ごっこをしましようよ」とにんじん色の娘が有頂天になってはしゃいだ。 トルソーツキイも仲間に加わったが、少なくとも十五分たってからだった。その三分の二の時 間は、きっと垣根のところに立ちんぼだったのだ。鬼ごっこは調子よく運んでいて、うまくいっ た。みんなが大声をあげ、楽しんでいた。トルソーツキイは腹立ちまぎれに分別をなくして、ま っすぐヴェリチャーニノフのところへとんできて、ふたたび、彼の袖をつかんだ。 「ちょっと、おねがいします」 「あら、まあまあ、例によって、お得意のちょっとが始まったわ」 夫 「また、ハンケチを借りるんだわ」とふたりのうしろで、みんなしてさわいでいた。 の「さあ、こんどこそ、あなたでしよう。いまこそ、あなただ、あなたが原因ですよ : : : 」トルソ 遠ーツキイはそういいながら、歯を鳴らしていたぐらいだ。 ヴェリチャーニノフは彼の言葉をさえぎって、もっと陽気になるよう、でないと、とことんか らかわれることになるからと忠告した。「みんなが楽しくしているときに、ぶつぶついっておら れるでしよう、だから、意地わるをされるんですよーところが、びつくりしたことに、この言葉 や忠告にトルソーツキイはおそろしくショックを受けたのである。たちまちおとなしくなり、罪 人のように小さくなってみんなのところに帰り、おとなしくみんなの遊びに加わったほどである。 それからしばらくすると、みんなはもう彼を邪魔にすることもなく、分けへだてせずに遊び、半 時間とたたないうちに、前とほとんど変りなく愉快になったのである。そして何の遊びをやって も、ふたり一組だといわれると、主に、裏切者のにんじん色の娘か、ザフレビーニン家の姉妹の
見ました、これで死ぬ人もあるんですって〉と断言し、誓ったほどである。 「首筋を軽く叩いてみたら」と誰かが叫んだ。 「本当だ、それが一番だ」とザフレビーニンが大声で賛成したが、早くもその希望者が出ていた。 マリヤ・ニキーチシナ、例のにんじん色の近所の娘 ( 彼女も食事に招かれていた ) 、そしてさい ごに、すっかり驚いてしまったこの家の女主人もいたが、みんなトルソーツキイの首筋を叩こう という。テープルからとびすさったトルソーツキイは逃げまわり、自分はワインにむせただけで、 せき 咳はすぐに静まるからと説得するのにまるまる一分かかった。でも、そうこうするうちに、これ 夫 がすべてマリヤ・ニキーチシナの悪さだということは察しがついた。 の「それにしても、まあ、あなたって人さわがせねえ」と、マダム・ザフレビーニナはマリヤ・ニ 遠キーチシナにきびしい口調でいいかけたが、とたんに我慢がならなくなり、吹き出してしまった。 こんなことはめったにないとあって、またまた食卓をにぎわす効果をあげたのだった。食事のあ と、みんなバルコニーに出て、コーヒーを飲んだ。 「それにしても、お日和つづきだなあ」と老人は満足げに庭を見やりながら、うっとりと自然を 。さて、わたしは休んでこよう。みなさんは大いに 賞めた。「これで、ひと雨来てくれれば : 楽しんでくださいよ、大いにね。あんたも楽しむんですな」と、出て行きしなに、トルソーツキ イの肩を叩いた。 みんながふたたび庭に下りると、トルソーツキイがいきなりヴェリチャーニノフのところへ駆 け寄って袖を引っぱった。
「あの部屋には何もありませんよ、あなたが酔ってらっしやるだけだ、おやすみなさい」とヴェ リチャーニノフはいって、横になり、毛布にくるまった。トルソーツキイはひと一一口もいわずに、 同じように横になった。 「ところで、あなたは一度も幽霊をごらんになったことがないのですか」と、十分ほどもたって から、ヴェリチャーニノフが突然たずねた。 「一度、見たことがあるみたいですな」と弱々しい声で、同じようにもたついたあと、トルソー ッキイが答えた。そのあと、ふたたび沈黙がやってきた。 夫 自分が眠っていたのか、そうでないのかは、当のヴェリチャーニノフにも分らなかったのでは のないか。ともあれ、やがて一時間がたっていたが、ふと、彼はまたふりかえった。何かがさごそ 遠いう音がして、彼はふたたび目がさめたのだ。やはり、はっきりとは分らなかったが、まっくら やみ 闇の中で何かがのしかかっている感じがした。白いもので、まだ彼のところまでは来ていないの だが、すでに部屋の真ん中にはいた。彼はべッドに坐ると、まるまる一分間、目をこらした。 「あなたですか 、トルソーツキイさん」と彼は声を殺していった。静けさと闇の中に不意にひび きわたった自分の声が、彼には何か奇妙に思えた。 返事は返ってこなかったが、誰かが立っているのは、もう疑おうにも疑いようがなかった。 「あなたですか : : トルソーツキイさん」と声を大きくしてくりかえしたが、その声の大きいこ とといったら、トルソーツキイがべッドで静かに眠っていたとしても、目をさまし、返事をした にちがいない。 126
