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検索対象: 新渡戸稲造全集 第八巻
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1. 新渡戸稲造全集 第八巻

虐待し易くなる。さうすると、つまりは損得勘定となって甚だ不利益となる。 五惜まれる主人の心懸 活して使ふのと殺して使ふ法 人を使ふに、して使ふのと、殺して使ふのとの区別がある。社会上より見ても、活して使ふこ とは、何人も皆望む所であるが、殺して使ふといふは、文字こそ不穏なれ、意味の取り様によって は、全然悪いものとは限らぬと思ふ。殺して人を用ふるといふは、使はれる人の心を悉く奪ひ、全 然主人の為には己を捨て、即ち身を殺して使はれしめる意味にもとれる。折々新聞雑誌等に、山県 公は人を殺して用ゆるといふ言葉が見えるが、この言葉は無論亜 ( い意味にもとれるが、山県公の人 格が世の人々を呑み、公に使はれる人をして、自己の意志を棄て、服従せしめるといふ意味なら ば、此文字も必らずしも悪い意味を含んで居らぬ。寧ろ人を使ふものは公ほどにしたい位なもので 人 ある。此程度に達すると、使はれる人が主人を惜み、主人の為なら、己を惜まぬといふ所に達す る まる。又主人より見て、彼は一命をも己が為に捧げる了簡であると思へば、之を用ふるにも惜んで使 ふ。惜んで使ふと云ふ以上は、殺さずに活して使ふの意にもとれる。恰も我々の愛する器を大切に 章 十すると同じ様である。傷けぬ様、減らぬ様に惜んで使ふ。更に一歩を進めると、その器を一層善く 7 第 してやらう、育てゝやらう、伸ばしてやらう、磨いてやらう、自分ばかりでなく、世間一般の人を

2. 新渡戸稲造全集 第八巻

一歩進めて述べて見たい。 己の拙き所、足らぬことを知って、恥ぢ且っ改めんとするは、長所であるが、只其が短所である と思ふのみでは長所とならぬ。一歩進めて其拙き所、短き所を改めれば、始めて長所となるのであ る。新約全書には、英語に訳したレベント (Repent) と云ふ字が屡々使用されて居る。日本語には 之を悔い改めと訳してある。この言葉は、希臘語のメタノイアより出で、其意味は日本語に訳して ある通り、悔い改めるといふことを含んで居る。英語のレベントといふ字は只悔といふことだけを 意味し、決して原語の意味を尽したものとは思はれぬ。希臘の語は悔といふより、改めるといふ意 を、多く含んで居るさうである。 我々が恥しいと思ふだけに止まるならば、何の効果もない。早く心を改むることが必要である。 然るに自分の不足を感することは案外に易い。特に頭脳の鋭敏な人は、他の短所を見るに明なるが 如く、自分の短所にもよく気づくものである。併し知った人が必らずしも実行に強い意志あるもの と限らぬ。悔い改めるには、更に一歩を進めねばならぬ。 折々西洋人の東洋人を論ずる書を見ると、意志の鞏固は西洋人が東洋人に優ると書いてある。残 恥念ながら日本人は此点に於て、西洋人より大に劣って居る様に覚える。個人が各自に其身を処する に就ても、此評が当って居る様に思はれる。我々日本人間には折角羞悪の心が西洋人よりも広く伝 章 + て居る。故に此観念を実行に顕はすることに心がけるならば、お互の大欠点を補ふことが出来るで 9 あらう。たゞ悔いる恥づるといふだけでは廉恥心を弄ぶやうなものである。 ったな ったはっ

