6 道 2 世渡りの道 の 前に述べた如く世を去って独り楽み、或は独り向上する真味は、実際活ける世界に於て、事に就 世いて始めて現はれ来るものである。空に考へ理想に憧れるなどいふてゐる間は、まだ / 、人間の活の ける甲斐ある本味を解さぬものではなからうか。故に僕は人が各其天命を完うするには、自分が現 在の位地に於て、日々に出会ふ出来事に身を処するに、至誠を欠かぬ様に心懸けるにあり、而して たかき 斯の如くせば、漸々に高僧智識の達したる悟道の高に達し得るものと思ふ。世渡りの道なるもの も、卑近なる毎日出逢ふ事柄に就き具体的に心得べきことを知るにある。手の扱ふ仕事が如何に卑 くも、足は如何なる泥中を蹈むとも、思想が高潔なれば、為す業務も尊くなり、足元の泥中より蓮 ることで、正しき清き心を持ち、心に慾なく、 虚心平気に世を渡らば、唯々一人道を歩む様だが、どうせ世の中は独り旅の出来ぬものであるか ら、必らす感応が何処にか起って、同志或は同気の人が或は現はれ或は隠れて、我々を援助して呉 しひ れる。徳孤ならず必らず隣ありといふ如く、強て同志者を求めなくとも、自ら友が出来て、世渡り の主意を全うするものである。独り道を蹈めば道が固まり、次の者が歩むに歩み易くなり、斯くて 後より来た人は益々始に蹈み分けた人の恩を謝するに至る。或は初に蹈む人も後から来る人も、名 まじはり も知らず顔も知らんでも 、いはゞ霊的の交が起る。爰が世渡りの慰安とも楽とも、又極の枠とでも いふべきものと思ふ。
例をあげるならば、『一日一一一一口』より十一年後に、新渡戸の親友内村鑑三が『一日一生』を著わして いることを知るものも少なくないであろう。しかしながら新渡戸の『一日一言』は決してキリスト 教徒の祈りのための書物ではない。それは本書の『序』の中のつぎの文章によっても明らかであ 「 : ・ : ・世に行はれてゐるこの種の書は、多くは基督教的の性質を帯びてゐる為に、その教理を知 らぬものには解し難い句がある。又外国の書をそのままに翻訳したものも行はれてゐるが、これ も、西洋思想に接してゐる人にあらざれば解し得ぬ句がある。本書が既出の類書に比して聊か特長 とすべきは、文章の簡易な点と短き点とである。これは偏に俚耳に入り易からんを期した為で、恐 らく、小学校の課程を卒へた者ならば必ず苦しむまい 新渡戸は『一日一言』を編むにあたり、彼の人生において「自分の助けとなった格言」を集めた といっている。ところでここに集められた文章を見ると、全体を一貫しているひとつの姿勢、また は原理といったようなものがある。それは歴史上の人物やその言葉を、たんなる知識として覚えた り学んだりするのではなくて、人生如何に生きるかという問題についての教訓として、それらを受 け取ろうという姿勢である。そしてその内容をなすものを一言でいうならば、武士道の精神ではな 説くて庶民道の精神である。あるいはもっと正確ないい方をするならば、武士道を胸に秘めた庶民道 だといえよう。ただしここでは秘められるべき武士道は、引用された文章の作者である儒者や武将 解 の名を明示することによって、新渡戸の他の通俗啓蒙的な著作よりも表にあらわに出ている。これ 607
月 九 九月十九日 情慾は生存の法則なれば、全くこれを無視するは不合理の要求である。故にこれを尊重するの道も 設けてあるが、さてその道の広狭は兎も角、世の道と認められたるものは、破れば必す罰あるもの と心得べし。 修行者は男女のなかを遠ざけよ 火には剣もなまるものなり いかばかり恋の山路のしげければ 入りと入りぬる道を忘るる 九月ニ十日 もっとも 権利も義務も道理ではある力しー ゞ、、まゞ慾の学理に過ぎない。慾で繋がれる社会には道理至極の理論 なれど、夫婦、親子、兄弟、朋友の間柄には、愛と真心を以て此れに代用したし。 兄弟が田を分取りの争ひは 田分けものとや人のいふらん 親友の仲も互に敵となる 欲ははげしき剣なりけり 533
第十九章同情の修養 武士道の特性は物のあはれを知ることである。あはれを知るといふのは、世の無常を悟り、悲哀 を感ずることである。これは抽象的の談でもなければ、一身上のことでもない。人の苦を見て、あ よわき あさぞ苦しからうと思ひ、弱を扶けるとか、義を守るとかいふのも、総て物のあはれを知るからで ある。古来君辱めらるれば臣死すと教へてある。是は君が辱められたから、自分も残念であるとい ふ丈けではない。君はさぞ御無念であらう、臣下として見るに忍びない、誠にお気の毒であるとい ふに対する同情から起ったのである。若し単に君が辱められたから、自分がくやしいとか、或は 恥しいとか云ふので、臣たるものが死するなら、それは極めて意味のないことになる。武士は相身 いひあらは たがひ 互とは、古来武士の間に用ゐられた言葉であるが、人の苦を吾が憂とする武士の特徴を言明したも のと思ふ。故に武士道の武士道たる所以は要するに同情にあると思ふ。維新以前にはこの武士道が あって社会を維持した。優勝劣敗とか法律万能とかいふことは、一部の真理を含んで居るであらう が、之は単に消極的の働をなすのみで、真の社会の維持と進歩とは之のみでは得られぬ。更に同情 てふ大要素がなければならぬ。 二同情の修養法 同情は何人にも修養される うまれ 元来人間は生ながらにして同情があり、且又既に此世に生れると共に、同情を深くする様に育て あひみ 337
