はくずれた腫れ物のように心の中でうずき、それが絶えず苦しい、自覚した思いとなって現われ ていた。彼のいちばんの苦悩はといえば、リーザが彼の素姓に気づかず、しかも、彼が苦しいほ どに愛していたことを知らないままに死んでいったことだった。こんなにも楽しい明りに照らさ れて、彼のまえにちらりとのぞいた人生の目的のすべてが突然、永遠の闇の中で輝きを失ってし まった。彼はいま、絶えずこのことばかり考えていたが、その人生の目的というのはほかでもな い、リーザが日々刻々、全生涯を通じて常に自分の愛を感してくれることだった。《誰にしたと ころで、これ以上の目的というものはないし、ありえない〉と彼は暗い歓喜に駆られて、ときど 夫 き考えこむのだった。〈かりに、ほかに目的があるとしても、これほどに神聖なものはひとつも のないはずだ〉〈リーザの愛があれば〉と彼は考えこんでいた。〈おれの昔の悪臭ふんぶんとした、 遠無為の人生もすべて清められ、あがなわれたことだろう。うわっいて、不道徳で、疲れ果てたこ のおれのかわりに、清潔で美しい存在を一生、賞でるつもりだったし、この存在があれば、おれ もすべてを許され、おれ自身もすべてを許しただろう〉 こうした自覚した思いはすべて、あの亡くなった子供をめぐる明るい、いつも親しい、いつも 彼の心をおどろかせていた思い出と、常に分ちがたく結びついて現われた。 , 彼はあの青白い小さ な顔を頭に浮べ、表情のひとつひとつを思い出していた。彼はまた棺の中の姿や、花に埋まった ところ、また、その以前、熱で意識を失い、動かない目を見開いていた彼女を思い浮べるのだっ た。ふと、彼女がすでに台の上に横たえられていたとき、その指が一本、なぜか病気で黒ずんで しまっているのに気づいたことを思い出した。あのとき、彼はすっかりおどろき、そのあわれな
しれないし、これまでずっと聞きたいと思いながら、聞けなかった一一一口葉をひょっとすると口にす ふるだぬき るかもしれなかったからだ。ところが、この白髪の古狸もさるもの、抜け目がなくて、答えるか わりににやにやしたり、黙りとおしたりしていた。と、どうだろう、こともあろうに、肝心かな めのこの瞬間にヴェリチャーニノフの視線は突如として、道路の向い側の歩道にいる帽子に喪章 をつけた紳士の姿をとらえたのだった。彼は立ちはだかって、そこからふたりのほうをじっと見 つめていた。彼がふたりの動きを追っていたのは明らかで、せせら笑ってすらいるようだった。 《ちくしよう〉すでに役人をやりすごしたあと、自分の失敗はすべて、この〈厚かましい男〉の 夫 出現のせいだと、ヴェリチャーニノフはかんかんになっていた。《ちくしよう、何だって、おれ ののことをさぐったりするんだ。奴はきっと、おれをつけてたんだ。どうせ誰かにやとわれている 遠んだろうが、それにしても : : : ええい : : : きっと、にやにやしてやがったんだ。みてろよ、ぶつ たたいてやるから : しまったな、ステッキを持たずに出てきたのは。そうだ、ステッキを買 えばいい。こいつ、このままにはしておかないぞ。それにしても何ものなのだ。どうしても知り たいな、何ものなのか〉 そしてついに、この ( 四番目の ) 出会いからかぞえて三日後、われわれがレストランでヴェリ チャーニノフを見かけた次第はすでに書いておいたとおりで、彼はもう興奮したもいいところ、 何やらわれを忘れているほどだった。もともと気ぐらいの高いほうだったが、このていたらくは 自分でも認めるほかなかった。結局、すべての事情を照らしあわせた結果、彼の憂鬱さ、特別の ふさいだ気分、そして二週間にわたる興奮はすべてほかでもない、〈どうも取るに足りない相手
来るのを待って、ヴェリチャーニノフは部屋から部屋へと歩きまわり、コーヒーをちびちびとす すっては、たばこをくゆらしながら、これじゃあさしずめ、朝、目がさめてからずっと、前の晩 に平手打ちをくらったことを思い出している男にそっくりじゃないかと、絶えず自分にいいきか せていた。〈そうなんだ : : : 奴は知りすぎるぐらい知ってるんだ、ことの次第を。で、リーザを だしに、おれに仕返しをしようっていうんだ〉と、びくびくもので考えていた。 あわれな子供の愛らしい姿が目のまえでさびしくちらついた。そして、きよう、それも間もな く、二時間後にはわが子リーザに再会できると思うと、心臓がいっそう高鳴るのだった。〈そう 夫 だ、何もいうことないじゃないか〉と彼は熱つぼく思いきった。〈いまとなっては、このことに のこそ、おれの全生涯が、目的のすべてがかかっているのだ。