三奪闘の対手 不徳義の対手に対する態度 僕は今まで奮闘の方法は、公明正大であれと述べたが、又かういふ考を懐く人が沢山ある。「私 は御説の如き方法で奮闘する積りであるが、対手が対手故に、とてもこれでは遣りきれぬ。清正は 幸に四方天を対手とした故可かったが、下種を対手としては、清正も犬死して仕舞ったらう。今日 . の日本の実業家と称するものは、殊に然うである。武士道では商売が出来ない。現に明治の初年 に、士族の商法とラムネの罎は決して立たぬといふて居た。四十年後の今日は、当時とは大に違ふ て来たが、情けないことには、まだ此言が通用する。カめて同業者又は其商品を褒めても、対手万 は却って己をくさす。恩を仇で返されることが間々ある。君の説く様な君子的手段は、君子社会で は行はれるであらうが、現時の戦場には禁物である」と論ずるものがある。これは無論否まれぬ議 得論である。少し真面目に世を渡らんとするものは、必らずこの事を感じ、為に少からぬ迷惑を受け 窈る人がないではない。飼犬に手を噛まれるとか、獅子身中の虫とか云ふことは、何の国にもある。 奮況んや徳義の標準の明ならぬ我国に於ては、かゝることは恐らく多くあることであらう。 九又僕の許に達する手紙の中にも、往々此問題に関することがある。先達ても或青年実業家が新に。 第 事業を起し、老練と称せられたる乙実業家と取引を開始し、全く乙を信用して品物を渡した。然る から
に表はれる」といふた事がある。成程物を言ふ所を見、又考へる様を見ても、手の働きは心の働き 道 の方によって異ふて居る。困った場合には手を頭にのせる。所謂間のわるい時には或は鼻を弄った り、或はロ辺を撫ったりする。夫々の場合によって不同はあるが、間の悪い時に手の置き所がなく 世て困ることは事実である。往年僕が札幌で中学校を預って居た頃、毎週一回全校の学生を集めて講 話して居た。この席上、僕が「某」と一声呼ぶと「ハイ」と返事して、呼ばれた生徒は起立する が、手を持て余して、頭に載せたり類を撫ったりする。「手を頭にのせて何にする ? 」といへば頬 の辺をいちる。「頬をいちって何する ? 」といへば手の遣り場に困るといふ者が多かった。頭脳が 混雑し、静に統一を保って居らぬ時、其名を呼ばれると、脳髄の作用が直ちに手に表はれ、狼狽し て手の遣り場がなくなるのであらう。僕はこの癖を矯正せんとして、屡々之を試みたことがある。 見る人が見ると大抵真髄が分る 独逸の文豪レッシングは曾て美術を説いたる中に、言ふたことがある。「画家が筆を執る前に は、必らず豫め脳中に理想画を描く。其画たるや所謂理想的で、形状なり色彩なり、調和を保ち濃 淡の美を極めて、一点の非難を容るゝ余地もなく出来て居る。かくて脳中の意匠通り其理想画をカ ンヴァスに写さんとする時、脳髄から指の頭まで伝はる間に、この理想が数段の堕落をする」とい ふた。即ち夢に見た如き理想画は、到底画き出されぬといふのである。肢体なり五官なりは、昔よ り東西の聖人が教へて居る通り、魂の従僕である。家来は主人の命令通りにせねばならぬ。それが さす いぢ 194
は困難であるが、出来ぬことでない。 の 五、自分が悪かったと思ふ抑制法 世他人の怒って居る時、彼が怒るのは己が悪かったからであると、思ふことも亦怒気を抑ふる一法 あたま である。対手が怒って居る時、己が悪かったと思ふのは辛いことである。又斯く思ふのは頭脳を二 重に使ふのである。即ち怒気を抑へんとするのと、自分が悪かったと思ふのとで、一は働きかけと なり、一は受身となって、二重に頭脳を使はねばならぬ。 自分が悪かったといふても、卑屈に陥りさへせねば、此法は怒気予防法として、最も品のよいも のである。怒れる人に怒気を以て報い、又は嘲笑を以て答へるのは、火に油を注ぐが如くで、益々 相互の怒気を烈しくする。