ぼくは、ガソリン・タンクを、抱きしめてしまった。 濡れた頬の下で、タンクのやっ、ひんやりとすべすべしていた。しっとりと、冷たくて。 片手で抱きしめ、片手でタンクをぼくは何度も軽く叩いていた。 涙が、・ほろ。ほろと、落ちてくる。 のアイドリング音と、ぼくの心臓の音が、じかに、つながっている。うれしい。ものすご く、うれしかった。 信号が再び赤になる寸前、ぼくは、またがったをスタートさせていた。 夜おそく、車のいない道路。 ーしつきに、トップ・ギアの四速までかきあげ、四〇〇〇をすこしこえた回転で、まっ すぐに走った。 頬に伝わる涙が、風圧で、下まぶたのすぐ下から、つうっと、横に流れる。涙は、両耳のほう へいってしまう。ぼくは髪をリーゼントにしてもみあげを長くのばしているから、風圧で横に流 された涙は、もみあげのなかに入りこんでいった。 三日後。日曜日。暑い日だ。 かんだにし 四泊の信州ソロ・ツーリングから帰って二日目。夜の十時すぎに、ぼくは、東京・神田の錦
『道草』を出て、駅とは反対のほうに、歩いた。ミーヨと手をつないだまま、黙って。 ・ショッ。フの石板に、明かり しばらくいくと、路地の入口があった。路地の奥には、コ ] ヒ 1 がともっていた。 ぼくは、ミ 1 ョをつれて、その路地に入った。 まだ、なにも喋れない。だから、・ほくは、ミーヨを抱きしめた。彼女も、・ほくを抱きかえす。 「信州でーー」 と、彼女が言う。 ぼくたちの額が触れあった。至近距離から、彼女はぼくの目を見ていた。 「信州で、カワサキにまたがってるコオを見たとき、ものすごくうらやましかった。カワサキ しっと 島に嫉妬したの。自分でも乗りたいと思ったし、あのカワサキみたいに好かれてみたいとも思っ 女た」 ばくの喉の奥の熱いかたまりが、ますます大きくなっていく。次第に上へあがってくるみたい イ レだ。押えこむのに、ばくは、懸命だった。 だから、ミ 1 ョをきつく抱きしめ、じっとしていた。 オ ミーヨが、さがした。唇がかさなる。これで二度月だ、と冷静に考えたら、喉の 彼・ほくの唇を、 奥の熱いものが、すこしおさまった。 「さっきは、ごめん」
「うらやましかった。信州ではじめて見たとき」 「顏に出てただろう」 ミーヨが笑った。 ぼくの言葉に、 「全身に出てた」 「恋人なんだ」 「私は ? 」 声を大きくして、 「素敵だ」 「それだけ ? 」 島「好きだよ」 女「ああん ! 」 や 「妬くなよ。相手は馬力だ。かないっこない」 イ 「乗れるようになりたい」 オ 「 125 の免許はあると言ってたね」 彼 「そう」 「だったら、次は、中型だ」 「 350 ね」 ミーヨが一一 = ロった。
「すこしだ。オート・ハイだから」 「輸送っていうと、たくさんあるみたい」 時代小説作家のところへ原稿をもらいにいった今夜の体験談を喋ってみた。 よく事情がのみこめないらしく、美代子は、ふうん、と言っている。 「夏は、あれつきりだったのか」 「あれつきりって ? 」 「信州のほかには、どこへもいってないのか。俺は海へいった」 「どこ ? 」 声が、いきなり、はずんだ。 島 「九十九里」 女 「千葉県ね」 彼 イ 「三日間。 - 陽が照ったのは、最後の日だけだった」 「海よ、 いいね」 オ 「いかないのか」 の 「いく。と言うよりも、帰るの。実家が、瀬戸内海の島だから」 「瀬戸内海は、ぜん・せんいったことない」 「オート・ハイで走らないの ? 」
「いつも三重だから、しじゅうなんだ」 ・ほくたちは、笑った。 しんしゅう 塔のまわりの杉木立の、セミの鳴き声をばくは思い出していた。安楽寺は、信州ではいちばん 古い禅寺なのだそうだ。 「これから、どうするの ? 」 「上田」 「ううん」 彼女は、首を振った。 「今日、いま、これから」 「風をさがして、昼寝」 「風を ? 」 「うん」 風のとおる道を、・ほくは、さがした。 しくつもつらなっている。陽は高く、カンカン照りだ。だが、吹 小高い山が、青い空の下に、、 く風は、さらっとして、気持いい。 おだやかな起伏のなかから、よさそうな斜面を見つけ出す。そして、その斜面を上から見おろ
「はあ」 こちざわ 「小諸から、小淵沢まで、ぜんぶ」 「そのあと中央本線だな」 「そうなの。八〇キロあるんですって」 ぼくは、必死になって、信州の地図を頭に描いた。お湯で、頭が、・ほうっとなりかけている。 やったけ 小諸から国道はふたつに分かれる。小海線にほぼ沿って八ヶ岳をまわっているのは、 141 号 「千曲川そいだ」 ばくは、目立たないよう、一歩、さがった。両腕は、お湯のうえに交差させて不自然に浮かべ 島ている。 の 女「全国の国鉄の駅のうち、いちばん標高の高い駅があるんですって」 「いくつもあるはずだ」 イ 「乗ったこと、あるの ? 」 オ 「ない」 彼また一歩、そっと、さがった。自立した彼に、お湯がからむ。彼は、元気にしてます。 ああ、弱った。のぼせてきた。 しり ばくとの距離が遠のいたせいか、彼女は、湯船のふちに、横むきにお尻を乗せた。背中から尻 ころ
