湯ヶ島 - みる会図書館


検索対象: 夏草冬濤
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1. 夏草冬濤

増田たちと遊んで過し、その上で郷里へ帰省するつもりだったが、洪作はその予定を変更した。 どういうものか、一刻も早く湯ヶ島の土を踏みたい気持になっていた。 洪作は幼少時代を郷里の湯ヶ島で送ったが、小学校の五年の時、父の任地であった浜松の小学 校に転じた。その時湯ヶ島を離れて以来今日まで一回も帰省していなかった。従って、洪作はこ ふるさと んどの帰省に依って、三年半ぶりで懐しい故里の土を踏むことができるわけであった。 洪作は寝床の中で湯ヶ島へ帰るのをいつにしようかと考えているうちに、帰省を二日も三日も 先きのことにしないで、帰るなら今日帰った方がいいという気持になったのである。郷里の村か 濤ら見える天城山、郷里の村を流れている狩野川、夕暮になると急に白っぽく見えて来る下田街道、 そうしたものを眠に浮かべているうちに、急に一刻も早く郷里の村の土を踏んでみたい気持にな ったのであった。 ぜん 草 洪作は朝食の膳に対かっている時、 夏「伯母さん、俺、今日、湯ヶ島へ行く」 と一「ロった。 「今日卩そりや、今日行くんなら行っても構わないけど、どうせ正月を向うでやるんだから、 何もそう急がなくてもいいじゃないの」 伯母は言った。 あ 「いまから行くと、肝心のお正月が来るまでに倦きちゃうよ」 伯母は余り洪作を湯ヶ島へはやりたくない風だった。やりたくないのではないかも知れなかっ よろこ たが、少なくとも、洪作に悦び勇んでいそいそと行かれることは好まないように見受けられた。 285 なっか

2. 夏草冬濤

駅へ行って、乗車券を購入し、待合室のべンチに腰を降ろしていると、やはり三島から通学し ている一年生が母親と一緒にはいって来た」色の白い内気そうな少年で、洪作はよく顔を合せた が、言葉を交したことはなかった。 その少年は母親と一緒に、洪作の乗ろうとしている同じ列車に乗るらしく、少し離れたところ のべンチに腰を降ろした。母親は見るからに良家の主婦といった感じのひとで、子供に似て色白 で上品だった。 暫くすると、母親が立ち上がって来て、洪作に話しかけた。 濤「どこへいらっしやるの ? 」 「湯ヶ島です」 冬 洪作が答えると、 草 「あら、わたしたちも湯ヶ島へ行くんです。湯ヶ島がおくに ? 」 夏「そうです」 「いいところにおくにがあるのね。わたしたちは湯ヶ島でお正月をしますのよ。伊豆楼という旅 館があるでしよう。そこへ行くの」 「知ってます」 「あなたのおうち、あそこの近く ? 」 「少し離れています」 たにあい 「じゃ、谷間ではなくて、下田街道に沿った方ね」 「そうです」 295

3. 夏草冬濤

まえかが もう一人が、ズ飛ンに両手をつっ込んだまま、前屈みになって言った。 「湯ヶ島だ」 「湯ヶ島へ何しに行くんだ ? 「家がある」 「家があるお前、湯ヶ島の奴か。 ふざけるな」 相手は凶暴なものを顔に走らせた。ふざけるなと一 = ロわれても、ふざけているわけではなかった。 洪作は荷物を持ったまま歩き出した。三人はうしろからついて来た。 濤「おい、とまれよ」 うしろから声がかかった。洪作は構わず歩いて行った。立ち停まらない方が安全だと思った。 冬 「お前、湯ヶ島へ歩いて行く気か、よお」 草 夏「何とか返事をしろ、よお」 「この野郎、なめていやがる」 何と言われても、洪作は返事をしないで、構わず歩いて行った。早く運送屋を見付けて、そこ へ飛び込んでしまおうと思った。 店屋の並んでいる通りへ出て、駅員に教わったように、下駄屋の角を曲った。急に通りはさび れていた。人家は並んでいたが、店屋は少なく、人通りもなかった。少年たちは洪作の前へ廻っ た。否応なしに、洪作は立ち停まらざるを得なかった。足を停めた時、洪作は五六軒先きに運送 302

