友人 - みる会図書館


検索対象: 新渡戸稲造全集 第八巻
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1. 新渡戸稲造全集 第八巻

っ排斥したものである。匿名で人を評論するのは、暗討や後から斬るが如きものである。仮令其議 論は厭まで公平を保ったものとしても、何か為にする所あっての所説と思はれ、賞めても、攻撃し おもき ても、少しも重を置かれぬ。 僕は敵として立つからは、斯る卑怯のことをしたくない。敵をして最善の力を用ゐて、立派に戦 はせるだけの雅量を具へて戦ひたい。敵に対する礼節とは斯の如きものであらう。 三朋友同僚に対する礼節 明友同僚に対する礼節の本義 第三に親しい友人同僚其他知人との間にも、相当の礼節を守らねばならぬ。目上の人に対して は、何人も尊敬の念を起し、又目下の人に対しても、多少其行為を恕することがある。従って両者 に対しては、礼節を守り易いが、相識れる同等の人々の間には、一種の競争心が潜み、他を凌がん とする心があるから、兎角対手の短所を見るにカめ、礼節が行はれ難くなる。殊に友人同僚に対し て少しく礼節を正しくすると「友人の間に他人扱をする」といって非難するものもあり、兎角友人 る 対同僚等の間には礼節を忽にし易くなるものである。 併し友人同僚等に対する礼節は、厭までも之を守らねばならぬ。英国の諺に「狎々しくすれば卑 六めらる」 (Familiarity begets 。 on ( 。 mp ( ) といふことがある。親しいからとて、礼節を守らねば、却 第 って其友誼が破られる。もとより同等の人に対する礼節は、目上、目下の人に対する場合とは異ふ ゆるがせ なれなれ 3 9

2. 新渡戸稲造全集 第八巻

言 日 九月五日 一上り下りはあらゆる運動の法則なれば、国に盛衰あり、社会に浮沈あり、個人に幸不幸がある。上 りたりとて油断も安心もならず、下りたればとて落胆沮喪するにも及ばぬ。上下浮沈に拘らず、心 だけは平く滑かに保つべし。 満つるより欠くる習ひぞ円かなる一夜の月の影にても知れ 月だにもなほっれなしや出て入り満ちては欠けぬ哀れ世の中 ざよひ 世の中は満つればかくるかく月の十六夜の空は人の身の上 九月六日 罪はとかく他に転嫁したきもの。夫は妻に家の傾く罪を被せ、子は親に放蕩の罪をなすくり、雇人 は主人に無能の罪を負はす世の中に、他の罪まで独りにて引受けるは義快。世人は勿論、友人親族 に疑はれても猶ほ黙然として、世の憂きと人の恨みを一身に負ふは神の業。 身に負へる科は思はで主と親をそしる人こそうたてかりけれ 526

3. 新渡戸稲造全集 第八巻

ばならぬ傾がある。といふたからとて、僕は此夫人がその節操を破らねばならぬといふのではない 6 のが、此事に関与する以上は、他人の面前でロにするだも屑とせぬ事実を見聞せねばならぬ。故に仮 2 令かゝる醜事を見聞しても、大丈夫と保証し得るまでに進んだ人ならねば、ウッカリ手を出すこと 世は出来ぬ。よく若い男や女が、こんなことに手を出して、自分自身が其方に引落されることもあ る。然らざれば自分の好奇心に駆られて、社会改良の事業よりも、寧ろ小説の材料でも得るに止ま る虞がある。 五勧善を目的とした警告 勧善懲悪の主意を、広く社会に応用すれば、所謂社会改良といふことになるが、之を個人に応用 すると、即ち警告となる。この警告は親友の間には往々行はれ、之を真面目に能く行へば、これほ どの美徳は少い。兎角人は蔭で他人の悪口をいひたがるが、面前でいふを甚だ厭がる。併し友を思 ふの誠意誠心があるならば、蔭口をき力、直接に面前で警告すべきが至当である。然るに実際に 於ては、此所まで友情の進む例は極めて少い。英国某名士の言 , 靦 0 議 " 引、・ くしふものこそ、真の友人なれ」とある。真の友人であれば、善き動機より朋友に落度はなきか、 其性格上に欠点はなきかと心配する、丁度親子が互に注意して、戒め合ふと均しい。互に其短所を 見て警告するとはいふものゝ、之を口外することは甚だ少い。親は子の為に隠くし、子は親の為に 隠くす。友人の間でも亦同じである。 ひと

