修養 - みる会図書館


検索対象: 新渡戸稲造全集 第七巻
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1. 新渡戸稲造全集 第七巻

次 目 三黙思の効力 : ・ 悲哀の感を養成せよーーー蝗虫に就ての僕の実例ーーー外部の事実では動機は分らぬ 仕事貴きにあらず動機貴きなりーー仕事の前には動機を黙思せよ 第十五章暑中の修養 姉崎博士の「平凡の教訓」 炎熱を利用した精神修養ーーー水泳より得たる余の 修養実験ーー夏は精神の休養期ーー休養中に必要なる注意 第十六章暑中休暇後の修養・ 暑中休暇後の三修養ーー一、我国民は集中力に乏しいーー集中力修養の三法ーー 一一、新しき決心の確立 , ーー・予定計画は決心に刺戟を与ふーーー三ケ年の予定計画を 実行せし西洋人ーー一一一、物事を善用する習慣ーー・善事も濫用すれば危険ーー・健康 の濫用と集中力の養成 第十七章迎年の準備 夢の如く過さるゝ一生ーーー新年は心を改め己を新にする好機ーー年末には一年の 日記を繰返し見よーー一年中の恩人に対する回顧ーー過去の悪かりしことを顧よ 新年にカむべき心懸ーー・決心したことは之を友人に告げよーーー知識の貯蓄を 増すことも必要 : 三九一 三六九 : 三六 0 9

2. 新渡戸稲造全集 第七巻

故にこの間に、肉体の活力を涵養すると共に、精神の持ち方を心懸ることが必要である。 6 一日を海浜に送り、肉体の健康を養ふと共に、快活なる大洋を見ては、偉大の思想を起し、晴天 3 修の夜、星斗の爛干として輝けるを見ては、天空の宏大なるを身に沁々と感じ、はた又海水に游泳す るにしても、直接間接に精神修養の資料とする心がけさへあれば、如何なる事柄よりも教訓を受け られる。小説や新聞の三面記事の如きは、之を読む男女間に面白からぬ関係を生じ易く、折角保養 せんとして行った温泉場も、却って健康を害する様なことは、間々見聞することである。併し此等 の弊害とても、心懸一つでは、之を避けて利益のみを収め得られるであらう。 休養中に必要なる注意 此等の不健康を避け、面白からぬ関係の発生を防ぐには、必らずしも大なる決心、大なる覚悟を 要するものでない。人間が日々の生活上に出逢ふ事、又之に当ってやることは、偉大なことでな く、却て些細なことである。従て之を行ふには、大々的決心と称する如きものはなくとも足りる。 寧ろ片手間仕事としてやられることである。例へば男女間の関係が深くなり過ぎ、今まで友人とし て居たものが、友人以上ーーそれとも友人以下 ? とならうとした時に、マテ /. 、これではよく 十 / .0 と自ら制して止める。又温泉場で隣室の人々と語り合ふにしても、最初は極めて真面目であ つれづれ ったものが、何時とはなく徒然なるまゝに懇意となり、戯談の一つも口にするやうになる。この時 にマテ ~ 、と考へて、自ら控へるのである。斯うして関係の深くなり、又は戯談でも言ふ様になら