4. 夏草冬濤

「じゃ、湯ヶ島まで御一緒しましようね」 それから、 「順ちゃん」 と、自分の子供を招んで、 「この方、ね・ーー」 「うん」 ク年というより女の子の感じだった。 少年は身をくねらせるようにしてはにかんだ。ト お連れができて 濤「この方、おくにが湯ヶ島なんで、お正月に湯ヶ島へ帰られるんですって。 よかったわね」 冬 「うん」 草 少年は洪作の方を見ないで、相変らずはにかんで頷いた。洪作は甚だ迷惑だった。こんな良家 おやこ 夏の母子らしい道連れは、相なるべくはごめん蒙りたかった。 改札が始まると、 「じゃ、出ましよう」 母親が言ったので、洪作も立ち上がった。 「お荷物大変ね。持って上げましよう」 「いいんです」 「よくはないわ。持って上げます」 母親はべンチの上にあった砥石の包みを取り上げたが、 296 うなず

5. 夏草冬濤

洪作は急いで鞄と菓子包のところへ引き返した。 「。ハスに乗ったことがないんずら、 ぼやぼやしてなさんな」 ばとう 男は言った。遠慮のない罵倒の仕方だった。しかし、洪作はさして不快ではなかった。自分が なま ぼやぼやしていたことは事実であったし、それに男が口から出した言葉が土地の訛りを持ってい たからである。何とも言えない懐しい気持が、水でもしみわたるように、体全体にしみ入って来 た。三島でも、沼津でも、男女共に伊豆の一一 = ロ葉とさして違わない言葉を使っていたが、しかし、 同じ地方一言葉にしても、三島や沼津の方にはどこか都会的なものがあった。 濤洪作は、、ハスに乗った。男が三人、女が四人、みんな同じ顔立ちをしていた。伊豆の人独特の顔 である。丸顔であろうと、細長い顔であろうと、そんなことの区別はなしに、みんな同じ顔立ち 冬 だった。バスは湯ヶ島行きの、、ハスである。終点が湯ヶ島であるから、どの乗客も狩野川の渓谷に 草 住んでいる人たちである。 夏「おい、そこの中学生、お前さん、どこへ行くんじゃ」 さっきの男が向うの隅の席から声を掛けて来た。 「湯ヶ島です」 洪作は一一一一口った。 かじゃ 「じゃ、湯ヶ島の鍛冶屋を知ってるべえ」 「知ってます」 「じゃ、頼まれてくれるかな」 相手は言った。 314

6. 夏草冬濤

ことあるもんかね」 伯母は言った。伯母は実際に洪作が勉強しすぎる程勉強したと思い込んでいた。試験の時、洪 作が毎晩遅くまで机に対かっていたので、勉強の方はもうそれで充分だと思っているらしかった。 しんいち 「辰一をごらん。あの子は勉強なんてしたことはない。それに較べると、あんたは勉強ばかりし ている」 較べる相手が悪いと洪作は思った。実際に辰一は勉強しなかったが、勉強しなくても、商業学 校の方は、結構それで何とかやって行けるらしかった。 濤「あんた、いっ湯ヶ島へ行く ? 」 「二三日してから行く」 冬 洪作は言った。冬休みは郷里の湯ヶ島へ帰省して、祖父母のところで正月を迎えることになっ 草 ていた。 夏「湯ヶ島へ行っても、おじいさんには成績が下がったことは一一一口わない方がいいよ」 「うん」 洪作は言った。洪作も祖父の文太には言わないでおく方が無難だと思った。うつかり成績が下 がったことでも言おうものなら、すぐ寺の話がむし返しそうな気がした。 成績の下がったことから来る不快さは、しかし、長くは続かなかった。すぐ明日からもう学校 へ行かなくてもいいという解放感と、近く久しぶりで郷里へ帰省することができるという楽しさ とら ま、洪作の心を捉えた。 翌朝、目覚めた時、洪作はきよう湯ヶ島へ行こうと思った。冬休みの初めの二三日は、小林や

7. 夏草冬濤

さい」 文太は言った。 「だって、ついたことないもの」 「ついたことがあろうと、なかろうと、餅ぐらいつける」 「ほかに誰か主になってつく人があるんなら、俺、手伝ってやる」 「お前が主になってつかなくて、誰が主になってつく ? この家では男手はお前しかない。子供 じゃあるまいし、餅ぐらいつけんでどうなる」 濤文太は言ったが、洪作は自信はなかった。つけるかどうか、ついてみないと判らなかった。 洪作は一番厭な、気の重い仕事から片付けることにした。洪作は祖父から命じられた翌日、伯 かみかの 父に会うために、、ハスで門ノ原部落に行った。門ノ原は同じ上狩野村に属していて、湯ヶ島とは字 草 が違うだけであったが、この門ノ原部落の子供たちと月ケ瀬部落の子供たちのために、月ケ瀬小 夏学校というのが作られており、そんなところから、湯ヶ島の子供たちは門ノ原に対して、同村と いった親しい感じは持っていなかった。 湯ヶ島から門ノ原までは歩いても三十分ほどの距離であったが、洪作はバスに乗った。この日 さじん も風が強かったので、吹きっさらしの下田街道を、砂塵を浴びて歩いて行くのは厭だった。 やますそおもや 洪作は小さい停留所で、、ハスを降りた。そして山裾の母屋の方へ行こうか、街道に沿っている新 宅の方へ行こうか迷った。母屋の方には長男夫婦が住んでおり、新宅の方には伯父夫婦が住んで いけがき なじみ いた。生垣をめぐらせた母屋の方には土蔵もあれば、広い前庭もあって、洪作には馴染が深かっ たが、新宅は最近できた小さな構えで、洪作はまだその家へはいったことはなかった。 おれ あざ