ジャ・ベトローヴナはまえまえから、この話はそっくり知っていたが、相手の婦人の苗字は知ら なかった。ヴェリチャーニノフにしてみれば、知りあいの誰かが、ひょっとしてマダム・トルソ ーッカヤに出会い、彼のような男がよくまあこんな女を好きになったものだとあきれるのではな いかと気がかりで、いつも不安でならず、唯一の親友であるクラヴジャ・。へトローヴナにさえ、 「この女」の名前をこれまで明かすことができなかったのだ。 「それで、父親のほうは何も知らないのですか」と、話を聞き終ってから、彼女はたずねた。 「いやあ、それが知っているのです : 。そういうこともあって、わたしは苦にしているわけで ぜんう 夫 す、自分のほうはまだ、全貌がっかめていないというのがですね」とヴェリチャーニノフは熱っ のぼくつづけた。「奴は知っている、知っていますよ、きようも、きのうもそのことに気がっきま 遠した。しかしですね、わたしとしては奴が一体どれだけ知っているかということを知る必要があ るのです。だからこそ、いまもいそいでいるのです。今晩、彼が来るのです。それにしても分ら ないなあ、一体、どこから知ったのでしよう、つまり、全部をどうやって知ったのでしような。 ハガウートフのことはそっくり知っています、これは疑いありません。しかし、わたしのことは どうでしよう。ご存じのとおり、こういう場合、細君は上手に旦那をいいくるめられるものです からね。天使が天から舞い下りたといっても、亭主はそんなことを信じませんが、細君にいわれ れば信じるのです。首をふったりしないでください、わたしを非難しないでください。ちゃんと 自分を責めていますし、まえから何かにつけて、自分を責めてきました、まえからですね : とにかく、さっきも彼のところでです、何もかも知られているのではないかと信じこんでいるあ
田「いいかい、このおじちゃまはね、前にママを知ってらしたんだよ、うちのお知りあいだったの。 こわがらないで、手を出しなさい」 女の子は軽く頭を下げ、おずおずと手をさしのべた。 「わたくしのところでは、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナがですな、腰をかがめて挨拶するよう 娘に教えるのをいやがりまして、こんなふうにイギリス流に、軽く頭を下げ、お客に手をさしの べるやり方を教えましたのです」と彼は相手の顔をましまじと見つめながら、ヴェリチャーニノ フに説明して、つけ加えた。 ヴェリチャーニノフは見つめられているのを知ってはいたが、もう、自分の狼狽を隠そうなど のとは考えもしなかった。身じろぎもせずに椅子に坐り、リーザの手をわが手に握りしめ、じっと 遠娘の顔を見つめていた。ところが、リーザは何ごとか、非常に気にしていて、自分の手が客の手 に握られているのも忘れ、父親から目をそらそうとしなかった。父親の話しているひと言、ひと 言におずおずと聞きいっていた。ヴェリチャーニノフはすぐに大きな青い目に気がついたが、何 よりも彼がおどろいたのは、少女の顔のひときわデリケートな、おどろくばかりの白さと、髪の 毛の色だった。こうした特徴は彼にとって、あまりにも意味深長だったのである。ところが、顔 の輪郭と唇の形はというと、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナに生き写しだった。一方、トルソー ッキイはもう、かなりまえから何やら異様なまでに熱つぼく、感情をこめて何か話し始めていた が、ヴェリチャーニノフのほうはまったく聞いていなかった。わずかに、さいごのほうのくだり を聞きとっただけである。
