害である。 「では、やはり砥石持ってってよ。砥石と一緒ならそのまま置いて来てもいいわ。砥石の間に挾 んでおくから」 「いやだー 「いま手紙なら持って行って上げると言ったでしよう。その替り、おじいさん、おばあさんのと みやげ ころへ持って行くお土産を、わたしが上げるわ」 「土産なんか要らん」 濤「ばかね、あんた、たまに帰るのにお菓子ぐらい持ってって上けなさい。どんなに悦ぶか」 冬 「ね、そうしましよう。お菓子を買 0 て来て上げるわ。その替り、砥石を清吉さんところ〈持 0 草 てって」 夏「なんだ。清吉とこへ持って行くんか、 すると、 「そんな大きな声を出してはいや」 「なあんだ、清吉か」 あんた、知らないでしよう、清吉さんを」 「清吉さんとおっしゃい 相手が一言う通り、洪作は清吉さんというのが、いかなる人物か知らなかった。清吉さんと言う と、相手が赤い顔をするので、時折、清吉さん、清吉さんと口に出して、相手を困らせていただ けの話であった。 よろこ はさ
310 「拭けー 清吉さんはまた命じた。少年はすぐそれを自分のズボンで拭いた。清吉さんはその角封筒を受 びんせん け取ると、すぐそれを破り、中にはいっていた便箋だけを、ズボンのポケットにしまい、封筒の 方はまるめて、そこに捨てた。 三人の少年たちがこそこそ退散しようとすると、 「まて、まて」 と、清吉さんは呼びとめて、 濤「てめえら、謝らないで帰る気か。ーーー謝れ」 「すみません」 冬 長身の少年がふてくさったように言って、頭を下げると、 草 こっちに謝れ」 俺に謝るんじゃねえ。 「その謝り方はなんだ。 あご 夏清吉さんは顎で洪作の方をしやくって、 「三人もかかって、こんなネギのしろみみたいな、ひょひょしたのを殴りやがって ! 」 と一 = ロった。 「すみませんでしたと、ちゃんと謝れ」 清吉さんはまた言った。長身の少年は、洪作の方へ、ふてくさった態度で、軽く頭を下げた。 「お前らも、謝れ」 清吉さんはほかの二人にも言った。 「いやになっちゃうな ふ
122 そう言って、肥った娘は玄関の方へ出て行った。半ば逃げて行った格好だった。清吉という名 、乍こまむしろ意外だった。 前を言っただけで、相手がひとたまりもなく退散して行ったことが、洪ィーー 洪作は清吉という名の人物が誰であるか知らなかった。大里屋には板前のほかに若い男衆が二人 居たし、陶器屋の方にも荷物を解いたり、客の相手をしたりする青年が二人居た。それから近所 の商店の使用人で、夕方になると、大里屋の前へ集まって来る青年も一人や二人ではなかった。 そうした青年たちの中に、清吉というのが居るに違いなかったが、洪作はどの青年が清吉である か知らなかった。 濤時折、肥った女中が、みんなから清吉さん、清吉さんと、からかわれているのを知っていたの で、いまそれを使ってみただけのことだった。 冬 「可哀そうに、逃げて行ってしまった」 草 伯母さんは笑って言って、 夏「さ、早く寝なさい。今学期になって三回も遅刻したと、先生は言ってた。伯母さんが、毎朝、 大体、学校も八時は早過ぎると思うね。せめ あんなに早く起きてるのに、三回も遅刻して。 て、九時だと、伯母さんもゆっくり寝られるし、あんたも寝坊できる」 そんなことを言ってから、また思い出したように、 「鞄を失くしたとは、伯母さんも驚いちゃった ! よく、まあ、鞄などを失くしたものだね」 「それが、失くなっちゃったんだ」 「そりや、そうでしようとも。わざわざ、鞄を失くしたくて、失くす者はないからね。鞄の方で 失くならない限りは、鞄なんてものは失くなりつこない」