3. 新渡戸稲造全集 第七巻

総説 修養とは何を意味する 修養とは読んで字の如く、修め養ふと書いてあるから、これだけにて、既に意味が解って居る ただ と、思ふ人もあらうが、然らば修めるとは何を修め、養ふとは何を養ふのかと、目的を質したなら ば、折角解ったと思ふことも、或は案外面倒な問題になりはせぬか。 どう 僕の見る所によれば、修むるとは身を修むる意であらうと思ふ。古来かゝる字句があったか否か ことば を知らぬが、普通にいひ伝ふる言としては、恐らくは大学に本づくのであらう。然らば身を修むる あきらか とは何を意味するのであるか。大学に「古の明徳を天下に明にせんと欲する者は、先づ其国を治 ととの む、其国を治めんと欲する者は、先づ其家を斉ふ。其家を斉へんと欲する者は、先づ其身を修む、 其身を修めんと欲する者は、先づ其心を正しくす、其心を正しくせんと欲する者は、先づ其意を誠 説にす、其意を誠にせんと欲する者は、先づその知るを致す、知るを致すは物にるにあり」とあ 、又「天子より以て庶人に至るまで一に是れ皆、身を修むるを以て本となす」とあり、治国、斉 家、修身と列挙せることより見るも、自己が其意志の力により、自己の一身を支配することである 悲つかく いにしへ まこと

4. 新渡戸稲造全集 第七巻

生に一度あるか、二度あるかに過ぎぬ。恐らくは三百六十五日中に、三百六十四日間は分りきった 4 平凡な問題で、世渡りするのである。従ってこの分り切った事柄に就て、精神を修養するがよいと 3 修思ふ。 夏は精神の休養期 夏季は人生の最も平静な時季である。殊に本年 ( 四十二年 ) は世界に事なく、天下は泰平であ る。経済界が不景気のために、商人も大した用務がない。学生は休暇である。斯かる閑暇の時期を 利用して、肉体的活力を涵養するは、最も適当であると同時に、精神を休養することも、亦此間に 大に励むべきであると思ふ。 休養と云ふと世間には使用せずに只打棄てゝ置くことの如く解するものがある。これは日本人ば かりでなく、東洋に来る欧米人中にも、亦かゝる思想を懐ける傾向がある。東洋に来た欧米人中に は、欧米の道徳を棄て放埒となり、本国に居た時とは全く異ふた生活を送るものがある。彼等は之 を称して道念の休養といふて居る。是はもとより一場の戯談であるが、休養とは斯く総てを打棄 て、何事をもせぬことでなく、変化を与へることであると思ふ。今までやって居たことを変へ、考 へて居たことを改め、以て心身の疲労を慰することである。昔時グラッドストーンが七十年の高齢 かくしやく に達しても、钁鑠として元気が旺盛であったので、或人が翁に「どうしてそんなに御元気ですか」 と問ふた時、翁は「爰に二頭の馬がある。仮りに甲は毎日毎日平地ばかり往来して居るが、乙は嶮

5. 新渡戸稲造全集 第七巻

る。苟くも教訓を得んとする心懸さへあれば、世上の如何なる些事からでも、教訓の受けられぬこ とはない。或学者の言に「真理そのものよりも、真理を究めんとせる心懸が大切なり」とあるが、 修真に名言である。 近頃暑中休暇を利用して、各地を旅行する学生が多い。これらの学生から寄越した手紙を見る と、地方をプラ / 、歩いて、何等の得る所なきが如き所でも、御注意に従ひ、如何なる事柄からで も、教訓を得んと心がけて居た為に、何事を見ても、それから利益を得たといふて、喜んで来たも のが多い。故に何事からでも、教訓を得んとする心がけがあれば、老若男女を問はす、必らず得る 所がある。 炎熱を利用した精神修養 世間の人は、能く夏は熱いから、堅苦しいことは出来ぬ。柔い面白可笑いことでなければ、出来 ぬなどといふものがある。併し心の用ゐ方一つによりては、三伏の炎熱にも、此熱さを利用して、 精神の修養が出来得るものと思ふ。夏は熱いから修養されぬといふのは、修養の心がけがないから である。修養の心がけがなければ、夏のみならす、冬は寒いから修養されぬといふであらう。今日 の東北地方の発達が、尚ほ他の地方に比べて遙に後れて居るのは、気候の為であるといふものがあ るが、気候と修養とは、夫ほど深い関係のあるものでない。これは寧ろ、修養の心がけが足らぬか らであると思ふ。人間は多少気侯に制せらるゝこともあるが、又気候に制せられぬ所に、人間とし 370

