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検索対象: 永遠の夫
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1. 永遠の夫

になり、ゆがめられるかもしれなかった。小曲ではあるが、尋常ではないこの作品を歌いきるに は、何としても真実さが必要だったし、何としても本物のインスピレーションそのもの、本物の 情熱、あるいは完全な詩的同化が必要だった。さもなければ、ロマンスはうまくいかないばかり か、ひょっとすると醜悪な、何やら恥知らずなものともみえかねなかった。情熱的な感情だけで こんなにも張りつめた力を表現しようとすれば、どうしても反撥を招きかねないが、真実と純朴 さがあれば、すべてが救えるはずだ。ヴェリチャーニノフは自分が昔、このロマンスをうまくう たった記憶があった。彼はグリンカの歌い方をほとんど自分のものとしていた。ところが、いま、 最初の音から、最初の一節から、本当のインスピレーションが彼の心の中で燃え立ち、声をふる のわせた。ロマンスの一言一言で、感情がいよいよ強く、いよいよ大胆にはじけて、あらわになり、 遠最後の数節では情熱の叫びまで聞きとれ、彼は輝く目をナージャに向けながら、ロマンスの最後 の一一一「葉を次のようにうたい終った。 《いま、わたしは臆する色もなく、あなたの目を見つめ、唇を近寄せて、声音は聞きとるカ もないままに、 願うのは、くちづけ、くちづけ、くちづけ。 願うのは、くちづけ、くちづけ、くちづけ〉 と、そのときである、ナージャはまるで恐怖のあまり、ふるえたようで、わずかながらあとず さりさえした。彼女の頬がすっと紅潮し、その同じ瞬間、何か同情を示すようなものが、彼女の はんばっ

2. 永遠の夫

だって、あなたって、とってもいい方なんですもの、とってもいい方、まるで : : : カーチャみた いに」 そして、事実、家へお茶を飲みに帰ったとき、彼女はロマンスを二曲うたってきかせたが、ま だ未熟な、芽を出し始めたばかりの声にもかかわらず、申し分なく楽しめたし、迫力があった。 トルソーツキイは、みんなが庭から戻ってきたとき、こわばった表情で両親とともにお茶のテー プルについていて、テープルではすでに大きな家庭用のサモワールが沸き立ち、セーヴル陶器の 家庭用の茶碗が並べられていた。おそらく、両親とはきわめて重要なことで話しあっていたのだ 夫 ろうーーなにしろ、あさってからまるまる九カ月間、土地を離れることになっていたのだ。庭か のら人ってきた人たち、特にヴェリチャーニノフのほうはちらりとも見なかった。また、〈告げロ〉 遠をしなかったこと、すべてがいまのところ平静であるのも、見た目に明らかだった。 ところが、ナージャがうたいだすと、さっそく、彼も現われた。ナージャは直接、何かきかれ たのに、返事もしなかったが、トルソーツキイはべつにとまどいも、動揺もしなかった。彼女の 椅子の背のところに立っている様子はいかにも、ここが自分の場所で、誰にもゆずるつもりはな いといいたげだった。 「ヴェリチャーニノフさんがうたわれるのよ、お母さま、ヴェリチャーニノフさんがおうたいに なりたいんですって」とほとんどの娘たちがピアノのところへ集まってきて、大きな声をあげ、 ヴェリチャーニノフはひき語りをするつもりで、自信たつぶりにピアノのまえに坐った。老人た ちも出てきたし、老人たちといっしょに坐って、お茶をついでいたカチェリーナ・フェドセーエ

3. 永遠の夫

できないのだから、まして、おれとか君のような人間には無理な話さね、トルソーツキイ君よ〉 〈大体、お人好しもいいところで、このおれをいいなずけのところに引っぱって行くんだからな あ、やれやれ。いいなずけのところへ。まあ、ああいうクワジモドのような人間だけだろうよ、 マドモアゼル・ザフレビーニナの純朴さにすがって「新生活によみがえろう」なんて考えをいだ くのはね。でも、あなたが悪いんじゃありませんよ、トルソーツキイさん、あなたが悪いんじゃ ない。いってみれば、あなたは不具でしよう、だから、あなたのものは何でも不具にならざるを えない、あなたの考えも、希望もね。ところで、いかに不具だとはいえ、やはり、自分の空想が 夫 疑わしくなり、そこで、心の底から尊敬しているヴェリチャーニノフに、おそれながらと許可を の求めなくてはならなくなった。その空想は空想ではなくて、本当のことなのだと、ヴェリチャー 遠ニノフに認めてもらい、保証してもらう必要があった。おれを連れて行ったのも、おれを心から 尊敬していたからだし、おれの高潔な感情を信じてのことなのだーー・おそらくは、向うの茂みの 下で、純潔な娘からそう遠くないところで、抱きあい、涙を流すことになると信じてのことなの だ。そうだ、結局、この「永遠の夫」は、いつでもいいから、すべてのことで最終的に自分を罰 しなければいけないし、そうする義務があったのだ。そして、自分を罰するために、かみそりを たしかに、思わず知らずにかもしれないが、とにかく握ることは握った。「とにかく、 握った ナイフで刺したのですからね、とにかく、知事のいるところで刺すという結果に終ったのです」 のうり そうだ、ひょっとすると、あの結婚式の付添人の話をしたとき、彼の脳裡には何かこの種の考え があったのではないか。また、あのとき、あの男がべッドから起き出して、部屋の中央に立って

