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検索対象: 新渡戸稲造全集 第八巻
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1. 新渡戸稲造全集 第八巻

の 第三章世は 世 世は情か又は仇か なさけ 「旅は道連れ世は情」とは誰もいぶことであり、又広く伝った言葉であるが、この言葉が広く世 に行はれるのは、何か之と相反対するものがあるからに違ひない。人は物を喰ふ。併し喰はぬ人は ないから、殊更に人は物を喰ふといふ言葉が世間へ広がらぬ。若し何れの国にか、物を喰はんで活 きて居る人があれば、或はこの言葉も金言となり、人が感心したかも知れぬ。之に反し「花より団 子」といふと、何だかそこに上戸と下戸の区別がっき、「あゝあれは喰ひ主義だ」「ア、あれは飲 み主義だ」といふ様に分れて来る。かういふ風に、言葉には何か相対するものがある。「世は情」 といふ言葉が今日広く世間に伝へられてゐるのも、要するに世の中に情を以て通らない人があり、 世は情と思はないで、世は仇と思ふ人があるからであらう。実際また世の中には、世は仇と思ふ人 が尠くない。甚しきに至っては、人を見たら泥棒と思へなどといふものもある。僻み根性も是まで に進んだら満足するであらう。 僕は汽車に乗る毎に、どうも汽車に乗ることを知らない国民があると思ふことが多い。一枚の切 かたき 6 3

2. 新渡戸稲造全集 第八巻

これといふ明白な理由もなく、又自覚した動機もなく、只口先だけ みもなく、羨むこともない。 で、無意識に悪口することが屡々ある。読者も屡々之を聞かれた経験があるであらう。「あの馬鹿 が」とか、「彼奴めが例の調子でどうした」とか、「お人好が」とか、いふ人は無邪気であっても、 用ふる文字が穏当を欠けるに止まる悪口もある。傍に聞く人の耳には、厭味たつぶりに聞ゆるも、 いふ人はそれほどにも思はず、只無意識的に悪口を放つ。尤もこれとても全く無邪気と称すべきで ないかも知れぬ。絶対的に無邪気なら、邪気を含んだ言葉の出やう筈がない。若し真に達した人の 言であるなら、必らずその言葉の中に、一点の厭味をも含んで居らぬ筈である。 併しかういふことは確にある。即ち自分には邪気なくとも、世の中で普通に用ふる厭味の言葉 が、如何にもをかしく聞ゆる為に、それを其儘、滑稽的意味に転用することがある。いふ人の思想 には邪気もなく、只滑稽の要素として用ふる言葉である。併しこれは少くとも、対手に、その滑稽 を理解する位の頭脳がなければ、不快の念を与ふるものである。狂歌を見て面白いと思ふことは沢 山あるが、それを、己の悪口するものと思へば、何の狂歌も癪に障って致方がない。一休和尚の歌 は抽象的に人生を罵倒するものが多いが、自分も人生を、同一の程度ならぬとも、梢同じく見るだ ロ けの理解力があって、之を読めば、始めて趣味が湧く。然るに「これは己のことをいふて居る」 「己にあてつけて馬鹿にする」と解すれば、一休の歌も不愉快の種子となるであらう。滑稽と悪口 章 十とは、折々その区別を分っことの出来ぬものが沢山ある。故に滑稽に富む人は、対手を見て言はな 5 2 第 いと、無邪気の滑槢が却って直ちに悪口と誤解されることがある。而してそれが単に誤解だけで済

3. 新渡戸稲造全集 第八巻

月 六月ニ十一日 人は皆人たることを忘る勿れ。位なくも人は人、財なくも人は人、智なくも人は人、小前の者の人 格を重んずべし。うるさいと思はん時も、女房、子ども、下女、下男の用なき言葉にも一応は応ず べし。人の言葉は心の発現、決して無視する勿れ。 あい / 、と返事よければ睦まじく 心に不足あれば不返事 労働は天の法則。手足を労するも精神を労するも、天より見れば共に尊く、人より見ても軽重は分 ち難い。働くことを恥とする勿れ、働かざるこそ恥と知れ。 長生と福を願はゞ働けよ 流るゝ水のくさらぬを見よ 月雪も花も紅葉もぜに金も 我が身にあるぞ働いて取れ 六月ニ十ニ日 487

