義務、責任の支払いを猶予されているという意味で、この時期をモラトリアムの時期と呼ぶ のである。 では、このモラトリアムの段階ではどのような心のあり方が課題になるのだろうか。 第一に、もはや親離れもでき、一個の社会人になるだけの準備もでき上がっているのだが、 ではどういう社会人になるのか。自分の進路とか職業とか人生観、男性・女性としてのあり 方などについて、さまざまな実験を試み、試行錯誤を繰り返し、いろいろなものになってみ ることで、どういうものになるのが一番自分にふさわしいか、自己確認を繰り返すことが精 神的課題である。 たとえば大学生で言えば、そのモラトリアム期間中 ( 大学在学中 ) には、山の好きな人は 山岳部に入って山男になることもできるし、演劇の好きな人は演劇部に入って俳優になるこ ともできる。政治運動の好きな人は学生運動をやることもできる。また、医学部で言えば、 その期間中に生理学の研究をすることもできれば、病理学の研究をすることもできる。 しかしながら、このモラトリアムの段階でいろいろなものになって、演じているからとい って、すべての人が一生山男になるわけでもないし、俳優になるわけでもない。また、生理 学の勉強に一生懸命になった人がすべて生理学者になるわけではない。普通の臨床医になる ことが多一一い つまり、いろいろな役割と人間像を同一化して、自分の可能性を試す。そして、いろいろ
定できないにもかかわらず、つかみどころのない訴えをする。しばしばこうした患者さんは ジプシー患者と呼ばれる状態に陥る。 ジプシー患者というのは、いろいろなお医者さんを転々としてジプシーのように巡り歩く また治してももらえない のだが、。 とこへ行ってもはっきりとした病名を教えてもらえない。 患者さんたちである。「いっそのこと胃潰瘍とか、狭心症とか病名がわかって、その治療に 専心できるほうがどれほど心が休まるかわからない」などと深刻に訴える人もいる。 実はこれらの人々は医者と患者の間のコミュニケーションのギャップに悩んでいるのであ る。 本人にしてみると、確かに心臓がドキドキしたり、頭が痛かったりする。これは決して仮 病を使っているわけでも、嘘をついているわけでもない。医者の側にしてみると、きちんと しいかげんな病名をつけるわけには、ゝよ 検査をし、どこも所見が見つからないのだから、 このような場合に患者さんが自分についていろいろと感じたり、苦しんだりしている病 窈気のことに対して、しまいには自分でいろいろな病気、イメージをつくり上げる。たとえば 患心臟がドキドキしていると重い心臓病の始まりではないかと思うし、頭痛がしていれば血圧 師が高いのではないかと思う。胃の調子が悪ければ胃がんの兆候ではないか : このようにして描き出す患者さん自身の病気像を自家性の病気という。それは患者さん自 身にしてみると明らかに存在するのだが、周りから見ると非常に主観的な病気イメージであ
241 正常な不安 不安についていろいろ述べたが、そもそも人間に適度の不安は必要である。たとえば入学 試験前に不安にならないままでいて勉強しなければ落第してしまう。身体の健康について一 定の不安があるからこそ、受診し、また医療を受ける動機にもなる。この意味での適度の不 安は、人間が危険を回避するための一種の危険信号である。 正常な不安の場合には、この危険信号を活用して、その不安の起こる原因になる危険その ものに対応できるような、さまざまな対策を立てることができる。たとえばその危険を、具 体的に避ける方法を発見するとか、その危険を克服するためのいろいろなやり方を実行する とい , っことである。 ところが、病的な不安の場合には、この危険信号であるはすの不安がやたらに増大し、深 刻になってしまって、肝心の危険に対する対策を講じることができなくなったり、しまいに は一体何が本当の危険なのか、本人にもわからなくなってしまうといった混乱が起こる。そ スうなると、不安ばかり空回りしてひどくなって、一向にその不安に対する原因の解決が得ら れなくなる。このような一種の病的な不安状態に陥ると、われわれ精神科の診療の対象にな ス
237 潜在的不安と顕在的不安 周りから、いまこの人は不安なのだなあとか、緊張してるなあと思われるときでも、本人 はいま自分が不安だと気がついていないことがある。その場合、本人はどういうふうに体験 しているかというと、何かいろいろなことが気にかかるとか、落ち着かないとか、夜眠れな いとか、機嫌が悪いとか、気が散るとか、何となく取り乱しているといった形になる。 さらに、不安というものはいろいろな自律神経の症状を伴うことが多い。たとえば心臟が ドキドキするとか、息苦しくなるとか、息切れがするとか、体の動きが多くなるとか、など である。 こうした体の変化だけを意識して、自分がいま情緒的に不安なのだというほうは自覚しな いことも多い。こうした不安をわれわれは潜在的な不安と一一一一口う。 これに対して、何かがとても心配だ、何か悪いことが起こるのではないか、、い細い、恐ろ スしいことがやってくる、危険が迫っている、という意識的な体験をもっ場合を顕在的な不安 トと一一 = ロ , つ。 の たとえば診療椅子に座っている患者さんの場合には、明らかにこうした顕在的な不安を意 識している場合が多い。はっきりとこの次どういう治療が行われるかについて、不安になっ ているからだ。
