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検索対象: 新渡戸稲造全集 第八巻
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1. 新渡戸稲造全集 第八巻

と咏んで其人をミッスして居る。居る時はそれほどに思はなかったものも、居らなくなれば深くミ ッスすることは、これで能く察しられる。 おもき 以上に挙げた例に見ると、細君をミッスすることに、重を置く様に思ふものがあるかも知れぬ が、併し是は独り細君に限ったことでない。国事に就ても其他の事柄に就ても、総て同じである。 ンスされる人、即ち居らざれば不足 故に如何なる仕事に従事しても、又如何なる境遇に居ても、ミ、 に思はれる人、即ち居らねば困る人になって、始めて一人前の仕事をするものといはれると思ふ。 凡人も心懸によりてはミッスされる 人は到底孤立して暮すことは出来ぬ。団体の中に生れ、団体の中に育ち、団体の中に一生を送り 団体の中に死するものである。この団体の間に処して、人と自己との関係より云ふと、人には三種 の区別があると思はれる。即ち第一は居れば困る人、換言すれば居らぬ方が宜い人、死んで人に喜 ばれる人、生きてれば人の邪魔になり、人に邪にされる人である。犯罪人、発狂人自痴、病人の 人 一種の如きは皆この部に入る。西郷南洲は嘗て、始末におへぬ人となれといふたが、之も誤解され る まると此部に入る。又或古人は世の中でなくてならぬ人になれぬならば、寧ろ居ては困る人になれと 教へたが、是は虚栄心を満足させるか、或は只個人の名誉を高めんとするに止まり、社会全体の利 章 十益より打算した説でないから、面白い奇抜な言と聞き流すべきもので、守るべきでないと信ずる。 第 第二種の人は居てもゐなくても同じゃうな人。何の為にこの世に生れて来たのであらうか、世の 277

2. 新渡戸稲造全集 第八巻

世渡りの道 僕は以下之を区別して此等の同等の人に対する心得を説いて見る。 一面識なき人に対する礼節 面識なき人に対する日英習慣の相違 英米では面識なき人に対する礼節が、頗る八ケ間し : ヒ し止等の国では面識なき人が卓子を控へ、 互に相対して居ても、其間に立って紹介する人がなければ語り合はぬ。又紹介する人も、自分の勝 手に「此人は何某」といって引合せをしない。必らず紹介する前に「此人は云々の人であります が、御紹介致して宜うござりますか」といって先方の意向を質し、承諾された後でなければ紹介せ ぬ。諾否を質された人も、必らす承諾すると限らぬ。嫌な人と思へば、その厚意を断ることもあ る。断った場合には、二人は同一の食卓に対して居りながら、何事も語り合はなくて済む。 大陸諸国は少しく之と異ふ。面識なき人に逢ふた時は、紹介する人の手を藉らずに、「私は云々 の者でありますが : : : 」と自ら進んで自分を紹介する。之を英米の習慣に比ぶれば著しく手軽であ る。我日本の習慣も大陸風に似て居る。「私は某所の某といふ者でありますが : : : 」といって面哉 なき人に対しても、自ら自分を紹介する。僕はこれを善い習慣と思ふて居る。巧に之を応用すれ ば、非常に有益のことであるが、近頃の人は兎角之を利用せぬ傾向がある。 我国の面識なき人に対する習慣は右の如くであるが、一面には又面識なき人を敵視する様な教育 もある。例へば男児閾を跨げば七人の敵ありとか、門を出れば大命ありといふ如く、面識なき人に しきゐ 二 11 ロ 8

3. 新渡戸稲造全集 第八巻

八月四日 物の本末は転倒し易し。月給や位が上れば人間其のものが上りたる心地す。名も利も末なり、本は 人なり。努力の結果として昇進するは至当なれど、昇進せるの故に心昻ずるは人物の下落なり。金 月や位は人でない。金や位に心を動かすは人が物に負けるに等し。 人多き人の中にも人ぞなき 人に為れ人、人となせ人 八月三日 夏の日は己の暑きことのみを想ひて、人の暑きを忘れ、避暑地に転じては都会の道路に車曳く人を 忘れ、都会に泊りては田舎にありて炎天に田作る人を忘る。車曳くも、田作るも皆我れ等の為なる ことを忘れる。 明治天皇御製 暑しともいはれざりけり煮えかへる 水田に立てる賤をおもへば 509

