自分にとって好ましくない、あるいは苦痛となる出来事があったことは一応認めるが、そこ に理由をつけてしまうのである。この種の「理由づけ」は、そのような出来事を正当化する 時にしばしば無意識的に行われる。 その典型的な例をいくつかあげてみよう。 ・お父さんが私に大声を上げるのは、お母さんがいつもうるさく文句ばかり言っているから ・母が酒ばかり飲んでいるのは寂しいからなんた。僕がもっと家にいてあげればよかったん な・父はよく僕をぶったけど、それは僕が間違った方向へいかないようにしつけるためたった よんだ。 の ・母がちっとも私をかまってくれなかったのは、自分がとても不幸だったからなのよ。 様 このような「理由づけ」には、どれにも共通しているひとつのことがある。それは、本当 章 一は納得できないことを、無理やり自分に納得させるために行うということである。だが、そ れで表面的には納得したように見えても、潜在意識のなかでは本当はどうなのかを知ってい る。
もっとも、自分の気持ちゃ望みを遠回しに表現するということ自体は、程度の差こそあれ だれでも常にしていることであり、ノーマルな形で行われているかぎり「コントロール」と しというわけではな いったようなことではない。現実社会ではなんでもはっきり言えばい ) なめ 遠回しにものを言うことは人間関係を滑らかにするために時には必要なことである。 来客がいて夜遅くなったら、「帰ってくれ」とは言えないからあくびをしてみせたりする。 「酒が飲みたいーと奥さんにいうのが気がひけるので「開いてるポトル、なかったつけ」な どと一 = ロう。見知らぬ美人にいきなり電話番号を聞くわナこよゝゝ し。ーし力ないから、天気の話でもし 親て話のきっかけをつかむ、 こういうことはまったくいけないことではなく、人間同 す 士がコミュニケ 1 ションをとるうえでは正常で必要なことだ。それは親子のあいだでも同じ 、よ である。夫婦、友人、同僚、上司、部下、どのような人間関係においても同じことは行われ ている。そういう意味では、セ 1 ルスマンなどは人の心を操作することで生計を立てている ロ ようなものだ。ソフトな言い方というのは、善意に根ざしているかぎり、人間関係を滑らか ン にする潤滑剤として有益なのである。 コ ところがこれを、相手をコントロールするための手段として、執拗に、過剰に使うように 章 三なると、非常に不健康で有毒なものになる。特に親子のあいだでは、小さな子供は親の本心 7 がわからず混乱してしまう。自分が何かいけないことをしたのだろうと感じさせられ、だが 何がいけないのかわからない。一方、子供がある程度以上の年齢の場合には、親の意向は明
とを好まない人間 ( たいていはもう片方の親 ) が、問題のある親の回復を妨害しようとするこ とがある。また、問題のある子供がセラピーなどを通じて心の健康を回復しはじめると、セ ラピーをやめるように親が圧力をかけたりして妨害することもある。 る す を 4 ・三角関係を作る 動 行 「毒になる家庭」では、片方の親がもう片方の親に対抗するために子供を味方につけようと 、な することがある。そうなると子供は不健康な三角関係の一角に組み込まれ、常にどちらを選 よ の ぶのかという圧力をかけられて二方向に引き裂かれてしまう。この場合、親は自分たちの抱 なえる問題に正面から取り組むことなく、相手の問題点を子供に言いつけることで自分の気分 を楽にしようとする。子供は両方の親からネガテイプな感情の荷おろしをする場所にされて 親 しま一つ。 る 、な 「 5 ・秘密を作る 嶂「毒になる親」が生きていくには、家庭内に外部の人間が入れない自分たちだけの閉ざされ 第た世界を作る必要があり、そのために〃秘密〃が必要になる。これは特に、彼らにとっての おびや 家庭のバランスが脅かされた時に、家族のメンバーを結びつけておくために役に立つ。例え ば、本当は親にぶたれてあざを作った子供が、「階段でころんでケガをした」と人に言って