五月十五日 日人跡なき原野を跋渉すると雖も、心直ければ正道を行く者。道ならざる道を踏みて歩むは、進むに 一あらで退くなり。理想を慕うて世を辿るものは、途中で倒れても成功の人。名利を貪って奔る者 は、目的に達しても失敗せる人。 ( 下田歌子 ) 道の為め手折るとならば姫小松もとより千代は願はざるらん 五月十六日 寛政四年 ( 西紀一七九二年 ) の今日は、林子平が禁錮せられて、平然として縛に付いた日。彼れ嘗 て日へり、 克己は己に勝っと云事なり。己とは人慾の私にて、手前勝手なる事皆己なり。此己を押除る事克 己なり。 復ネは慾ー こ勝ちて道と義に叶ふ様にする事なり。事物皆礼不礼あり、一々顧るべし。或は妄りに やまひ 怒気発る時など、何故如此怒気至るやと顧れば、元より私の我儘より起る疾なれば、一度顧みて 忽ち消散するなり。最も是等の処大に勇を用ゆる所なり。 堪忍と聞けば易きに似たれども己に勝つの替へ名なるべし ( 林子平 ) おこ イ 68
九月十ニ日 気に合はうが合ふまいが、自身一人の世の中にあらざる以上は、何人も一定の使命を以て生れ、使 命を果さん為に存在する者と信ぜねばならぬ。然う考へれば、甲も乙も丙も丁も敵も味方も、現は 月れやうこそ異なれ同じ天道の一片。 峯の松谷の柏木いかなればおなじ嵐に音かはるらん 天地の一つ心を染め分けて千草のいろに現はれにけり 九月十一日 天保十四年 ( 西紀一八四三年 ) の今日平田篤胤歿せり。 神は我が神なり、我は神の人なり 神はよし神とあらすも我や人ひとたる道を好まであらめや 神は我が祖なり、我は神の子なり 神はよし祖とあらずも我や子の子たらん道を尽さであらめや 神は我が人なり、我は人の人なり 人はよし人たらずとも我や人ひとたる道を知らであらめや おや ( 平田篤胤 ) 529
第二には、『武士道』をはじめとするいくつかの英文の著作がある。これらの多くは、日本の歴 史や文化を外国に紹介するという意図をもって書かれたものであるが、その内容から見ても、また 凝りに凝ったその英語の文体から見ても、すべての外国人を読者として相手にしたものとは思われ ない。新渡戸が何度もくり返して語る如く、彼がカーライルをこよなく愛読していたということ、 また彼が外国人の読者を意識して多少の気負いを感じながら書いたということを認めて、それを差 引いてみたとしても、なおかっ彼の英文の著作は、外国の知識人、エリートたちを読者に想定して いたと判断せざるをえない。それも第一級の知識人、エリートたちを、と思われるのである。当時 の如く、欧米諸国の人びとがわが国について、ほとんどまったくといってよいほどに無知なこと を、幾度かにわたる海外生活によって知りつくしていた新渡戸は、外国に向ってものをいうなら ば、漠然と対象も定めずに語るのではなくて、なによりもます外国のすぐれた人たちに焦点をしば るべきだ、と考えたのではないだろうか。新渡戸のこの狙いが成功したかどうか、それを知るため の資料は十分とはいえない。しかし、時のアメリカ大統領ルーズヴェルトが『武士道』を六十冊も 買って、子供たちや友人知己に配ったという逸話は、少なくとも彼の意図がそのまま受け取られた 一例と見なすことができるだろう。 説第三には、啓蒙的、通俗的な人生論、処世訓に関する著作がある。それは『帰雁の蘆』にはじま って、『修養』『自警』『世渡りの道』『一日一言』『婦人に勧めて』など、明治の末から大正、さら 5 に昭和初年にかけて、その当時のベスト・セラーとなった一連の作品である。これらの作品は主と
世渡りの道
言 日十一月三日 一腹が立った時の顔は如何に醜を極むるかを思へ。我が怒を恐るゝ女子供を見て、我れに威厳ありな どと思はゞ誤の甚しきもの。顔色面相狂大に似ればこそ、人は一時避けるなれ、恐縮すると思ふは 自惚。 限りなき腹たっことの有りとても 色にもらして声高うすな 十一月四日 富と貴とは是れ人の欲する所、其の道を以て之れを得るにあらざれば処らざる也。貧と賤とは是れ 人の悪む所、其の道を以てせざれば、之れを得るも去らざる也。 ( 論語 ) 貴きもまた賤きも世の中の 人にこゝろの中にこそあれ 556
月 十 十一月ニ日 人より学ぶ時は、自身は全く何も知らぬ者と心得べし。人に教ふる時は、自身が学ぶ心になれ。博 学なりとも、物知り顔は道を得また道を伝へる邪魔と知るべし。 何事も我れ知りけりと云ふ顔は 憎しと人のながめこそすれ 知る事を人に教ふる其の時は 習ふが如き心してせよ 十一月一日 我が心の裁判所で自ら有罪の宣告を受けた者は、広き世を白昼大手を振って歩ける者。我れのみ無 罪と誇る者は、却て正しき社会に検挙せらるゝ虞あり。 人の非は知りやすけれど己が非は 智恵も知ることかたしとぞ聞く 人の非は非とぞ憎みて非とすれど 我が非は非とも知らぬ愚さ 5 5 5