4. 新渡戸稲造全集 第八巻

、ア「恩」の字は「イックシミ」と読むのかなと思っ して漢字で「愛」といふ字が書いてある。ハ 0 のて、尚ほ能く見ると「メグミ」とも書いてある。それから私は或漢学者と和学者に聞いた。一体普 3 通「メグミ」といふと「恵」の字が書いてある。「イックシミ」といふと、「愛」の字が書いてあ 渡 世るに、「恩」といふ字に「イックシミ」だの、「メグミ」といふやうな、意味がありませうかといふ たら、それは訳せばさう訳すのであるが、「恩」といふ字は、支那音の通り「オン」といふてゐる のである。歌を詠む人でも「オン」と読んで、殆ど大和言葉同様になってゐるといふことを聴い た。然らば日本人は、恩といふことを知らないかといふと、さうではない。チャンと知ってゐる。 知ってゐるけれども其言葉がなかったのである。 いくらもさういふことがある。学校で捧読する教育勅語の中に、君には忠を尽せ、親には孝を尽 せといふことがある。ところが「忠」といふ字でも、「孝」といふ字でも、字引を見ると、「忠」の 字は「タダ」となるが、君にタダを尽せとはいはない。「孝ーの字でも「タカ」とか「マメ」とか あるが、親にマメを尽せとも、親にタカを尽せとも余りいはぬゃうである。矢張り漢語で「カウ」 とか、「チウ」とか読んでゐる。日本人には、孝だの、忠だのといふ考がないのではない。実際の 考はあっても、文字丈は支那から借りて使ってゐるので、さういふ例は沢山あらうと思ふ。多分毎 日食べる米といふ字も、日本の純粋の言葉ではないと思ってゐる。話が脇に行くからそれ位にして 置くが、実際は名丈を他から借りて居ることが沢山あると思ふ。恩もそれと同じく、日本人は実に 其歴史から考ても、恩といふ考は、是非持って居らなければならぬといふことを知って居る、けれ だけ

5. 新渡戸稲造全集 第八巻

第二十章民の恩 名を借りてゐる日本の思想 私の演題は、御覧の通り「民の恩」といふのであります。「民」といふことは、和学者にでも聞 くと、むづかしい説明があるか知らぬが、私が炫に「民」といふのは、あの人此人といふのでな すべて 、親類友達でなく、周囲にある総の人を皆入れて、所謂国民とでもいふか、さういふ意味で用ゐ たのであるから、其お積りでお聴きを願ひます。 「恩」といふことは、誰でも知って居る。婦人小児でも、「恩知らず」などといふことの分らぬ ものはない。それこそ人間本位ではない、動物本位である。此世の中に生れて来て、恩を知るもの は人間である。恩を知らないものは、畜生に劣るといふことは、何とかいふ難有いお経にも書いて のある。お経を読まなくても、私共小さい時から、恩知らずといふと、犬猫同然に悪るくいふのであ 民 ることを承知してゐる。 十 「恩」といふ言葉は、今こそ日本の言葉になり、一般に通用して居るが、元を質せば漢語であっ 9 3 第 て、之に和訓が付いてゐる。字引を見ると、「メグミ」或は「イックシミ」といふ訳がある。さう

6. 新渡戸稲造全集 第八巻

三月ニ十七日 虎は死んで皮を遺すと雖も虎の姓名の記録なし。人も後世に名を遺すよりは、事業と思想の恩恵を 施すに如くはない。業大にして名を覆ふ程なれば、名は自然に目立たぬなり。名のみ残りて、業の 消えたるは誉にあらず。 名に迷ふ浮世の中の大たわけ 我が名も知らぬ者となれかし 三月ニ十八日 一心に驕ある時は人をうらむ、驕なき時は人を敬す。 一心に私ある時は人を疑ふ、無き時はうたがひなし。 一心に誤ある時は人を恐る、あやまり無き時はおそるゝ事なし。 ちよく 一心に邪見ある時は人を害ふ、直ある時はそこなはず。 やはら 一心に怒ある時は言葉厲し、怒なき時は言葉和かなり。 月一心に貪ある時は心を諂ふ。貪なき時は諂なし。 一心に堪忍なき時は物を傷ふ。堪忍ある時は物を整ふ。 はげ へつら ( 徳川家宣 ) イイ 3

7. 新渡戸稲造全集 第八巻

道 の ら、い 第十七章廉耳 世 廉恥人は有らゆる徳の根本 しゅうお 孟子は羞悪の心は義の端なりと云ふたが、カーライルも此意味を推し広めて、廉恥の心は有ゆる 徳の根本とまで断言した。総て道徳に関する言葉は、用ゐ様によって、広くも狭くも意味が取れる ニ一目 が、一の言葉を用ゐて、其中に何もかも総て含ませることの出来る場合も少くない。例へば孝を論 ずるに、狭く解して両親に対する道念を指すとすることも出来るが、又之を基とし、斯心を以て兄 に事へれば悌となり、斯心を以て君に事へれば忠となり、斯心を以て朋友に交はれば信となる様 に、其意味を推し広めれば孝といふ名にて有ゆる徳を表示することが出来る。又忠を執っても、悌 を執っても、其意味は勝手に伸縮することを得る。是は当然のことで、恐らくは如何なる徳も、他 との関係を離れ、孤立して其区域を判定し、自分の領分とある所だけに、働くことは出来ぬであら 我々は屡「某は義には強いが、仁の心が乏しいーとか、或は「某は信はあるが、孝に欠けて居 る」とかいふて、他人を評する言を聞く。是は一方には義といふ観念を極度まで推し広め、他方に 302

