第一の方法は、かくも己のことを悪口する奴は如何なる人であるか。彼は取るに足らぬ愚物であ やつばら る、又は何か為にする所ある悪党である、何れにしても対手とするに足らぬ奴原であると、自分を 高ふして対手を見下げるのである。此方法は世上によく行ふ人がある。殊に豪傑肌の人は、燕雀何 ぞ鵬鴻の志を知らんやとか をどりはね庭に餌ひらう小雀の いかでか鷲の住家しるらん 抔といって、対手を見下げて、聊か自ら慰めるのである。 是は名誉を毀損された場合に処する一法たるを失はぬが、最上の方法とは思はれぬ。而も此方法 は消極的である。対手の人は愚物なり、度すべからざるものなりと見くびるは容易い。兎角我々凡 人は癪に障る様なことがあると、かゝる考を起し易い。是れは所謂、短を以て短を攻め、頑を以て 頑を済さしむるのである。単に対手を見くびるのみに止る間は、左程己を害することなく、又対手 を害さぬから恕すべきであるが、論理的に一歩を進めて之を考ふる時は、かゝる悪人は之を捨て置 すくと、世を害するから、社会公益の為め懲してやらうとか、天誅を加ふるとか、いふことになり、 対 不穏の挙動に終ることがある。其結果は更に怖るべきことがないとも限らぬ。是は名誉を毀損され 名た時に自ら慰むる一法であるが、恐らく最も劣等なものであると信する。 章 七 第 Z79
も継続して、ミッシリやったなら、必らず青くなって倒れるものがあるであらう。 是は我々日本人の食物が大に関係すると思ふ。菜食する人々に、長い間継続して其精力を集中さ せることは無理かも知れぬ。併し食物のみが人の集中力を養ふものでなく、相当な方法で鍛錬した ならば、多少は之を増加し得ると思ふ。以下僕の実験に照らして其方法を述べる。 集中力修養の三法 第一は「又きたな」と思ふ修養法である。読書の時、他の事柄は一切思はずに、全力を書物中の ことにのみ注いで、考へることは、集中力を養ふ一法である。是は直接の方法であるが、相当に効 果があると思ふ。 僕は此点に就て多少試験したことがある。学生に就て之を見るに、一時間ミッシリと書物を精読 し、其間少しも他の念を交へぬといふものは、極めて稀である。大抵は一時間以内で疲れてしま 修ふ。又僕自身の実験に照らすと、頭脳が最も快く、気分の最も爽快な時、四時間継続して、ギッシ 後 リ書物に向ふたことがある。是は頭脳の頗るよかった時で、いはゞ極度に良好な場合である。以て 中一般の例とすることが出来ぬ。普通は恥しいが二時間位である。 暑 読書してゐると、書物以外の事柄が、フワ / 、と浮いて来る。晴天に一片の雲翳が影すると同じ 章 わ様である。故に若し読書中、他の考が浮いたなら「又来たな」と之を除くことにカめる。斯くして 第 書物以外の念は、之を駆除することにカむるときは、自然に思想が書物に集中することとなり、 381
前述の如く抽象的であるから、未熟の頭脳には入り悪い。偶々這入れば自分を省みるより他人を責 むる道具となる。 訓戒の値打を知る法 そこで僕は始終思ふに、個人の訓戒を実際に施すには、其の抽象的教訓を具体的に翻訳しなけれ ばならぬ。此の翻訳をするには、一つには伝記を読んで、何某がどういふ誤りをして、どういふ結 果に陥った、而して如何なる法によって、取返しをしたかを知るが一つ。又一つには年輩も境遇も 同じ様な親友と互に真情を打ち開けて、俺はかういふことをした、或はかういふ悪い考へが浮かん で困ると語り合ひ、又友人の実験を聞いて、実際の人生に如何なる誘惑のあるものか、自ら知らぬ 経験を具体的に他人から聞き糺すも一つの法であらうし、又自ら退いて想像して、己が斯くの如き 場合に陥ったならば、如何に身を処するかを、考へるも亦一法であると思ふ。 