此場合に「許して呉れ、己が悪かった」と寛大の精神で、対手を取扱っ たなら如何である。対手は怒ってゐても、感激するであらう。自分の意見は議論として精確であ る。間違がない。只対手に対する意見の発表振が悪かったので、彼を動かすことが出来なかったの ったな である、と思ひ、又「彼を怒らせたのは自分の説明が拙かったためである」と自ら責任を負ひ、而 して「君はさうはいふが、この方面から斯く論ずれば、君のいふ通りに一致する」といふ様に、変 った方面から説く時は、今まで怒って居た対手を、成る程と首肯させることは稀しとせぬ。対手の 異った見地からも見てやらねばならぬ。 6 5
鹿ものを対手として争ふのは、自分には余りに子供らしい。自分が彼等に対し怒る丈けにかれの価 これしきのことに怒る様では、自分が勿体ないと、想ふのである。つまり対手を馬鹿者 値がない。 扱ひとし、自分は之を対手として怒るのは、恥かしいと思ふのである。これは僕の実験上、相当に 効果があったが、斯かる観念を養ひ始めると、追々傲慢となり、人を見下し、軽蔑する様になり、 人に対し怒るよりも、却って更に悪い感情を養成するに至ることがあると思ふて、終に中止した。 四、対手を憐れな者と思ふ抑制法 若し又対手が怒ったときに、此奴気の毒な男である、憐むべき者であると、却って寛大に見るこ とも亦一法である。がちゃ / \ つまらぬことを言ふ時には、却って好意に之を解釈するのである。 最初の間は多少辛い思のせぬでもないが、自分の経験によると、決して出来ぬことではない。例へ ば若し対手が気に障った言行を表はしたなら、一寸退いて考へる。彼は朝飯を喰はぬので空腹なる おだやか ために、気が苛々して居るのでないか。一家に不和な事情があって、気が平穏ならぬのではない 法か。或は妻君が病気したとか、子供が死んだとか、老たる親が負傷したとか、何等かの事情で家賃 彼の心を激 抑が払へぬとか、友人が苦しい境遇に陥って居るとか、その他自分の目には人らないが、 , 怒して苛立たしむる事情があって、其不平を僕に移すのであらう。誠に気の毒な奴である。自分の苛 章 苛して居る心の不平を僕に漏らして、彼の心を慰むることが出来るなら、よろしい僕も受身となっ 四 第 て受けてやらうと、斯う思ふたなら、怒気も之を制することが出来る。この寛大な精神を修養する 5
て居るが、相当の礼節を守ることは、極めて必要である。 の友人其他同等の人々に対する礼節は、之を形式に現はすことでなく、対手に対し衷心から出た敬 意を表明するものでなくてはならぬと思ふ。例へば貴下とか、私とか云ふべきを、君、僕と云ひ、 世四角張ってお辞儀する代りに、軽く頭をうなづく様にしてもよい。衷心から、対手に対して充分の 敬意を表するなら、それが即ち礼節に適ふたことになる。 目下の人に対してさへも、注意すれば其尊敬すべき長所が見出される。況してそれ以上の人々に は一層尊敬すべき長所が必らすある。殊に朋友として交はる人は、必らす尊敬に値する位の人であ るから、其人の真価を認めれば、仮令形式的に四角張った礼をせなくとも、衷心から尊敬の念が湧 き、従って其行為も必らす礼節に適ふものである。 友人間にも遠慮する必要がある 知人に逢ふても、対手から礼するのを待って居り、自分から進んで礼するのは、何となく自分を 卑下する様に思ふものがある。これは若い学生間などに能く見ることである。自分から先に礼をし たからとて、決して己を卑下するものでない。否な、是は却って自分を尊からしめる所以である。 又対手が先に礼をしたとて、決して対手が自分より劣った者とも見做されぬ、寧ろ敬すべきであ る。故に僕は知人に対しては自ら進んで礼をするがよいと思ふ。 友人、殊に青年間では「オイ、貴様、何々をしろ」といふ様な粗い言葉を用ゐ、又之を其動作に 9