うしろ指をさされようが、思い出に 遠おぼれることになろうが、かまうものか : 。それに、おれはこれまで、一体、何のために生き てきたんだ。ふしだらと泣きごとばかりじゃないか : : : それがいまでは、何もかも違うんだ、何 もかも違ったふうになるのだ〉 ところが、そうした浮かれようとは裏腹に、彼はいよいよ考えこんでしまうのだった。 〈奴はリーザを使って、おれを苦しめるんだ、これははっきりしている。それに、リーザも苦し めるだろう。そうなんだ、これでおれを参らせようというのだ、すべてのつぐないに。よおし。 : 奴のきのうのざまなど、もちろん許しておくわけにいかない〉とたんに、顔が紅潮した。 〈ところでと : : : それにしても来ないなあ、もう十一時をまわったというのに〉 彼は十二時半までずっと待っていたが、憂鬱な思いがいよいよっのっていった。トルソーツキ 107
ぐさみものにするためだったのだろう ) 、彼も思いとどまって、ひとりで立ち去るほかなかった。 それにしても、一体、何ということだろう。別れたあと、まだ二カ月もたっていないというのに、 彼はもうべテルプルグでわれとわが身に、とある疑問を投げかけ、それが永久に解けないままと なったのである。つまり、本当にこの女を愛していたのか、それとも、ただの〈迷いごと〉にす ぎなかったのかという疑問である。それも、軽薄さとか新たに始まった色恋沙汰のせいなどで、 この疑問が生れたなどというのではまったくない。とにかく当座の二カ月というもの、彼はなに やらかっかとしていて、さっそく昔どおりに上流社会に出人りし、何百という女たちに会うよう 夫 になっていたものの、おそらくそのひとりとして彼の目にとまらなかったのではないか。それど のころか、いまふたたび e 市に出かけて行けば、あれだけの問題が起ったにもかかわらず、またそ 遠ろ、あの女の悩ましい魅惑のとりこになるだろうということを、ちゃんと知り抜いていたのであ る。五年たってもなお、彼は同じことを確信していた。もっとも五年たってみると、彼はそれを 認めるにしても、憤りなしではすまなくなり、《あの女》そのものについても、思い出しては憎 らしくなっていた。彼は市で過した一年間が恥ずかしかった。ヴェリチャーニノフともあろう ものが、よくまあ、あのような〈愚かしい〉色恋にふけったものだというわけである。この色恋 をめぐる思い出はすべて不面目なものに変ってしまった。彼は恥ずかしくて涙が出るほど赤くな 、断腸の思いで悩んでいた。事実、それからさらに何年かすると、もう何とか自分の気持を静 めることができるようになっていた。彼はこうしたことをすべて忘れようと努力した。そして、 何とかうまく、それができるようになった。ところが、あれから九年もたったきのうになって、
〈そのように表現しえるとしてのことだがね、実際に高級な原因と低級な原因があるとしてのこ とだが : : : 〉これは彼みずからがつけ加えていったことである。 そう、彼はそういうところまで来てしまっていた。いまや、以前には思いもかけなかったよう な、何か高級な原因と取り組んでいた。自分の気持としてどうしても笑ってすませないような ( われながらおどろくかぎりだが ) 〈原因〉はすべて、意識的に、しかも良心に照らしたうえで高 級と呼んでいた もっとも、いままでのところ、そういうことはまだなかったが。もちろん、 これはあくまでも自分の気持としてである。そうなのだ、世間が相手となると事情が違っていた。 夫 その場その場でお茶をにごしておけばいいということは、彼もとくとこころえていた。つまり、 ひそ けいけん の万事、おのれの良心で秘やかに、敬虔に決めておきながら、翌日になったら、ロに出し平然とこ 遠れらの〈高級な原因〉をすべて拒否し、当人みずからまっさきにそうした原因を笑いものにすれ ばいいのだ、もちろん本当のところは明かさずに。そして、事実、そのとおりにしていた。それ まで彼をとらえていた〈低級な原因〉を脱して、さいきんはある程度、というよりかなり思想の 自主性を克ちえていたにもかかわらずである。まったく彼は何度、朝、べッドから起き出しては、 眠られぬ夜の間に経験した考えや感情を恥ずかしく思うようになったことだろう ( そういえば、 ここのところずっと、不眠で苦しんでいた ) 。これはもう以前から気づいていたのだが、大事な こととつまらないことを問わず、何かにつけて極端に疑いぶかくなっていて、できるだけ自分を 信用しないことに決めていた。ところが、どうしてもこれは現実だ、本当だと認めざるをえない ような事実が起ってきた。さいきん、夜ごとによくあるのだが、自分の考えと感覚がふだんとく