僕が今最後に述べた事は、子供らしい方法で、世間の物笑ひになるか知らぬが、少くとも僕の如 き平凡なる青年には頗る役に立った方法である。例へば今に記憶に残って居ることも少くないが、 十五六の頃一人で想像して、若し俺が斯く / 、の困難に陥入った時は、自分はどうしよう、若し俺 の誘惑にさそはれた時には、 ) カうしようと夢みる如くに描いた仮定が、その後屡々役に 立った。今後も役に立つであらうと信ずる。事に当って惑ふ時も苦しむ時も一寸一歩退いて「ハ ア之れは何時ぞや夢に見たかう云う場合に当て箝まる、其の時にはかうしようと思ったが、今日そ 608
年限を定めて継続するも一法 修この障害を予防する方法は種々あるであらう。或事を行ふとか、行はぬとかいふ様に志を立てた とて、必すしも生涯之を継続して行ふものとせなくともよいと思ふ。一定の年限を設けて其間だけ 行ひ、其後は又如何様にか、適宜に定めるのも一方法である。明治九年札幌に農学校が出来た時、 クラーク先生は学生に飲酒、喫煙、賭博、この三者を禁止する誓をさせられたことがある。誓文を 読み、且っ二人の保証人を要し、頗る厳粛なものであった。この禁止は在学中だけに関することで ある。卒業後の飲酒、喫煙に干渉する所はなかったから、其効果は薄い様に思はれるけれども、実 際は頗る有益であった。青年が学校に在る間は最も大切な時で、習ひ性となるのは此時代の修練に 待つのである。この時代に厳重な制限を受けたならば、其一生を通じて必らず多大の効果あるに違 ない。現に僕等と同窓の間には、今日も尚この禁条を行ふて居るものが沢山ある。 一定の年限を定めるには種々の方法がある。母が生きて居る間は、何々を行ふまいとか、子供が 何歳になるまでは、何事を為ようとかいふ様にすれば、継続も行ひ易くなり、且っ其間に楽みがあ る。或は其様なことは子供らしい、と笑ふものがあるかも知れぬ。成る程一生涯を限って継続を決 心し、且っ実行すれば立派である。然しそれでは、前途が余りに長いので、凡人は其間に飽きるこ とがある。寧ろ年限を定めて何年とか、何々の事までといふ様にすれば、行ふに容易いかと思ふ。 年限を設けたにもせよ、兎も角一旦決心したことを、其年限の間継続したなら、継続の習慣が養 いくっ
することは出来やう。例へば風邪に冒され悪寒がする時、布団に包まれ、暖くなって居れば、病勢 2 は何時しか多少軽快となる。悪寒は風邪の結果である、結果を彼是れ注意したとて、効果もなささ うに思はれるが、少くともこれを弱め、更に溯っては其原因を弱小ならしむる効がある」と云ふた ことがある。新約全書に「もし右の眼なんちを罪に陥さば抉出して之を棄てよ、もしなんぢの右の 手なんちを罪に陥さば、之を断て棄てよ」云々とあるのも、眼や手が罪を犯すに非ずして、之等は 罪を犯す心の道具となり、云はゞ、犯罪的意志の結果であるから、眼を抉出し、手を断ったとて、 心が悔改めぬ間は何の効もない筈なるが、矢張実際は果より因に及ばすことも出来る。故に克己の 手段として、第一位の原因を除くにカむることは必要であるが、同時に又結果として現はれた方面 より、之を除き又は弱くすることも、有力なる手段であると思ふ。 三克己心の修養 克己心の修養は卑劣の方法を容さぬ 次に克己するには如何なる方法を用ふべきか。克ちさへすれば如何に卑劣な方法を用ゐても差 支ないか。べース・ボールを戦ひ、競争をするに只克ちさへすればよい、其方法の如何を顧みる必 要がないといふ人がある。又酒の嗜きな人が酒を禁ぜんとして、酒よりも害の多い方法、例へば阿 片を喫用する様なことは、西洋に乏しとせぬ。斯くては一の害に克って、更に烈しい他の害に陥 きり さむけ えぐりだ