6. 新渡戸稲造全集 第七巻

次 目 発心は易く継続は難いー立志の効を全うするは日々の実行ーーー疑が起っても益 益進め 一一決心継続の修養法 : ・ 発心の継続には発心を記憶せよーー「こゝだな」といふ観念ーーー小事の間に大原 則が含まれるーー継続で臆病者が大胆となった 一事に通ずれば万事に適用さ るーーー継続心修養としての冷水浴 , ーー鼻洗も亦継続心修養の一法ーー克己に過ぎ て精力を消費すなーー小事も原則応用の積でやれば興味多し 三継続心を妨ぐる外部の事情・ : 決心の継続心を妨ぐる三外囚ーー一、継続心を妨害する二種の反対ーー打明けて 頼めば反対者も同情するーー一一、生活状態の変化による継続心の妨害ーーー年限を 定めて継続するも一法ーーー継続の精神を失ふなかれーー三、皮肉の嘲笑も決心を 鈍らすーー嘲笑の妨害者は擲ぐるの外なし 第五章勇気の修養・ : 勇気は最も修養に容易なりーー勇気の修養に必要な心得ーー恐怖に対する勇気の 修養ー - ー・困難に対する勇気の修養・ーー・苦痛に対する勇気の修養ーー勇気を鼓吹す る読書のカーーー他と比較して勇気を得る法ーー・勇気は如何にして練習すべきか 沈勇は如何にして得べきか 第六章克己の工夫 : ・ 一克己の意味・ : 克己の「克は何を意味するかーー克己に初段と上段との別ありー・抑制は青年 時代に最も大切 ・一 00 3

7. 新渡戸稲造全集 第七巻

的とするので、一躍して英雄豪傑の振舞をなし、六ヶしい事、世の喝采を受ける事を目的とせぬ。 養 功名富貴は修養の目的とすべきものでない、自ら省みて屑しとし、如何に貧乏しても、心の中には 修満足し、如何に誹謗を受けても、自ら楽み、如何に逆境に陥っても、其中に幸福を感じ、感謝の念 を以て世を渡らうとする。それが、僕のに説かんとする修養法の目的である。 もっと 佐藤一斎翁の言に「凡そ活物は養はざれば死す、心は則ち我に在るの一大活物なり。尤も以て養 はざる可からず。之を養ふは奈何。理義の外別方なきのみ」とある。身を養ふの食物は、日々に三 度要する如く、理義の営養物も間断なく之を用ゐるの要あることは、少しなりとも此事に経験ある 者の、よく知れることである。日々刻々の修養は、之を為して居る間は、左程にも思はぬが、それ が段々集り積ると、立派な人物を築き上げる。始めは苦しがりながら、修養に勤めても、慣れて来 ると修養が身の肉となり骨となり、凡人と異なる所の人となる。厭や / \ 坐禅を勤めてゐる間は、 未製の上人であるがそれを行り遂げた精製の上人は実に見上げた者である。 せぬ時の坐禅を人のしるならば なにか仏の道へだつらん 修養説の将来 近頃修養々々と呼ぶ声が大分世間に響き渡り、殆んど一の流行語の如くなったに就て、僕の懸念 することは、今後の成行である。抑々我邦の思想界は大概十ケ年毎に一変する様に思はるゝから、 しゃうにん いさぎよ 0 3

8. 新渡戸稲造全集 第七巻

次 目 修養目次 総説 : ・ 修養とは何を意味するーー・修養に対する誤解ーー実践道徳に必要なるは平凡の務 ー・修養ある人とない人との相違ーー日露戦争に斃れた両志士ーー・平凡の事は平 凡の修養に成るーーー修養説の将来 第一章青年の特性・ : 一青年の第一特性・ : 「青年」の意義ーー「年を取る」とは何を意味するかーー人物の価値を定むる標 準ーー希望抱負に富める者が青年ーー老若は為すべき事業の多少で定まる 二青年の第二特性・ : 日本の若者は余りに老人ぶるー・子供らしきは果して悪きかー青年は不必要な る知識に食傷するな 三青年の第三特性 : ・ 青年は淡泊なれーーー淡泊を無礼と誤解する勿れ 四青年の第四特性・ : 青年は元気を貯蓄せよーー・怖るべき元気の濫用ー大に暢びる青年は元気を貯蓄 す ・ : 四四