8. 夏草冬濤

よくそう くと、人の姿はなかった。洪作は脱衣場で裸体になると、すぐ浴槽に飛び込んだ。建物の入口に 戸がなかったので、そこから風が吹き込んで来て寒かった。綺野川の瀬音が浴室いつばいに聞え ている。 くちず 洪作は浴槽のふちに腰かけて中学の校歌を口誦さんだ。洪作は何回か同じ歌を唄ったが、途中 でやめた。農家の老人らしい人物が、浴室へ降りて来たからである。洪作はいっその人物が脱衣 場へはいって来、いっ着物を脱いだか知らなかった。 ま、どこかねー 「若い衆ー 濤老人は痩せた体を浴槽に沈めながら言った。 「湯ヶ島ですー 冬 洪作が答えると、 草 「湯ヶ島から、わざわざここの湯へはいりに来たんか」 夏「さっき門 / 原の親戚へ来たんです」 「親戚って、どこかね」 「石守ですー 「ほう、前の校長の家か」 「そうです」 すると、老人は改めて洪作の方へ視線を当てたが、 「ああ、あんたは森之進さんの甥っ子だな」 と一一一口った。

9. 夏草冬濤

それから、 「鐘もあるな。なかなか大きな鐘だ。いまこれだけの鐘を買うとなると、なかなか大変だ」 文太は言った。 「大きな本堂だな」 やますそ 洪作も言った。洪作は湯ヶ島の山裾にある寺しか知らなかった。幼い頃、そこへは毎日のよう に遊びに行ったが、それに較べると、妙高寺はずっと大きくて立派だった。庭はきれいに掃き清 ふんいぎ められてあって、子供の遊び場とは大分違った雰囲気を持っている。本堂も独立した棟になって つな 濤いて、庫裡の方とは廊下で繋がっている。湯ヶ島の寺には鐘楼はなかったが、ここには鐘楼があ って、大きなつり鐘が下がっている。 冬 「これ、毎日つくのかな」 草 洪作がラロうと、 夏「お前の仕事に丁度いい」 文太は言った。 「鐘なら、いくらでもついてやる」 「お前は知らんだろうが、鐘をつくのも、なかなか大変だ。毎朝、四時か五時に起きなければな らぬ。真門の家で、ひる近くまで寝ているようなわけには行かん」 「そんなに早く起きるのか」 「当り前じゃないか。ひる頃起きて鐘などっけるか。 なんにも知らん奴だ」 それから、 248 むね

10. 夏草冬濤

むずか 洪作にはそうした伯母の気持が判っていたので、湯ヶ島へ行くにしても、その切り出し方が難し しかし、帰ってやらなければならぬ、そういったような帰り方を かった。余り気は進まないが、 しなければならなかった。 やめちゃってもいいんだ」 「俺、湯ヶ島になんて、そんなに行きたくはないんだ。 「やめなくてもいいよ。そりや、おじいさん、おばあさんが居るんだから、一度は帰らなくて 「じゃあ、今日行って、正月までに三島に帰って来る、 濤「そんなことをしたら、わたしが恨まれる。行ったくらいなら、やはりお正月は向うでやらなく ちゃ 冬 伯母は言った。 草 洪作は午前中を部屋の片付けに過した。めったに机のひき出しなど整理したことはなかったが、 夏二週間ほど留守になるので、一応片付けるだけ片付けようと思った。ひき出しをぬいて、内部に 入っているこまごましたものを出し、あとはひき出しごと窓のところへ持って行って、屋根の上 びんふた にあけた。ペン先、ピン、クリツ。フ、清涼剤の小型容器、インキ壜の蓋、そんなこまごました物 かわら が屋根の瓦の上を転がった。 洪作は机の横の本棚も整理した。本棚の上の段には教科書と雑誌が並べられ、中の段と下の段 には何も置かれてないので、整理するといっても至極簡単である。 あしおと 階段を上がって来る跫音がしたので、洪作は伯母だとばかり思っていたが、はいって来たのは 伯母ではなかった。大里屋の太った女中だった。 ほんだな