第五章心強くなる工夫 同病相に出たる余の気弱 前章に僕は外柔内剛に就き少しく述べたが、内剛に就ては所説の未だ竭さぬ所があったから、今 章を更めて所感を述べたい。僕は種々なる人々と対談し、或は種々なる人々より受取る手紙によ り、世には階級の上下を問はず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強 くする工夫はあるまいかと尋ねられることが屡々ある。この質問は僕自身が他人に接する毎に痛切 に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯めたいと思うて居る位なれば、世人に対して之が方 法を授くるが如きは思も及ばぬことである。併し同病相憐むといふ、僕自身も甚だ気弱いことを感 夫 工知し、之に就き年来少しくエ夫を凝らしてゐる。若し其工夫を話したなら、仮令未熟ながらも、又 な 直接に益する人はなくとも、世にも亦斯くの如きものもあるか、斯くの如き考を以て其欠点を矯正 強 せんと努めるものあるかと思うて、新に工夫を運らすに至る人もあらうと思ひ、僕は本問題を提げ 五たのである。 第 ひっさ 3
を始めとし年始の式抔を馬鹿らしと笑ふ人は沢山ある。兼盛卿も かぞぶれば我身につもる年月を おくりむかふと何いそぐらん 、無意味に急いだりする弊は、警しむべきであるが、此の期を と詠じて居るが、詰らなく騒いオ 善用するに就ては、如何なる聖人も名僧も叱ることはあるまい 新玉の年立ち返へるといふは、改むる意を含んで居る。この改むる意は年を改むるのでない。年 は暦が代はるのみで、改むるのは各自の心の業である。世界全体の人 ( 大陰暦の国人は別 ) はこの 同じ日を選み、過ぎた年の不快を忘れ、旧い帳面に棒引し、人と人との関係を新にすることを相談 もとより各自が適宜の日に、其心を改め したかの如くである。こんな時は一年に一回しかない。 「今日が自分に新年である」といへば、いはれぬことは無論ない。併し自分一人が新年であると叫 んだとても、他人が応じて呉れなければ、心を改め、己を新にすることが六ヶ敷い。主人が笛吹 き、客踊るといふ様に相互に応すればこそ、世渡りが為し易くなる。故に他人が総て心を改め、己 準を新にせんとする時に、自分も亦心を改むるが最も便宜である。是が我々の新年を期して心を改め 年んとする所以である。 迎 故に何れの国でも、大晦日と元日との間には何かの催があって、此日には人々が一種別な心地す 章 十るものである。欧米にては大晦日の夜半、十二時、将に新なる年に移らうとする時、大砲を発する 3 3 第 所もある。教会で鐘をガン / 、撞いて、旧を捨て新を迎へる風俗もある。丁度日本で鬼は外、福は
れば、それは必らず他に反映して、他人よりも同情を寄せられる。然るに自分は世を怨むが如く、 嫌ふが如く見做して居て、どうして独り他人の愛を受けることが出来るであらう。 逆境者の乞食根性 自分が如何に逆境に苦んで居たからとて、世人は如何して自分の痛しとする所を知ることが出来 ゃう。他人が自分の痛み所を知らぬからとて、其同情を買はんとして、対手を撰ばずに、其苦痛を 訴へるは卑怯の仕業である。僕は之を乞食根性と名づけたい。是は往来で道行く人に、指の欠けた 手、片脚を断った足を示し、其窮態を告げ、其不幸を訴へて、一文の憐愍を乞ふと毫も異ったこと かない。最も卑むべきことであると思ふ。 これは如何にも女々しい、男児の勇ましい点が見えぬが、併しその痛を全く告げなければ、到底 自分の痛み所を他人に知らせることは出来ぬであらう。従て人から痛い所を撫って貰はうと思ふて 心も、それは叶はぬ。又撫る人も何所が痛いのか、全くそれを知らぬ人は、止むを得ず頭の尖から 時脚根までを撫り、撫って居る間には、何処か痛み所に触れると思ふであらう。併し撫られた人は果 にして之を喜ぶであらうか。否な要らぬ所までも撫られて、迷惑を感ずることは明である。逆境に陥 逆った人が、他人の同情を受けたいと望んでも、何の点が苦痛であるか、他人に之を知らしめなけれ 章 ば、到底同情の手は苦痛の点に届かぬであらう。恰も靴を隔てゝ痒い所を掻くと異ならぬ。されば 5 十 2 第 とて乞食根性を発揮して、こゝが痛い、彼所が苦しい、と訴へることも出来ぬ。