題恥ずかしそうな、いかにもおじけづいたようなかわいい顔にひらめいたようにヴェリチャーニノ こうこっかん フには思えた。恍惚感と同時にためらいが、聞いていたすべての人びとの顔にひらめいた。誰も おもは が、こんなふうにうたうのは不可能だし、面映ゆいことだと思っているようだが、同時に、こう したかわいい顔と目はすべてがきらきらと燃えて輝き、このうえ、さらに何かを待ちのぞんでい るようにみえた。とりわけ、それらの顔のなかでも、見るからに美しくなったカチェリーナ・フ エドセーエヴナの顔がヴェリチャーニノフのまえにぼんやりと浮んだ。 「いかにもロマンスだて」ザフレビーニン老が何か茫然自失といったふうにつぶやいた。「しか し : : : 少々、やりすぎではありませんかな。うっとりはしますが、過ぎるようで : : : 」 の「過ぎるようですわね : : : 」とマダム・ザフレビーニナがそれに応じて何かいいかけたが、トル 遠ソーツキイが彼女にみなまでいわせなかった。いきなりとび出してきて、まるで狂ったように、 われを忘れてナージャの手をわれとわが手でつかみ、ヴェリチャーニノフから遠ざけておいて、 こんどは彼のところに駆け寄り、ふるえる唇をひきつらせ、しょげたように彼を見ていた。 「ちょっとだけおねがいします」彼はやっと、かろうじてそれだけいった。 ヴェリチャーニノフは、あと一分もすれば、この御仁がいまの十倍も馬鹿げたことをやりだし けげん かねないと、はっきり見てとった。そこで、さっそく彼の手を取り、みんなが怪訝な顔をしてい るのには一顧だに与えず、相手を・ハルコニーに引き出し、さらにいっしょに数歩、庭に下りて行 ったが、そこはもうすっかり暗くなっていた。 「分っていただけますな、あなたはいますぐ、この瞬間わたくしといっしょにここをたっていた
あいかわらずで、時がたつにつれて、。へテルプルグ暮しはいよいよ不愉快になっていく一方だっ のうり た。もう七月もまぢかである。彼の脳裡にはときどき、あの訴訟もひっくるめていっさいがっさ いを放り出し、あとも見ずに、まるで突然のことのように、ふと思いついたように、どこかへ、 たとえばあのクリミアあたりにでも逃げて行こうという決意がひらめいたりした。そのくせ、ふ つう一時間もすると、もうわれとわが考えをうとんじて、あざ笑うのだった。《こういうろくで もない考えというものはいったん頭に浮んだ以上、そしておれが少しでもまともな人間であるか ぎり、南へ行ったところでなくなるわけのものではない、となったら、そういう考えからは逃れ 夫 られつこないし、逃れて何になろう〉 の〈それに逃げてどうしようというのか〉と彼はくだくだと理屈を並べつづけた。〈ここはそれこ 遠そほこりつぼくて、暑苦しく、この家ときたらまったく汚れ放題になっている。おれがうろうろ と足を運んでいる役所や、あの事務屋たちのところにしてからが、いやもうねずみが荒したよう ろうぜき な狼藉ぶり、古物市と変りない乱れようではないか。そして町に残った人びとはといえば、朝か ら晩までちらちらとのぞく顔のどれを見ても、奴らの利己主義、無邪気なまでの厚かましさ、 めんどり 心な臆病ぶり、心臓のちっぽけな雌鶏にもふさわしいいじましさといったものが、ひとっ残さず 素朴に、開けっぴろげに現われているではないか。そうだ、これこそが憂鬱症患者の天国という ものだ、いや、本当にまじめな話が。すべて開放的で、すべて明白で、何ひとっ隠すには及ばな い。別荘だとか外国の温泉場で、上流のご婦人方のそばか何かにいるのとは違うのだ。というこ とはつまり、開放的な点と率直さの一事をとってみても、こちらのほうがはるかに、心からの尊
のことからやったわけだが、おかげで彼はすっかり男を上げ、あとでみんながその洒落を真似て みようし はロにしたものである。この事実は彼もすっかり忘れていて、老人の苗字すら思い出せないぐら いだったが、ただ、あの出来事の一部始終はすべてすぐに、おどろくほどはっきりと浮んできた。 老人はそのとき、いっしょに暮していたオールド・ミスの娘の弁解をしていたが、この娘のこと うわさ で町中何かと噂をしていたことを彼はありありと思い出した。老人はいちいち言葉をかえしては 腹を立てていたが、いきなりみんなのいるその場で声をあげて泣きだし、これがある種の感動す ら呼んだ。