このいきさつをよく示している例として、まるで映画のような話をひとつ紹介しておこ その女性は私に会った時二十七歳で、キリスト教の原理主義者だった ( 訳注〕原理主義と は、教典に書かれている内容をすべて文字通りに信じることを信仰の基本とし、近代的な解釈をい っさい拒否する狂信的な考えのこと。キリスト教やイスラム教の原理主義者は、少数ではあるがし ばしば過激な活動を行う ) 。彼女は十一歳の時に義父にレイプされ、それから母親が義父と別 れるまでの一年間、性的な行為を受け続けた。それからつぎの四年間、彼女はさらに母親の 要 ボーイフレンドの何人かにいたずらをされていた。十六歳の時に家出し、売春をはじめた。 必 許二十三歳の時、たちの悪い客から殴る蹴るの暴行を受け、あやうく命を落としそうになっ かっ を た。担ぎ込まれた病院に入院し、そこで若い用務員と知り合った。その男は熱心なクリスチ 親 る ャンで、誘われて教会にいくようになった。 , 彼女はその教会で洗礼を受け、人生をもう一度 な やり直す勇気を得た。一年後にふたりは結婚し、子供も生まれた。 毒 ここまでは映画のような話だが、現実はそのままハッピーエンドにはならなかった。家庭 章も持ち、新たな決意のもとにキリスト教徒として生まれ変わったはずなのに、しばらくたっ 第と理由もよくわからないのにみじめな気分に襲われるようになり、うつ病にむようになっ 3 たのである。しだいに悪化していったのでセラピーを受けはじめ、二年たったが症状は好転 しなかった。彼女が私を訪ねて来たのはその時だった。
一九九九年に毎日新聞社から本書のオリジナルが出版された時、予想をはるかに上回る反 響があった。編集部にはたくさんの読者からお便りが寄せられたが、そのほとんどは親や兄 弟からなんらかの虐待を受けたことのある方々からのものだった。なかには、「日本にはわ かってくれるセラピストがいない、アメリカにいって治療を受けたい」とか、「スーザン・ フォワードに会いたい」という人もいた。私はこの問題の根の深さと、成人した後もあいか わらず苦しんでいる方々がいかにたくさんおられるかということをあらためて痛感させられ それから二年半たった現在では、虐待のニュースはひんばんに報道されるようになった。 世の中の認識が高まり、被害者を手当した医師など関係者による通報も増え、報道機関もニ ュースとして取り扱うようになってきたということなのだろう。とはいえ、精神的虐待や生 的虐待、親としての務めを果たさないネグレクトなどのケ 1 スについては、その結果、被害 者が一生苦しめられ、人生を台無しにされているにもかかわらず、まだまだ語られることは 少ないようだ。読者から寄せられたお便りの多くは、そういう虐待を受けた方々からのもの 文庫版刊行にあたって
194 第ニ部のはじめに 本書の第一部では、「毒になる親」とはどのような親なのか、彼らは子供に対してどのよ うな有害な行為をし、それらのことは子供が成長してからどのような問題を引き起こす原因 となるのか、ということについて実例をあげて説明した。第二部は、不幸にしてそのような 親を持った人間がいかにしてその悪影響から身を守り、自滅的な行動パターンを建設的なも のに変えて、自分の人生を自分のものとして生きていくにはどうしたらよいかについて具体 的な方法を示そうとするものである。 ただし、ここに述べられている内容は、現在すでに心理学的治療を受けている方がその治 療の代用になるようにと意図して書かれたものではない。そういう方は、現在受けている治 療を続けられ、本書はその補助として役立てていただきたい。また、本書を読みながら自分 せつかん の抱える問題を独力で解決しようと試みることはかまわないが、親から折檻などの肉体的虐 待もしくは性的虐待を受けたことのある被害者は、どうしても専門家の助力が必要である。 のが さらに、苦しみから逃れるために薬物を使用したり、アルコール類に頼らねばならない人 は、本書に書かれている方法によって自分の問題を解決しようとする前に、それらのものを 必要とする衝動を抑えられない自分と取り組んでおかなくてはならない。そのような依存症
る。彼はとても活動的な人だったのだ。 彼女は子供のころからこの年になるまで、心のなかで理想化した父親が帰ってくることを ずっと待ち続けていたようなものである。彼女は父親が本当はいかに無情で無責任であった かということには直面することができず、傷つきたくないために理由をつけて、あたかも父 親が素晴らしい人物であったかのように理想化していたのだ。だが、彼女が苦しみに満ちた 人生を生きることになったのは、その父親に大きな原因があったのである。 このような「理由づけ」を行うことによって、彼女は幼いころに自分を捨てた父親に対す る怒りを否定してきた。だが残念ながら、その怒りは他の男たちとの関係において噴き出す なこととなったのだ。だれとっき合っても、はじめのころはうまくいくのだが、しばらくして よお互いをよく知るようになってくると、内心の恐れや不安が「口論」という形であらわれ の 鰰だが彼女は、どの男もみな同じ理由で去っていったということがわからなかった。その理 由とは、彼女は親しくなればなるほどすぐ言い争いをはじめるようになるということだった 章 第のだ。 4 ・