116 の間に、 子供をつくるという共同作業以外、何もなかったような気がしてきた。夫にしても 同じようだ。 この夫人の話は、女性の生き方とライフサイクル ( 人生の図式 ) というものをつくづく 考えさせる。 第一に、もし夫人が子供を持っことにこんなにもすべての生活をかけないで、一方で、 仕事を持ったり、あるいは妻として夫との間にもっと別な形で生活をともにする道をいろい ろと持っていたならば、たとえ子供が持てなくても、夫婦の愛情や家庭生活全体は、これほ どに危機的なものにはならなかっただろう。 一に、こんなにも子供にこだわる背景には、。 とうやらかすがいがないと二人が一緒にや っていけないという不安がある。二人きりになって、夫と妻がお互いの愛情やいろいろな考 えを話し合ったり、あるいは子供を持っこと以外のいろいろな生活を十分に楽しめる自信が あれば、こんなに子供、子供と言わないで済んだことだろう。 第三に、ライフサイクルの問題がある。たしかに男性にしても女性にしても、自分たちの 愛情だけのことを考えている段階から、子供をつくり、その子供を育てはぐくむ親の心を持 つようになるのが、心の成熟というものだ。 しかし、こういう意味での心の成熟は、必すしも実の子供を生んだり育てたりする経験の 中からだけ発達するものではない。夫の立場で言えば、後輩を指導したり育てたりする営み
212 ころ、すべての人々が大反対である。また、娘の夫や、息子の嫁も、一斉に反対した。大学 生の孫もまた反対である。 いろいろな反対の理由がある。嫁は嫁で、まだおばあちゃんが亡くなって二年もたたない うちに、五十年も連れ添った妻のことを考えずに、」 なおばさん、たとえおばさんであるに せよ、女性を公然とうちに入れることは女性の立場として許しがたい。そんなおじいちゃん だったと考えると、もうこれから世話をする気もないといって憤慨している。 弁護士や娘の夫はもっと現実的なことを主張している。もしもそのおばさんとおじいちゃ んが結婚するような手続きをしたり、あるいは内縁関係でも、一緒に一年なりなんなり暮ら すようになったならば、一体財産相続はどうなるのか。われわれ子供たちが今後いただける と考えている財産の半分は、一挙にそのおばさんのほうに行ってしまうことになるけれど、 それは大変な事件になってしまう。そのおばさんがもしたちの悪い人で、そのことを目当て にしておじいちゃんに近寄ったらどうするかとか、あるいはそのおばさんの背後に何かわが 家の財産を乗っ取るような悪い人がついているのではないか、そういうことも調べなければ いけないというような意見も出てきた。 また、弁護士は弁護士で、最近、そういう事件が頻発しているといって、何人かの高名な 老人が似たようなことで娘、息子たちとトラ。フルを起こしたり、その老人が亡くなったとき に、家族が分裂して、お葬式のときに大騒ぎが起こったなどという例をいろいろと調べてき
よ」と言われた。あまり深く考えず医学部に入ってしまったのだが、入ってからの勉強がも しかも、医学部の勉強 とても好きな文学や小説、歴史を楽しむ暇はない。 のすごく忙しい には、解剖とかいろいろ丸暗記しなければならないような基礎がたくさんある。彼はつくづ いやになってしまった。と同時に何でこの学校、あるいはこの学部に入ったのだろうとっ くづく恨む気持ちがつのった。 もともと最終的に選んだのは自分自身であるはずなのに、彼は医学部進学を勧めた先生を 恨み、両親に対していろいろ文句を一一一一口うようになった。何で僕に医学部に入れとあんなに勧 めたんですか、息子を医者にして自分が自慢したかったのでしよう、というような言い争い をするようになった。 だんだん彼は、自分がこうやっていま迷い苦しんでいるのは、教師や両親のせいだと考え るようになった。両親に対する面当てのような気持ちで、学校に行くのを休み、いままで高 格 雛校時代からやりたくてもできなかった遊びにふけるようになった。 2 勉強ぎらいの仲間とマージャン屋に行ったり、途中で映画を見に行ったり、喫茶店でアル バイトもするようになった。何かとても自由になって、自分がそれまでの束縛から解放され、 の 本来の自分に戻ったような気持ちになれたのである。そうこうするうちに試験の時期がきた 人 が、とても厳しい試験で受かるはすがない。試験に失敗すればますますおもしろくなくなる。 それまで秀才だった彼が初めて挫折を味わった。