4. 永遠の夫

クラヴジャ・。へトローヴナは三十七歳ぐらい、肥ってはいるものの、まだ美しいプルーネット の婦人で、つやつやと赤みのさした顔だった。その夫は五十五歳ほどで、頭のいい、抜け目のな い人物だったが、何よりも善人だった。この家はヴェリチャーニノフにしてみれば、彼自身のい いぐさではないが、文字どおり〈なっかしのわが家〉であった。だが、そこにはまた特別の事情 も隠されていた。二十年ほどまえのことだが、このクラヴジャ・。へトローヴナは、当時まだねん ねで、青くさい学生だったヴェリチャーニノフとすんでに結婚するところだった。初恋という奴 で、燃えるような、滑稽な、美しい恋だった。ところが、とどのつまり、彼女はボゴレーリツェ 夫 フと結婚してけりとなった。五年ほどして、ふたりは再会したが、結局、晴れやかな、静かな友 の情で終った。ふたりの関係には何かあたたかみというものが永遠に残り、何か特別な光があって、 遠この関係を照らし出したものだ。それがヴェリチャーニノフの思い出の中では、どこからどこま で清潔で非難の余地がなく、おそらく、それだからこそ、彼にとってはいっそう大切であった。 ここに来てこの家族の中にいると、彼は素朴で、無邪気で、善良で、子供たちをあやし、もった いぶるということは決してなく、何でも承知し、何でも打ち明けていた。彼はもうしばらく世間 で暮したあと、完全にこちらに移り住み、それからはもう別れることなくいっしょに暮すつもり だと、一度ならずボゴレーリツェフに誓ったものである。彼はこの計画を冗談などではなしに、 本気に考えていた。 彼はリーザについて、必要なことはすべて、かなり詳しく話をした。だが、いちいち、取り立 てて説明をしなくても、彼が頼むだけで充分だった。クラヴジャ・ベトローヴナは〈みなしご〉

5. 永遠の夫

あしげ ぶり手ぶりをまじえたり、ひょっとすると ( ヴェリチャーニノフにはそう思えたのだ ) 足蹴にし たりして、八歳ぐらいの小さな女の子を黙らせようとしていた。子供のほうは黒いウールの短い 服を着て、お嬢さんふうでこそあっても、貧しいよそおいだった。それこそヒステリー状態に落 ちているようで、ヒステリックにすすり泣き、両手をトルソーツキイにさしのべては、かじりつ こう、抱きっこう、何か頼もう、すがろうとしたがっているようにみえた。と、一瞬、すべてが 変ってしまった。客を見ると、女の子は悲鳴をあげて隣の小さな部屋に駆けこんで行き、トルソ ーツキイはといえば、ちょっとの間、とまどってみせたが、たちまち満面に笑みを浮べた。それ 夫 はきのう、階段のところにいる彼に向って、ヴェリチャーニノフがいきなりドアを開けたときと、 のそっくりそのままだった。 遠「これはこれは、ヴェリチャーニノフさん」と彼はびつくり仰天して大声をあげた。「まさか、 お越しいただけるとは考えてもおりませんでした : : : ま、とにかくこちらへ、さ、こちらへ。こ ひじかけ ちらのソファーにでも、それとも肘掛椅子になさいますか、わたくしは : : : 」そしてチョッキを 着るのを忘れて、フロック・コートをひっかけた。 「そんな他人行儀なことをなさらず、そのまま、そのままになさってください」ヴェリチャーニ ノフは腰掛けに坐った。 「いやいや、ぜひ、こうさせていただきませんと。さあ、これで何とか格好がっきました。それ より、何だって、そんな隅にお掛けになっているのですか。さあ、こちらへ、肘掛椅子へどうぞ、 テープルの方にでも : 。とにかく、お越しいただけるとは思っていませんでした、そうなの