4. 新渡戸稲造全集 第八巻

八月ニ十八日 西紀一八二八年の今日は、平等主義実行家のトルストイが生れ、明治四年 ( 西紀一八七一年 ) の今 日は、穢多非人を平民とした日である。 人を見たなら思へ、此人も我と同じく人なれば、親も慕はしからう、子も可愛からう、世には好く 云はれたからう、金も欲しからうと。乞食も貴人も、聖人も盗人も、人は人、人としての尊敬と同 月情とは均しく頒つべし。 人なみの人とし人は思はずも 見る人々を人と見よ人 八月ニ十七日 員原益軒は正徳四年 ( 西紀一七一四年 ) の今日八十五歳で歿した。彼れ愛敬の本を説いて日く、 親しき人を愛し貴き人を敬ふは云ふに及ばず、疎き路人に対し、賤しき乞食に対すとも、皆な是 れ天地の生める人なれば、其の分に従ひて愛敬すべし。悪み侮るべからず。疎き親しきに依り、 貴き賤しきに従ひて、愛敬するに厚薄はあるべけれど、愛敬せざることなかるべし。 ゑたひにん 521

5. 新渡戸稲造全集 第八巻

の早い人は直に雷同する。役所に於ても部下に一人の謀叛者があると、平素上官の態度に快らぬも のが、彼に伴なって出て来る。番頭丁稚の中、主人に対して不満を懐くものがあると、他の番頭丁 稚の働も鈍くなり易い。一人の不満者は有毒的黴菌の如きもので、其病毒は忽にして他に伝染し易 い。之に反し多数の不満者中に、一人ニコ / 、して不満に超然たるものがあると、不平連中も自ら 恥かしくなり、不平を消散するに至る。恰も太陽が星を犯さなくとも、一たび東天に昇るときは、 忽ち其光輝を奪ふと同じである。惜まるゝ人はかくの如き人である。 かういふ人は千人に何人といふ如く、甚だ少数である。少数であるから、鳥の群の中の鶴の如 く、人の目に立つかといぶに、かへって一寸俗眼に目立たぬ。又自ら広告することも無論知らね ば、人の注意を惹く手段をも講ぜぬから、多数者中にあっても晴々した様子もなく、どうかすると 理木同然に取扱はれ、前項に述ぶる如く其人が去って後に始めて人が気づき、或は去った後も尚気 づかずに済む位のものである。故に人を使ふ人、或は人と交際する人は、斯の如き隠れた宝が果し てあるや否やを見分け、即ち惜むべき人を発見する明を備ふることが必要である。 人 る れ 今日探さるゝ人物の標準 ま 今日教育界に於ても、実業界に於ても、或は政府に於ても、人物を求むるに汲々として居る。何 章 十か事業を計画し実行せんとする人は、鵜の目鷹の目で人材を探しつゝある。然るにその人物を探す 5 おもぎ 2 第 標準を見るに、大抵は重を手腕の利鈍に置く。勿論手腕があれば、人格はどうでもよいと、公言す でっち

6. 新渡戸稲造全集 第八巻

月 六月ニ十一日 人は皆人たることを忘る勿れ。位なくも人は人、財なくも人は人、智なくも人は人、小前の者の人 格を重んずべし。うるさいと思はん時も、女房、子ども、下女、下男の用なき言葉にも一応は応ず べし。人の言葉は心の発現、決して無視する勿れ。 あい / 、と返事よければ睦まじく 心に不足あれば不返事 労働は天の法則。手足を労するも精神を労するも、天より見れば共に尊く、人より見ても軽重は分 ち難い。働くことを恥とする勿れ、働かざるこそ恥と知れ。 長生と福を願はゞ働けよ 流るゝ水のくさらぬを見よ 月雪も花も紅葉もぜに金も 我が身にあるぞ働いて取れ 六月ニ十ニ日 487

7. 新渡戸稲造全集 第八巻

は、人に欲しがられ、即ち惜がられる人となりたいものである。是は既に前項に於て述べた通りで ある。 然らば如何なる心懸けを以てしたら、人に惜まれる人となるか。僕は此間題に関して二三の点を 挙げたいと思ふ。但し此事を述ぶるに当り、我々は同時に人を惜がり人を欲しがる心懸けをせなけ ればならぬことを注意せねばならぬ。 惜まれる人は自己を惜み易い 惜まるゝ者は大別すれば二種に分たれる。第一種は既に其主人なり友人なり親戚なりに、其手腕 技倆の卓越して居ることを認められたものである。我々もよく、「某は某の右の腕だ」とか、「某さ んもあの番頭に任せておけば、大丈夫です」とかいふことを耳にする。かゝる人は其家なり其店な りに欠くべからざる人である。かういふ人は大概の家にも店にも役所にも居るもので、之を欠ける 所は甚だ不幸といはざるを得ぬ。此等の人は一家の柱石とか手腕家とか称せられ、多くは利ロで立 人 廻りが敏捷、事務に長けた人才であり、一歩進めると所謂辣腕家となる。其為した仕事は隠れては る ま内助となり、外部に現はれては目醒しい。故に其人が居らねば事務が渋滞し、商売繁昌に直ちに影 響するといふ如き人である。かゝる人は仕事に欠くべからざる人であると共に、直ちに又主人をし 十て彼をこんなことにのみ使ふて居るは惜いといふ思想を起させる。い 0 川ん川を人が、・彼のネ 第 を認め、且っ彼の立身出世を真心より親切に考へたなれば、必らず彼を現職に永く使ふのは気の毒 221