女たちにお似合いの夫たちがいて、彼らの唯一の伐目はこうしたタイプの女にあわせることだと 確信していた。彼の意見によると、こうした夫たちの本質はいわば〈永遠の夫〉たることにある、 というか、よりよくいえば、生涯、ただただ夫であることに終始し、それ以上の何ものでもない ようにすることにある。〈そういう男はもつばら結婚するためにのみ生れ、成長し、いったん結 婚すれば、たとえ自分なりの、かけがえのない性格があったとしても、ただちに自分の細君のお 訳注角 添えものになってしまう。こうした夫の主な特徴といえば、世にも有名なあの飾りもの ( のこと を示す ) だ。ちょうど太陽が輝かずにはいられないように、妻に不貞をされずにはすまない。そ 夫 れでいて、当人はこのことを全然知らないばかりか、自然の法則そのものによって、決して知ら のずにすむことにもなる〉ヴェリチャーニノフはこのふたつのタイプが存在すること、 e 市時代の ーヴェレ・。、 ーヴロヴィチ・トルソーツキイが完全にその一方の代表であったことを固く信じ ていた。だが、 きのうのトルソーツキイときたら、もちろん e 市で彼が知っていたあのトルソー ッキイではなかった。信じられないぐらいに変ってしまったのを発見したわけだが、ヴェリチャ ーニノフは彼が変らざるをえなかったこと、これがすべて自然そのものであることを知っていた。 トルソーツキイ氏は以前のままの彼でありえたかもしれないが、それは細君が存命しているかぎ りのこと、いまの彼は人間の一断片というところで、それがいきなり外へ放り出された形だった。 つまり、何かおどろくべきもの、ほかにはおよそ例を見ないものとなっていたのだ。 市時代のトルソーツキイといえば、ヴェリチャーニノフは次のようなことを覚えていて、そ れがいま思い出された。
「分りませんなあ、何のために、そんな話をなさったんですか」とヴェリチャーニノフはきびし い表情を作った。 「さよう、要するにナイフで突き刺したという、そのことをいいたいばっかりにです」とトルソ ーツキイは下品に笑いだした。「もうお分りでしようが、タイプがどうのこうのという人間じゃ ありません、鼻たれ小僧ですよ、恐怖のあまり、社儀も何も忘れて、ご婦人がたの首にかじりつ いていくんですからねえ、知事のおられる席だというのに。でも、ぐさりと刺したのですから、 本望はとげたわけです。わたくしのいいたかったのはそれだけですー 「さあ、もう、とっとと消えてくださいよ、とっとと」ヴェリチャーニノフは彼の中で何かがぶ のつりと切れたというように、声にならぬ声で、いきなりわめきだした。「とっとと消えてくださ 遠い、穴蔵のごみでもさらって、いや、あなた自身が穴蔵のごみじゃないですか、ひとをおどかそ うなどと考えて、子供をいじめたりして、低級なひとだ、卑劣漢だ、卑劣漢、卑劣漢だ」と、自 分でも訳が分らず、ひと言ひと言あえぎながら、叫んでいた。 トルソーツキイはぶるっとふるえ、酔いも消えてしまった。唇はわなわなとふるえだした。 「それはこのわたくしのことですか、ヴェリチャーニノフさん、あなたが卑劣漢とおっしやるの は。あなたが、わたくしのことをおっしやるので ? だが、ヴェリチャーニノフはもうわれに返っていた。 「わたしはいつでもお詫びしますよ」と、しばらく黙ったあと、陰気に考えこんで返事をした。 「ただしです、あなたがいますぐにも率直に行動なさる気持がある、という条件づきですが、 123
来るのを待って、ヴェリチャーニノフは部屋から部屋へと歩きまわり、コーヒーをちびちびとす すっては、たばこをくゆらしながら、これじゃあさしずめ、朝、目がさめてからずっと、前の晩 に平手打ちをくらったことを思い出している男にそっくりじゃないかと、絶えず自分にいいきか せていた。〈そうなんだ : : : 奴は知りすぎるぐらい知ってるんだ、ことの次第を。で、リーザを だしに、おれに仕返しをしようっていうんだ〉と、びくびくもので考えていた。 あわれな子供の愛らしい姿が目のまえでさびしくちらついた。そして、きよう、それも間もな く、二時間後にはわが子リーザに再会できると思うと、心臓がいっそう高鳴るのだった。〈そう 夫 だ、何もいうことないじゃないか〉と彼は熱つぼく思いきった。〈いまとなっては、このことに のこそ、おれの全生涯が、目的のすべてがかかっているのだ。うしろ指をさされようが、思い出に 遠おぼれることになろうが、かまうものか : 。それに、おれはこれまで、一体、何のために生き てきたんだ。