、て行った。 ね」

3. 夏草冬濤

洪作は土蔵から帰ると、上の家の二階でごろごろしていた。部落で行ってみたいところは沢山 あった。渓谷の共同風呂へも行ってみたかったし、下田街道をどこまでも天城峠へ向って歩いて おっ 行ってもみたかった。どこにも幼い頃の思い出があった。しかし、洪作は部落へ出て行くのが億 劫だった。道で会うすべての人が声をかけて来るに決っていたし、声をかけないでも、好奇の眼 で見るに違いなかった。それを思うと、家から出て行く気にはなれなかった。 夕方近くなってから、今朝粘土を取りに行った子供たちが家の前に居るのを見て、洪作は二階 しっせいに歓声を上げ の窓から声を掛けた。すると、子供たちはそれを待ってでもいたように、、 濤た。そしてどんぐりまなこの自転車屋の子供が、 「洪ちゃん、湯に行かないか」 冬 と言った。自分の仲間にでも言う言い方だった。そして三人はいっせいに、 草 昜に行こ - つ、昜に行こ、つ。 夏 と、歌でも唱うように、調子をとって叫び出した。 洪作はすぐ階下へ降りて行くと、手拭を腰にはさんで往来へ出た。 「どこの湯へ行くんだ ? 冫作が訊くと、一人が西平と答え、二人が瀬古ノ滝と答えた。西平とか瀬古ノ滝とかいうのは 泉の出る渓谷に沿っている小さい部落の名前で、その二つの部落のいずれにも共同浴場があった。 子供たちは西平にするか、瀬古ノ滝にするか、互いに譲らず、なかなか決らなかったが、 「西平に行こうや」 洪作が言うと、すぐそれで子供たちの言い合いは打ち切られた。 345 にしびら てぬぐい

4. 夏草冬濤

「そうさな」 祖父は考えるようにしていたが、 「お前は幾つだったな」 「こんど十七」 「十七か。十七の時の正月の二日に、わしは箱根山を越えた」 「歩いて ? 」 「歩いてに決ってるじゃないか。その頃はみんな歩いた。女や年寄しかカゴには乗らなかった」 濤「東京に居たんだね」 「うん」 冬 「何してた ? 」 でっち 草 「呉服屋の丁稚をしていた」 夏「小さい時から貧乏だったんだな」 すると、 「これ、これ」 二階から降りて来た祖母が言った。 「おじいさんは仕事を覚えなさるために丁稚に行ってなすった」 「どうして、学校へ行かなかった ? 」 「これ、これ」 また祖母が横からロを出した。すると、祖父はそんな祖母にはお構いなく、

5. 夏草冬濤

子供たちは、洪作の真似をして、洪作のやったことを、それぞれに試みた。子供たちはひとり ひとり土蔵の戸に触り、百日紅の木や、柿の木に触った。 そうしているうちにあたりはすっかり暗くなった。洪作はあす改めて来てみることにして、こ んどは水車小屋の横手の小道から田圃へ出た。子供たちも洪作と同じようにした。 翌日、洪作は上の家の二階で早く目覚めた。三島とは違って、物音ひとっ聞えず静かであった。 洪作は湯ヶ島の静けさだと思った。 濤洪作は寝床を離れると、すぐ階下へ降りて行った。祖父は寝ていたが、祖母はもう起き出して、 冬台所で働いていた。以前は井戸は家のすぐ裏にあったが、いまは家の半分がなくなっているため に、建物から離れて、遠くになっていた。 ぶち 草 「へい淵を見てくる」 夏洪作が一一 = ロ、つと、 「この寒いのに川へなんぞ行かんでもいい」 それから、 「それより顔を洗っておいで。 いくら中学生になったからって、顔ぐらい洗わんことには」 と言った。洪作が洗面具をとりに二階へ戻ろうとすると、 「おばあさんが持って来て上げる」 祖母は家の中へはいって行ったが、すぐ新しい手ぬぐいと歯ぶらしを持って来た。 「俺、自分のを持ってる」 まね

