可能性 - みる会図書館


検索対象: 現代人の心をさぐる
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1. 現代人の心をさぐる

生ま大きいというのである。ただ、その結びつき方が、結果的には男尊女卑型のピー く可能ー。 ハンの気持ちを満たす形になる。したがって、もし女性が自己の自立に目覚めると、 , つまくいかなくなってしま , つ。 ピーター ハンの話には、ウエンディというお姉さん的、母親的な女性のほかに、常に自 分が光を発している妖精のティンカー・ベルが登場する。そして、本書では、これからの新 しい女性のあり方は、ウエンディ・タイプではなく、むしろ一人一人がティンカー・ベル型 の女性になることだと説いている。しかし、ティンカー・ベルになろうとする女性たちは、 とてもピーター ハンとはっき合いきれなくなって、彼を見捨てて旅立っことになる。 危機と社会的不能症 さて、以上述べた無責任、不安、孤独感、性役割の葛藤、そしてナルシシズムと男尊女卑 志向という、六つの症状が出そろうと、ここでの完全な症状の構造ができ上がる。 こうした発達病理学が完成したとこ のそして、たとえて一一一一口えば、大学生くらいまでの間に、 ろで、社会人になろうとするときに出会うのが、同一性 ( アイデンティティ ) の危機、ある 年いは本書の一一一一口う危機の年代である。 青 つまり、社会人としてどう自分を定義づけてやっていくかがわからなくなってしまう。そ ソーシャル・インポテンス して、結果的には無気力状態、社会的不能症の状態に陥る。こうした社会的不能症が発生す

2. 現代人の心をさぐる

108 合、どのような働く母親の子育て方式がこれからっくられていくかが、わが国の家庭、家族 のあり方を占う上できわめて重要な課題である。 現在、米国が人口千人に対して五・一という離婚率であるのに対して、わが国の離婚率は 人口千人に対して一・五前後である。つまり先進国の中でわが国は離婚率で一一一一口えば第六位ぐ らいであり、必ずしも離婚が多いとは言えない。むしろ最も安定した国の一つである。しか しながら、これからわが国でもいまよりは離婚率がふえる可能性がある。そしてまた米国式 の離婚再婚家族もふえていく可能性がある。しかし米国のように個人主義が徹底し、夫婦も 契約関係、子供との関係も新しい契約関係で対応していこうとするお国柄とわが国の場合は、 文化的な伝統が違う。米国の場合には夫婦の間で離婚しても親子の絆を保っために別れた父 親が毎週面接権を持ったり、あるいは一緒に暮らしたりすることで何とか子育てに協力をし ようとする傾向が高い。わが国では、離婚、再婚した場合、こうしたアメリカのような家族 ネットワークをつくって、子育てを何とかやっていこうとするような努力が可能かどうかは、 いまだに疑問である。それだけに程度はアメリカほどではなくても、離婚、再婚率が高くな った場合の子供の被害は深刻になるおそれがある。この問題については第四の問題と同様に まだこれからの課題であるが、現代の家族を顧みる場合に、先進諸国の実例を学んで、わが 国はわが国らしい対応策をそれそれが心得ておかねばならない。そうした準備なしの離婚や 再婚は子供の被害をそれだけ大きくすることである。

3. 現代人の心をさぐる

の中でも、親の心を身につけることはできるし、妻の場合でも、また別の形でその可能性は いろいろある。 ところが、この夫婦の場合には、実の子供を持っことでそうなろうという気持ちにとりつ かれてしまったために、その肝心の子供を持っことができないと、いつになっても親になれす、 心の成熟も得られなかった。いつになっても新婚時代の夫婦のあり方以上の発達が見られな 子供のない夫婦によくこうした停滞が見られるが、この夫婦の場合も、その典型である。 しかし、夫人の心に、最近になって中年心理が芽生えている。子供を持っことに執着し て、そのために自分の人生そのものの発展の道が閉ざされてしまうくらいなら、」 な生き方、 別な人生観、別な夫婦のあり方を考える必要がある。こう思うようになった夫人には、た しかに心の変化が起こっている。しかもその変化は、、 しままでに比べてワン・ステップ成長 する可能性を持っている。 夫婦関係では、夫婦が同じような心の変化をともにすることが大切だ。もし夫人だけが いま述べたような心境になっても、肝心のご主人がまだまだ子供がほしい、 子供ができなけ 危ればわれわれ夫婦には幸せはないと思いつづけているとすれば、夫婦との間の溝は深まるば 婦かりだ。 夫婦の子供を持てない悩みを通して、夫婦とその心の成熟というものを考えていただけ れば幸いである。