四逆境の善用 逆境の善用とは何か 大抵の人は必らず逆境に陥るものである。而して一たび逆境に陥ったものは、動もすれば其精神 上に、前に挙げた六ヶ条の影響を受け易い。それでは、逆境は之を避け或は之を除くべきかといふ に、僕は寧ろ之を善用したい。 逆境に陥ったならば、逆境其ものを善用して、我精神の修養に供するが宜い。例へば夏の日のな たたす らひとして、空俄に掻き曇り驟雨、沛然として降りそゝぎ、雨具さへ持たぬ身の、暫時木陰に彳む ふるやしろ か、又は道のほとりにある古社の廂に、晴るゝを待つも一法であるが、又之に反し雨降らば降れ、風 吹かば吹け、身はひた濡にぬれながらも、行く所まで行くといふ覚悟で、雨にり風に打たれても 得 心進み、雲霽れ日耀き、濡れた衣が自然に乾いて、旧態に復するを待っといふも亦一法である。僕は 時 逆境に陥ったならば、之を避け之を防ぐことを悪いとは思はぬが、必らずしも宜いとも思はぬ。善 る あ 悪は全く動機と方法に在る。卑怯な心から逃れんとするか、或は禍を他人に被ぶせんとするが如き 境 逆は、無論我々の取るべきことではない。僕は寧ろ飽までも逆境に堪へ忍び、終には逆境そのものよ 章 り、或修業を求める様にしたい。僕のいふ逆境の善用とは即ち此意味である。菜根譚に「天の機緘 十 第 は測られす、抑へて伸べ、伸べて抑ふ。皆是れ英雄を翻弄し、豪傑を顛倒する処、君子は只是れ逆 にはか きしん 271 , スをうらむを - い
第六章克己の工夫 行する気になる。 要するに如何なることでもよい、少し厭なことと思ふ位のことなれば、ぶつかり次第に行り、而 して之に依て修養を積むのである。時に或は危険なこともあらうが、其及ばす所の利益は一局部に 止まらぬ。例へば剣術を習ふ人は棒を下げて、之を敵と仮設して打込むことを稽古する。対手は一 本の棒に過ぎぬけれども、之によりて手腕を練って置くと、不時の場合に立派に応用される。以上 に個条を挙げて述べたことも亦同一である。其一に通ずれば他の方面にも応用することが出来る。 故に一ヶ条づつでもよい、手に当ったことから着手するが便利である。 或はこんな細なことに注意して居ては生命が短くなる。人間がのんびりせぬといふものがある。 併し他に容易なる方法で、克己しながら、気ののんびりし得ることがあるや。若しあれば、最も便 利であるが、恐らくあるまいと思ふ。気の忙はしい人がゆったりしたり、怒り易き人が怒らぬ人に なり得る方法が、上述の方法以外にあればよいが、僕は不幸にして未だ適当な方法を知らぬ。仮に なか ありとするも、我々凡夫は未だ夫を採用する迄に進歩して居らぬ。矢張り「勿れ」といふ教訓で進 むのが習ひ始めの順序であらう。 大事に処する道は小事の修養にあり 日頃の心がけさへあれば、大事に際しても自若として居られる。僕の知ってゐる老人が、物の喰 5 ひだめと、心配のしだめとは役に立たぬといふたことがある。まことに金言であると思ふ。如何に
時間しか堪へられぬものが、二時間位までに進めることが出来ると思ふ。 2 養 第二に黙思は前者の如く直接の修養方法でないが、亦同じく集中力を養ふ力がある。前にも既に 3 修述べた如く、黙思は静座して思考するのであるから、仮令肉眼は之を閉ぢて万物を見ないけれど、 心の中には万物が描き出される。之に反し前項に説いた読書は、眼前に書物を置き、眼は夫に向け られ、心も亦多くは書物に向ふて居る。書物以外の念が浮ぶとしても、黙思の如く、全く何物を見 ない場合に比すれば、著しく少い。故に黙思は読書よりも、集中力を養ふに困難である。が併し困 難とはいひながら、平生之を心にかけ、若し髣赤として眼前に浮び出した幾筋の魂の糸があったな ら、之を一に束ね、散乱した精神を一に帰するに努めたなら、集中力が追々に養成される。 