6. 夏草冬濤

ル。部屋に居るかど ) つか見て来て上げるから」 「待ってらっしや、 そう言って、女中は奥へ引き込んで行った。洪作もその顔には記憶があったので、村のどこか の娘には違いなかったが、さてどこの娘かということになると、思い当らなかった。 洪作が戸外の方へ眼を遣ると、子供たちは玄関の横手の植込みのところから洪作の方を窺って いた。 「おい、お前たち、はいって来てはだめだそ」 洪作はここでも念を押した。黙っていると、ぞろぞろ旅館の中へはいり込んで来かねなかった。 濤その時、田吉という昔から伊豆楼で働いている老人が裏木戸の方から廻って来て、 「こら、こら、お前ら、こんなところに来てはいかん。帰れ、帰れ ! 」 冬 と、呶鳴った。田吉の言葉で、子供たちは引き上げて行った様子だったが、それを見送ってい 草 た老人はまた呶鳴った。 夏「こら、こら、そっちへ行ってはいかん。お前らだろう、この間木に登って枝を折ったのは」 それから老人は子供たちの方へ歩いて行った。 女中が戻って来て、洪作に、 「お上がんなさい。案内して上げるから」 と言った。洪作は玄関の土間から板の間に上がった。 そろ 「下駄を揃えておいて頂戴よ」 甚だ女中らしくない女中だった。洪作は一言われたようにして、女中のあとについて、長い廊下 を踏んで行った。途中から二階への階段を上った。そして二階の廊下の突き当りの部屋の前で、 431 ちょうだい

7. 夏草冬濤

475 「俺が見張っててやる。早くはいれよ」 藤尾が幾らか命令口調で言ったので、洪作は思いきって店内へはいった。続いて一 / 瀬もはい テープル った。店内には卓が五つ六つ並べられてあったが、客は誰も居なかった。 藤尾は横手の階段を二階へと上がって行った。洪作と一ノ瀬は藤尾のあとに続いた。踏み入る べき場所でないところへ、足を踏み入れた感じで、気持は落着かなかった。 二階には階下と同じように卓を並べてある部屋と、それとは別に四畳半ぐらいの畳敷きの小部 屋があった。藤尾は靴を脱いで畳敷きの部屋へはいると、四角な卓の前にあぐらをかいて、 濤「ここのラーメンを食うと頭がよくなるよ。試験の時などはてきめんだ。ここのラ 1 メン食って りゃあ、落第することはない」 冬 「ほんとかな」 草 洪作が言うと、 夏「本当だよ。二三日続けて食ってみろ。頭がすっきりする」 それから、 ごちそう 「俺、ここをつけにしている。月末に一緒に払うんだ。今日は俺が御馳走してやる。ラーメン以 外の他のものはだめだ。高いばかりでうまくない」 藤尾は言った。真面目に言っているのか、冗談を言っているのか、洪作には見当がっかなかっ た。 別段注文したわけではなかったが、肥った女中がラーメンのどんぶりを三つ運んで来て、 「あんたたち、煙草は飲んではいかんよ 。いいね、煙草はいかんよ。この間、誰か煙草を飲んで

8. 夏草冬濤

小母さんは言った。少年が障子を開けたので、冷たい空気が部屋の内部へ流れ込んで来た。 「じきにゃんじゃうよ、これ」 少年が一 = ロ - っと、 「ゆうべから寒くなって来ましたから、降るかも知れないわ」 小母さんは言った。 洪作は雪が降って来たことを機に、この訪問を打ち切ろうと思った。洪作は雪の舞い始めた戸 外を見ていた。二階なので、座敷に坐っている限りは、地面も、川も、川岸も見えなかった。雪 濤片の舞っている空間が見えるだけである。 少年が部屋へ戻ったので、替って、洪作は縁側に出て行った。そして縁側の手すりに両手を置 冬 まき いて、戸外を見渡そうとした時、洪作はもう少しで声を出すところだった。太い槙の木が、その 草 枝を縁側の方に差し出すようにして生えているが、そこにさっき洪作のあとについて来た子供た 夏ちの中の三人が登っているのを見付けたからである。子供たちは槇の木に登って、二階の部屋を 覗き込んで、洪作が何をしているかを偵察していたのに違いなかった。 こらー 洪作は呶鳴りかけて、危ないところでその言葉を飲み込んだ。三人の子供たちは、それぞれ手 またが 頃な枝にしがみついたり、跨ったりして、申し合せたように体を縮めている。 洪作は、三人の子供たちの眼が自分の方に向けられているのを知った。洪作に発見されたので、 子供たちはその場から動けないで、じっとしているのに違いなかった。どれも、真剣な顔をして > る しお

