「馬鹿なことを。ちゃんと、ご自分でも分ってらっしやるのに。よろしいですか、今晩にでもわ たしのところにいらしてですな、どうぞ泊っていってください。で、朝、早めに参りましよう、 十二時に向うに着くようにですな」 「お礼の申しようもありません。そのうえ、お宅に泊めていただけますなど : : : 」トルソーツキ イは突然、感動して承知した。「本当にご親切にしていただきまして : : : で、先さまの別荘はど ちらでしよう」 「先方の別荘はレースノエです」 夫 「それにしても、この子の服をどのようにいたしましようか。なにせ、身分の高いお宅のことで、 のそれも別荘とあっては、申し上げるまでもございませんが・ 。父親の気持といたしましてです 遠ね」 「服をどうなさるんですか。喪中でしようが。喪服のほかに着せられますか。これだけびったり の服は、ちょっと考えられないでしよう。ただ、その肌着を小ぎれいにしてですな、ネッカチー フも : : : ( ネッカチーフと、服の下からのぞいている肌着は実際、そうとう汚れていた ) 」 「さっそく、いたしましよう、必ず着がえさせます」とトルソ 1 ッキイはそわそわし始めた。 「ほかに必要な下着もこれからそろえます。マリヤ・スイソーエヴナのところに洗濯に出してあ りますので」 「それでは馬車を呼びに行くよう、いっていただけませんか」とヴェリチャーニノフがさえぎつ た。「それも、できることなら、いそいでですな」
219 「痛みをつぶしさえすればいいんです。痛みを引っこましさえすれば」彼は絶えずくりかえして いた。 半時間後、痛みはすっかり弱まったものの、病人はもうへとへとになっていて、トルソーツキ イがいくらすすめても、《もうひと皿〉我慢しようとはいわなかった。衰弱のため、目はいまに もふさがりそうだった。 「眠いな、眠い」と小声でくりかえしていた。 「それもいいでしよう」とトルソーツキイは同意した。 夫 「泊っていってください : : : 何時ですか」 の「もうじき一一時です、十五分前です」 遠「泊っていってください」 「泊りますよ、泊りますとも」 永 一分たって、病人はまたトルソーツキイに呼びかけた。 「あなたは、あなたは」と、相手がそばへ来て、自分の上にかがみこんだとき、彼はいった。 「あなたのほうが、わたしよりりつばです。分っています、何もかも、何もかもね : : : ありがと うございます」 つまさき 「眠ってくださいよ、眠ってね」とトルソーツキイはささやいて、爪先立ちで、いそいで自分の ソファーの方に向った。 病人はうとうとしながらも、なお、トルソ 1 ッキイがそっと、手早く寝床の用意をし、服を脱
叩だ〉彼は突然、すっかり元気を取りもどし、おそろしく陽気になって考えた。 どうしてこんなに時間がかかったのかと、明るい口調でのつけからたずねたのに対し、トルソ ーツキイは作り笑いを浮べ、きのうとは違った無遠慮な態度で腰を下ろすと、喪章のついた帽子 を別の椅子に何やらぞんざいに放り出した。ヴェリチャーニノフはすぐにこの無遠慮さに気づき、 参考までに心に留めておくこととした。 彼は静かに、余計な言葉は使わず、さっきまでの興奮の色もなく、淡々と報告する形で、自分 がリーザを連れて行ったこと、彼女があちらで優しくむかえられたこと、これが彼女にとって、 夫 どんなに役立つかということなどを話していたが、そのうちに少しずつ、リーザのことはまった のく忘れてしまったというように、もつばらボゴレーリツェフのほうへとさりげなく話を移してい 遠った。 つまり、どんなに優しい人たちかということ、自分が昔からの知りあいであること、 ボゴレーリツェフがどんなに善良で、しかも勢力家であるか、などなどといった話だ。トルソー ッキイはうわの空で、ときには不平がましく、ずるそうな笑いを浮べ、険しい目でじろじろと話 し相手を見ていた。 「あなたはまた熱つぼい方ですなあ」と彼は何か特別、下品な笑い方をしながらつぶやいた。 「しかしですよ、きようはあなたも何か、とげがありますな」とヴェリチャーニノフはいまいま しそうにいった。 「でも、わたしだってほかのみんなと同じように、とげがあっていけないってことないでしよう が」と、いままでひそんでいた隠れ家からとび出したような具合でトルソーツキイがいきなり大