にも、有益な学問となることが沢山ある。例へば友人から来た内外国の端書でも、其写真と其土地 2 の模様歴史などを記したものを読めば、それが其儘地理歴史の有益な材料となり、頭脳に深く染み 修込むのである。談笑の間でも食事の折でもよい、此等の散った知識を集める様にしたい。処が世人 は「実際はさうかも知らぬが、書物にはかう出て居る」と云って書物のみを信じて、折角得られる 大切な知識を看過するものが多い。それ故世人は書物と実際生活 (Actual life) とを結び付けるこ とが出来ぬ。読書人は実際社会の事情に迂となり、実務家は書籍と遠ざかる。英米の学問が実地的 であり、学問が実際と結び着けられてあると云ふのは、かう云ふ知識を利用する為であると思ふ。 書物にばかりよらずに、も少し耳の学問もして欲しい。かうすれば書物を読むでも面白くなる。読 書抔云ふことは、義理では能く読まれるものでない。趣味を有って面自く読まなければ役に立た ぬ。面白く読むことが出来ればその進歩も又著しい。 懇意なる人々間の読書会 学生に対して希望したいことがモ一ッある。即ちお互に相集って読書会を開くことである。余り 多人数では不可ぬ。二十人ではもう多過る。十人位が適当。毎月二三回位集まって、各自が平生読 んだ書物の梗概を談話する。一人は一冊しか通読しないとしても、各自がその読んだことを報告す るから、十冊を読だと同様なる結果の知識が得られる。而して若し他人の報告を聞いて、自分の研 究に関係があり相なれば「其書物にはこんな事はなかったか」と聞く。「少しも無った」とか、又
修 羨の情は心の狭少より起る のびのび 他人を羨むことは、心の狭少より起るから、之を除くには心を暢々させ、人に及ばす善は、自分 にも亦善であることを思ひ知るにカめるがよいと思ふ。経済学の幼稚な時代には、甲が益する商売 は乙の損であると信じ、外国貿易も対手の両国が同時に得するものであるといふ考は未だ起らなか った。例へば米屋が魚屋から、魚を買ふには、金を持って行くが、その金は、米屋が魚屋其他の人 に米を売って、受取ったものである。故に金をもって行くものの、つまり米屋は魚屋から、米で魚 を買ふと、同じ様なものである。米屋は米を魚と交換し、魚屋は魚を米と代へるのである。此場合 に、米屋と魚屋とは何れが損得するかといふに、何れも損をせぬ。仮りに何れかが損するとすれ ば、互に交換せぬであらう。益があると思へばこそ、換へるのである。人の交際も亦斯の如きもの で、多数の人々と交って居る間には自分の覚えて居ることを他人に教へ、自分の知らぬことを他人 から教へられる。知識は他人に与へても、決して減るものでなく、其交換は物品の交換と同じく、 相互の利益となるものである。人情の交換も亦之と異ふことなく、自分の喜びを人に頒っても、自 分の喜は決して減らぬ。又人の嬉しがって居るのを、共に笑ひ興じても、決して自分の損となら ぬ。然るに経済学にも迷信があった如く、人情の交換にも亦此迷信が残って居る。人が得をしたと いへば、自分は損した如く思ひ、人が金を儲くれば、自分のを取られた様に感じ、人が名誉を得れ ば、自分は侮辱を受けた如く思ひ、人が新しいことを覚えると、自分の知識を削取られた如く感 けづりと 242
