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検索対象: 新渡戸稲造全集 第七巻
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1. 新渡戸稲造全集 第七巻

第一の方法は、かくも己のことを悪口する奴は如何なる人であるか。彼は取るに足らぬ愚物であ やつばら る、又は何か為にする所ある悪党である、何れにしても対手とするに足らぬ奴原であると、自分を 高ふして対手を見下げるのである。此方法は世上によく行ふ人がある。殊に豪傑肌の人は、燕雀何 ぞ鵬鴻の志を知らんやとか をどりはね庭に餌ひらう小雀の いかでか鷲の住家しるらん 抔といって、対手を見下げて、聊か自ら慰めるのである。 是は名誉を毀損された場合に処する一法たるを失はぬが、最上の方法とは思はれぬ。而も此方法 は消極的である。対手の人は愚物なり、度すべからざるものなりと見くびるは容易い。兎角我々凡 人は癪に障る様なことがあると、かゝる考を起し易い。是れは所謂、短を以て短を攻め、頑を以て 頑を済さしむるのである。単に対手を見くびるのみに止る間は、左程己を害することなく、又対手 を害さぬから恕すべきであるが、論理的に一歩を進めて之を考ふる時は、かゝる悪人は之を捨て置 すくと、世を害するから、社会公益の為め懲してやらうとか、天誅を加ふるとか、いふことになり、 対 不穏の挙動に終ることがある。其結果は更に怖るべきことがないとも限らぬ。是は名誉を毀損され 名た時に自ら慰むる一法であるが、恐らく最も劣等なものであると信する。 章 七 第 Z79

2. 新渡戸稲造全集 第七巻

も継続して、ミッシリやったなら、必らず青くなって倒れるものがあるであらう。 是は我々日本人の食物が大に関係すると思ふ。菜食する人々に、長い間継続して其精力を集中さ せることは無理かも知れぬ。併し食物のみが人の集中力を養ふものでなく、相当な方法で鍛錬した ならば、多少は之を増加し得ると思ふ。以下僕の実験に照らして其方法を述べる。 集中力修養の三法 第一は「又きたな」と思ふ修養法である。読書の時、他の事柄は一切思はずに、全力を書物中の ことにのみ注いで、考へることは、集中力を養ふ一法である。是は直接の方法であるが、相当に効 果があると思ふ。 僕は此点に就て多少試験したことがある。学生に就て之を見るに、一時間ミッシリと書物を精読 し、其間少しも他の念を交へぬといふものは、極めて稀である。大抵は一時間以内で疲れてしま 修ふ。又僕自身の実験に照らすと、頭脳が最も快く、気分の最も爽快な時、四時間継続して、ギッシ 後 リ書物に向ふたことがある。是は頭脳の頗るよかった時で、いはゞ極度に良好な場合である。以て 中一般の例とすることが出来ぬ。普通は恥しいが二時間位である。 暑 読書してゐると、書物以外の事柄が、フワ / 、と浮いて来る。晴天に一片の雲翳が影すると同じ 章 わ様である。故に若し読書中、他の考が浮いたなら「又来たな」と之を除くことにカめる。斯くして 第 書物以外の念は、之を駆除することにカむるときは、自然に思想が書物に集中することとなり、 381

3. 新渡戸稲造全集 第七巻

前述の如く抽象的であるから、未熟の頭脳には入り悪い。偶々這入れば自分を省みるより他人を責 むる道具となる。 訓戒の値打を知る法 そこで僕は始終思ふに、個人の訓戒を実際に施すには、其の抽象的教訓を具体的に翻訳しなけれ ばならぬ。此の翻訳をするには、一つには伝記を読んで、何某がどういふ誤りをして、どういふ結 果に陥った、而して如何なる法によって、取返しをしたかを知るが一つ。又一つには年輩も境遇も 同じ様な親友と互に真情を打ち開けて、俺はかういふことをした、或はかういふ悪い考へが浮かん で困ると語り合ひ、又友人の実験を聞いて、実際の人生に如何なる誘惑のあるものか、自ら知らぬ 経験を具体的に他人から聞き糺すも一つの法であらうし、又自ら退いて想像して、己が斯くの如き 場合に陥ったならば、如何に身を処するかを、考へるも亦一法であると思ふ。 僕が今最後に述べた事は、子供らしい方法で、世間の物笑ひになるか知らぬが、少くとも僕の如 き平凡なる青年には頗る役に立った方法である。例へば今に記憶に残って居ることも少くないが、 十五六の頃一人で想像して、若し俺が斯く / 、の困難に陥入った時は、自分はどうしよう、若し俺 の誘惑にさそはれた時には、 ) カうしようと夢みる如くに描いた仮定が、その後屡々役に 立った。今後も役に立つであらうと信ずる。事に当って惑ふ時も苦しむ時も一寸一歩退いて「ハ ア之れは何時ぞや夢に見たかう云う場合に当て箝まる、其の時にはかうしようと思ったが、今日そ 608

