こうした青年とその被害者である妻の間のことを、専門的には末完成結婚と言う。つまり、 形式的には結婚しているのだが、結婚を達成するはすの肝心の愛情生活が未完成のまま、夫 婦という形をとっているのである。 こうした末完成結婚で受診する青 ある泌尿器科医の統計によると、この五、 , ハ年の間に、 年は五倍以上に増加しているという。これに類した統計的な事実を口にする専門家は少なく 未完成結婚の中には、初経験であるために、緊張しすぎてうまくいかず、それがまたわだ かまりになってますますこじれていって、そのままうまくいかないでいるといったタイプも ある。そうした場合には、専門のセックスカウンセラーや相談指導によって、比較的順調に 回復することができる。 しかしながら、最初に述べたような、もともと女性にあまり関心がなく、結婚そのものも自 分の自発的な意思によるものだと思っていないようなタイプの青年の場合には、むしろ結婚 することそのことが間違いだったとしか思えないような人がいる。また、そうした男性を真 危面目な堅物だと思って結婚した女性も、運が悪かったとあきらめるほうが適切な場合がある。 婦 いつまでもそうした男性と一緒に暮らしていても、不幸が積み重なるばかりだからである。 夫 また男生のほうも、思い切って結婚という世間体にとらわれず、自分はそういうタイプなの だから、機械と一緒に暮らしたほうがいいと割り切ったはうが、本人にとっては幸せな場合
ればならないのか、人生は絶望的だといって一度は死ぬつもりで富士山麓に行って、家じゅ う大騒ぎをするような事件も起こった。 それつきりなんにもしないでうちでプラブラしている。何か勉強しなさいと言っても、勉 強してどういう意味があるんだという。音楽も小さいときからやっていたのにもかかわらず、 どうせやったってせいぜい音楽の教師ぐらいにしかなれないんじゃ、やってもしようがない といって身が入らない。 君にせよ君にせよ、こうした青年たちの生い立ちを見ると、ほとんどが幼いときから 「あなたはすばらしい才能の持ち主よ」と、お父さん、お母さんから期待をかけられ、王子 様のようにうちじゅうが彼の勉強や音楽本位に暮らしていて、そのために両親がすべてを犠 牲にして彼を育てている。彼も、世界が自分を中心に回っていると思い込んでいる節がある。 そうしたすばらしい王子様の、巨大な誇大自己がふくれ上がっている。 しかし、世の中、青年期を過ぎると、彼のこの誇大自己を満たすような現実はなかなか見 つからないし、彼がそうした誇大自己をそのまま満足させて生きる小沢征爾やカラヤンにな るためには、ずば抜けた才能が必要だが、 自負心ばかり高くて、それだけの才能が伴わない 青年が多い。こうした青年たちは、二十代後半ともなると、無気力症に陥る。世の中は間違 っている。自分はどうしてこんなことになってしまったのか。少しわかってくると、両親が 悪い、その育て方が悪いといった不満も高じてくる。あるいは非常に絶望的になる。
110 ビゲームに没頭し、その中で自分の思いどおりのゲームをつくり出し、ひとり相撲的にその 中での満足を優先してしまう。さびしいことや悲しいことがあると、すぐにウォークマンを 聴いて紛らしてしまう。家庭にいても、父母やきようだいとちょっとトラ。フルがあると、深 く争おうとしないで、ひとりで部屋に引きこもってテレビを見る。 こうした生活習慣を身につけた現代の若者の中にしばしば見られるのは、男性と女性のつ き合いそのものについても、こうした深いかかわりを避ける気持ちが働いてしまう傾向であ る。彼らは出会うと決まったように、デートをしたり、つき合ったり、表面的には行動する。 しかし、深い、いの触れ合いとか、ぶつかり合いを避ける傾向がある。 情緒的にそうであるだけならまだしも、もっと重症の若者の中には、女性に対して積極的 な感晴や関心を抱くことが乏しい。そうしたタイプの若者が目立つようになった。特に、理 工科系の勉強に没頭し、物理、数学満点といった秀才と言われるようなタイプの人々の中に こうした傾向が見られるときがある。彼らは、幼いときから受験、進学のためにこうした勉 強については大変に進んだ成績をあげ、また、知識が豊富である。知的な志向は大変すぐれ ている。 しかしながら、もっと生々しい人間的な喜怒哀楽の感情、あるいは性愛について、昔のよ うに激しい脳みを抱くことも少ない。身の回りの世話や人と人のかかわりについては、母親 がそっとめんどうを見て、そういうことで煩わされないでも済むような環境の中で人となっ
