150 ちくごがわ 、ゝ、ばかだな。筑後月冫 ーま同じ川でも、こんな狩野川とは全然違うんだ。水をま 「筑後川じゃなしカ んまんと湛えていて、ところどころに大きな水門がある。その筑後川の支流の、そのまた支流に 沿って、俺のおふくろさんの生れた村があるんだ。その支流のまたその支流でも、この狩野川よ り大分川幅が広いんだそ」 小林は言った。 うそ 「嘘を言え ! 」 増田と洪作が同時に同じ言葉を口から出した。 濤「狩野川はそんなに小さい川じゃないよ。静岡県では、天竜川、大井川、富士川、安倍川、その はず 次がこの狩野川じゃないか。筑後川の支流の、そのまた支流より小さい筈があるもんか」 冬 洪作は一一 = ロった。 草 洪作は浜松からの汽車で、天竜川も、大井川も、富士川も見ていたが、それ以外の川は見たこ 夏とがなかった。しかし、狩野川は大きい川のある静岡県でも大河の方であるし、大きさを別にす もちろん れば、静岡県では勿論のこと、日本でも有数の美しい川であるに違いないと、洪作は思っていた。 思っていたというより信じていたと言った方が当っていた。 洪作は、そのことをいつもこの御成橋を渡る時思った。御成橋の上から見る眺めも、いかにも 都会の川といった感じで、橋付近の両岸を人家や倉庫で埋め、その人家や倉庫の列が切れると、 上流の方は青草に覆われた堤になり、そして川筋はゆるやかに大きく身をくねらせて視野から消 えている。そして下流の方は少しずつ川幅を広くし、河口らしい貫禄を示して来る。 しかし、洪作が狩野川を日本で有数の美しい川であると信じているのは、この沼津の町中を流 あべかわ
洪作は湯ヶ島付近の上流の狩野川から、沼津を流れている下流の狩野川まで、その大体の川筋 を知っていた。御成橋の上に立っと、一本の長い青い流れが、自然に洪作の眼に浮かんで来た。 洪作は小学校時代に、その頃父の任地であった豊橋へ行ったことがあった。その時、富士川 大井川、天竜川といった有名な川を車窓から見たが、なるほど川幅は狩野川より広く、水量も豊 かであったが、どれも同じようなただ水が流れているだけの無愛想な川にしか思えなかった。狩 野川のような優しさも、美しさもなかった。 そんなわけで、洪作は狩野川を、恐らく日本国内でも、幾つかに算えられる美しい川であると 濤思い込んでいた。源から河口までその長い流れを眼に浮かべることができるということも、洪作 に綺野川を特殊なものにしていた。 増田や小林は、洪作の言うことを、そのまま鵜のみにはしなかった。 草 「そんなばかなことを一一一一口うと笑われるぞ。特野川は水はきれいだと思うんだ。これだけ水の澄ん 夏だ川はほかにないかも知れない。しかし、何しろちっぽけな川だからな」 増田は言った。すると、小林が、 あゆ 「俺は綺野川には魚がたくさん居ると思うんだ。鮎も居るし、ヤマメも居る。この辺には海の魚 うなぎ も上って来ている。鰻も居るだろう。たくさんの種類の魚が棲んでいることでは、他の川にはひ けはとらないと思うな。だけど、ちっちゃな川だからな けいべっ と言った。二人とも、綺野川を小さい川であるということで軽蔑し、洪作のようにその美しさ も優しさも認めなかったが、しかし、彼等は彼等なりに、それぞれ一つずつ、狩野川の長所を認 めていた。やはり自分の通っている中学のある街を流れている川なので、どこか一点はいいとこ 152 かそ
れている綺野川のゆったりした姿態の美しさのためではなかった。御成橋の上に立って、上流の あまぎさん 方に眼を遣る時、洪作にはいつも天城山に源を発している狩野川という川の、その長い一本の川 筋が眼に浮かんで来るからであった。 特野川は洪作の郷里の湯ヶ島という部落を流れている。洪作は小学時代、夏になると毎日のよ うに特野川や、その支流の長野川へ行って、水浴びをした。水泳というようなしゃれた一一 = ロ葉は使 わなかった。時には泳ぐという言い方もしたが、大抵は水浴びという素朴な言葉を使った。水は 冷たかった。子供たちは長くは水浴びをしていられなかった。少し長く流れの中に体をつけてい くちびるまっさお 濤ると、唇が真蒼になった。唇が真蒼になると、子供たちは流れから出て、川の中にごろごろ転が はらば っている石に腹這いになって腹を押しつけた。真夏の太陽の光にやけて石の面は熱くなっていた 冬 ので、冷えた体をそこへ押しつけると気持よかった。腹が暖まると、こんどは背の方を押しつけ た。 