2 16 個人の体の弱いところ、身体的な個性、その時の感情の状態などによって異なるが、一般的 に言って、頭痛、胃や腸の不調、体のこり、疲労感、食欲不振または異常に食べたくなる衝 動、睡眠障害、吐き気、などは「毒になる親」を持った子供が成人後によく見せる症状とし てまれではない。 もっとも、もしそれらの症状があってそれが心因性のものだと確信できて も、あまり長く続く場合には身体的な病気に進むこともあるので医師に相談したほうがよ ) 0 このリストの三分の一以上が「イエス」である人は、いまだに親に心理的にからみ取られ ている度合いが強く、感情が親によって左右されている。 「考え」と「感情」と「行動」の結びつき つぎに、いま行った感情のチェックで自分に当てはまる項目があったら、その後に「なぜ なら」とつけ加え、その後ろに最初のリスト三百八ページ ) から当てはまる文章を見つけ てつなげ「 : : : だからだ」と結んでみてほしい。このようにして、自分の抱く感情の理由 を改めて考えてみることにより、自分がなぜそのように反応するのかについてたくさんのこ とが納得できるようになるだろう。 例えば、感情のチェックのところで「 2 ・私は親の気分を害するようなことをすると罪悪 感を感じる」という項目が自分に当てはまったとする。そうしたら、それはなぜなのかを自
心の奥は、恐れ、心の混乱、悲しみ、孤独、孤立感、などでいつばいであり、そのように計 り知れない大きなものを内部に抱えたまま外部の世界と普通に接するためには、本当の自分 ではない嘘の自分を作り上げ、それを使って接するしかないからだ。 それは時として二重人格的な人間になることを意味する。概して外で友人などと一緒の時 は社交的で快活に振る舞っているが、家に帰ったとたんに別人のように無口になり、ひとり だけの世界に入ってしまう。そして、家族そろって出かけたり、家族と一緒に外部の人たち と時間を過ごすことを極度に嫌がる。なぜなら、外部の人たちに対してノーマルでまともな 家族のように演技することは死ぬほど苦痛だからだ。そのため、時として非常に強い無力感 親に襲われ、自分にはもうエネルギーが残っていないような気分になることがある。 すだが、家族と一緒でない時には陽気な人間のように振る舞うこともでき、それで友人たち 為から受け入れられていると感じて一応の充実感を得ることができる。とはいえ、内面にある 行 な本当の自分は大きな苦痛のなかに生きているので、本当の喜びというものはなかなか感じる 性ことができない。それが、嘘の人生を生きていることによって支払っている代償なのであ 章る。 七 第 何も言わないもう片方の親 加害者と被害者がともに口を閉ざし、何事もないかのような演技をしているとしても、も
ことのできるフラストレーションの解消は、一時的なものでしかない。そんなことをしても 怒りの真の原因は変わらずに存在し続け、再び積もって増大していく運命にあるのである。 その結果、子供はあいかわらずタ 1 ゲットにされたまま親の怒りを吸収し続け、そのため子 供に生じる内心の怒りは成長していくあいだもずっとたまっていく。 暴力の正当化 暴力を振るう親のもうひとつのパターンは、暴力を振るうことを他人のせいにするのでは しまだに体罰 なく、「お前のためにこうするのだ」と正当化するものである。世の中には、 ) こそ子供の教育には欠かせない手段と信じている親がたくさんいる。宗教などでもいまだに 親体罰を認めているものがあるのには驚くほかはない。聖書ほど体罰を正当化するために悪用 るされた本はない。 を体罰を肯定する人間のなかには、子供というのは生来亜 0 いことをするように生まれついて 暴いると信じている者がよくいる。だから悪くならないように厳しく叩いて矯正しないといけ 章ないというわけだ。「私もそうやって育てられたんだ。たまに叩かれたくらいではどうって 第ことはない」とか「悪さをすれば ( 一一一一〔うことを聞かなければ ) どういうことになるのか、わか らせなくてはいけないんだ」などがその言い分である。なかには「体罰は子供を強くするた めに必要な儀式であり、子供はそういう試練に耐えなくては強くなれない」と、体罰を正当