4. 現代人の心をさぐる

221 心、のストレス ればならない。その適応の途上で、心はその環境にかなった心のあり方に変化していく。社 会そのもののあり方、そして価値観や適応の仕方が、科学技術の進歩や高齢化社会の到来と ともに大きく変化すれば、心のあり方も必然的に変わっていく。 こうした全体的な展望のもとに、直接の人と人のかかわりも微妙に変化しつつある。 新しい心のあり方として、かっての「あれかこれか」の生き方から「あれもこれも」の生 き方への変化を私は説いているが、これからの生き方としては、これが自分だと定義して、 そのほかの自分の可能性を切り捨てることで自分を全うする生き方よりは、さまざまな自分 の可能性を豊かに準備し、それそれの環境や人とのかかわりの中でどの自分を発揮していく かという、柔軟で豊かで、しかも多様性に富んだ人間の生き方がいま求められているのであ る。 ストレス (stress) 生体に対して、平均以上の緊張を要するような負荷をストレ スという。生体には、常に一定の均衡状態を保とうとするホメオスターシス ( 直常 性の維持 ) の機能があるが、ストレスはこのホメオスターシスを一時的に動揺させ 新しいホメオスターシスを再建するひすみを生体に加えることになる。 この意味でのストレスは、生物学的なもの、つまり、自然環境から、身体的な諸条 件、心理的な条件、対人関係、社会的な種々の環境・状況の変動など、すべてがス

5. 現代人の心をさぐる

や夫の心の転換はあまり期待できない、むしろ自分が家庭の外に出て自立したいというよう な気持ちが高まる。このような意味での家庭の中での夫婦間の危機もまた、中高年の心の問 題として深刻である。 さらに年を取ると、たとえ夫婦の絆が中年以後、より確かなものになり、より豊かなもの になったとしても、今度は高齢化社会の中では、配偶者のどちらかが先にあの世に旅立っと いう不幸も起こりがちである。夫が、あるいは妻ががんになり先立っといった場合、配偶者 に先立たれた夫、あるいは妻の老後は、夫婦そろって老後を迎える場合に比べて、さまざま な心の苦痛や孤独などの重荷が深刻である。 医学的な研究によれば、五十四歳以上の夫婦の場合、その一方が病気で先立った場合、残 された他方が一年以内に病気で亡くなる確率は、両者健在の場合に比べて何倍も高いという 調査結果がたくさん提出されている。しかも、この傾向は年を取るに従って高くなる。 しかし、その一方で、配偶者を失った夫、妻が、中高年でありながら、再婚したり、ある 、よ恋人を持ったり、ともに暮らしたりするような可能性もこれからは大いに高まる可能性 高がある。 中 ・バードは、高齢化社会というと、ポケ老人がふえたり、 米国の女性評論家キャロライン 老人が孤独になったり、寝たきりでさまざまなみじめな思いをしたりするという不幸な面が 強調され過ぎるという。こうした暗さも一つの側面だが、同時に、高齢化社会は文字どおり

6. 現代人の心をさぐる

79 青年の心とその病 同一化しないままの状態でいる人間のこと。モラトリアムとはそもそも支払猶予期 間の意味であるが、社会心理学的な用語としてエリクソン (Erikson, E. H. ) は、 青年期は、知識、技術の研修のために、知的、肉体的、性的な能力の面では一人前 になっているにもかかわらず、なお社会人としての義務と責任の支払いを猶予され ている状態と定義した。ところが一九六〇年から七〇年代にかけて、次第にこの意 味での青年期が延長し、いつまでもモラトリアム状態にとどまる青年層がふえた。 . しいつまでもモラ そこで、小此木は、青年のみならす各年代、階層の現代人の、いこ、 トリアム状態にいて、社会的な自己 ( アイデンティティ ) を確立しない心理構造が 一般化している事実を指摘し、こうした心理構造の持主をモラトリアム人間と名付 けた。モラトリアム人間は従来の一定の社会的自己のあり方 ( アイデンティティ ) を全うするために、他の自分の可能性を切り捨てる。「あれかこれか」型の生き方 に比べて、「あれもこれも」型であり、自分の多様な可能性を常に自由に発揮でき るような柔軟性を持っている。しかし、社会に対して当事者意識を欠き、お客様的 であり、組織、集団、国家、社会に対して帰属意識が希薄で、何事にも一時的、暫 定的にしかかかわらず、真の自分のすべてをかけることを避け、部分的、一時的に しか自分をかかわらせない、などの心理傾向を持っている。 ( 『現代用語の基礎知識』自由国民社刊から )