ぎぬのであるが、如何にも子孫の為に美田を買はれなかったらしい。公はかく国家の為に尽された にしても、其子孫が他人の世話になる様な醜態を遺されなかった。子孫は富貴栄華を専らにされる とは聞かぬが、国家の為に子孫を乞食にするが如きことはなかった。然るに之に反し近頃屡々広告 欄抔にも現はれる、遺子の為に教育費を募るといはれる人々は、果して生前にどれ程国家の為に竭 くし、又何の位の金を国家の為に費されたかと尋れば、疑はしい事が度々聞ゆる。却て斯る人は贅 さかもり 沢や、酒宴等に濫費した者に多い様にも思はれ、同情を表せんとしても、表されなくなる事もあ 元来日本人は何かにつけて、「国家」を持ち出すことが多過ぎる。金儲けする人も国家の為に儲 けるといひ、損した人は国家の為に犠牲になったといふ。遺族が他人の世話になり、友人から金を 貰受けるのも、国家の為に尽した結果として他人の厄介になり、又は金を貰ふ権利あるかの如く思 ふて居る。乱世の時代に、軍人であれば或は斯ることも有勝ちなことゝ、恕すべき点なきにしもあ らぬが、併し其時其人にしても尚家名を辱めぬだけの準備をして置ねばならぬものであると思ふ。 一時吝嗇といはれることを不快とし、其場かぎりパット花やかにし、彼は金に慾がない、サッパリ 蓄 して居るといふ追従の言を喜び、而して第二代になって他人に迷惑をかけ、一家の恥を暴らすは、 貯先見の明なき極みである。真に志ある人の為すべきことでない。或は死ぬまでゝなくとも、長い間 璋病気に罹り、昨日までも大きな口をきいて居たものが、今日は如何してかうなったのだらうと思ふ 第 と、僕は其人に対する同情が去って却て可笑しくなることが屡々ある。 19 ノ
からんことを求めるのとは異ふ。名を売らんとする観念は此中には含まれて居らぬ。このことは名 誉心、功名心即ち名根以外に関係する所広く、面白い問題であるが、今は其機会でないから、折を 見て愚説を述べ世の教を乞ひたいと思ふ。 二名誉心に駆らるゝ卑劣手段 次に名誉を求むる者は自分の名誉を高める手段として、他人の名誉を下げんとする。高下は比較 的の言葉である。自己を高くしなくとも、他人を下げれば、自分も亦自然に高くなったと同じ結果 を生ずる。又自分が堕落しても、他人がもう一層烈しく堕落すれば、自分は比較的に尚高い位地に居 ると同じ結果となる。故に名誉の高きを求むる人は、成るべく他の名誉を下げることにカめる。僕 等が毎日逢ふ人々より、種々な厭味を聞かされ、他人の欠点を吹聴されるのも、大概此目的に出る のである。直接に吾人に関係のない人の棚卸をするかと思ふと、それは十中の八九まで、自分の名 隱誉を上げんとするに起るのである。僕は曾てかういふ談話を聞いたことがある。某といふ人が、或 人の許に行き云々の位地を求めたいことを頼み、而して既に其位地に居る人が、色々よくない評判 にがあるとか、何時までもあの人を置くと、貴下にまで迷惑を及ほすことがあるかも知れぬとかいふ 名て、現任者を非難し、その人を解任して、自分を後釜に据ゑて貰ふことを暗に諷した。或人は静に 七之を聴いて居たが、成程、あの人も大した適任者でないかも知れぬが、併し君の様に妄に人を讒謗 / 第 せぬ丈け上品だ。他にあの人以上のものがあれば格別、さもなければ、当分あの儘にして置きた たなおろし
用の様で、その存在の理由は学術上まだ明瞭でなく、学者も今これが研究の最中である。それと同 じく我々は何故にこんな辛い目に逢ふのであらうと思ひ、而して其理由は之を解しがたくとも、こ れには何かの使命が含まれて居ると信ずれば、良く行かなくとも好奇心となり、旨く行けば信仰と なり、而して辛酸に対し堪へ忍ぶ力を養成することが出来る。 三逆境に処する態度 「濡れた毛布」の如き人 如何なることも、他人の言は総て之を悪意に解釈し、僻んで之を聞き、仮令人が親切の行為をし ても、其温き心を酌みとることが出来す、却って冷笑を以て迎へるものがある。かゝる人を見る と、世人は厭な人だといって避け嫌ふ。丁度ファウスト物語にあるメフィスト的の人である。女子 供が見ても、何となく薄気味わるく感じ、西洋人のいふ濡れた毛布 (Wet blanket. ) の如く、折角 の 時 の希望娯楽を挫き、今まで団欒して、楽しく語り合はして居た談話も、斯る人が入ると共に談話の あ 腰が折れ、一座がしらけ、一人去り二人去り、何時しか賑であった人々も、自然に去ってその席が 境 逆寂しくなる。 + 斯る人は如何してこんなになったのであるか。勿論先天的の性質によるものも沢山あるが、子供 3 2 第 の頃から逆境に育ち、性質が曲って、いこぢとなったものが多い。普通なれば亭々として真直に伸