さかのぼ 夏洪作たちは、時には狩野川の上流へ上流へと、 月伝いに溯って行くことがあった。Ⅱの幅は少 しずつ映くなり、水は一層冷たく、流れは急になって行った。 おおひと 狩野川の流れに沿って下田街道は伸びていた。湯ヶ島から町に出るには、大仁まで馬車に乗ら なければならなかったが、その馬車は下田街道を走った。馬車の上からいつも紵野川の流れは、 右になったり左になったりして見られた。大仁からは、更に軽便鉄道に乗らねばならなかったが、 その軽便鉄道の車窓からも狩野川の流れが見えた。大仁から先きになると、川幅は見違えるほど 広くなり、石のごろごろした上流の狩野川とは違って、水はゆうゆうと流れ、こまかい石を敷き かわら つめた磧を右や左に持つようになる。 151
を感じた。幸福を感じたり、不幸を感じたりした。 歹車の通過 駅に近くなると、必ず踏みきりがあった。踏みきりには何人かの男女が固まって、」 ・つは」 - フ するのを待っていた。三島や沼津の町の人に較べると、その容貌も服装も田舎びていた。 少年がみかんを二個持って来た。 「お上がんなさい」 母親がまた声を掛けて来た。洪作はみかんはあまり食べたくなかったが、しかし、言われた通 り、みかんの皮をむいた。 濤「そろそろ天城が見えて来るでしよう」 母親は言った。 冬 「まだです」 草洪作は答えた。今頃から天城が見えてたまるかと思った。 夏野川は車窓からは殆ど見えなかった。ほぼ線路と平行して流れている筈であったが、時々堤 らしいものが眼にはいって来るぐらいのことであった。 もうあと一駅か二駅で終点の大仁だという時になって、突然狩野川は右手にその長い姿態の一 かわら 部を見せた。綺野月冫 ーま片側に小石を敷きつめた磧を抱いたまま、ゆるく大きくカープを描いてい た。 おなりはし 洪作には、沼津の御成橋のところで見る狩野川とも、毎日登校の途中で見る綺野川とも違った ものに見えた。これが本当の特野川だと思った。磧は弱い冬の陽に白く冷たく光っている。青く 澄んだ水があるいは早く、あるいはゆるく瀬音を立てて奔っている。洪作は倦かず狩野川の流れ
573 「今日、千本浜へ泳ぎに行かないか」 と言った。木部はすぐ応じたが、洪作は断わった。成績が下がったことで、心鬱々としてたの しまないものがあった。 その日、校門を出た時、増田と小林がやって来て、珍しく、一緒に帰ろうと誘った。増田や小 林と一緒に帰るのは久しぶりのことだった。依然として絶交状態は続いていたが、いっか二人の 友に対する怒りは解けていた。 狩野川の堤の道を歩いている時、 濤「成績はどうだった ? 」 と、増田が訊いた。 冬 「まあ、まあ、だ」 草 洪作は答えた。 夏「何番だった ? 」 「まあ、まあ、だ」 「下がったろう」 「まあ、まあ、だ」 すると、横から小林が、 「俺たち知ってるよ。お前、こんど、ひどく下がった筈だ。この間、橋見先生のところへ遊びに 行って聞いたんだ。どうして急にあんなに下がったか、不思議がってた」 と一一一口った。 うつうつ
「木部君も眠ったんだな」 「眠りました。しかし、餅田の言うことは違います。餅田が一番早く眠りました。仰向けになっ たと思ったら、とたんに眠ったんです。そしたら、藤尾が俺もっき合うと言って、言ったとたん . に眠いり・、 「うえっ ! 」 藤尾がまた直立不動の姿勢のままで奇声を発した。 「そんなに器用に眠れるもんか」 濤「眠ったじゃないか」 それから木部は、 冬 「二人とも眠っちゃったんで、僕も眠っちゃいました」 草 と言った。この方は、餅田とは違ってはきはきしていた。すると、眉田さんは、 夏「君たちのやったことは、僕は余り好きじゃないな。体操の時間に、理由をつけて脱け出して、 かのがわ 狩野川の川つぶちで昼寝をする。どうも、余り好きじゃないな。ずぼらとか、怠惰とかいったも のに、君たちは惹かれているかも知れない。あるいは、わざわざそうしたものを身につけて、そ おば の中に溺れようとしているかも知れない。しかし、僕は余り好きじゃないな。あるいは自分たち は若いんだから何をやっても許されると思ってるかも知れない。しかし、僕は余り好きじゃない な。どこか甘ったれてるよ。どこかいい気になってる」 それから、 「大体、君、同じ級の者が体操をやってる最中、昼寝しているのはいかんよ。そんな権利は持っ 137 クラス