6. 永遠の夫

別れ話を持ち出されていて、そんなことに気がまわるどころではなかったのだ。ナターリヤ・ヴ アシーリエヴナはどうしても、それもなるべく早く彼に出発してもらわなければいけないと無数 の理由を並べたが、そのひとつは彼女がどうも妊娠したらしいというものだった。それならば、 彼がどうあっても即刻、三カ月でも四カ月でも隠れなければいけないのは当然だった。そうすれ ば、あとになって何か中傷じみたことをいわれようが、九カ月後には夫にしても、疑おうにも疑 いにくくなるという。だが、こうした論法はまさにこじつけもいいところだった。。ハリかアメリ 力にでも逃げようかと無茶なことを申し出たあと、ヴェリチャーニノフはひとりでペテルプルグ 夫 に逃げたが、〈疑いもなく、ほんのちょっとの間〉、つまり、せいぜい三カ月ということだった。 のそうでもなければ、どんな理由ゃいい分があるにせよ、立ち去ったりはしなかっただろう。ちょ 遠うど二カ月後、彼はペテルプルグでナターリヤ・ヴァシーリエヴナから手紙を受け取ったが、そ れは、もうほかの男を愛しているから、二度と来ないでほしいと頼んできたものだった。妊娠に ついては、自分の思いちがいだと書いていた。だが、思いちがいだと知らせてきても無駄だった。 彼にはもうすべてが明瞭だった。例の将校のことを思い出していた。そして、問題はそれでけり となった。その後、はや数年たってからのことだが、・ハガウートフが現われ、まるまる五年も腰 を落ちつけたということを何とはなしに耳にした。こんなにも長い間、関係がつづいたというこ とについては、いろいろ理由もあろうけれど、彼はナターリヤ・ヴァシーリエヴナがきっと、す つかり年を取ったからだろうと考えていた。だが、彼女自身、人恋しくなったせいかもしれない。 彼はやがて一時間も自分のべッドに腰を下ろしていた。やっと、われに返ると、マヴラを呼ん

7. 永遠の夫

〈もちろん、 e 市にいたときのトルソーツキイはただの亭主だった〉し、それ以上のものではな かった。たとえば、彼は夫であるほかに役人でもあったわけだが、それはひとえに彼にとって勤 務がいわば夫婦生活の義務のひとつになってしまっていたからだ。彼自身はきわめて熱心な役人 であったかもしれないが、彼が勤めていたのは細君のためであり、 e 市における細君の社交的な 地位のためであった。彼は当時一二十五歳で、ある程度の、というより、決して少なくはない財産 を自分のものとしていた。勤務先では特別の能力を発揮したわけではないが、さりとて無能なと ころを見せたのでもない。県でも上流の人たちすべてとっきあい、うまくやっているという評判 夫 だった。ナターリヤ・ヴァシーリエヴナは e 市では広く尊敬の的となっていた。だが、彼女は当 の然のように受けとめて、それほどありがたくも思っていなかったが、自分の家ではいつもみごと 遠・に客をもてなし、その折はトルソーツキイも然るべく訓練されているとあって、県でも最高の高 官の接待にさいしても、りつばに応対することができた。ひょっとすると、彼は頭もよかったの かもしれない ( ヴェリチャーニノフにはそう思えたものだ ) 。しかし、ナターリヤ・ヴァシーリ エヴナは連れあいがあんまりおしゃべりなのを歓迎しなかったので、頭がよかったとしても、目 立つわけがなかった。おそらく彼は生れながらに、善良な性格を豊かに持っていたのだろう、悪 いのと同じぐらいに。ところが善良な性格は覆いをかけられたようだし、秘められたよくない意 図はすっかりといっていいほど押えられていた。たとえば、ヴェリチャーニノフは覚えていたが、 トルソーツキイ氏はときどき、親しい人たちを馬鹿にしたいと思うことがあった。ところが、こ れはきびしく禁じられていたのだ。彼はまた、ときどき何かとおしゃべりをするのも好きだった。

8. 永遠の夫

当のナターリヤ・ヴァシーリエヴナの死の知らせを聞いたあと、突然すべてが思いもよらず、奇 妙な形でふたたび彼の前によみがえってきたのである。 いま自分のべッドに腰を下ろし、ぼんやりと考えごとにふけり、頭の中がやたらと混乱してい る彼だが、それでもひとつだけ、はっきりと感じとり、意識していることがあった。それはつま り、きのう、この知らせを聞いたとき、〈ぞっとするほどの印象〉を得たにもかかわらず、なお かっ、彼女の死んだという事実を前にしてきわめて平静でいるということだった。〈おれは彼女 がかわいそうではないのか〉と自分にたずねてみた。事実、いまはもう彼女に憎悪の念をいだい 夫 ていないし、公平に、まっとうに彼女を批判することもできた。もっとも、もうずっと以前、と のいってもこの九年間の別離の時期に彼がいだくにいたった意見によれば、ナターリヤ・ヴァシー 遠リエヴナは田舎の〈上流の〉社交界でも最もありふれた田舎婦人に人っていて、それに〈ひょっ とすると、事実そのとおりで、おれひとり勝手に空想して彼女を買いかぶっていたのかもしれな い〉のだ。ところが、当の彼自身、ずっと、この意見は間違っているのではないかと疑ってきた し、いまなお、そんな感じがしていた。第一、事実にそぐわない点があった。例の・ハガウートフ からして、何年も彼女との関係をつづけ、それに彼女の〈魅惑のほどに〉うつつをぬかしていた らしい。バガウートフは事実、ペテルプルグの一流社交界に属する青年であり、〈およそ中身の ない人間〉 ( ヴェリチャーニノフは彼のことをこういっていた ) であるので、そのため、出世で きるとすれば、。へテルプルグをおいてほかになかった。それなのにである、彼はペテルプルグと いう、それこそこの上ない地の利を得た場所を棄てて、五年間も市でつぶしてしまったのだが、

