〃近親相姦〃の定義については刑法と心理学で大きなへだたりがあり、一口で厳密に述べる のは難しい。刑法上の解釈はきわめて幅がせまく、通常は近親者による性交を近親相姦と定 めているだけである。その結果、自分が近親相姦の被害者であることを自覚していない人 は、世の中に何百万人もいるに違いない。 親心理学的な観点から見れば、近親相姦の定義はもっとずっと幅広い範囲を含み、子供の すロ、胸、性器、肛門などにかぎらず、どのような体の部位であろうが、近親者が自分の性的 為な興奮を目的として触れる行為はすべて近親相姦である。また、それは血縁者によるものば なかりとはかぎらない。継父母、義父母など、血はつながっていなくても、子供から見て家族 性のメンバーと感じられる人間であれば、すべて同じことである。 章さらに加えるなら、子供の体に直接触れなくても、近親者が自分の性器を露出して見せた 第り、それに自分で触れてみせる、または子供の性的な写真をとる、などの行為をした場合で も、それは「近親相姦的行為」である。 もうひとつ重大なポイントは、それは「秘密にしておかなくてはならない行為」だという 彼らには、厳密な意味での心理学理論はもはや無用である。子供に対する性的な行為は、人 間が行ってはならない「悪」である。 ″近親相姦々とはどういうことか
1 5 2 近親者から性的な行為をされるということは、おそらく子供にとってもっとも残酷で理解 しがたい体験であろう。まして、そのようなことをしたのが親だったとしたら、その行為は 子供のもっとも基本的な信頼に対する裏切りであり、将来にわたってその子供の情緒に取り 返しのつかない結果を招く。生活のすべてを依存している親がその加害者だったとしたら、 子供には言いつける相手も逃げる場所もない。保護者のはずの親は迫害者となり、子供は汚 れた秘密の牢獄に閉じ込められてしまう。近親者による性的な行為は、子供のもっとも大切 なこと、すなわち「けがれのない無邪気さ」を奪ってしまうのである。 本書の第五章と第六章では、心身への暴力という、「毒になる親」のもっとも暗い部分に ついて考察してきた。そして、言葉による暴力や肉体的な暴力を行使する親は、子供に対す る深い思いやりと感情移入の能力が極度に欠落しているという実例を見てきた。彼らはロ汚 いののしりの言葉や肉体的な暴力を子供に降り注ぎ、それでもなお、虐待の事実を「しつ け」だとか「教育」だという理屈をつけてすりかえ正当化してきた。だが、この章で扱う 「毒になる親ーに至っては、あまりに倒錯しているのでそのような正当化の余地すらない。 第七章性的な行為をする親
162 だ。だが、そんな親でも、子供に対しては絶対的な権力を持ち、外の世界では人の信用を勝 ち得ている。被害者の子供は無力感に襲われるだけである。 不潔感に悩む子供 近親相姦 ( 的行為 ) の被害者の子供は、他のケースでは見られない独特な羞恥心に悩む。 ごく幼い子供ですら、自分の身に起きたことは秘密にしておかなくてはならない恥ずべきこ とだと知っているからである。「黙っていろ」と言われなくても、子供は加害者の行動の仕 じゅうりん 方や態度からそのことを感じ取る。自分が何かよくないことをされ、人権を蹂躪されたとい うことは、生についてなどまだ何も知らない小さな子供でも感じ取り、不潔感を感じるの 残酷な一言葉や暴力で傷つけられて人格を踏みにじられた子供と同じように、近親相姦 ( 的 行為 ) の被害にあった子供も、罪悪感を「内面化する。だが、ひとつだけ違う点は、そこ に羞恥心が加わることによって問題が複雑になっているということだ。そして「自分は悪い ことをした」と思う気持ちはほかのどのような場合よりも強くなり、これが自己嫌悪と羞恥 心をさらに強める結果となる。こうして近親相姦 ( 的行為 ) の被害にあった子供は、自分の 身に起きた出来事に対していつも気を張っていなくてはならないことに加え、事件が発覚し て〃不潔な子〃として外部の人間の目にさらされることを強く恐れるようになる。