4. 新渡戸稲造全集 第八巻

二親切の修養 一親切と気づけば直に実行せよ 修養の方法は至って簡単である。即ち親切と気づいた事があれば、必らす実行するのである。こ んなことをして、人に見られたら恥しいとか、彼是いはれはせぬかとか、いふことは全く顧はぬが よい。前にもいふた通り日本人は観察力の早い国民である。故によし最初は異様なことをする、見 ず知らずの人に対し、往来であんなことをするとか、何とか思はれることがあっても、二三度他人 の説に顧みす行ふて居る間に、世人は忽ちその方の正しいことを解し、一般に之に傚ふ様になる。 最初は人からジロ / 、見られ、何だか目立ったことをする様に疑はれても、是は毫も気にかけるに 足らぬ。二三度行ひさへすれば、笑はれたことも、後には快き報を受けるものである。 先年地方の友人が帰京の途次、船で神戸に航行した。見ると一人の老婆が「私は神戸に行くもの 修でありますが、今度が最初で、どうして尋ねる所に行って宜か分らぬので困ります」といふて居 つまびらか 切た。友人は詳に老婆の尋ねる所を説明し、船が着くと自ら老婆の手を取り、船梯子を下り、小蒸 汽に乗り、上陸して後も、老婆の行く所まで連れて行ったので、老婆は非常に感謝し、涙を流して喜 んだといふことである。この場合に友人が気を小さく思ふたなら、知らぬ人ーーー殊に見苦しい老婆 9 第 3 の手を取って、神戸の市中を歩くをきまり悪く思ふたであらう。相当な官吏の身分でありながら、

5. 新渡戸稲造全集 第八巻

七月十六日 親兄弟主人教師友人などの制裁を受けて居る間は、たゞ窮屈をのみ感じて、この制裁が最大の教育 月なることを知らぬ。故に一日でも自分勝手に働ける日があれば、即ち自由の権利を濫用する者多 し、自由の尚き所以は、他人の命令を待たで自ら進んで善をなすにあり。 七 七月十五日 今日は盂蘭盆。 以心伝心とは死者と生者の交りを謂ふならん。記念は幽明を繋ぐ一縷の道、生者が思ひ出せば死者 も甦る。想はざれは生者も亡者に同じ。 思ひ入れば人も我が身も余所ならず 心の外に心なければ 亡きつまのかたみの剣とり出し ひとり泣く夜に村雨のふる イ 99

6. 新渡戸稲造全集 第八巻

らロく同情を受けるものでない。況して聖人ならぬ人が、総ての人から同情受けることは望まれ な、い。一方に同情者があれば他には反感者が出来る。故に多数の人々と交際するものは、この覚悟 を固め、他人から同情を受けたいなどといふ観念を持たぬがよい。従って所謂八方美人主義は最も 愚策であると思ふ。 如何なる人が真の同情を受くるか 僕の友人は時々僕に忠告して呉れることがある。「君は誤解を受けても、其を釈かんとせぬのみ ならず、誤解に誤解を重ねさせるやうなことをする」といふて呉れる。実際僕は他人の同情を失ふ 様なことを口にもするし、又受けた誤解を一度でも正さうとしたことがない。場合によれば更に誤 解を深からしめる様のこともやる。 併し殊更に他人の同情を買はんと努むるは、善くないことであらう。心にもないことを口にした り、挙動に現はしたり、或は悲哀の人に対して悲げな声を発し、挙動で之を示さんとする。かくの 修如きはドラマチックとなり、或は他に依頼する傾が出来て、其結果は更に危険となる虞がある。 情斯う云ふたからとて僕は決して他人の反感を勉めて求めよと勧めるのではない。僕の意は敢て求 同 めずとも、同情の寄る程に、一身を脩め己の義務を尽せと云ふことである。屡々引用するが、古歌 章 十にある通り 第 うっすとは月も思はずうつるとは 3 イ 3

7. 新渡戸稲造全集 第八巻

めばよいが、動もすれば為に不快の感情を他人に与へ、滑稽の目的が反対の結果を現はすことが間 6 道 ただ の間起る。尤も真に邪気なくして、殊に滑稽的動機より起る悪口ならば、早晩誤解も訂される折もあ 2 らうが、数年を費して解決されるを待つだけの値ある滑稽でなければ、対手の感情を害する危険を 世犯すことは正に慎むべきことゝ思ふ。 無邪気の悪口も誤解を受け易い 僕は平生、無邪気な善い人と兼ねて私淑する人に就て、非常に見当違ひの批評を聞くことがあ る。而してその批評の由来を尋ねると、この人が無邪気の余りにいふたことが誤解され、即ち滑 が厭味に聞えて、その人格を疑はれたといふ場合が屡々ある。尤も斯る場合に、滑稽を以て直ち に悪口と解する人は、一方ならず正直な人か、何も彼も真面目一方に解する滑稽思想に乏しい人 ひそかいさぎよ か、然らざれば余程根性が曲り、自分は窃に屑からぬことを為し居るものに多いかと思ふ。僕の友 人に滑稽好きな人がある。彼はその友人に向ひ無遠慮なことをポンポン言ってのけるが、決して心 に邪気はない。故に自分が常に尊敬し、親愛する友人に向っても、新しき衣服を着けるのを見ると 「君、その服は何処から盗んで来たか、古衣は何処の質屋に典れたか」といふ調子である。彼の心 中には、この友人が無論他人の羽織袴を盗むものでない、或は又古着を質人せねばならぬ程に、困 窮して居るものでないことは、万々承知である。そんな事は不可能の事に属するものと定めて居る から、彼の考では、友人が羽織袴を盗んだといふは、恰も噴水を見て、下から雨が降り出したと云