視するを得難いものゝ様に思はれる。 英雄も聖人も悪口を気にかける 曾て故児玉大将が生存中、僕は一タ大将を其邸に訪ねたことがある。折柄外出より帰った大将 は、「大層お待たせした」と挨拶し、「イヤハヤ、どうも元老の爺連がお互に悪口言ひ合ふを調和 するは、一方ならぬ骨折だ。今日も一日かゝって、そんな骨折をやって来た」と歎ぜられた。僕は 「悪口って、どんなことをいはれるのです」「どんなことって、まるで裏長屋の婆が井戸端でグヅ るのと異ったことはないさ」「併し天下を預る英雄にはそんなこともありますまい」「英雄は英雄 でも、豪傑は豪傑でも、俺のことをこんなこと言うた、怪しからぬ奴だ、あんなことをいうたが不 都合だと互に陰ロきいたのを怨む様にコソ / \ と他人の悪口をいふ様は、毫も裏屋の婆と異ふこと はない」といはれたが、磊落にして世評などに無頓着を衒ふ豪傑にしても、尚且っ斯かる人が多 度 。況んや普通の凡人に於ては尚更である。又僕は曾て次の如きことを読んだことである。ソクラ 態 テスは容貌の醜い人で、世人が彼を誹謗する時は、必ず此点を指摘した。併し彼自身も容貌など には、どうでもよいと思ふため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分も亦其仲間に加はり、 謗 譏一緒に笑ひ、己の眼の飛び出してゐるは、四方八方をよく見る為であり、鼻の天井を向いてゐる 七は、他人の嗅げないものを嗅ぐ為であると磊落に笑ひ流してゐたが、其死せんとするに当り、ヘム 3 第 ロックの杯を取りながら「愈々俺が死んだなら、最早俺の容貎の醜きを笑ふ人もあるまい」と一言
警 自 歩を進めて、裏面あるのに、なきが如くして対手を欺くの意志あれば、悪い意味に於ける表裏の罪 の成立する時である。 併しその当人が果して欺く意志であるかどうかは容易に判断の出来るものでない。兎角我々が思 はぬことを聞いたり見たりすると、一時案外の驚きに打たれて、その人が故意に我を欺けりと判断 することがある。然るに冷静に之を考ふると、欺かんとする意志があったのでなく、却って我々の ことさ 全く知らなかったことが落度で、彼は故らに隠しもせねば包んでもゐなかったが、吾人がそれを発 見しなかったのが、我々の不注意であるといふことが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎ してゐるものもある。着てゐる人は裏につぎはぎしてゐると吹聴することもなく、又他人にさう思 はせようともカめず、自分の着物の裏は間に合せものである。恐らく他人も知ってゐるだらう位に 思ひ流してゐるのである。然るに彼があまりに平気である為に、見る人は定めしあの人だから表に 優る裏をつけてゐるだらうと推量し、殊更尋ねもせずに独り合点して居る間に、真相を始めて見 て、彼は長日月間我々を欺いた、表裏の甚だしい奴だと詈る者を多く見る。先方が欺いたのでな く、当方が不注意の為に知らなかったに過ぎぬ。故に一口に云へば悪い意味に於ける裏面の有無を 判断する者は当事者一人といふべく、他人は容易に之を断定し得るものではない。近頃世間に海軍 とやら本願寺とやら何々党とやらに関して、種々面白からざる表裏話を聞くが、罪は悪むべきも、 其関係者の人に就いては、慈悲の心を以て当り度い。況や吾人は平素交はる人々に就いて、図らざ る事を見、予期せざる事を聞くこと少くない。其都度友人の心事や性格を疑ふ如きは不見識の甚だ 536