誰かを相手にしていた。だが、それよりもヴェリチャーニノフがおどろいたことに、このトルソ ーツキイは絶えずナージャにまといついたり、あまり離れなかったりだったのに、どうも一度と して自分から彼女に話しかける勇気がなかった。少なくとも、彼女から注目されず、うとんじら れている自分の立場を、やむをえないもの、当然のものとして受けとめているようだった。それ なのに、しまいには、やはりまた、悪さをされることになった。 その遊びは〈隠れんぼ〉だった。もっとも、いったん隠れたあと、隠れられる場所なら、どこ に移って隠れてもよかった。密生した茂みにはいこんで、うまく隠れおおせたトルソーツキイは 夫 ふと、ひとっ走りして、家にとびこもうと思いついた。だが、叫び声がひびき、彼は見られてし のまった。だが、階段を大いそぎで中二階へと逃げこんだ。たんすのうしろに、隠れるのによさそ 遠うなちょっとした場所のあるのを知っていたのだ。だが、にんじん色の娘が彼のあとから駆け上 つまさき かぎ がり、爪先立ちでドアに忍び寄ると、鍵を掛けてしまった。みんなはさっきのように、その場で 遊びをやめると、庭の反対側の外れにある池の向うへと逃げて行った。十分ほどして、トルソー ッキイは誰も自分を探していないのに気づき、窓からのぞいてみた。誰もいなかった。両親を起 使や使用人はトルソーツキイが呼んでも してはいけないので、声をたてる勇気はなかった。小間 姿を見せないよう、返事をしないようにと、きびしい指示を受けていた。カチェリーナ・フェド セーエヴナだったら、彼のために開けてくれたかもしれない。ところが、彼女は自分の部屋に引 き上げ、坐りこんで考えだしたが、いつの間にか、やはり寝こんでしまった。彼はこうして一時 間ほど坐りとおしたのである。やっと、偶然、そばを通りかかったというように、ふたり、三人 176
巧けりがついた 「どうです、え、どうですか」若者が出て行くとすぐ、トルソーツキイはヴェリチャーニノフの ところに駆け寄った。 「さよう、あなたには不利ですな」とヴェリチャーニノフは思わず口にした。胸の痛みがつのつ てきて、苦しんだり、いらいらしていなければ、こんな一言葉は出なかっただろう。トルソーツキ やけど のイは火傷でもしたように、ぶるっとふるえた。 遠「なるほど、で、あなたはわたくしが気の毒だから、腕輪を返してくださらなかったというので すか、へ、 「だから、わたしている暇がなかったので : : : 」 「心から気の毒に思われたのでしよう、真の友だち同士として」 「ならば、そうしときましよう、気の毒でしたとも」とヴェリチャーニノフはかんしやくを起し それでいて、さっき腕輪を返された様子や、ナジェージダ・フェドセーエヴナがむりやり、彼 を引きこんだことなどを手短かに語ってきかせた : 「いうまでもないけど、わたしのほうはどんなことがあっても、受け取るつもりはなかったんで 213
トルソーツキイが結婚する 〈こんにちは〉といわれて返事はしたものの、彼はわれながらびつくりした。いま、こうして、 顔を合わせているのに悪意のひとつも湧かず、この瞬間、彼に対する感情の中に何かまったく異 なったものがあり、何か新しいものに引かれるある種の衝動すらあるのが、おそろしく奇妙に思 えた。 の「いやあ、気持のいい晩じゃありませんか」とトルソーツキイが彼の目をのぞきこみながらロを 遠きった。 「まだ、お立ちじゃなかったのですか」とヴェリチャーニノフはたずねるというのではなく、た 永 だ考えこみ、歩きつづけているだけだというようにつぶやいた。 「手間どってしまいましたがね、勤め口が見つかりました、それも昇進してです。あさってには、 きっとたちます」 「ロがあったのですか」と、こんどはもう問いかける口調になっていた。 「ないわけないでしよう」と、いきなり、トルソーツキイが顔をしかめた。 「ただ、いってみただけですよ」とヴェリチャーニノフはいいのがれ、顔をしかめると、トルソ ーツキイを横目で見た。おどろいたことに、トルソーツキイ氏の服、喪章のついた帽子、それに 140 わ
の唇にキスをした。だが、彼は本当にキスしたかどうか、確信があったわけではない。 「さて、これでもう、これで : : : 」ふたたび、酔ってぼっとし、酔眼をぎらぎらさせて、トルソ ーツキイが叫んだ。「こうなったら、申し上げますがね、わたくしはあのとき、こんなふうに思 ってました。『これもそうだろうか。もし、これも、このひともそうだとしたら、このさき、い ったい誰を信じたものか』とね」 トルソーツキイは突然、涙を流し始めた。 「で、分っていただけますかな、これで、あなたはわたくしにとって親友となられたことになる 夫 んですが : : : 」 のそして、帽子をもって部屋から駆け出して行った。ヴェリチャーニノフはトルソーツキイが初 遠めて訪れてきたあとのように、ふたたび、しばらくの間、その場を動かずにいた。 「なあに、酔っぱらいの道化だ、それだけのことさ」と手をふった。 「絶対にそれだけのことさ」もう着がえて、べッドに横になると、強い口調で確かめるようにい っこ。 8 リーザ、病気になる 翌日の朝早く、ボゴレーリツェフ家へは遅れないように参りますと約束したトルソーツキイの