9. 永遠の夫

思いがけずその死を知らされたきのうの印象はといえばぞっとするばかりだったが、それが何 やら俍狽に似た思い、いや痛みすら彼の心に残したのである。この痕狽と痛みもきのうトルソー ッキイといっしょのときには、とある奇妙な考えのせいで一時的にやわらげられた。ところが、 いま目がさめてみると、九年まえのことがすべて、いきなり恐ろしいばかりの鮮明さで彼の前に 現われた。 この女、つまり〈例のトルソーツキイ〉の細君である故ナターリヤ・ヴァシーリエヴナを好き になり、彼女の愛人におさまっていたのは、以前、所用で ( これまた、ある遺産の訴訟にかんす 夫 るものだった ) e 市にまるまる一年滞在していたときのことだった。この用件そのものはそんな のに長い滞在期間を必要としていなかったので、長びいた真の理由は彼女との関係にあった。おた 遠がいの関係と愛情のとりこになり果てた彼は、まるでナターリヤ・ヴァシーリエヴナの奴隷同然 というありさまで、この女のちょっとした気まぐれしだいでは、たちまち、どんなに法外な馬鹿 げたことでもやりかねないほどであった。彼はあとにもさきにも、こういった類いの経験は一度 もなかった。そしてもう別れるほかなくなったその年の末、ヴェリチャーニノフはいよいよ運命 の時が迫っているのに絶望したあげく 別れといっても、ほんの短い間のはずだったにもかか わらず絶望したのだ 、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナに向って、彼女をさらって行きたい、 夫のもとから連れ去ろう、何もかも棄てていっしょに永久に外国へ逃げようと申し出たぐらいで ある。わずかに当の夫人が馬鹿にしたのと、がんとして受けつけなかったため ( もっとも、初め のうちはこの計画にすっかり賛成していたのだが、おそらくそれというのも、退屈しのぎか、な ろうばい

10. 永遠の夫

に対して、彼はもう何もかもあきらめ、いまはただ、ひとりで家にいるのに満足していた。ただ、 物ごとにはすべて限度というものがあって、さすが彼の神経をもってしても、かんしやくの起っ たときには、この「汚ならしさ」にどうにも我慢のならなくなることがあり、家に帰ってきても、 そういうときは決って嫌な思いで自分の部屋に人るのだった。 ところが、今夜は服を脱ぐ間もあらばこそ、べッドに身を投げると、いらいらして、もういっ さい、何も考えないぞ、何としても〈いますぐにも〉寝るんだと心に決めた。そして奇妙なこと に、頭が枕に触れたとたん、たちまち眠りこけてしまった。これはもうやがて一カ月ぐらい、彼 夫 の経験していないことだった。 の三時間ばかり眠ったが、不安な眠りだった。熱に浮かされたときにでも見るような、何か奇妙 遠な夢を見た。犯罪の夢で、自分がその犯罪を犯しながら隠しだてをしていて、どこからともなく 引っきりなしに人ってくる人たちが声をそろえて彼をとがめるのだった。恐ろしいぐらい群衆が 集まってきたが、人びとはなおも人ってくるのをやめず、そのため、もはやドアもしまらなくな り、開けつばなしのままだった。しかし、結局、彼の関心はひとり奇妙な人物の上に向けられた。 じっこん かっては非常に親しくし、昵懇の間がらでもあった人であり、すでに死んでいるはずなのに、な ぜかいま、ほかの人と同じように突然、彼のところに人ってきたのである。ただ、何とも心苦し いことに、ヴェリチャーニノフはこれがどういう人物か分らず、名前も忘れていて、どうしても 思い出せなかった。そして、この人物が非常に好きだったことしか頭になかった。部屋に人って いるほどの人はみんな、この人物が決め手となるような言葉を口にするのを待っていた。それが