3. 新渡戸稲造全集 第八巻

これといふ明白な理由もなく、又自覚した動機もなく、只口先だけ みもなく、羨むこともない。 で、無意識に悪口することが屡々ある。読者も屡々之を聞かれた経験があるであらう。「あの馬鹿 が」とか、「彼奴めが例の調子でどうした」とか、「お人好が」とか、いふ人は無邪気であっても、 用ふる文字が穏当を欠けるに止まる悪口もある。傍に聞く人の耳には、厭味たつぶりに聞ゆるも、 いふ人はそれほどにも思はず、只無意識的に悪口を放つ。尤もこれとても全く無邪気と称すべきで ないかも知れぬ。絶対的に無邪気なら、邪気を含んだ言葉の出やう筈がない。若し真に達した人の 言であるなら、必らずその言葉の中に、一点の厭味をも含んで居らぬ筈である。 併しかういふことは確にある。即ち自分には邪気なくとも、世の中で普通に用ふる厭味の言葉 が、如何にもをかしく聞ゆる為に、それを其儘、滑稽的意味に転用することがある。いふ人の思想 には邪気もなく、只滑稽の要素として用ふる言葉である。併しこれは少くとも、対手に、その滑稽 を理解する位の頭脳がなければ、不快の念を与ふるものである。狂歌を見て面白いと思ふことは沢 山あるが、それを、己の悪口するものと思へば、何の狂歌も癪に障って致方がない。一休和尚の歌 は抽象的に人生を罵倒するものが多いが、自分も人生を、同一の程度ならぬとも、梢同じく見るだ ロ けの理解力があって、之を読めば、始めて趣味が湧く。然るに「これは己のことをいふて居る」 「己にあてつけて馬鹿にする」と解すれば、一休の歌も不愉快の種子となるであらう。滑稽と悪口 章 十とは、折々その区別を分っことの出来ぬものが沢山ある。故に滑稽に富む人は、対手を見て言はな 5 2 第 いと、無邪気の滑槢が却って直ちに悪口と誤解されることがある。而してそれが単に誤解だけで済

4. 新渡戸稲造全集 第八巻

道 の ら、い 第十七章廉耳 世 廉恥人は有らゆる徳の根本 しゅうお 孟子は羞悪の心は義の端なりと云ふたが、カーライルも此意味を推し広めて、廉恥の心は有ゆる 徳の根本とまで断言した。総て道徳に関する言葉は、用ゐ様によって、広くも狭くも意味が取れる ニ一目 が、一の言葉を用ゐて、其中に何もかも総て含ませることの出来る場合も少くない。例へば孝を論 ずるに、狭く解して両親に対する道念を指すとすることも出来るが、又之を基とし、斯心を以て兄 に事へれば悌となり、斯心を以て君に事へれば忠となり、斯心を以て朋友に交はれば信となる様 に、其意味を推し広めれば孝といふ名にて有ゆる徳を表示することが出来る。又忠を執っても、悌 を執っても、其意味は勝手に伸縮することを得る。是は当然のことで、恐らくは如何なる徳も、他 との関係を離れ、孤立して其区域を判定し、自分の領分とある所だけに、働くことは出来ぬであら 我々は屡「某は義には強いが、仁の心が乏しいーとか、或は「某は信はあるが、孝に欠けて居 る」とかいふて、他人を評する言を聞く。是は一方には義といふ観念を極度まで推し広め、他方に 302

5. 新渡戸稲造全集 第八巻

不味い食物も、却って旨く喰へる。 六対手によりて応対の言語を選め それに就けて思出すことは、言語の用方である。日本の言語には多くの階級がある。例へば君、 僕で済まされることもあり、俺、貴様で間に合ふこともあり、あなた、私で交際することもあり、 閣下、拙者といはねばならぬこともある。従って来たまへ、行かうといふもあり、行く、来いで済 すもあり、遊ばせ言語を用ふる場合もある。此等の言語上の差異は、追々と減少する傾向はある が、今は何れもが広く一般に行はれて居るから、青年は大に其用法に付き心得べきことゝ思ふ。僕 は田舎育ちで、こんなことを述べる資格もないが、平生心懸だけはして居るから、少しく述べて見 そこな 僕の物の言ひ振は粗くして、対手の感情を傷ふこともあるが、自分では曾て礼節の時に述べた如 、成るべく階級により、相当の言葉を交へる様にしたいと思ふて居る。自分より目上の人に対し 話て俺、君とは云はぬ、車夫に対するものとは自ら異なる所がある。従って或は僕を以て、目上の人 に諛ふ、平等の意志が足らぬと誤解するものがないとも限らぬ。併し社会の交際には平等といふこ 応とはないものであると思ふ。平等といふは、人が法律上平等であるとか、国民の参政権が平等であ 七るとか、或は一歩を進めて、天の眼より見れば、公侯伯子男も素町人土百姓も何の区別がない、平 等である、といふ意味ならば、当らぬこともないが、今日の世界、殊に日本の社会に於て人は平等 もちゐかた すま 125