4. 新渡戸稲造全集 第七巻

年限を定めて継続するも一法 修この障害を予防する方法は種々あるであらう。或事を行ふとか、行はぬとかいふ様に志を立てた とて、必すしも生涯之を継続して行ふものとせなくともよいと思ふ。一定の年限を設けて其間だけ 行ひ、其後は又如何様にか、適宜に定めるのも一方法である。明治九年札幌に農学校が出来た時、 クラーク先生は学生に飲酒、喫煙、賭博、この三者を禁止する誓をさせられたことがある。誓文を 読み、且っ二人の保証人を要し、頗る厳粛なものであった。この禁止は在学中だけに関することで ある。卒業後の飲酒、喫煙に干渉する所はなかったから、其効果は薄い様に思はれるけれども、実 際は頗る有益であった。青年が学校に在る間は最も大切な時で、習ひ性となるのは此時代の修練に 待つのである。この時代に厳重な制限を受けたならば、其一生を通じて必らず多大の効果あるに違 ない。現に僕等と同窓の間には、今日も尚この禁条を行ふて居るものが沢山ある。 一定の年限を定めるには種々の方法がある。母が生きて居る間は、何々を行ふまいとか、子供が 何歳になるまでは、何事を為ようとかいふ様にすれば、継続も行ひ易くなり、且っ其間に楽みがあ る。或は其様なことは子供らしい、と笑ふものがあるかも知れぬ。成る程一生涯を限って継続を決 心し、且っ実行すれば立派である。然しそれでは、前途が余りに長いので、凡人は其間に飽きるこ とがある。寧ろ年限を定めて何年とか、何々の事までといふ様にすれば、行ふに容易いかと思ふ。 年限を設けたにもせよ、兎も角一旦決心したことを、其年限の間継続したなら、継続の習慣が養 いくっ

5. 新渡戸稲造全集 第七巻

することは出来やう。例へば風邪に冒され悪寒がする時、布団に包まれ、暖くなって居れば、病勢 2 は何時しか多少軽快となる。悪寒は風邪の結果である、結果を彼是れ注意したとて、効果もなささ うに思はれるが、少くともこれを弱め、更に溯っては其原因を弱小ならしむる効がある」と云ふた ことがある。新約全書に「もし右の眼なんちを罪に陥さば抉出して之を棄てよ、もしなんぢの右の 手なんちを罪に陥さば、之を断て棄てよ」云々とあるのも、眼や手が罪を犯すに非ずして、之等は 罪を犯す心の道具となり、云はゞ、犯罪的意志の結果であるから、眼を抉出し、手を断ったとて、 心が悔改めぬ間は何の効もない筈なるが、矢張実際は果より因に及ばすことも出来る。故に克己の 手段として、第一位の原因を除くにカむることは必要であるが、同時に又結果として現はれた方面 より、之を除き又は弱くすることも、有力なる手段であると思ふ。 三克己心の修養 克己心の修養は卑劣の方法を容さぬ 次に克己するには如何なる方法を用ふべきか。克ちさへすれば如何に卑劣な方法を用ゐても差 支ないか。べース・ボールを戦ひ、競争をするに只克ちさへすればよい、其方法の如何を顧みる必 要がないといふ人がある。又酒の嗜きな人が酒を禁ぜんとして、酒よりも害の多い方法、例へば阿 片を喫用する様なことは、西洋に乏しとせぬ。斯くては一の害に克って、更に烈しい他の害に陥 きり さむけ えぐりだ