8. 新渡戸稲造全集 第八巻

て居るが、相当の礼節を守ることは、極めて必要である。 の友人其他同等の人々に対する礼節は、之を形式に現はすことでなく、対手に対し衷心から出た敬 意を表明するものでなくてはならぬと思ふ。例へば貴下とか、私とか云ふべきを、君、僕と云ひ、 世四角張ってお辞儀する代りに、軽く頭をうなづく様にしてもよい。衷心から、対手に対して充分の 敬意を表するなら、それが即ち礼節に適ふたことになる。 目下の人に対してさへも、注意すれば其尊敬すべき長所が見出される。況してそれ以上の人々に は一層尊敬すべき長所が必らすある。殊に朋友として交はる人は、必らす尊敬に値する位の人であ るから、其人の真価を認めれば、仮令形式的に四角張った礼をせなくとも、衷心から尊敬の念が湧 き、従って其行為も必らす礼節に適ふものである。 友人間にも遠慮する必要がある 知人に逢ふても、対手から礼するのを待って居り、自分から進んで礼するのは、何となく自分を 卑下する様に思ふものがある。これは若い学生間などに能く見ることである。自分から先に礼をし たからとて、決して己を卑下するものでない。否な、是は却って自分を尊からしめる所以である。 又対手が先に礼をしたとて、決して対手が自分より劣った者とも見做されぬ、寧ろ敬すべきであ る。故に僕は知人に対しては自ら進んで礼をするがよいと思ふ。 友人、殊に青年間では「オイ、貴様、何々をしろ」といふ様な粗い言葉を用ゐ、又之を其動作に 9

9. 新渡戸稲造全集 第八巻

又善事をした人があったなら、其事を広く世に吹聴するのも、面識なき人に対する礼節であると 道 の思ふ。古来「悪事千里を走る」といふてある。悪事は千里を走るが、それは懲戒の意味でなく、却 って世人に悪事を奨励し、教へることになる。然るに善事は兎角世に伝はらぬものである。之を世 世に吹聴して世人に知らせ、世人をして善事を行ふことを楽とする様にしたい。 更に一歩を進めて善事をした人に感謝の意を発表するがよい。例へば貴下の云々の善事を新聞で 見たから、衷心から感謝するといふ様なことを手紙に書いて送るがよいと思ふ。僕は恥しながら筆 不精のため、未だ感謝の手紙を発送したことはないが、之を受取った人は、必らず非常に有難く感 じて、更に益々善事に励まうとするであらう。近頃僕は新聞紙上で、学生の排斥を受けたとか、何 とか色々と不評判を受けたが、併し他方には生徒総代とか、又は個人から身を以て御願するから、 留任して貰ひたいといふ様な、柔しい温情を罩めた手紙を幾十通となく受取り、非常に難有く感じ こ。新聞の不評判から起る不快などは、此手紙を見ると消えてしまふ。又本年 ( 明治四十二年 ) の一 月から僕は『実業之日本』に執筆することになったので、ボッ / 、と攻撃を受け始めたが『実業之 日本』の読者より僕に寄せた感謝の手紙を示し、僕の為を思ふて心配して呉れる友人に、「斯うい ふ風に自分のつまらぬ説でも読むで呉れ、利益したとか、実行したとかいって、感謝して来るもの がある時は、仮令多少の非難攻撃を受け、一時は不快を感することがあっても、忽にして夫が拭ひ 去られてしまふ」といふことが屡々あった。 要するに面識なき人に対する礼節を表はす方法は、幾らもあらうが、常に温き同情を以て世に対 0 9

10. 新渡戸稲造全集 第八巻

る。友人とか同僚とかが、単に親しいといふことのみで、互に其尊敬すべき点を発見しなかったな ら、其関係は何かの動機で動かされるであらう。即ち友人同僚等は互に相愛する外に、相互間の尊 敬を要する。尊敬は礼節の基となり、友人、同僚間の楔子となる。 四目上の人に対する礼節 礼節を過重視するより生ずる弊害 礼節といふと、日本人は真先きに目上の人に対することと聯想し、目上の人に対しては、極めて 真面目に礼節を守るべきものと確信して居る。殆ど先天的であるかの如く、教へなくとも之を心得 て居る。それもその筈で、日本人は少し物心の着いた子供の時から、他人に対してお辞儀すること を教へられ、言葉遣ひも鄭重に、誠に行儀よく育てられて居る。是は日本に来る西洋人が皆感心す るところである。 節 幼少時代から斯く礼節を守らせられる事は、一面より見て、美風であるが、余り礼節を尊重し過 る 対ぎる為め、礼節が形式的に流れて自ら弊害の湧くこともある。試に思ひついた二三の点を挙ぐれば 人一、目上の人に対する礼節を大切にするから、自然に礼節は目上の人に対して為しさへすれば、其 章 六他の人に対しては、左程顧はぬでもよいといふ弊を生じて来た様である。西洋人は日本人の如 第 、所謂お行儀をやかましく仕込まれぬが、目上の人に対すると同時に、目下又は同等の人に対 くさび 7 9