198 なる。たえす義母が自分の若いころと比較して、あなたはずいぶん自由でいいとか、よくも そんなに夫や子供のことをほうり出して好きなことができるものだとか、いろいろないやみ を三 = ロ , つ。 せつかく自由になったので、夜も自由に外出してセミナーに通おうと思っていても、講義 を聞いている最中に、うちに帰ったら姑に何か言われるのではないかということが気がかり になって心が落ち着かない とうとうあるとき、もう少し仲間とお茶を飲んでゆっくりおし ゃべりしたいという気持ちがあるのに、一方では姑が一人でタ食をしないで自分の帰りを待 っていると思うと、何やらまた文句を言われるのではないかと不安になってきた。急いでお 付き合いを半ばにしてうちに帰る途中で、電車の中で急に気分が悪くなった。めまいがして、 脳貧血のような状態になった。それからは何か外出をするたびにぐあいが悪くなる。 近くのかかりつけの内科の先生に診察を受けると、「ああ、あなたは自律神経失調症です ね。何かとても緊張するようなことがあるのではないでしようか」と言われた。いろいろ事 情を話してみると、外に出て自由に活躍したいという気持ちと、うちで待っている姑にいろ いろ非難されるのではないかという不安が互いに相争って、こうした不安と緊張の気持ちを つくり出していたようである。せつかくの充実した中年以後の人生も、このお姑さんとの闘 いのためにうまくいかないという、また新しい挫折感が -c 夫人を襲ったのである。 結局、夫と夫人と姑との間で話し合いを繰り返し、夫人が外で活躍する曜日を何日か
166 い争いをするのを聞いてもたちまち N 君が介入する。どうやら自分が帰宅するまでの間に、 自分のことで妻と N 君がいろいろと話し合っているらしい。何となく父親は被害妄想的にな あるとき、職場のみんなと一杯飲んで、終電車過ぎになってやっと帰ってきたことがある。 その間、母親はすごく心配して一体どうしたんだろう、何をしているんだろうと、かなりイ ライラしていた。勉強している N 君と二人で、いろいろ父親の悪口を言っていた。 そんなところに帰ってきた父親と母親の間で言い合いになったときに、突然、勉強部屋か ら出てきた N 君が、「あなたみたいなだらしない暮らしをしているのはとても不愉快です。 ちゃんと父親らしくやったらどうですか」と食ってかかった。父親のほうもびつくりして、 「何だ、おまえは。子供のくせに」と怒った。そんなことから、つかみ合いのけんかになっ た。「おまえみたいなのが家庭内暴力児だ」と父親は怒る。息子のほうも負けないで言い返 すといった親子げんかが起こった。それから、ときどきこのような険悪な状態が続いた。母 親はその間に立ってオロオロしているように見えるが、内心、息子が夫に激しく食ってかか るのを見ていて、胸がスッとするようなところがある。 そんなことがあったときから、 N 君は、お父さんがさわったものが汚いと言い出した。自 分が食べようと思っていたビスケットをお父さんがつまんだ。そうなると、もうお父さんが さわったものは汚くてまずいから食べられないと言う。
278 の診察の前後、むしろ、あなたはいま会社でどんなストレスがあるのかとか、最近、配置転 換をしたかどうかとか、あるいは定年に近づいているのかとか、いろいろな職場のストレス を聞く。あるいは夫婦仲はよいか、子供さんのことで心配はないのかといった家庭内のスト レスまでも尋ねられる。「体の診察を受けに行って、そんなプライバシーに属するような話 をいろいろと聞かれたのではかなわない」と行って怒りだす人もいる。中には、「自分の病 気のことがわからないので、あんなことばっかり聞くのだろう、そんな先生はもういやだ」 と言って、それつきり行かなくなって、またほかの病院の先生のところに行ってしまう人も しかし十二分に身体面の検査を積み重ねた上で、こうした心身症やノイローゼという病名 を下す先生はむしろ良心的で親切な先生だと思ってまし、。 しなぜならば一部の先生の中には、 精神的な面からのストレスがあるとか、心身症というと、患者さんが自分を嫌って来なくな るのではないか心配して、あえてそこまで説明もしない人がいるからである。中には、時間 的に忙しいので、黙って精神安定剤を飲ましていればそれで何とか治るのではないかと思っ て、それ以上説明をしてくれない先生もいる。こうした先生に比べれば、あえて時間をかけ て心の悩みについて相談。 こ乗ってくれようとする先生は、それだけ親切だというふうに理解 してほし、。 繰り返して言う。これはもちろん体の本当の病気が検査によって完全に否定された場合に