とが もう一人が自分の頭をさすって見せた。それを聞き咎めて、 「あんたち、何をするつもりなんだね」 祖母は訊いた。 「土蜂の巣をとりに行くんだ、洪ちゃんと」 たっちゃんが一一 = ロうと、 あんたち、洪ちゃん、洪ちゃんと、 「今日はだめだよ。洪作は伊豆楼へ行かなければならぬ。 連れみたいな言い方をするが、洪作は中学生なんだからね。もう、これから洪ちゃんなんて呼び 濤方はするんじゃないの」 それから祖母は洪作の方に、 「さ、行っておいで。 一ノ瀬さんの奥さんによろしく言っておくれ」 あきら と言った。洪作は土蜂の方は諦めて歩き出した。 たにあい 夏洪作は新道を歩いて行き、人家の切れたところから、谷間への道に折れた。だらだら坂を降り つりはし 切ったところに狩野川の流れが横たわっていて、吊橋を渡ると、伊豆楼という旅館につき当る。 洪作が折れ曲っただらだら坂を途中まで降りて行った時、五六人の子供が追いかけて来た。 「今日は用事があるんだ。蜂の巣はだめだ」 洪作が一一 = ロ、フと、 しつにする ? 」 ひとりが訊いた。 429 「あしたか、あさってだ」
638 「底なら、俺がなおしてやる。俺が釘を打ってやる。贅沢は許しません。辛抱、辛抱」 木部は言った。 ラーメンを二杯すっ食べると、木部と洪作は中華料理店を出た。 「これからすぐ寺へ行こう。お前、寺を知ってるな」 木部は訊いた。 「港町の妙高寺という寺だ。大きな寺だ」 洪作が答えると、 濤「大きな寺なら、机の二つや三つはあるだろう。ついでにお前の部屋を見せて貰おう」 「本堂じゃないのかな」 冬 「本堂卩本堂ってことはあるまい。合宿じゃないんだからな。お前ひとりが下宿するんだ。本 草 堂じゃないよ。もっと小さい部屋だ」 夏「そうかな。ごはんを運ぶのに本堂じゃ遠いものな」 「ごはんを運ぶって、そんなことを言ったか」 「ううん」 「ばかな奴だな。誰がめしなんか運んでくれるか。お前、三度三度、台所へ行って、みんなの給 ちょうだい 仕をするんだ。そしてみんなが食べ終えたら、お前がみんなの残りものを頂戴する」 「冗談じゃないよ」 「いや、そのくらいに考えて行って丁度いいんだ。大体において、そんなものだよ」 二人はやがて港町へはいり、狩野川の岸に出た。 かのがわ くぎ
藤尾が悲鳴を上げた。 「どうする ? 」 洪作が一一一一口うと、 「俺は失礼する」 木部は言って、 「別に悪いことをしたわけじゃない。藤尾、お前、ここに立ってろ。俺たちは何もここに居なけ ればならんことはないんだ。ともかく、俺は失礼する」 濤「冗談じゃない。居てくれよ、ここに」 藤尾がそう言 0 た時は、もう木部は浜の方へ向 0 て駆け出していた。洪作もまた、木部のあと から駆け出した。松林へはいった時、洪作は「を振り返ってみた。金枝もどこかへ逃げたらし 草 く、藤尾と餅田の二人の姿だけがあった。餅田はまごまごしていて逃げおくれ、藤尾に上着でも 夏掴まれているのであろう。二人は何となく路上でもみ合っているその場の感じだった。 「早く来い。河口の方を廻って帰ろう」 木部は振り返って言った。 「もう大丈夫だ、追いかけては来ないよ」 洪作は言ったが、木部は走るのを中止しなかった。仕方ないので、洪作もまた木部のあとから かのがわ 駆けて行 0 た。二人は狩野川の河口の方〈、どこまでも砂浜を走って行った。途中で、 「もういいだろう」 木部は言って、立ち停まると、 552
にはよく判らなかったんだ。だから変なこと言ってたろう。やつばり落第点とってるんだよ」 「とってない」 洪作は首を振った。 「とってる」 「とってるもんか」 「あれ」 小林は足を停めて、洪作の顔に眼を当てると、 濤「一番だと思って嬉しがりゃあがって ! 」 「嬉しがるもんか」 冬 あき 「嬉しがったさ、呆れたよ。一番でもないのに一番だと思ゃあがって」 草 「なにを ! 」 夏洪作は小林に飛びかかって行った。恥で身体中が燃え上がりそうだった。小林は洪作の襲撃か かわ ら身を交すと、鞄を右手に抱えて駆け出して行った。洪作は追って行く気力はなかった。 洪作は憂きことが次々に降り積って来る気持だった。小林に対しては、その時の勢いで落第点 をとっていないと頑張ったが、ひとりになると、洪作は小林の一一一口うように自分は落第点をとって いるに違いないと思った。しかも落第点は一つや二つではないだろう。三つも四つも、もしかし たら全課目落第点かも知れぬ。増田は落第点をとったら学校をやめると言ったが、増田が学校を やめるなら、自分も一緒にやめてやろう。洪作は思い詰めた気持で黒瀬橋を渡り、狩野川の堤を 歩いて行った。