6. 新渡戸稲造全集 第八巻

払ふべきものであるから、外見からは如何にもつまらぬ人物らしく思はれる者でも、官等地位の高 2 のいものには、尊敬すべき相当の理由がある。僕は国家全能の主義を信ずる者ではないが、政府即ち 国家を代表する機関は、決して軽卒に官吏を任免するものでない。政治が非常に紊乱して居る場合 渡 世は格別であるが、普通の場合には夫々の理由があって重用するのである。従って此等の人々に対し ては、其地位官等に相当した尊敬を払ふのが当然だと思ふ。社会の秩序を守る為にお互に礼節を厚 うするは必要なことである。 二親に対する礼節 親子間にも礼譲が最も大切 従来説いたことは、均しく目上の人といふても、華族とか、官吏の上級者とか、会社長とかいふ 様なものである。併し目上の人といふ内には当然父母伯叔父母等を含んで居る。此等の人々に対す る礼節に就ても、爰に之を一言する必要がある。フレー名ー 7 ' 親子の間は最も親しいもので、其間に衝突などのるべき筈はないが、事実に於ては、親子の間 が円満でないものが沢山ある。是は余り親し過ぎるから、つい無遠慮になる為めであらう。遠慮と いふものは、悪い意味に於ては避くべきものであるが、善い意味に於ける遠慮は、或程度まではな くて叶はぬものと思ふ。殊に親子の間の如きは、善い意味に於て相当に遠慮することは極めて大切 であると思ふ。例へば朝起きて親の前に端座して「お早うござります」といひ、夜は「お寝みなさ

7. 新渡戸稲造全集 第八巻

斯の如き人が真にエライ人 僕は屡々中学程度の人々に向って、「君は一体如何いふ人間になりたいと思ふか」と聞くことが ある。多数は之に対しエライ人になりたいといふ。然らばそのエライ人とは、如何なる者かといへ ば、明に之を説明する者は尠い。僕の推測する所では、恐らくは非凡の人といふ意味であらうと思、 ふ。而して非凡の人となるを望むの余り、仮令悪事を為しても、兎も角、人の目に立てばよい、そ れが非凡であるといふ様に、思ふものさへある。而して是は中学程度の人々のみならず、ずっと年 前齢と経験を積んだ人の中にも、此思想が強く存在する。前に述べた三人の新学士が人生の目的を論 解じた際にも、エラクなる、名が高くなるを目的とするといふ説が、一番に優勢であったといふに見 問ても、明であらう。僕は強て人生の目的はエラクなるといふ説に反対するものでない。盖しエラク 人なるといふ中には、少くとも二の意味が含まれてある。一は前に述べた非凡、普通一般の群を抜く 章の意である。之をモ一ッ深く突き込んで考へると、非凡といふのは個人性を発揮させることにな 二る。自分の個性を明にし、他と異る点を一層明にすることである。他の一ツは他人に崇められ、見 第 上げられることである。此二は相互の間に最も密着な関係があるが、常に並行するものでない。即 多数は自分を忘るゝにあり」と云ふた。自分を忘れるとは、善い意味にも解釈されるが、多数は、 己の本分を忘れ、為すべきことを怠り、空想に耽り、得がたきものを望み、為めに益々悩むもので ある。 379