強要のさまざまな形 なぜ子供は黙っているのか 不潔感に悩む子供 押しやられる記憶 嘘の生活の代償 何も言わないもう片方の親 近親相姦 ( 的行為 ) の残すもの 空しい希望 第八章「毒になる親」はなぜこのような行動をするのか 親の「ものの考え方」 言葉で語られる考えと語られない考え 言葉で語られるルールと語られないル 1 ル ききわけのいい子 親子の境界線の喪失 「家」のバランスを取る行動 「毒になる親」は、自分の危機にどう反応するか 169 181
172 3 ・自己を処罰する 第六章では、親から暴力を振るわれて育った子供が抑圧した怒りを自分自身や他人に向け るいきさつについて述べたが、子供のころに近親相姦 ( 的行為 ) の被害にあっていた人にも 同じようなパターンが見られる。抑え込まれた怒りと行き場のない深い悲しみが噴出する時 の形はさまざまだ。 まず、もっとも多いのがうつ病で、通常の「悲しみ」のような軽い症状から、ほとんど体 を動かせなくなるほど重い症状を示す場合もある。 つぎに、特に女性によく見られるのが肥満と拒食である。それは無意識のうちに異性を遠 ざけようとしているとい一つ側面があるとい一つ人もいる。 もうひとつよくあるのが、慢性的な頭痛である。こういう頭痛は、抑え込まれた怒りと不 安感が肉体的にあらわれたというだけでなく、自己処罰の一種なのである。 また、被害者の多くはアルコールや薬物の中毒になる傾向が強い。そうなることによって まひ 感覚を麻痺させ、生きている意味がわからない自分とその空しさを一時的に忘れようとする のである。だがそれでは本当の問題に直面することを先に延ばしているにすぎない。その結 果は、苦しみを長引かせるばかりである。 このほかにも被害者の多くはさまざまな形で自己処罰を行っている。愛する人との関係を 自らだめにしてしまう、やれる仕事なのにつぶしてしまう、などの自己破壊的行為がそれで
親が自分の間題について何もしなかったこと。 親がアルコール中毒であること。 親が酔ってしたこと。 親がきみに暴力を振るったこと。 親がきみに対して性的な行為をしたこと。 このほかにも、くり返し体験した苦痛に満ちた出来事があれば、リストにつけ加えてみて 61 レゝ 0 み し これを十分行ったら、つぎは本当に責任がある人間はだれなのかをはっきりと認識する練 習をする。それには「私の親は : : に責任がある」とはっきり声に出して言う。この ・ : 」の部分に、同じリストの文章から自分に当てはまるものを入れてみてほしい。まゝ 怒 にも自分に当てはまることがあればつけ加えるのは同様である。 なぜこのようなことをするのかというと、このことは頭ではわかっていても、その理解に 章 二対して感情的にも抵抗がなくなるまでになるには時間がかかるからである。したがって、心 第の底から抵抗なくこの事実がいえるようになるまで、この練習は何度もくり返す必要があ る。 11 10 9 8 7
168 う片方の親はどうしているのだろうか ? 私は以前、子供時代に父親から性的な行為をされ ていた女性をはじめてカウンセリングしはじめたころ、被害者の多くは加害者の父親に対す るよりむしろ母親のほうに強い怒りを抱いていることに気がついた。被害者の多くの女性 は、「父のしていたことを母は知っていたのだろうか」という、しばしば答えを知り得ない 問いを自問し、自らを苦しめていたのである。彼女らの多くは、時として父は母の目をほと んど気遣うことなく行動したと述べており、母は知っていたに違いないと確信していた。ま た、そこまでは考えないという被害者も、娘の態度や行動が変わったことに母はなぜ気づか なかったのだろうか、と感じていた。何かが起きているに違いないということはわかりそう なものだし、もっと注意を払うことはできたはずだ、というのである。 だが結論から先に言えば、必ずしも母親は気づいていたのに知らぬフリをしていたとはか ぎらない。本当に知らなかった、知っていたかもしれなし ) 、はっきり知っていた、の三つの 可能性がある。知らなかったはずがないという意見もあるが、本当に知らなかったというこ ともあり得るのである。 「知っていたかもしれないーというケースでは、その母は、何かがおかしいとは思っても 「恐ろしそうなことは見たくないとばかりに目の前にカーテンを下ろし、何も見ない道を 選んだのである。だが、「見ないこと」によって自分と家の平穏を守ろうとするのは、見当 違いな努力である。