「なんだ、これ、割れてるじゃねえか」 清吉さんが言った。 「おれ、拾った時、割れてた」 長身の少年が言うと、 「なんだと、この野郎ー こぶし 清吉さんは息まいて、拳を振り上げかけたが、それをやめて、 「手紙はどこにある ? 」 濤こんどは、洪作に一一一一口った。 「一緒に包んであった」 あしもと 冬 洪作が言うと、三人の少年たちは急にそわそわして、それそれが自分の足許を見廻した。 草 「手紙はどうした ? 」 どな 夏清吉さんが呶鳴ったので、三人の少年たちはいっせいに後に退がった。 「てめえたち、手紙をどこかへやりゃあがったな」 清吉さんもまた、急に真剣になって、あたりを見廻した。 「お前、見なかったかー 長身の少年が小柄の少年に言った。 「おら、知らない。拾ったのはお前だ」 「おれ、拾ったが、すぐお前に渡した」 「嘘を言え、おれじゃないよ。受け取ったのは杉山だろう」 うそ
311 小柄な少年は言って、 「謝るこたあ、ないんだがな」 「なくても、謝れ」 清吉さんが相手の方へ二三歩踏み出したので、少年は、これまた形だけ頭を下げた。もう一人 の少年も同じようにした。少年たちはすぐ、清吉さんと洪作の方に背を向けて、路地の奥の方へ 歩き出して行った。 洪作は清吉さんと一緒に運送屋へ帰り、そこに置いてあった鞄を持っと、 濤「さよなら」 あいさっ と、清吉さんの方へ挨拶した。 「帰るか。 よろしく言ってくんな」 草 清吉さんは手紙を読んでいたが、その時だけ手紙から眼をはなして言った。よろしく一一 = 〔う相手 夏は、大里屋の太った女中であるに違いなかった。 洪作は運送屋の店先を出ると、駅の方へ歩いて行った。駅前の広場を横切ろうとすると、さっ きの三人の少年がやって来るのが見えた。 洪作は少年たちの姿を見ると、よし、こんどは相手になってやろうと思った。さっきは感じな かった勇気のようなものが心につき上げて来た。どういうわけで、勇気が沸いて出て来たのか判 こわ らなかったが、自分でも不思議に思うくらい、相手の少年たちが怖くはなかった。バスの停留所 にはバスの車体も見られなかったし、、、 ( スを待っている乗客の姿もなかった。 三人の少年たちが近付いて来た時、洪作はどうせ喧嘩するなら、さきに攻撃に出た方がいいと
121 ためいき 相手は溜息をついて、 「もう、わたしでもだめだ。あした、誰か頼んで、意見して貰って上げる」 そして肥った女中は、伯母の方に、 「男の人でないと、ばかにしてだめですよ」 「わたしでも伯母さんでもだめ。替って、男の人に叱って貰って上ける」 大里屋の肥った女中は言った。 濤「男の人って、清吉さんだろう」 洪作が一一 = 卩っと、 冬 「知らないわ、そんなこと」 草 相手は、とたんに複雑な顔をして、 夏「いやな子 ! 」 と一一一一口った。 「清吉さんだろう」 「誰だっていいじゃないの」 「清吉さんだな」 「うるさいわね」 それから立ち上がると、 「おばさん、きつく言わないとだめですよ、この人」
「お前、ここで何をしている ? 」 と、洪作に声をかけた。 「あいつらが持ってる」 「何を」 「手紙と砥石です」 「あいつらって、誰だ」 清吉さんは言って、その時初めて路地の方を覗き込むようにしたが、そこに三人の少年が居る 濤ことを認めると、 「おい、おい お前らか、こいつをぶん殴ったのは」 冬 と言いながら、その方へ近付いて行った。三人の少年たちは身動きしないで、そこに立っていた。 草 「てめえたちか、砥石と手紙をふんだくりゃあがったのは」 夏清吉さんの声は突然荒々しいものになった。 「返せよ」 長身の少年が仲間に言った。 「おい、返せよ」 言われた少年はゴミ箱の上に置いてある菓子包と砥石の包みをとって、それを清吉さんの方へ 差し出した。菓子包の方はそのままだったが、砥石の包みの方は包み紙がむしられ、内部の砥石 がむき出しになっており、しかも砥石は完全な形ではなかった。洪作は自分が落した時、割れた のかも知れないと思った。