9. 夏草冬濤

「おい、じゃ、ちょっとだけ上がるか。すぐ、帰るんだよ。いつまでも居たがってもだめだよ」 木部が言った。この木部の言葉にも、洪作は甚だ不服だったが、この姉さんにはいくら弁解し ても無駄だと思った。二人が二階へ上がって行くと、藤尾は胡坐をかいて、写真機を弄っていた。 「よう」 ちょっと二人の方へ顔を向けただけで、藤尾はまたカメラに眼を落した。 「どうしたんだ。前のと違うじゃないか」 「新しいのを買ったんだ。レンズが凄くいいんだ。これで千ドルほどかせごうかと思ってる」 濤「どうしてかせぐんだ ? 」 「ドイツのカメラ会社で写真の懸賞募集をしているんだ。そこで特選にはいると千ドルの賞金が 貰える。お前たちをモデルにして、それをせしめようかと思ってる。それには現像室が要るんだ が、それを作るのが厄介なんだ。押入れが使えれば一番いいんだが、どの押人れも、物がいつば 夏しまってる」 藤尾は一一一口った。 「うまく撮れるのかな。この前のは、みんなぼけていたじゃないか」 太・・部が一 = ロ、つと、 「ばかだな。あれはぼけたんじゃない。わざとあんなにしたんだ」 「嘘を一一一一口え」 「いや、本当だ。それに、こんどのカメラは上等なんだ。沼津では誰も持っていない」 「たかかったか」 650

10. 夏草冬濤

けた。階下は板敷だが、二階には畳が敷かれてある。 鉄の格子のはまっている窓からの光線で、部屋全体が浮かび上がって来た。ここもきれいに拭 き掃除されてある。二階は二つの部屋に分れていて、四畳半と三畳ぐらいの広さであるが、いま は仕切りが取り除かれてあるのでひと間になっている。 北側のも共に小さいが、部屋の採光はこの二つ 洪作は北側の窓の戸も開けた。窓は南側のも、 の窓からはいって来る光線で充分であった。洪作は北側の窓の傍に坐った。小学校時代に使った 小さい机が、その頃と同じようにやはり窓際に置かれてあった。 濤 北側の窓から見る眺めは、小学校時代と少しも変っていなかった。窓際にある大きなざくろの 木の枝が窓にかかっていることも、以前と同じだった。家の敷地より一段高くなっている田圃が 拡っており、その田圃は次第にその向うのへい淵のある長野川の渓谷に落ち込んでいるが、この もちろん 草 窓からは勿論その渓谷は見えない。田圃の拡りは途中で視野から消えて、谷間を隔てた向うの市 夏山部落の一部と、その部落を走っている下田街道の一部が見えている。 洪作は幼い時、この窓から、毎日のように下田街道を走る馬車を眺めたものであった。街道も、 - ・おもちゃ 馬車も、玩具のように小さか・つたが、しかし、洪作はいつもその道が三島や沼津の都会地に続い ており、またその馬車が、未知の他国の人を、都会地からこの山間の部落へ運んで来ると思うと、 無心には眺めることはできなかった。 小学校の五年生の時、馬車が ' ハスに替ったが、、、ハスになると、その速さに眼を見張ったもので ある。 洪ちゃ、く ノスが来るぞ。 341