体罰は犯罪である 子供に暴力を振るう親は、職業、社会的地位、貧富の違い、教育の程度、などとは無関係 に存在し、子供への暴力という犯罪行為は毎日のように至る所でくり返されている。 ところが、どの程度の暴力をもって「肉体的虐待」と呼ぶのかということについては、さ まざまな意見の人たちがおり、これまでにもさんざん論争が行われているが、大きな混乱と 誤解が生じている。すなわち、子供に対する体罰は親の権利であるばかりでなく、必要なこ とであると考えている人たちが、いまだにいるのである。 近年まで、子供は親の〃所有物〃であるかのように考えられ、親が子供をどう扱うかは親 親の勝手、すなわち自由裁量が許されるとされてきた。そして何世紀にもわたって、親が自分 るの子供にしていることは他人がロ出しすべき筋合いのものではないと考えられてきた。その をため、〃しつけ〃の名のもとなら親が何をしようがーー少なくとも殺さないかぎりはー・ー・そ 暴の是非が問われることは、ほとんどなかったのである。 章だが今日では、そのような基準を当てはめることはもちろんできない。子供の肉体的虐待 第の問題が広がり、またそれについての研究が進むとともに、一般の認識も増し、いまでは法 的な規制が行われている。アメリカでは一九七四年に子供の虐待を防止するための連邦法が 議会を通過し制定されたが、それによれば〃肉体的虐待〃とは「打撲、やけど、みみずば
248 びん このような一言葉を自分に対して言うことには、抵抗を感じる人も多いことだろう。それ は、こんなことを言うのは自分を哀れんでいるような気がするからだ。だが、これは自己隣 憫とは少し違う。自己憐瀾とは、自分を哀れむあまり何もできなくなっている状態のことで ある。自分を哀れんでいる人は、心のどこかで、だれかがなんとかしてくれないだろうかと 感じている。それは自分の責任を逃れようとしていることでもあり、勇気のない状態であ る。だが、「深く嘆き悲しむ」というのは、前進できなくなっている状態から脱出するため のプロセスであり、自分を癒し、抱えている問題に対して現実的な対応を可能にするための 行為である。 多くの人は、深く悲しむことと自己憐憫とを混同し、自分を哀れんでいるように見られた くないために嘆き悲しむことを避けようとする。だが、怒りと同様、内面に抱える大きな悲 しみは、静かに感じ取ってから表現することによって外に出してやらなければ、いつまでも 自己破壊的な行動の原因となり続ける。 人生は止まらない 心のなかの「悲しみ」と正直に取り組むことは、あなたの現在の状態を変えるためには欠 くことのできないこととはいえ、その作業をしているあいだも人生は止まってはくれない。 れん
160 い子供の無垢な心を餌食にゆすりをかけているようなものだ。 ところで、一般に思われているのとは異なり、近親相姦 ( 的行為 ) の被害者が親の〃お気 に入りの〃子供であるということはめったにない。まれに、見返りに小遣いやプレゼントを もらったり、何か特別なことをしてもらうということもあるが、ほとんどの場合、子供は、い 理的または肉体的に強要されている。 なぜ子供は黙っているのか 近親相姦 ( 的行為 ) の被害者の子供の九十パーセントは、何が起きたのか ( または現在何が 起きているか ) ということについて人に語ろうとしない。その理由には、自分が傷つくこと を恐れているということもあるが、親が困ったことになって家庭が崩壊してしまうことを非 常に恐れるからである。親からそのような行為をされるのはいくら恐ろしいことだとして も、自分がしゃべったらそれが原因で家のなかがめちやめちゃになってしまうと思うと、も っと恐ろしいのである。どんなにひどい家であっても、家が平和であることはほとんどの子 供にとって驚くほど大切なことなのだ。 まれに親の行為が露見することがあるが、そうなった場合には、その家庭はほば間違いな く崩壊する。離婚や裁判所のム哭などにより子供が家族から引き離されて親戚にあずけられ さげす たり、世間から好奇と蔑みの目で見られたりということが起き、その後も家族がそれまでと ろけん えじき