すると、杉山と呼ばれた少年が、 「おら、知らない。おら、見ていただけだ。おらーー」 言いかけて、急に表青を変えると、 「あれかも知れない。そこのどぶに何かおっこった」 と一一一一口った。 「なんだと ! 」 清吉さんは三人の少年をねめ廻したが、 濤「とにかく、手紙を探して、持って来い。持って来ないと、てめえら、ただじゃおかねえそ」 と、凄みをきかせて言った。本当に手紙を持って来ないと、そのままにしてはおかないといっ 冬 た見幕だった。 草 少年の一人がその路地の堺のどぶのところへ行って、そこを覗き込んでいたが、 夏「あった ! これだろう」 他の二人の少年もすぐその方へ移動して行った。そして、そこを覗き込んでいたが、小柄の少 年が、 「ここにあらあ、ここにある、ある ! 」 と言った。洪作も清吉さんと一緒にそこへ行って、どぶを覗き込んだ。なるほど角封筒がどぶ の中に落ちている。 「拾え ! 」 清吉さんは小柄な少年に命じた。相手はすぐ身を屈めて、汚れている角封筒を拾った。 309
305 「よかあねえよ。お前、弱そうだな。かなわないと思うなら、石を持ってって、相手の顔をぶん 殴るんだ」 「いいです」 「よかあねえよ。さ、来い。俺が石を拾ってやる」 青年は洪作を睨んだ。洪作は恐怖を感じた。さっきの少年たちより、もっと始末が悪い感じだ った。青年が石と言ったので、この時、洪作は自分が砥石を持って来たことを思い出した。 「ここに清吉さんという人が居ますか」 濤洪作は一一一一口った。すると、 「清吉さんだと、清吉さんは俺だ」 冬 相手は言った。洪作は驚いて、思わず相手の青年の顔を見守った。 草 「三島の大里屋のひろちゃんから砥石と手紙を預って来ました」 夏洪作が一一一口うと、青年は、 「お前、三島か」 と、八いた。 「そうです」 「大里屋を知ってるのか」 「家の前が大里屋です」 「ほ一つ。 そりや、すまねえな。そうか、そうか」 急に青年は顔の緊張を解くと、 にら
306 「わざわざ、それを持って来てくれたんか。そりや、なんにしても、御苦労だったな。有難う、 有難う」 けんか 喧嘩をそそのかすことは忘れて、。ホケットから、、ハットの箱を出した。 「そりや、御苦労さん」 また言って、清吉さんは洪作の鞄の方へ眼を遣った。大里屋の女中から預って来たものを眼で 探している風であった。瞬間、洪作ははっとした。肝心の物を道の上へ落したままにして来たの に気付いた。 濤「いけない ! 」 言うや否や、洪作は往来に飛び出した。路上には何も見えなかった。さっき殴られた場所まで 冬 引き返すと、向うの路地のところからさっきの三人の少年が顔をのそかせた。 草 「おい、ここへとりに来い、ここにあるぞ」 夏一番長身の少年の声が飛んで来た。 「ここへ来て謝れば返してやらあ」 どう考えても、謝る筋合にはなかった。 「返してくれ」 洪作はそこに立ったまま言った。近付いて行くと、あの小柄の少年の腕が伸びて来るに決って いた。殴り役の少年が両手を。ホケットに入れたまま、少し身を屈めるようにして、こちらをねめ ふた つけている。もう一人の少年が菓子箱と砥石の包みを、ゴミ箱の蓋の上に置いていじっている。 おおまた そこへ大股で清吉さんが近付いて来て、