6. 新渡戸稲造全集 第七巻

四逆境の善用 逆境の善用とは何か 大抵の人は必らず逆境に陥るものである。而して一たび逆境に陥ったものは、動もすれば其精神 上に、前に挙げた六ヶ条の影響を受け易い。それでは、逆境は之を避け或は之を除くべきかといふ に、僕は寧ろ之を善用したい。 逆境に陥ったならば、逆境其ものを善用して、我精神の修養に供するが宜い。例へば夏の日のな たたす らひとして、空俄に掻き曇り驟雨、沛然として降りそゝぎ、雨具さへ持たぬ身の、暫時木陰に彳む ふるやしろ か、又は道のほとりにある古社の廂に、晴るゝを待つも一法であるが、又之に反し雨降らば降れ、風 吹かば吹け、身はひた濡にぬれながらも、行く所まで行くといふ覚悟で、雨にり風に打たれても 得 心進み、雲霽れ日耀き、濡れた衣が自然に乾いて、旧態に復するを待っといふも亦一法である。僕は 時 逆境に陥ったならば、之を避け之を防ぐことを悪いとは思はぬが、必らずしも宜いとも思はぬ。善 る あ 悪は全く動機と方法に在る。卑怯な心から逃れんとするか、或は禍を他人に被ぶせんとするが如き 境 逆は、無論我々の取るべきことではない。僕は寧ろ飽までも逆境に堪へ忍び、終には逆境そのものよ 章 り、或修業を求める様にしたい。僕のいふ逆境の善用とは即ち此意味である。菜根譚に「天の機緘 十 第 は測られす、抑へて伸べ、伸べて抑ふ。皆是れ英雄を翻弄し、豪傑を顛倒する処、君子は只是れ逆 にはか きしん 271 , スをうらむを - い

7. 新渡戸稲造全集 第七巻

第六章克己の工夫 行する気になる。 要するに如何なることでもよい、少し厭なことと思ふ位のことなれば、ぶつかり次第に行り、而 して之に依て修養を積むのである。時に或は危険なこともあらうが、其及ばす所の利益は一局部に 止まらぬ。例へば剣術を習ふ人は棒を下げて、之を敵と仮設して打込むことを稽古する。対手は一 本の棒に過ぎぬけれども、之によりて手腕を練って置くと、不時の場合に立派に応用される。以上 に個条を挙げて述べたことも亦同一である。其一に通ずれば他の方面にも応用することが出来る。 故に一ヶ条づつでもよい、手に当ったことから着手するが便利である。 或はこんな細なことに注意して居ては生命が短くなる。人間がのんびりせぬといふものがある。 併し他に容易なる方法で、克己しながら、気ののんびりし得ることがあるや。若しあれば、最も便 利であるが、恐らくあるまいと思ふ。気の忙はしい人がゆったりしたり、怒り易き人が怒らぬ人に なり得る方法が、上述の方法以外にあればよいが、僕は不幸にして未だ適当な方法を知らぬ。仮に なか ありとするも、我々凡夫は未だ夫を採用する迄に進歩して居らぬ。矢張り「勿れ」といふ教訓で進 むのが習ひ始めの順序であらう。 大事に処する道は小事の修養にあり 日頃の心がけさへあれば、大事に際しても自若として居られる。僕の知ってゐる老人が、物の喰 5 ひだめと、心配のしだめとは役に立たぬといふたことがある。まことに金言であると思ふ。如何に