次に夫人は三好氏に向ひ「今は何をしてお在ですか」、「法典の調査に参りました」、「法典は何を 道 の御調になりまする」、「訴訟法を調べたいと思ふて居ます」、「何故特に独逸を選んで御調になるので す」といふことより、独逸の法律は英仏等の規定と、如何なる相違があるか、又其得失は如何な 渡 世ど、対手をそらさず、快感を以て話す様に話頭を進められた。長瀬氏に対しても、同じく歴史に関 し、夫から夫へと問を発した。 此夫人は経済学派のことなり、法典のことなり、史学研究法のことなりは、一通りは知って居た のであらう。知って居らねば、こんな質問を起すことは出来ぬ。少くとも歴史経済派の研究が千八 百四五十年頃、ロッシェルに創められた位のことは、承知して居たのである。夫れを知った振をせ ずに、対手に喜んで語らせ、得意に述べさせ、自分の知識を増進するといふは、実に交際術に長け たものといはねばならぬ。 是は心がけ一により、何人にも出来ることである。何人よりでも学ぶことが出来る。只注意すべ きことは、対手の語り得る話題を選ぶことである。対手の不得意の問題を提出すると、対手をして 恰で試験問題でも出された如く思はせ、却って不愉快を感ぜしむるであらう。故に多少の注意を用 ふることは必要であるが、人には必らず就て学び、利益すべき長所がある。少しく注意すれば必ら ず之を発見し得るであらう。例へば子供に就て聞いても、今日の幼稚園が進歩し又如何なる欠点が あるか等の状態を察することが出来る。自分に知識を吸収する考あれば、子供からさへも出来る。 況して其他の応対に於てをや。荀くも他人との応対から利益を亨けんとする心懸だにあれば、それ 130
ば、何に付けても今いった通り難有いと思はないものはない。 道 の 宿屋の女中に対する謝恩の念 渡 世非常に蒸暑い或年の夏、斯ういふことがあった。私が四国へ行って、或温泉場の宿屋に泊った。 私の部屋は遠く隔った三階で、上り下りに随分骨の折れる所であったが、手を一つ拍っと、下から 下女がやって来る。私は病気をして居って御飯が食べられないので、葛湯を飲んで居った。葛湯を 拵へて持って来て呉れる。大きに難有う。どう致しまして : : : 余り口が甘たるいので妙な気がする から、茶を一杯貰ひたい。 さういふ風に何んの気なしにやって居ると、二回目か三回目に、下女が いふに、旦那どうか難有うと仰しやって下さるなといふ。なぜ。なぜといって当り前です。私はこ の家の女中です、お客さんが手を叩けば来るのは当り前ですといふ。私は成ほどと思った。法律学 者は権利だの義務だのといふさうだ。それは満更虚でもなからう。さういふことも世の中にあるや うだ。私はお客である。手を叩いて下女を呼ぶ丈の権利はある。又手が鳴ったら、来なければなら ぬは、下女の義務である。それからいへば難有いなどといはなくてもよい。それは当り前だが、ち よっと違った所がある。成るほど手を叩いてお茶を呉れといったら、持って来るのはお前の勤だら うが、それはお茶の出しゃうにある。例へばお茶を持って来て呉れといふたら、お茶を盆に持って 来て、ハイお茶 : : : 私が要求したお茶は確かに来て居るが、ソンナ茶は不味い。お菓子を持って来 あるヘいとう て呉れ。ハイお菓子 : : : 、有平糖でもソンナのは苦い。なぜかといふと、同じく茶菓子を出すにし こしら 360