とはいえ、その作業には「大きな心の痛みと苦しみ」という代価を支払わねばならない。 いままで自分を防衛するために何重にもかぶっていた殻をひとつずつ剥いでいくと、それま ではっきり意識していなかった「怒り」「不安」「心の傷」そして特に「深い悲しみ」を体験 することになるからだ。そして、いままでずっと抱いていた親の虚像が破壊されれば、いい ようのない孤独感や「捨てられた気分」に襲われるだろう。それゆえ、本書に書かれている 「自己を回復するための方法」を実行するにあたっては、けっして先を急がず、自分にあっ たペースで進めてほしい。もし抵抗を感じて実行が困難だと感じたら、無理なく乗り越えら れるようになるまでじっくり時間をかけてほしい。大切なのは前進することであって、スピ ードの速さではない。 読者の理解を助けるため、本書には私がカウンセリングした人たちの具体例がいくつか載 せてあるが、これらはすべて実例であり、私の治療記録やカセットに録音した会話から再現 したものである。極端な例ばかりを集めたのだろうと思われる人もいるかもしれないが、一 部の例を除いて、これらは実は典型的な例なのである。こういうことは日常いたるところで くり返されており、私は仕事柄こういう人々の話を毎日のように聞かされている。 本書は二部に分かれているが、第一部では「毒になる親ーにはどのようなタイプがあるか について、第二部ではそのような親を持った人が自己を回復するためにはどうしたらよいの かという方法について述べてある。
な考えや感情を表現する自由があるかという点である。健康な家庭では、子供の個性や責任 感や独立心などをはぐくみ育てようとする。そして子供が「自分は人間としてそこそこの価 カ値はある」と感じ、自尊心を持っことができるように励ましてくれる。 すだが、「毒になる親」のいる不健康な家庭では、メンバ 1 の一人ひとりが自分を表現する を ことを認めず、子供は親の考えに従い、親の要求を実行しなくてはならない。だが、そうい 動 うことをしていると、個人間の境界がばやけ、何が自分の本当の意思なのかがわからなくな ってくる。こうして家族のメンバー同士は不健康な形で密着し、親も子供もどこまでが自分 よ の でどこから先が子供 ( 親 ) なのかがわからない。そしてそのように密着することでお互いを な窒息させ合っているのである。 このように内部で複雑にもつれ合った家庭では、子供は親の承認を得ているという安心感 親を得るためには、本当の自分を売り渡さざるを得ない。例えば、今日はなんとなく親の顔を 見たくないと思っていても、「ばくは今夜うちの連中の顔を見るのがいやなのだろうか ? 」 毒 「と自問することはできず、「もしばくが帰らなかったら、親父は怒って母をぶつだろうか」 嶂とか「ばくが帰らなかったら、ママはまた酒を飲んで酔いつぶれるだろうか ? 」とか「ふた 第りとも怒って、来月までロをきいてくれないかもしれない」などという具合に考えてしまう のである。 子供がこのように考えるのは、もしそのようなことが起きたら、どれほど罪悪感を感じさ
く世界はどういうものか」「ほかの人間にはどのように反応し行動したらよいか」などのこ とを判断していく。 それゆえ、不幸にしてこれまでの章で述べてきたような「毒になる親」に育てられた子供 は、自分でも気がっかないあいだに「他人は信用できない」「どうせ自分のことなどだれも かまってはくれない」「自分には価値がない」などのネガテイプな意識を身につけてしまう 可能性が高い。このように自己を規定する意識を心のなかに固定させてしまうと、しだいに 自滅的な性格を作り上げていく。 そういう人間から不幸を減らすには、そのような意識を変える以外にない。人生のシナリ オは、たとえそれが子供の時からしみついた意識によって書かれたものであっても、その多 くは書き換えることが可能なのである。だがそのためには、まず「無意識のうちに抱いてし まう感情」「自分の送っている人生」「自分が信じていること」などのどれほどが、自分が育 った「家族というシステム」によって作り上げられてきたのかを知る必要がある。 ここでひとっ忘れてならないのは、親にもまたその親がいるということだ。あたたかくて 愛情にあふれ、建設的な心をはぐくんでくれる親を持った子供が「毒になる親」になるとい うことはない。つまり「毒になる親」というのは、その親もまた「毒になる親」だったので ある。かくして、そこには「毒になる家系」とでもいえるものができあがってしまってい る。ちょうど、高速道路で事故が起きると、後ろからくる車がつぎつぎと玉突き衝突してし
172 3 ・自己を処罰する 第六章では、親から暴力を振るわれて育った子供が抑圧した怒りを自分自身や他人に向け るいきさつについて述べたが、子供のころに近親相姦 ( 的行為 ) の被害にあっていた人にも 同じようなパターンが見られる。抑え込まれた怒りと行き場のない深い悲しみが噴出する時 の形はさまざまだ。 まず、もっとも多いのがうつ病で、通常の「悲しみ」のような軽い症状から、ほとんど体 を動かせなくなるほど重い症状を示す場合もある。 つぎに、特に女性によく見られるのが肥満と拒食である。それは無意識のうちに異性を遠 ざけようとしているとい一つ側面があるとい一つ人もいる。 もうひとつよくあるのが、慢性的な頭痛である。こういう頭痛は、抑え込まれた怒りと不 安感が肉体的にあらわれたというだけでなく、自己処罰の一種なのである。 また、被害者の多くはアルコールや薬物の中毒になる傾向が強い。そうなることによって まひ 感覚を麻痺させ、生きている意味がわからない自分とその空しさを一時的に忘れようとする のである。だがそれでは本当の問題に直面することを先に延ばしているにすぎない。その結 果は、苦しみを長引かせるばかりである。 このほかにも被害者の多くはさまざまな形で自己処罰を行っている。愛する人との関係を 自らだめにしてしまう、やれる仕事なのにつぶしてしまう、などの自己破壊的行為がそれで