「どうぞ、いらしてくださいな」 彼はもう階段に出ていた。 「待ってください」とヴェリチャーニノフがふたたび叫んだ。「逃げを決めこんだりなさらない でしような」 「といいますと、どういうことでしようか、『逃げを決めこむ』っていうのは」とトルソーツキ イは三段目のところでふりかえり、につこりしながら目を見開いた。 ヴェリチャーニノフは返事をするかわりに音をたててドアをしめ、人念に鍵をかけたうえに、 つば 夫 掛け金を受け口にさしこんだ。部屋に戻ると、何か汚ないものに触れたというように、唾を吐い のこ。 遠五分ほど部屋の真ん中にじっと動かずに立っていたあと、着がえをする間もあらばこそ、べッ ドに身を投げると、たちまち眠りこけてしまった。忘れられたろうそくがそのまま、机の上で残 らず燃えっきた。 4 妻、夫、愛人 彼はぐっすり眠って、ちょうど九時半に目をさました。すぐにとび起きると、べッドに坐り、 さっそく〈あの女〉の死について考え始めた。
ザフレビーニン家で ザフレビーニン家は、さきほどヴェリチャーニノフがいったとおり〈相当の家柄〉であったが、 当主のザフレビーニンはもうこちこちのお役人であり、それで通っていた。その一方、トルソー ッキイがこの家の所得について、〈いい暮しはしているでしよう、しかしこの人が亡くなってご 夫 らんなさい、何ひとっ残らないのだから〉といっていたのも、また事実であった。 のザフレビーニン家は非の打ちどころのない、親しげな態度でヴェリチャーニノフをむかえ、こ 遠れまでの「敵」から友人にと大転換をとげた。 「いや、おめでとう、あれでよかったんですよ」と彼は開口一番、気持よさそうな、それでいて 堂々とした様子で話しだした。「わたしのほうも示談にしようと主張しとったのですが、ピヨー トル・カルロヴィチ ( ヴェリチャーニノフの弁護士 ) はこういうことにかけては、貴重な人材で すな。いかがです。 , ハ万がとこ手に人るのでしよう、面倒もなく、遅れることもなく、争いもな しに。三年ぐらい、のびのびになってもおかしくなかったのですからな」 ヴェリチャーニノフはさっそくマダム・ザフレビーニナにも紹介されたが、これはぼんやりと、 疲れた顔の、まるまると肥った年配の婦人だった。娘たちもひとりずつ、あるいはふたりそろっ て顔を出しに来た。ところが、この娘たちというのが何やらたいへんな数になって、いつの間に
「あのですなあ、こんどはわたしのほうからおうかがいしますよ、必ずね、で、そのときはひと 。ところで、ずばりおっしやってくださいな、打ちわったところをお話しください、あな たはきよう酔ってらっしゃいませんか」 「わたくしが酔っているかですって ? まったくのしらふなんですが : : : 」 「おいでになるまえに、飲んでこられませんでしたか、それともそのまえにでも」 「ヴェリチャーニノフさん、あなた、すっかり熱に浮かされてらっしやるみたいですよ」 「あしたにでも寄らせていただきましよう、早いうちに、一時までには : : : 」 夫 「もうさっきから気づいているんですが、どうもあなた、何かもうろうとなさっておいでです のね」とトルソ 1 ッキイは気持よさそうに話をさえぎり、このテーマにこだわっていた。「お恥ず 遠かしいかぎりです、わたくしがぶしつけなあまり : : ともあれ、失礼します、帰らせていただき ます。あなたはどうか横になって、お休みください」 永 「ところで、どちらにお住まいかお話しいただけませんか」とヴェリチャーニノフはふと思い出 して、追いかけるように声をかけた。 「おや、お話ししませんでしたか、。、 ホクロフ・ホテルです : : : 」 「そのボクロフ・ホテルというのはまた、どこでしよう」 「ですから、ボクロフ教会のすぐそばです、あの横町のところですね、もっとも何という横町か 忘れましたし、それに番地も忘れました、ただ、。、 ホクロフ教会のすぐそばでして : : : 」 「それなら見つけますよ」