、い尋 一「敵に対する礼節 三、朋友同僚に対する礼節ーー朋友同僚に対する礼節の本義・ー・友人間にも遠慮す る必要があるーー向等者間には其長所を見るがよい 四、目上の人に対する礼節 : ・ 礼節を過重視するより生ずる弊害 一、地位人爵ある人に対する礼節 地位に対する礼ーー人爵ある人に対する礼節の根源ーーー人爵に対する尊敬は如斯 して起る 一「親に対する礼節ーー・親子間にも礼譲が最も大切ーー・・真情を打明けて親みを加へ た実例 三、目上の人に対する礼節の修養法ーー目上の人の長所を発見せよ・ー・ー神仏の礼拝 も礼節修養の一法ーーー人に対する尊敬は人格の向上を示す 第七章応対談話・ 一、応対上に於ける邦人の欠点 : 共同生存は人類発展の最高性格ーー日本人に共通せる悪癖 二、応対談話の七要件・ 一、応対に気取ることを止めよーー二、人に対して城壁を構ふる勿れーー三、応対 には商売気を出す勿れーー四、応対に慎むべき追従ーーー五、謙遜し過ぎた不快の応 対ーー六、対手によりて応対の言語を選めーー七、対手より利益を得るを心懸けよ 対手より利益を受くる応対の秘訣 3
いはれぬ。元来礼節なるものは、決して人工的のものでない。人間社会進化の自然的必要条件であ のって、国家や、教育や衣食住と相並ぶものと思ふ。 同等者間には其長所を見るがよい 世 同等の人々の間には、往々にして競争心が起り易い。対抗して対手を凌がうとする。従って常に 対手の短処や欠点のみを探して居る。人間は神や仏でない。短所や欠点を探したなら、幾らでも発 見される。而して対手の短所を発見するときは、自ら其人に対する尊敬の念が消え、無礼をも敢て する様になる。故に僕は屡々云ふ如く、人の短所を見ないで、長所を見る様に心がけたい。長所を 見れば、自然に其人に対する尊敬の念が湧き、礼節を守れる様になる。 同等の人々の間に円満なる交際を永続するのは、単に相互の間に愛があるだけでは、之を期待さ れぬ。愛ももとより必要である。併し此他に相互の間に尊敬の念があって、礼節を守ることが、更 に必要である叫知婦間の愛は最も濃なものと称されて居る。併しそれが只一の愛のみで結び着けら れて居たなら、必らず永続せぬであらう。何とオは、は感情であるから、動き易い。故に愛のみ で結び着けられた は、若し相に其欠点を知り合ふたなら、其愛は消えて、嫌悪の情が起るか に尊敬し合 らである。然るに夫は其妻の美点を認めて尊敬し、妻は其夫の長所を見て尊敬る ふたなら、愛情は時に動かされることがあっても、夫婦の関係は動かぬのである愛の最も濃な夫 婦の間でさへも、相互の尊敬は斯く必要である。況んや友人の間に於ては、一層必要なものであ 6 9
ために、その人格が下る様な人であれば、是れは未だ達せざる所ある人である。活きた社会が要求 ・ : 例へば村長となるべき場合に臨めば、村長ともなる、車を挽く必要あれ する役を甘じて勤め、 ば、車も挽く、一国を預って之を料理するだけの力を持ちながら、この世の中に引受けた役があっ たなれば、その役相応に身を処し、言葉を用ふるがよい。斯く世の中の役割に応じ、目上に対して おじぎし、礼をするのは、決して卑屈とならぬ。かゝる人が其下に対し做慢無礼ならぬことを以て 推し考へると、其心情を察することが出来る。上に諛ふ人に限り、烈しく下を虐げる。下を虐げぬ 心懸ある人は、仮令上に対し、如何に叮嚀なればとて、決して諛ふものでない。 七対手より利益を得るを心懸けよわ . . 、を 0 ' 「イ、 応対する時は、何か対手より利益を得る様に心懸けることが必要である。所謂知らぬことを知ら ぬとして、対手より何ものかを学ばんとするのである。是は容易なるが如く見えて、小胆者には最 も難しいことである。同じく難しいことであるが、学ばんとする人に三様の相違がある。即ち全く 話知らぬ人、少し知った人、及び大に知った人である。この三種の区別はあるが、其知らぬことを知 らずとして、他より聞くことを厭がるのは一様である。蓋し知らぬ人はひがみ根性を起す。こんな 対 応ことを知らぬといふては、馬鹿にされはせぬかといふことを前提として、防禦線を張らうとし、知 章 らぬことも、知った風をして、その知らぬ所を掩ひ隠さんとする。従って人に聞くことが出来ぬ。 7 七 又生知りの人に限り、何事も知ってゐる様に、自ら許す故に、仮令知らぬことでも、人から物を聞