会から遠く離れた過疎地で起こることである。 ( 真実 ) 事実はそうではない。職業、社会的地位、収入のレベル、地域などにかかわりな 、全国どこでも起きている。 ( 誤解 3 ) そういうことをする人間は、社会的にも性的にも逸脱した変質者である。 ( 真実 ) 事実はそうではない。社会一般のどんな人たちでも加害者になり得る。実際、彼ら の多くは仕事熱心で真面目で信仰心もある、一見普通の男や女たちである。私は個人的に も、警察官、学校教師、大企業のトップ、上流階級の既婚婦人、レンガ職人、医師、牧師、 などさまざまな職種の人たちが加害者となったケースを見ている。彼らにある共通の特徴や 傾向は、職業や社会的地位や人種などではなく、心理学的な性向である。 ( 誤解 4 ) 性的に満たされない生活を送っている人間がそういうことをする。 ( 真実 ) 加害者の多くは既婚者で通常の性生活を送っており、なかには浮気までするほど活 発な者もいる。彼らが子供に対して性的な行為をする直接の理由は、自分の支配欲を満足さ せるため、または、子供しか与えることのできない「疑うことを知らない純粋な愛情」を求 めてのことである。それが結果的に性的な満足を得たいという欲求に進むことはあっても、 そもそもの動機がはじめから性欲であることはまれである。
体罰は犯罪である 子供に暴力を振るう親は、職業、社会的地位、貧富の違い、教育の程度、などとは無関係 に存在し、子供への暴力という犯罪行為は毎日のように至る所でくり返されている。 ところが、どの程度の暴力をもって「肉体的虐待」と呼ぶのかということについては、さ まざまな意見の人たちがおり、これまでにもさんざん論争が行われているが、大きな混乱と 誤解が生じている。すなわち、子供に対する体罰は親の権利であるばかりでなく、必要なこ とであると考えている人たちが、いまだにいるのである。 近年まで、子供は親の〃所有物〃であるかのように考えられ、親が子供をどう扱うかは親 親の勝手、すなわち自由裁量が許されるとされてきた。そして何世紀にもわたって、親が自分 るの子供にしていることは他人がロ出しすべき筋合いのものではないと考えられてきた。その をため、〃しつけ〃の名のもとなら親が何をしようがーー少なくとも殺さないかぎりはー・ー・そ 暴の是非が問われることは、ほとんどなかったのである。 章だが今日では、そのような基準を当てはめることはもちろんできない。子供の肉体的虐待 第の問題が広がり、またそれについての研究が進むとともに、一般の認識も増し、いまでは法 的な規制が行われている。アメリカでは一九七四年に子供の虐待を防止するための連邦法が 議会を通過し制定されたが、それによれば〃肉体的虐待〃とは「打撲、やけど、みみずば
中の相手と結婚するのはめずらしいことではない。 多くの人は、親がアル中であるような救いようのない境遇に育った人間がまた似たような トラウマのなかを生きるようになる事実に驚くかもしれない。たが、たとえ苦痛に満ちた感 触であろうが、滅んでいく感触であろうが、慣れ親しんだ感触のパターンを再びくり返した いという衝動は無意識的であり、実はだれにでもあるのである。それが「慣れ親しんだ世 界」のもっ魔力である。 さらに、とかく「今度こそうまくやれるに違いない」と思って過去のトラブルをまたくり 返してしまうということもある。無意識のうちに苦しみに満ちた昔の体験をもう一度演じよ うとすることを「衝動強迫的な反復」という。 親 の しくら強調しても この衝動強迫がいかに強く人々の人生を支配しているかということは、 ) 毒 呻しきれなし ) 。ほとんどすべての自滅的行動、とりわけ男女の関係で必ずごたごたする人やい つも相手との関係を自分でつぶしてしまう人の行動は、この「衝動強迫的な反復」という観 コ 点から説明がつく。彼のケ 1 スはその典型的な例である。彼もアル中の親を持ったほとんど ア すべての子供と同じように「二度とアル中の人間とは関わり合いを持つものか」と思ってい 章 四たのだが、心の奥底に深く根づいた無意識の力は、意識のカよりはるかに強力だったのであ る。