8. 新渡戸稲造全集 第八巻

ども言葉だけは、支那のを其儘に使って居る。 恩の観念は人間の特有 「恩」の字は、漢字を知らぬ者がちょっと見ると、「思」といふ字と間違へることがある。是は 一つには私が文字を知らぬ為か、或は近眼で字が能く見えないのかと考へたら、さういふ訳でもな 「思」といふ字と、「恩」といふ字とは、文字の形からいふても、意味からいふても近いので ある。それはなぜかといふと、此「恩」の字は、上の方は「因」の字で、因って起る所の心といふ 字である。何かものがある、それから起る心といふので、原因の分る心といふ意味ださうである。 ところが原囚が分るとか、因て起る訳の分る心とかは、人間のほかなく、動物にはない。であるか ら「思」と「恩」とは其形を見ても似て居り、又解剖して意味を味って見ても矢張り同じである。 これが面白いことには、外国語でも能く似て居る。英語でも、独逸語でも、似て居る。先づ英語で いふと、「思ふ」、「考へる」、といふことは、「シンク」といふて居る。ところが人に恩を謝する。難 有いといふのは「サンク」といふ。独逸語でも同様で、考へることは「デンケン」、有難うと、恩 のを思ふことを、「ダンケン」といふ。是は形ばかりが似て居るかといふと、さうではない。抑も物 民 を考へるので、始めて謝恩の思想が起るので、考へるといふことゝ、謝するといふことゝは、離る 章 二べからざる心理的の作用である。丁度一つ根から出た二つの枝のやうなものである。ちょっと見て 第 も、「恩」と「思」の字の形が似て居る如く、考の起り方も似て居るといふことが分ると思ふ。 351

9. 新渡戸稲造全集 第八巻

よく見切をつける奴は非凡の人である」といふたが、斜振りしないで、見切りをつけるのは、凡 8 道 の夫、無鉄砲のやり方で、論外である。斜振りして此辺が見切る所と、見切りつけるのが、此老人の 2 云ふ非凡の所である。かく講釈する僕自身にも、見切りをつけるには何処ら辺までを程度とすべき 世か、甚だ迷ふて居る。想ふに、これも日頃の瞑想が積ったならば、各問題によって程度を明かに感 知し得る様になるであらう。思ひと、知ると、行ふとは連絡が甚だ近い。正しく考ふれば明かに知 れる。左すれば篤く行ふに至る。言志録に日く「心の官は則ち思ふ。思ふの字は只だ是れ工夫の 字、思へば則ち愈々精明、愈々篤実、其の篤実なるより之を行と謂ひ、其の精明なるより之を知と 謂ふ。知行一に思の字に帰す」と。而して此所ら辺なりと定ったならば、是より先は縦振りで進む を要する。 四頭の縦振り 縦振りは下腹より起したい 縦振り、是も生理上必らず拠る所があらうと思ふ。子供を見ても、承諾の意を表はす時は、必ら ず縦振りする。これは子供の時から、大人が教へるのを見て、為るばかりでなく、又此習慣が単に 遺伝であるとも思はれぬ。野蛮人さへも首肯即ち縦振りを以て、承諾の意味を表はして居る。この 縦振りは積極的意志を標榜する印である。

10. 新渡戸稲造全集 第八巻

用ゐたしと思ふて居りながら、往々にして、知らず知らすの間に、この両義語を使ふことがある、 自ら顧みて情ないと思ふ。この両義語を使ひ、事情を精確に言ひ現はさぬは、必らずしも虚とはい 。ハッキリと云ふべきことを、ボン はれぬであらうが、少くとも其中には虚の要素が含まれて居る ャリ雲を捉むが如き意味に言ひ現はすのは、半分以上をつく意志が潜伏して居る。故に事実を述 かざ べるにしても、澄み渡った明月に片雲の翳すが如きは、全然虚とはいはれなくとも、少くともの 要素を含んで居ることは否まれぬ。而して斯の如き虚の用ゐられるのは、「も方便」より胚胎し 来ったものであらう。 礼節の濫用に出でたる をつくことを、礼節 (Politeness) に適ふたものと心得て居るものがある。短と礼節、其間にあ まりに懸隔があるらしく見えるが、実は此種の原因に属するが頗る多い。「事実はさうですが、 まさかに事実を露骨に言ふことも出来ませんから」などといってを加へる。これは礼節の濫用で 矯ある。愛国心、忠義の念を濫用すると同じである。例へば古来の歴史上、忠義の為と称して、盗賊 のをしたものがある。国家のためと称して、人を殺し、私怨を晴らしたものも少からずある。此等は 愛国心、忠義の念を濫用したもので、礼節も亦之と同じく、濫用され易く、之が為にをつくの弊 章 + 害も亦著しく増加した。古の武士が途中で逢ふた対手の無礼を咎めて喧曄を売ったことは沢山にあ 3 第 2 る。或は挨拶をせなかったとか、挨拶を為たが、為し方が良くなかったとか、種々なことを言ひが いにしへ