109 未完成結婚の悩み〈性障害と情緒希薄なテクノ人間〉 科学技術の進歩とともに、車、テレビ、ウォークマン、そしてコンピューターと、自分が 操作すれば何でも自分の思うとおりの満足が得られるような、そうしたエレクトロメカニク スとともに暮らす青少年がふえている。 しかしながら、こうしたテクノシステムなしでは暮らせないようになるとともに、人と人 との間がそれだけ疎遠になり、人と人の情緒的なかかわりが希薄になってしまう場合がある。 友達とけんかをしたり、仲直りをしたり、愛と贈しみの激しい相克の中で人格を形成した、 これまでの青少年と違ったタイプの心の持ち主がふえている。 彼らは、人間関係でちょっとおもしろくないこと、苦痛なことがあると、深くかかわるこ とをやめて、こうしたテレビやウォークマンの世界に逃避してしまう。もっと積極的にテレ 夫婦の危機
ンタルヘルスという面からは、そういう自分の性格をよくのみ込んで、自分は少し気が弱い からとか、変わり者だからというふうにはっきり居直ってしまったほうがよい。無理にみん なにとけ込もうとしたり、調子を合わせようとしないで、こうした旅行や余興は苦手だから といって、上司に頼んで参加しないで済ませてもらうほうが安全だ。そういうことさえなけ れば、仕事はきちんとするのだから、それでよいではないか。 しかし、日本の会社人間の暮らし方は、仕事本位であると同時に、こうした職場のつきあ いをとても重んじる。みんなが仕事が終わっても男同士のつきあいをともにすることで、初 めて一体感や連帯感が生まれる。彼がなかなかそうした社員にならない点は周りから見ると 気に入らない部分になる。 そのためにみんなは余計に彼を仲間に入れようとして、誘ったり、からかったりするわけ である。しかし、そうなると彼はますます苦痛になる。むしろ職場の精神衛生医としての私 の立場からは、職場の上司、同僚にも無理にそういうことをしてトラブルを起こすよりは、 彼は彼の性格、個性があるのだから、それを受け入れて仕事さえよくやって、れよ、 う形でうまくやってほしいというふうに話しあった。 しかし、これからの若い世代にはますますこうした、人とうまくつきあえない性格の持ち 主がふえていくよ , つに思 , つ。
218 るタイプの人がいる。こうした人物も、きちんとした課題集団の中に入っていれば、結構安 定した心を保つことができるのだが。 また、集団の中でどこまで仲間と親密になって仲よくやっていくか、どこまで自分という ものを保って隔たりを置くかという、人との距離の取り方が大きなジレンマを引き起こすこ とがある。こうしたジレンマをどうやって乗り越えていくかが、社会人になるための重要な 課題である。 さらにここでもう一つ挙げたいのは、社会、組織、集団に対する心のかかわりである。か っては一定の組織、集団に一体化し、自分自身よりも、自分を超えた集団や組織の繁栄や発 展に生きがいを見いだすという心のあり方が尊敬され、また、美化されていた。 しかしながら、現代人は、これらの集団や組織にあまりにも深くかかわって自分を失うこ とを恐れる気持ちが強い。あくまでも自分を失わす、組織、集団に対して一時的、部分的に かかわりたいという気持ちが、だれにも共通した心理になっている。 私がモラトリアム人間と呼ぶのは、こうした心性の持ち主である。モラトリアムとは猶予 期間のことを意味するのだが、一人前の自分になって、特定の組織、集団の中にしつかりと 自分を位置づけ、その集団や組織とのかかわりの中で責任と義務を果たしていく、そうした アイデンティティをはっきりと持った人間になるよりは、そのようなアイデンティティを確 立する以前の猶予期間 ( モラトリアム ) の状態に自分の身を置き、い つでも変身可能の待機
150 家庭も平和に見える家族の中に、私が潜在離婚型家族と呼ぶような人々がいる。彼らは、自 分たちがそのような意味で夫婦間の絆が希薄になっていて、実際には一緒に暮らしているけ れども、離婚同様の生活をしているにもかかわらず、その事実を深刻に直視しようとしない。 何となく二人の間にもなれあいが生じ、それそれがそれぞれの生活を送っている。双方が一 致するのは、子供について、その成長を楽しみ、よい学校に入ったり、よい会社に入ったり することを楽しみにしているという点だけである。 高度成長期にはそれでも夫は収入が上がり、さまざまな品物を購入し、生活水準が上がり、 家庭が豊かになるということで、こうした夫婦の間にもある種の協力関係が得られていた。 しかし、物質的な繁栄も限界に達したいま、妻たちの中には、こうした状況に対してひそか な批判と自立を求める人々もふえている。 もう一つ、潜在離婚型家族が危機を迎えるのは、子供たちが思春期の年代を迎えたときで ある。少年少女それそれが、自分自身、男としての自分、女としての自分を確立しようとし 始める。そのときに当然、父親、母親を、男性、女陸としてのモデルとして見直すときがく る。 ふと、そのような目で自分たちの父親、母親の間柄を見ると、二人の間に積極的な愛情交 流も乏しいし、男性、女としての絆も失われていることに気づく。そうしたときに、男の 子、女の子が父親、母親に対して厳しい批判を向けるときがくる。また、こうした批判をき