8. 新渡戸稲造全集 第七巻

時間しか堪へられぬものが、二時間位までに進めることが出来ると思ふ。 2 養 第二に黙思は前者の如く直接の修養方法でないが、亦同じく集中力を養ふ力がある。前にも既に 3 修述べた如く、黙思は静座して思考するのであるから、仮令肉眼は之を閉ぢて万物を見ないけれど、 心の中には万物が描き出される。之に反し前項に説いた読書は、眼前に書物を置き、眼は夫に向け られ、心も亦多くは書物に向ふて居る。書物以外の念が浮ぶとしても、黙思の如く、全く何物を見 ない場合に比すれば、著しく少い。故に黙思は読書よりも、集中力を養ふに困難である。が併し困 難とはいひながら、平生之を心にかけ、若し髣赤として眼前に浮び出した幾筋の魂の糸があったな ら、之を一に束ね、散乱した精神を一に帰するに努めたなら、集中力が追々に養成される。 第三に或種類の習慣を養成することも、亦集中力を強からしむる一法である。是は余り機械的 で、子供らしいと笑ふものがあるかも知れぬが、僕は一法として之を青年に薦めたい。例へば写字 をすることなども、よくはあるまいか。今日印刷術が進歩したから、殊更に写字する必要はない が、写字をすれば其間精神が落着いて、写字の一方に注がれ、自然に集中力を養ふに効があるであ らう。殊に手本を見て写すのであるから、間違へば直に知れる。間違ふたのは集中力の弱ったこと を示すことになるから、其進歩の程度を見るにも、頗る便利であらうと思ふ。若し其写す文章が古 来の名文であったなら、名文を写すに伴ふ利益を受けることも、亦多大であらう。写字といふは一 例で、只気を落着けてする仕事であるなら、何事でもよからうと思ふ。又題を一定して、文章を起 稿することなども可と思ふ。僕は在学中、数学が不得手であったが、幾何学だけは梢趣味があっ

9. 新渡戸稲造全集 第七巻

二浮世の常と観ずる消極的方法 修第二の方法は同く消極的であるが、第一よりも遙に穏和で、寧ろ受動的である。是は気の強い人 には難しいが、性質の温和な人は、兎角取り易き方法である。即ち自分の名誉を毀損する人に対し、 彼等は人の悪口をいふて、自ら快とし、罵詈讒謗を以て、飯を食ふ種子とするの・であをカら、。・気に かける値がない〔世の中に在ルば歩ぐ町に & 埃な谺びる雨にも降られる。事がなくって人の そしり と - かくの 0 とく 誉を受けることもあるからには、悪事がなくって人の毀を受ぐるこど & 浮世の習人生に如斯 。丿要るに足らぬ、ど、極めて 冷淡に無頓着の態度を取るのである。 是は豪傑肌の人にもあるが、寧ろ君子肌の温和な人に多い。 折々は濁るも水のならひぞと 思ひ流して月は澄むらん 折々はガャ / \ と騒ぎ立てる奴もあるが、そんなことは如何でもよいと、高く自ら澄して居る。 この態度に達することは左程の困難とは思はぬ。悪口非難を屡々受けることは、自然に此態度に達 する練磨となり階段となるもので、この位地に達することは我々凡夫にても出来ぬことでない。 三悪口を反省の材料とする善用法 180

10. 新渡戸稲造全集 第七巻

に比ぶれば親分とか、兄分とか崇められる人になって、始めてよく自分の非を認めるのである。斯 0 養 る人は世人から虐待を受けても、ア、己が悪かったといふて、己の非を責る。基督は磔刑に処せら 2 修れ、膏汗を流して苦んで居る時、「天の父よ、我を斯の如く虐待するものを赦し給へ、彼等は其為 す所を知らぬものである」と叫んだ。此境地に至って始めて人を怨まぬのである。 心懸一にて何人にも出来る 只我々凡夫は己が悪かった、堪忍せよ、と口にすることは、稀になきにしもあらねど、衷心より 禍の責を自ら負ふことを、兎角嫌ふ。 併しこれとても、心懸次第によっては、凡夫も亦達し得られぬことであるまいと思はれる。尤も 抽象的に一般の場合に応用される思想、例へば仏教によって慈悲心を、基督教によって愛を、儒教 により仁の心を発揮することを教へられる様に、総ての場合に応用される感情を養ひ、云はゞ演繹 的、主観的の方法を以て、人を怨む心を消すことは出来ぬことでない。又それは結構なことに相違 ないが、各自にこれを行ふことは容易でない。此方法によらずして、客観的に帰納的に事物にぶつ かって「此事に就ては自分が悪いのであるぞ」と、自分の悪かった点を強く省みることも、亦人を 怨まなくなる一の方法でありはせぬか。 僕は便宜の為に、爰に具体的に例を挙げて見る。例へば或事業に失敗して逆境に陥った人がある おもむろ とする。彼は徐に過去を顧み、失敗に至った径路を考へ、さて此事業は如何にして始めたか、又何