8. 新渡戸稲造全集 第八巻

が、犯罪的傾向を有するものと見做される。聞けば宴会の席上に、芸妓などは妙な手つき、顔つき をしたり 、又は隠語様の言葉を交へて居ることがある。惟ふにこれは、芸妓等が其思想を言ひ現は すに、国語が不足するためでもなく、又従来の国語にて言ひ現はされぬ新思想を起したる為でもあ るまい。普通一般社会に行はるゝ言葉にて、更に容易に言ひ現はせることを、ワザと一種の妙な暗 語又は手振顔つきを用ゐてするのである。是も非社会的の行為といはねばならぬ。併しこれとても 決して、独りボッチで出来るものでない。ャハリ仲間があって、互に其意味を解し通ずるのであ る。斯く人間が共同生存せんとする性質をソシアリチー ( 共同生存する性質 ) と称し、人類をして今 日の程度に発達せしめた最高の性格である。 昔の君子が教へた礼といふことは、つまりこのソシアリチーのことであると思ふ。多数が集まっ た時、楽を奏するを礼といふは、多数の歩調を同ふせしむるに、音楽が最も適当して居るからであ る。又互に語る時に、怒ったり、大声を発したり、人の気に障る様な笑方をするは、兎角声に現は れるものである。音楽は其調子を調へて、此等の欠点を矯めんとしたものではあるまいか。古人は 話楽は以て風を移し、俗を易ふべしといふたが、音楽は真に人のソシアリチーを訓練するものである と思ふ。 対 応 章 七 第 日本人に共通せる悪 然るに日本人には一般に妙な悪がある。傍若無人の振舞する人を賞め、或は人の面前で無礼な 113

9. 新渡戸稲造全集 第八巻

思ふものこそ、最も憐むべく望なき人と云ふべきである。もう少し進まねばならぬ、己は未だこれ しきであると、常に自己の不足を反省して、始めて向上し得るのである。宗教が非常の力を有する のも、其教の中に罪の観念が含まれ、常に教徒に向上を促すからである。もし此観念なく、従って 廉恥心なきものは、進歩の見込のないものである。「恥を恥と思はぬ者は恥かきたる例なし」耶蘇 が罪人と交り、自分の罪を自覚したものを愛し、自ら義人なりと誇る者を屡罵詈したのも之が為で あらうと思ふ。 我国人には斯る廉恥心あり 日本の習慣には自ら謙遜する身振が多く、之を言ひ表はす言葉も亦沢山ある。「お恥しうござい ます」「赤面の至り」「汗顔の次第」「恥入る」「面目ない」「面出し兼ねる」「穴に這入りたい」と か其他種々な文句がある。殆ど普通の時候見舞の手紙にても、十中の六七本はこの種の文句を使ふ て居る。「疾く御伺ひすべき処を、御無沙汰いたして赤面の至り」とかいって、恥づるといふ御念 らが普く国民の頭脳に広まって居る。夫に就いて僕は屡々次の如き感を懐くことがある。英米人が其 恥子供を戒める時、「汝の為ることは正しくないぞ」 (That 一。 not right. ) といって、対手の心を改め させるのが普通であり、又効のある言葉として使用せらる。然るに日本の子供には、この位のこと 章 + を云ふても其効力が甚だ少ない。之に代ふるに「汝はそんな悪い事すると人に笑はれる」と戒めれ / 第 3 ば、恥の観念が鋭敏に働き、心を改める気になる。是は何人も日常に経験して皆知る所であらう。 かほ

10. 新渡戸稲造全集 第八巻

虐待し易くなる。さうすると、つまりは損得勘定となって甚だ不利益となる。 五惜まれる主人の心懸 活して使ふのと殺して使ふ法 人を使ふに、して使ふのと、殺して使ふのとの区別がある。社会上より見ても、活して使ふこ とは、何人も皆望む所であるが、殺して使ふといふは、文字こそ不穏なれ、意味の取り様によって は、全然悪いものとは限らぬと思ふ。殺して人を用ふるといふは、使はれる人の心を悉く奪ひ、全 然主人の為には己を捨て、即ち身を殺して使はれしめる意味にもとれる。折々新聞雑誌等に、山県 公は人を殺して用ゆるといふ言葉が見えるが、この言葉は無論亜 ( い意味にもとれるが、山県公の人 格が世の人々を呑み、公に使はれる人をして、自己の意志を棄て、服従せしめるといふ意味なら ば、此文字も必らずしも悪い意味を含んで居らぬ。寧ろ人を使ふものは公ほどにしたい位なもので 人 ある。此程度に達すると、使はれる人が主人を惜み、主人の為なら、己を惜まぬといふ所に達す る まる。又主人より見て、彼は一命をも己が為に捧げる了簡であると思へば、之を用ふるにも惜んで使 ふ。惜んで使ふと云ふ以上は、殺さずに活して使ふの意にもとれる。恰も我々の愛する器を大切に 章 十すると同じ様である。傷けぬ様、減らぬ様に惜んで使ふ。更に一歩を進めると、その器を一層善く 7 第 してやらう、育てゝやらう、伸ばしてやらう、磨いてやらう、自分ばかりでなく、世間一般の人を