ふしだらと泣きごとばかりじゃないか : : : それがいまでは、何もかも違うんだ、何 もかも違ったふうになるのだ〉 ところが、そうした浮かれようとは裏腹に、彼はいよいよ考えこんでしまうのだった。 〈奴はリーザを使って、おれを苦しめるんだ、これははっきりしている。それに、リーザも苦し めるだろう。そうなんだ、これでおれを参らせようというのだ、すべてのつぐないに。よおし。 : 奴のきのうのざまなど、もちろん許しておくわけにいかない〉とたんに、顔が紅潮した。 〈ところでと : : : それにしても来ないなあ、もう十一時をまわったというのに〉 彼は十二時半までずっと待っていたが、憂鬱な思いがいよいよっのっていった。トルソーツキ 107
あしげ ぶり手ぶりをまじえたり、ひょっとすると ( ヴェリチャーニノフにはそう思えたのだ ) 足蹴にし たりして、八歳ぐらいの小さな女の子を黙らせようとしていた。子供のほうは黒いウールの短い 服を着て、お嬢さんふうでこそあっても、貧しいよそおいだった。それこそヒステリー状態に落 ちているようで、ヒステリックにすすり泣き、両手をトルソーツキイにさしのべては、かじりつ こう、抱きっこう、何か頼もう、すがろうとしたがっているようにみえた。と、一瞬、すべてが 変ってしまった。客を見ると、女の子は悲鳴をあげて隣の小さな部屋に駆けこんで行き、トルソ ーツキイはといえば、ちょっとの間、とまどってみせたが、たちまち満面に笑みを浮べた。それ 夫 はきのう、階段のところにいる彼に向って、ヴェリチャーニノフがいきなりドアを開けたときと、 のそっくりそのままだった。 遠「これはこれは、ヴェリチャーニノフさん」と彼はびつくり仰天して大声をあげた。「まさか、 お越しいただけるとは考えてもおりませんでした : : : ま、とにかくこちらへ、さ、こちらへ。こ ひじかけ ちらのソファーにでも、それとも肘掛椅子になさいますか、わたくしは : : : 」そしてチョッキを 着るのを忘れて、フロック・コートをひっかけた。 「そんな他人行儀なことをなさらず、そのまま、そのままになさってください」ヴェリチャーニ ノフは腰掛けに坐った。 「いやいや、ぜひ、こうさせていただきませんと。さあ、これで何とか格好がっきました。それ より、何だって、そんな隅にお掛けになっているのですか。さあ、こちらへ、肘掛椅子へどうぞ、 テープルの方にでも : 。とにかく、お越しいただけるとは思っていませんでした、そうなの
思いがけずその死を知らされたきのうの印象はといえばぞっとするばかりだったが、それが何 やら俍狽に似た思い、いや痛みすら彼の心に残したのである。この痕狽と痛みもきのうトルソー ッキイといっしょのときには、とある奇妙な考えのせいで一時的にやわらげられた。ところが、 いま目がさめてみると、九年まえのことがすべて、いきなり恐ろしいばかりの鮮明さで彼の前に 現われた。 この女、つまり〈例のトルソーツキイ〉の細君である故ナターリヤ・ヴァシーリエヴナを好き になり、彼女の愛人におさまっていたのは、以前、所用で ( これまた、ある遺産の訴訟にかんす 夫 るものだった ) e 市にまるまる一年滞在していたときのことだった。この用件そのものはそんな のに長い滞在期間を必要としていなかったので、長びいた真の理由は彼女との関係にあった。おた 遠がいの関係と愛情のとりこになり果てた彼は、まるでナターリヤ・ヴァシーリエヴナの奴隷同然 というありさまで、この女のちょっとした気まぐれしだいでは、たちまち、どんなに法外な馬鹿 げたことでもやりかねないほどであった。彼はあとにもさきにも、こういった類いの経験は一度 もなかった。そしてもう別れるほかなくなったその年の末、ヴェリチャーニノフはいよいよ運命 の時が迫っているのに絶望したあげく 別れといっても、ほんの短い間のはずだったにもかか わらず絶望したのだ 、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナに向って、彼女をさらって行きたい、 夫のもとから連れ去ろう、何もかも棄てていっしょに永久に外国へ逃げようと申し出たぐらいで ある。わずかに当の夫人が馬鹿にしたのと、がんとして受けつけなかったため ( もっとも、初め のうちはこの計画にすっかり賛成していたのだが、おそらくそれというのも、退屈しのぎか、な ろうばい