結局、笑ってすまそうと、そのときはシャン。ハンをたつぶり飲ませ、みんなしてここ 夫 ろゆくまで笑うということでけりとなった。そして、老人がああして子供のように泣きさけび、 の手で顔を覆ったところを、ヴェリチャーニノフがいま〈なぜとも知らずに〉思い出したとき、彼 遠はふと、この話はこれまで一度も念頭から去らなかったように思えたものである。そして奇妙な ことに、あのときはこうしたことがすべて非常に滑稽に思えたのだが、いまはその反対だった。 特にその細かい点、なかでも両手で顔を覆った様子がそうだった。それからまた思い浮べたのだ が、ほんの冗談のつもりで、ある小学校教師のべっぴんの奥さんの悪口をいったところ、その中 傷が夫君の耳にまで達したことがある。ヴェリチャーニノフはすぐにこの町をあとにしたので、 自分の中傷の結果がそのときどのようになったのか知らずにいた。ところが、いまになって、ど のような結果に終ったのか、突然、想像し始めたのである。そして、ふと、平凡な町人出身のひ とりの娘をめぐるごく新しい思い出が浮ばなかったら、その想像がどこまでふくらんだものやら 見当もっかない。で、その娘だが、べつに気に人ったわけでもないのに、正直いって、彼として
うちに、もう客間にいるすべての人びとの注意を引きつけてしまっていた。彼は上流社会でおし ゃべりする技術というものをりつばに身につけていた。つまり、自分がまったく素朴な人間に見 えるようにすると同時に、自分の話を聞いている人たちのことも、自分と同じ素朴な人たと思っ ている、そんなふうに見せるような技術である。また、必要とあれば、自分をきわめて楽しい、 幸福そのものの人間だといつわってみせることも、ごく自然にできるのだった。さらに、話の合 けんかごし しゃれ 間、合間に、鋭い喧嘩腰の言葉、陽気なあてこすり、滑稽な洒落などを実に巧みに、はさむこと もできたが、それも、まったく偶然そのもののように、自分でそれと気がっかないかのようにや 夫 ってのけるのだ。もっとも、そういう鋭さ、洒落、それに会話そのものまで、もうとうの昔に用 の意され、暗記され、すでに一度ならず実地に応用されていたのかもしれない。ところが、いま現 遠在はというと、彼のその技術に本当の自然さが加わっていた。自分が気がのっていて、何かが自 分を引きつけているのを感じていた。あと数分すれば、この目が全部、自分に向けられるだろう、 この人たちすべてが自分の話しか聞かないだろう、自分としか話をしないだろう、自分のいうこ かんべき としか笑わないだろう、という完璧の、ゆるがない自信といったものを内心で感じていたのであ る。そして、実際に、笑い声が間もなく聞えるようになり、ほかの人たちも少しずつ話に割りこ んできた。彼は他人を話に引きこむ能力もすっかり身につけていたのである。早くも、一度に三、 四人の話し声がひびくまでになっていた。ザフレビーニナ夫人の退屈そうな疲れた顔までよろこ びに輝き出したぐらいだ。それはカチェリーナ・フェドセーエヴナも同じことで、うっとりとし たように聞き耳を立て、眺めていた。ナージャは鋭い目でじろじろ見ていた。彼女が最初から彼
「しかし、だからといって、このわたくしが馬鹿だなどとは、おっしゃれないはずですぞ、ヴェ リチャーニノフさん、あなたにはね」と、しつかりと相手の心にしみいるような声でトルノーツ キイが返事・をした。 ぼうとく 〈じゃあ、リーザはどうなんだ》とヴェリチャーニノフは考えたが、そのとたん、何かを冒漬し たようにぎくりとして、そうしたことを考えるのをやめた。そして、ふと、自分がその瞬間、そ れこそ小さくて、取るに足りない存在のように思えたのである。自分を誘惑していた考えが、実 に小さな、実に汚れた考えのように思え : : : どんなことがあっても、すべてを棄てよう、います ぐにでも馬車から出て行こうという気持に、ふたたび駆られたのである、そのためには、たとえ のトルソーツキイを押し倒していくことになってもかまわなかった。だが、相手が話しだすと、ま 遠た、彼の胸は誘惑にとらわれた。 「ヴェリチャーニノフさん、あなたは宝石の類いにはお強いですか」 、水 「宝石の類いといいましても、どんなもので」 「ダイヤですよ」 「強いほうですな」 「実は、ちょっとした贈り物を持って行きたいのですが。おしえていただきたいのです、その必 要はあるでしようか、ないでしようか」 「わたしにいわせれば、必要ありませんな」 「ところが、わたくしはぜひとも持って行きたいのです」とトルソーツキイは身をくねらせた。 153