押しやられる記憶 被害を受けたのがまだごく幼いころだった場合、被害者の子供がトラウマから身を守る唯 一の方法は、その出来事を記憶の奥に押しやり、意識のなかから消してしまうことだ。それ は無意識のうちに行われるので、その記億はそのまま永久によみがえらないこともある。ま た、たとえよみがえったとしても何年も後になってからのことであり、何かのきっかけで思 いがけない時に突然思い出すというケ 1 スが多い。私がカウンセリングした人たちの例で は、結婚、子供の誕生、家族の死、新聞やテレビなどで近親相姦の事件の報道を目にした時 などがきっかけとなっている。なかには、その時の体験を夢で見て思い出したというケ 1 ス 親もあった。ほかのことで心理セラピ 1 を受けている間にその時の記憶がよみがえるというこ すともある。もっとも、そういう場合でも、セラピストのほうから指摘されないかぎり、自分 為から話しだすということはあまりない。 私はカウンセラーとして劇的な体験をしたことが何回かあるが、そのひとつがある四十六 性歳になる女性をカウンセリングしていた時のことだ。彼女は博士号を持っ生化学者で、大き 章な研究所に勤めていたのだが、私のラジオ番組で、家族から性的な行為を受けた子供が成長 彼女は八歳 第してから示す症状について討論しているのを聞いて、私に会いに来たのだった。 , の時に、六歳年上の兄にレイプされ、それ以来十五歳になるまで関係を強いられていた。 私に会いに来た時、彼女は、ほとんど神経症の発作を起こす寸前だった。その体験につい
分の考えを変えるのではなく、自分の考えに合うように周囲の事実をねじ曲げて解釈しよう とする。だが子供は「本当の事実」と「ねじ曲げられた事実」とを区別することができない ため、親のねじ曲げられた考えをそのまま自分の人生に持ち込んでしまうのである。 る す 動言葉で語られる考えと語られない考え 人間は、自分の考えをはっきり言葉に出して一一一一口う場合と、一一一一口葉には出さないであらわす場 合とがある。前者は後者に比べてより直接的なので明確である。その方法で親が子供に考え よ の を伝える時には、しばしば忠告の形をとり、「 : : : してはいけない」「 : : : しないといけな ぜ よい」「・ : ・ : しなさい」という表現になる。 このように親が自分の考えを言葉ではっきり表現した場合は、子供が大人になって自分の 親 力で物事を判断する能力を身につけた時に、その是非を判断することはそれほど難しくな る 。その時までに親の考えの一部はすでに身についてしまっているかもしれないが、それで 毒 もなお考察することはでき、親は間違っていると思ったら自分は同じ考えを持たずにいるこ 章とはできる。 第だが後者の、言葉には出さないで表現された親の考えは、子供は自分でも知らないうちに 受けとめてしまっていることが多く、たとえそれが間違ったものであっても、はっきり意識 せずに身についてしまっているので、気がついていないものを拒否するのは困難である。言
通い合った時間」という、子供時代の唯一の幸せな記憶をそのままにしておきたかったから である。だが、酷なようだが、真実を一一一口うならば、彼は法えた子供だった時になぐさめてく いまも怯えた大人としてその時の記億にしがみ れる父にしがみついていたのと同じように、 ついているだけなのである。暗い押し入れに隠れたまま外の現実を見ないでいるかぎり、彼 は真実を正面から見据えることができるようにはなれないのだ。 彼は、暴力を振るった母親が、その後の自分の人生にどれほどの影響を及ばしたかという ことについては理解できていたが、母の暴力をとめなかった父親に対してどれほどの怒りを 心の奥に抑え込んできたかということについてはまったく自覚していなかった。「父は自分 を守らなかった」という事実を、彼は何十年もかけて否定してきたわけである。しかも彼の 親父は、「もしお前がもっと努力すれば、母からぶたれないですむようになるかもしれない」 ると、自分の責任を回避する発言をした点で、単に何もしなかった以上の責任があると言え をる。 カ 暴 章「自分が何か悪いことをしたのだ」と感じる子供 第多くの人にとっては信じがたいことかもしれないが、言葉の暴力で痛めつけられた子供と 同様、肉体的暴力で痛めつけられた子供もまた、親がそのようなことをするのは自分が何か いけないことをしたからなのだろうと感じている。こうして、自分を責める生格はやはり幼