8. 新渡戸稲造全集 第八巻

ずに居ても、之を消して室が真暗になると、始めて灯の価値が明となる。第二種の惜まれる人は即 8 のちこの灯火の如き人である。何の役所に行っても、何の店、学校に行っても、大概かゝる光明的の 2 人が場所相応ーー其人物の程度は異ふが , ーーに居るものである。此等の人は多く人の目に立たぬ。 世折々は主人や上官であることもあれば、或は小使や給仕であるかも知れぬ。が何処へ行っても、大 抵はそんな人物が居るものである。 惜まれる二種の人を比較するに、第一種の人は一定の仕事に当り、成績を挙げるのであるから、 其為すことは著しく目立ち、雄大に見える。併し第二種の人は一定の仕事がないこともあるが、其 為す所は全体の空気を温め、其人が居れば喧曄するものもせずに過ぎ、怒り易き者も荒い言をいは ず、悪い不愉快の元素を抑制し、有害なバクテリヤを未発に予防する力がある。併し事を未発に防 ぐのであるから、世人は其喧曄もせず、荒い語を発せぬのが自然であると思って、此人が居る為で あることを思はぬ。靉々たる和気が社中に充つるのは、此人の居る為であることに心づかぬ。斯る 人が去れば、不良の元素が直に頭を出し始めるから、其人格の力は充分に分るべき筈であるが、多 数の人は彼が居なくなったから、かうなったと気がっかぬ。是に於てか惜む人なるものが、透徹し た観察力を備へた人でなければ、惜むべき人を惜まずに過すことが起る。故に人を使ふ者は、使は あたら れる者の性質を読み破ることに注意せぬと、可惜男を惜しまずに殺して仕舞ふことがある。 あいあい

9. 新渡戸稲造全集 第八巻

西洋の如く基督教を信ずる国では、特に神棚を設けなくも、家庭で礼拝する。而して良き家庭で 道 のは朝夕家族一同集って祈禧する。日本にはこの祈禧、礼拝の習慣がないから、都会の人士は兎角夫 を怠り易くなる。 渡 世影膳を据へることも礼節修養の一端になると思ふ。此習慣は以前は盛に行はれ、今日尚行はれて 居る家もあらうが、この風俗も著しく廃れた様である。 併し僕は迷信に陥らざる限り、神棚仏壇で礼拝したり、影膳を据へることなどは、目上の人に対 する礼節を守る修養法の一として、最も利益あることと思ふ。もとより斯かる目的に適する方針で 行ひ、飽までも迷信に陥るを避けねばならぬ。斯かることを繰返して居る間に、自然に長上は尊敬 すべきものといふ観念が養はれ、礼節を守る上に於て、非常に効果があると思ふ。 人に対する尊敬は人格の向上を示す 人を尊敬すると、何処か卑屈の点がある様に思ふものもある。併し人を尊敬することは卑屈どこ ろではない。かゝる人は、何処か修まって居る様に思はれ、却って其人に対し尊敬の念が起って来 尊敬される人が充分の価値ない人にしても、尊敬を払って居る人は、見る人が見れば感心する。 彼はあんな馬鹿な人に対してさへも斯く尊敬する。若し立派な人に対したなら、如何に其礼節を守 るであらうと、人は却て其人物を景慕するであらう。人が他を尊敬するは即ち其人に向上の性質あ 110

10. 新渡戸稲造全集 第八巻

三同等の人に対する礼節 同等の人とは如何なる人か 同等の人といふ中には朋友、親戚、同僚等の如く、平素能く識り合ふて居るものもある。又敵と して対抗するものは、目上又は目下のものでなく、同等の間に起る。故に是も亦同等の人と見るが 適当であらう。又全く面識なき人も、同等の中に含まれる。面識なき人を称して同等といふは、妙 節 に聞える様であるが、例へば同じ等級の汽車に乗り合はし、又は同じ食事に案内された人々は、仮 対令身分に高下はあるにしても、同等の人と見做して差支なからうと思ふ。日本の道徳は面識ある人 人に対して能く説かれてあるが、面識なき人に対しては「路傍の人の如し」などといはれてある通 六り、殆ど其注意を閑却せられ、否な寧ろ敵意を以て対する如くである。従って此点に対する教訓は 第 極めて乏かった。 を与へはせぬか、斯うすれば気の毒のことはないかと、紹介もされず、姓名も知らない人に対し て、無礼のない様にするのが、今日喧しい公徳間題の半分以上を占めて居るであらう。電車内で自 分より以下の人、老人、幼年者等に対して席を譲るといふ美はしい習慣が近時行はれて居るが、一 歩進めて、電車以外にもこの礼節を及ばしたならば、公徳心の問題は半以上解決されるであらうと 信ずる。 8