これも男の甲斐性だぐらいに思 ら自分がそうした女生関係をやめるなどという考えはない。 っている。むしろ妻は家庭を守り、こうした夫の生活に奉仕し、子供を育てればよいのだと いう考え方の持ち主である。あからさまな男尊女卑的な考えを持っている。 しかし、これは z 夫人の暮らしているその地方の町ではそれほど特異な考えではないし、 むしろ夫のほうが普通であるというふうに見なされている。 最近、 z 夫人がこうした状態で結婚生活を続けることがあまりにも苦しいので、実家や周 囲の人に相談し、ひそかに離婚を決意し、家を離れて東京で暮らそうと思う、ということを 告白した。 そのとき、両親をはじめきようだいたちからも、「あなたはなんていう人なんですか。そ れでもあなたは母親なの ? 夫が浮気をしたり、酒癖が悪いくらいで離婚を考えるなんて、 どうかしているわ。子供たちのことも考えなさい。女のほうから離婚を言い出すなんて、周 りの人からどういうふうに言われるかわからない。とんでもない」といって非難を浴びた。 また夫も、「おまえは少し精神的におかしいんじゃないか。ノイローゼなんだ。あんまり 危いろいろ考え過ぎている。このとおりおまえはちゃんと子供を育て、家庭をちゃんとやって 婦いれば少しも心配はない」と言われた。 とうとう彼女はたまりかねて、東京に住む姉を頼って上京した。そのとき、夫には「私の ほうの考えが正しいのか、あなたのほうの考えが正しいのか、この町の中で暮らしていても
て、説明する。 しかし、こうした息子、娘の反対意見を老人てある父親に言うのは、何か大変に気の毒な 気がする。せつかく年老いた父が新しい生きがいを見いだそうとしているのに、あまり理屈 つばいことを一言うよりは、長生きしてもらうことが第一だから、おじいちゃんが一番いいよ うにしてあげたらどうですか、というのが実の娘の感情である。 最終的に、このような息子、娘の心配を聞いた E 氏は、その辺のことは自分もいろいろ考 えたけれど、結局は茶飲み友達で話し相手になっていただくという範囲で、自分も年を取っ ているし、おばあちゃんのこともあるし、何もすぐに結婚しようとか、そういう意味での女 性として考えているわけではない。何せ向こうもおばあちゃんなのだから、そこまで心配し 藤ないでも大丈夫だ。また、その点についてあちらの子供さんとも協議をして、そうした意味 9 で一緒に暮らすとかいうことではなく、お互い精神的な仲間や伴侶として、おっき合いをし の ていただくというところに話が落ち着いた。 代 世 年 いま述べた E 氏のように、配偶者を失った老人の、人生の伴侶をお互いに求める人々が次 中 と 第にふえている。こうした場合、その伴侶または配偶者の選択について、息子、娘たちが心 父配するような遺産相続などの財産分与の問題などを含めた、高齢化社会にふさわしい何らか のシステムやルール、あるいは法律的な問題が、今後、対応上必要になってくるのではなか つつ , つ、か
ている。 周りから見ると、勉強家であったり、真面目な技術者であったりして、「お宅の息子さん は真面目でよい方ですね」といった見方をされている。不純異性交遊はもちろん、最近はや りのフリーセックスにも全く関係がなくて、堅物で、うちの娘のお婿さんには絶好の人では ないかといったようなことを一言われている。 いくら結婚を勧めても、本人は一向にその気にならない。むしろそんなことは煩わしい ハイクに一米ったり、 自分はいろいろなメカニクスをいじっているほうが楽しい。楽しみも、 車の運転である。しかし、ある程度の年齢になるといやおうなしに、世間体もあり、結婚し なければならない。両親が決めた人とお見合いをし、あまりはっきりした好き嫌いもなしに、 結婚させられたような形になる。 こうしたタイプの青年の中に、、ざ結婚はしてみたものの、一向に妻との愛情生活に強、 関心を抱けない人がいる。 一方、女性の側は、昔と違って性意識が高まっている。結婚すればそうした生活を持つの 危は当然のことだと思っている。新婚旅行に行っても、妻に誘われてやっとそうしたかっこう 婦はとるけれど、実際には性生活がうまくできない。非常に受け身な形になってしまって、圧 迫感を抱き、自分を何とかしなければと思い始めるが、うまくいかない。そうなると、それ がまたコンプレックスになってしまって、妻との間にもしこりが生じてしまう。そうしたわ