柱のフックにヘルメットをかけ、 「ただいま」 返事はない。 あるわけない。・ほくは、独り暮らしだ。 レ・キャッ ・フーツを脱ぎ、部屋にあがった。暑い。野戦ジャケットを脱いだ。自動車のホイーノ ・フが灰皿がわりになっていて、喫いがらがいつばいだ。 けんか べッドに腰かけ、・ほくは両手で頭をかかえた。気持はとてもダウンしている。四輪と喧嘩した あとは、いつもきまって、こうだ。 ばくの気分を沈ませているのは、しかし、あの白いスカイラインとの喧嘩だけではない。 島 ほかに、ほんとにのんきな悩みがひとつある。信州まで、ひとりでかかえていった悩み。 女顔をあげ、ぼくは、部屋を見渡した。 こっちの壁に、・ヘッド。むこうの壁には、本棚と勉強机。手づくりした低い台のうえに、簡単 イ 1 なオーディオ。アン。フのうえに、が数枚。をぼくはこれだけしか持っていない。どれも みな、人にもらっただ。 オ 彼黒いケ】スに入ったギター。ギ・フスンのハミング・ハード。カワサキとならんで、ぼくの所持品 のなかで、もっとも値の張るものだ。 ばくは、立ちあがった。
いときには、こうなる。 無数の小さな葉や花が触れ合い、可憐な音がさらさらの空気のなかに広がっていく。 オートパイを降りて、・ほくは、しばらくそれをながめた。 浅間のむこうに、入道雲がひときわ大きい。千曲川からでも、あの入道雲は、見えるのだろうか。 道の反対側にカワサキを持っていってセンターをかけ、ぼくは斜面に降りた。 草に身を投げるようにして、ぼくは、横たわった。 体をのばし、空をあおいだ。 「ああーっ」と、声をあげる。 草のなかは、ひんやりと気持がいい 陽が、さんさんと降り注ぐ。真夏の青空だ。目をあけると、まぶしい。目を閉じる。まぶたが、 オレンジ色に燃えている。 まぶたにぎゅうっと力を入れると、オレンジ色が、濃い紫色になっていく。 空気が、素晴らしくおいしい。肺の気泡から血管の血のなかへ入りこんでいく。 両手をのばし、草を撫でる。 素晴らしい気分だ。 かんべき なんの悩みもないと言いたいところだが、完璧にそう言いきれるわけでもなかった。 ちょっとした、つまりとてものんきな悩みをかかえ、その悩みのために、ぼくは東京から信州 かれん
とても、悲しい。悲しいと同時に、底なしのうんざりを、頭からびつかぶってしまったような 気持だ。 島重く暑苦しい、曇天の日の午後。 女東京の空は、雲でおおわれ、その雲の下に、スモッグの層が、厚くとじこめられている。風が ない。むし暑い。 イ 重苦しい灰色の底で、東京ぜんたいが、うめき声をあげ、苦しまぎれの寝がえりを打とうとし オている。だが、寝がえりは、打てない。 えどばし 彼・ほくはいま、高速環状線の江戸橋インタチェンジにいる。エンジンを切ったカワサキにまたが はこ》 0 - ちょう り、江戸橋のランプから箱崎町のラン。フに抜ける走行車線の外にとまっている。低いコンクリー トの壁にびたりと寄せてカワサキをとめ、片足をつき、じっとしている。 イ、モーテル『愛の鳥』のネオン、エプロンをした冬美のうしろ姿、信州で・ほくをずぶ濡れにし たタ立などが、次々に、無秩序に、あらわれては消えていった。 霧雨が、強くなってきた。 遠くから、貨物船の霧笛が、聞えた。工場の煙突から吐きだされる煙のせいだろう、不快なに おいのする空気が、霧雨と共に、ぼくの顔を撫で、とおりすぎていった。
だが、いまは、まるでちがっている。女だ。しかも、立派に一人前 体のどの部分にも、なだらかなカー・フがある。出つばるところは出つばり、おどろくほどの厚 みだ。胸とか、腰。それに、太腿。 そのことにはっきり気づいてから、すこし困ったことになった。 いまはそんなときではないんだ。よせ、こら。よさない あ、やめろ。よせ。駄目だってばー か。ああっ、、、 しカん。こらー と、・ほくは心のなかで必死に自分を叱る。だが、効き目はない。 ばくの体に、異変がおこったのだ。突如として、不必要なほど、力強く。 なんといえばいいんだろう。二十四歳の・ほくにもし息子がいるとしたら、そいつはまさにご子 息であり、その彼が、一人立ちになったのだ。信州のお湯のなかで。 あせったりあわてたりするほど、そいつは、カンカンになっていく。もう、どうにもならない。 なむみようほうれんげ しずまれ。時と場所を心得ろ。はしたないではないか。ばれたらどうするのだ。南無妙法蓮華 きよう 経。効き目は、ゼロ。カーン、と突き立っている。すこし体を動かすと、お湯に触れて、よくわ かる。おでこに浮かんだ汗が、目のわきを流れ落ちる。それも、はっきりとわかる。 「明日はね」 と、彼女が言った。 こうみせん 「小海線に乗る」