第三に或種類の習慣を養成することも、亦集中力を強からしむる一法である。是は余り機械的 で、子供らしいと笑ふものがあるかも知れぬが、僕は一法として之を青年に薦めたい。例へば写字 をすることなども、よくはあるまいか。今日印刷術が進歩したから、殊更に写字する必要はない が、写字をすれば其間精神が落着いて、写字の一方に注がれ、自然に集中力を養ふに効があるであ らう。殊に手本を見て写すのであるから、間違へば直に知れる。間違ふたのは集中力の弱ったこと を示すことになるから、其進歩の程度を見るにも、頗る便利であらうと思ふ。若し其写す文章が古 来の名文であったなら、名文を写すに伴ふ利益を受けることも、亦多大であらう。写字といふは一 例で、只気を落着けてする仕事であるなら、何事でもよからうと思ふ。又題を一定して、文章を起 稿することなども可と思ふ。僕は在学中、数学が不得手であったが、幾何学だけは梢趣味があっ
二浮世の常と観ずる消極的方法 修第二の方法は同く消極的であるが、第一よりも遙に穏和で、寧ろ受動的である。是は気の強い人 には難しいが、性質の温和な人は、兎角取り易き方法である。即ち自分の名誉を毀損する人に対し、 彼等は人の悪口をいふて、自ら快とし、罵詈讒謗を以て、飯を食ふ種子とするの・であをカら、。・気に かける値がない〔世の中に在ルば歩ぐ町に & 埃な谺びる雨にも降られる。事がなくって人の そしり と - かくの 0 とく 誉を受けることもあるからには、悪事がなくって人の毀を受ぐるこど & 浮世の習人生に如斯 。丿要るに足らぬ、ど、極めて 冷淡に無頓着の態度を取るのである。 是は豪傑肌の人にもあるが、寧ろ君子肌の温和な人に多い。 折々は濁るも水のならひぞと 思ひ流して月は澄むらん 折々はガャ / \ と騒ぎ立てる奴もあるが、そんなことは如何でもよいと、高く自ら澄して居る。 この態度に達することは左程の困難とは思はぬ。悪口非難を屡々受けることは、自然に此態度に達 する練磨となり階段となるもので、この位地に達することは我々凡夫にても出来ぬことでない。 三悪口を反省の材料とする善用法 180
に比ぶれば親分とか、兄分とか崇められる人になって、始めてよく自分の非を認めるのである。斯 0 養 る人は世人から虐待を受けても、ア、己が悪かったといふて、己の非を責る。基督は磔刑に処せら 2 修れ、膏汗を流して苦んで居る時、「天の父よ、我を斯の如く虐待するものを赦し給へ、彼等は其為 す所を知らぬものである」と叫んだ。此境地に至って始めて人を怨まぬのである。 心懸一にて何人にも出来る 只我々凡夫は己が悪かった、堪忍せよ、と口にすることは、稀になきにしもあらねど、衷心より 禍の責を自ら負ふことを、兎角嫌ふ。 併しこれとても、心懸次第によっては、凡夫も亦達し得られぬことであるまいと思はれる。尤も 抽象的に一般の場合に応用される思想、例へば仏教によって慈悲心を、基督教によって愛を、儒教 により仁の心を発揮することを教へられる様に、総ての場合に応用される感情を養ひ、云はゞ演繹 的、主観的の方法を以て、人を怨む心を消すことは出来ぬことでない。又それは結構なことに相違 ないが、各自にこれを行ふことは容易でない。此方法によらずして、客観的に帰納的に事物にぶつ かって「此事に就ては自分が悪いのであるぞ」と、自分の悪かった点を強く省みることも、亦人を 怨まなくなる一の方法でありはせぬか。 僕は便宜の為に、爰に具体的に例を挙げて見る。例へば或事業に失敗して逆境に陥った人がある おもむろ とする。彼は徐に過去を顧み、失敗に至った径路を考へ、さて此事業は如何にして始めたか、又何