9. 新渡戸稲造全集 第七巻

今日世に行はるゝ修養説も十年後には如何に受取らるゝであらうか、大に考ふべき問題である。是 れに就て僕は今後三つの傾向の起らんことを思ふ。即ち一は反動、二は知行の分離、三は宗教心の 発揮。 第一の反動とは余の事でもないが、兎角修養の要求する細瑾は、豪傑肌の者の容易に耐へぬ所で あるから、折さへあれば之に反抗したがるは当然のことである。然るに修養論の盛んな間は、少し 斗りの反対は利き目がないが、流行もチト下た火に傾きかければ、曾て口に修養を唱へた者にし て、偶々蹉躓づきでもした者があれば、得たりかしこしと、其の人を責むる方法として、彼の標榜 せる主張を攻撃し、延いて修養抔は窮屈で「切るが如く、瑳くが如く、琢つが如く、磨くが如し」 と云ふやうに、頗る人為的小刀細工で、且っ甚だ不自然である。由って修養は人を縮めるばかりで かくのごとき あると、論ずる声が必らず、相当に優勢になるであらうと信ずる。シテ如斯議論の結果が、果し いはゆる て伸び / 、とした大人物を作り得れば結構だが、僕は寧ろ、所謂自然主義的人物を出だすに至りは せぬかを恐れる。 第二の傾向は知行の分離と云ったが、これ丈けでは僕の意を尽さぬ、少し説明をする必要があ る。一体修養と云へば個人の人格の向上を旨とし、即ち孟子の所謂心の大を養ふが主眼であるは論 説を俟たぬが、一方には養はれたる精神が実行に現はれ、即ち身を修むるに至るに重きを置くから、 修養の工夫は実際的、且っ具体的である。所が、実際的且っ具体的なるものは、学理や思想の立場 から見れば、第二義に属するものであるから、何となく浅薄なるかの観を呈する。そこで、所謂思 ばか けつま など みが

10. 新渡戸稲造全集 第七巻

修第五章勇気の修養 勇気は最も修養に容易也 勇気は徳の中でも甚だ解り易いもので、如何なる野蛮人でも、恐らくは動物でも解し得る徳の一 である。殊に同じく勇気と称しても、所謂匹夫の勇即ち英語で Physical courage ( 物質的勇 ) と称 するものゝ如きは、子供にも感心されるものであるだけに、又たその修養法も至って容易であると 思はれる。勿論ナポレオンが千軍万馬の間に戦闘した様な勇気は誰にでも出来るとは云はれぬが、 又普通一般の人々が、さう云ふ勇気を修養する必要がないとしても、或程度までの勇気は誰れにで も修養され、又することが必要であると信ずる。斯くは云ふものゝ、僕は決して匹夫の勇気のみを 賞める考はない。所謂大勇は道徳的勇であって、之が修養は一方ならぬ鍛錬を要する。如何となれ ば大勇は複雑した性質なもので、例へば礼とか義とかを篤と心得ねば、解し難いものである。論語 に「君子勇ありて義なければ乱を為す、小人勇ありて義なければ盗を為す」又「君子は勇にして礼 なき者を悪む」抔とあって、物質的勇に偏せる匹夫の勇を排してある。孔子の有名なる言に「義を 見て為ざるは勇なき也」とあるを味はヘば、勇とは義を見て為すの意であると思ふ。真の勇は徳義 とく 112