7. 現代人の心をさぐる

な可能生を心の中に準備するが、最後に大人としての社会人になるときには、それらをまと め上げて、一個の社会的な自分というものをつくり上げる。そうした準備期間がモラトリア ムの期間なのである。 しかし、現代社会ではこれまでの社会のように、このモラトリアムが明確な準備期間とし ての性格を失い始めている点に問題がある。社会が人々に対して寛容で、自由で、いろんな しつまでもこのモラトリアムの状態を続けるよ 可能性を許容するようになっているだけに、、 うな心理構造が、現代人の社会的性格になっている。 こうした人間像のことをモラトリアム人間と呼ぶのだが、それだけにいつになっても従来 の意味での大人の社会人としての自己像を確立できなかったり、いつになってもどこまでが 仕事で、どこまでが趣味で、どこまでが学生気分で、どこまでが社会人かはっきりしない、 そうした心理の持ち主が若い世代にふえている。 それはそれなりに自由で、個性的で、創造的な面を持っているのは確かなのだが、このよ 病 のうな心理から脱却しないまま会社に入ったり、結婚したりすると、そこで改めて〇〇会社の 〇〇としての責任や義務が期待される。また、夫、妻、あるいは父親、母親としての役割を 年きちんととることが期待されるときに、意外な心の脆弱さを露呈することがある。 青 それは、まだ自分はモラトリアムの状態にいるつもりでいるのに、周りから、お前は〇〇 会社の〇〇だ、あるいは、私の妻だ、この赤ん坊の母親だ、父親だ、という身分を強いられ

8. 現代人の心をさぐる

175 いま中高年の心は 上昇停止症候群青年期以来、年とともに地位も収入も上がり、家庭も充実すると いった上昇型の生活感覚で暮らしていた中高年者が出世コースから外れた、あるい は自分の職場での見通しについて限界を悟る。体力の衰え、子育ての失敗、家庭的 な不和などによって、自分の人生がもはや上昇ではなく、むしろ下降線をたどり始 めているといった感覚に襲われるときをあらわす心身の兆候をいう。しかし、上昇 停止体験を契機に、青年期以来の外向きの価値観とは違った、もっと内向きの内面 的な人生観を持っことによって立ち直ることができれば、むしろ中高年の危機を乗 り越えて、より深い心の成熟が得られる可能性がある。 過剰適応症候群社会生活を安全かっ有意義に営むためには、一定の適応が必要な のはもちろんである。しかし、適応そのものは目的ではなく、手段である。適応す ることを通して、さらに自分自身の内面的な充足や自己実現が可能になって初めて 適応がその目的を達する。ところが、中には適応そのものが目的になり、社会生活、 特に職場や仕事上の生活に適応することですべてを犠牲にして、ひたすら職場の仕 事と人間関係に献身することによって生ずる心の病理がある。こうした状態から生 ずる種々の心身の症状を過剰適応症候群と呼ぶ。第一に、本来の自分の内面的な目 標や欲求がどこにあったのかを見失ってしまう。第二に、気がついてみると、職場

9. 現代人の心をさぐる

。しまがち 蓄えて、変身していくことができる自由を持っことだと思います。その意味でま、 ようどいい潮時なのです。いまだったらこの会社で立派にやったという実績をのこしたとこ ろで変身できますからね」 し こう語る彼の心について、いろいろだめを押してみたが、あまり無理なところはない。 かも、転職先についても着実に相手方と交渉を重ね、現場を見、今後についても軽率さとか、 間違った判断とかはどうもないように見受けられる。 この④君のような生き方を私は、「あれかこれか」 どちらかの道を選んで別な可能性 は押し殺してしまう生き方に対して、「あれもこれも」の生き方と呼んでいる。④君の場合、 この理工系の技術者としても一人前にやったのだが、今度はまた、全く別の分野で自分の能 力を開発し、発揮していこうとしている。こうした「あれもこれも」型の生き方を全うしょ うとする若い世代がふえている。 しかし、これらの人々の生き方を中高年世代の上司や管理者は、どこか狂っている、おか しいと感じてしまうらしい。離婚する妻たちの場合にも、夫との間に同じようなコミュニケ ションのギャップが深刻である。

10. 現代人の心をさぐる

義務、責任の支払いを猶予されているという意味で、この時期をモラトリアムの時期と呼ぶ のである。 では、このモラトリアムの段階ではどのような心のあり方が課題になるのだろうか。 第一に、もはや親離れもでき、一個の社会人になるだけの準備もでき上がっているのだが、 ではどういう社会人になるのか。自分の進路とか職業とか人生観、男性・女性としてのあり 方などについて、さまざまな実験を試み、試行錯誤を繰り返し、いろいろなものになってみ ることで、どういうものになるのが一番自分にふさわしいか、自己確認を繰り返すことが精 神的課題である。 たとえば大学生で言えば、そのモラトリアム期間中 ( 大学在学中 ) には、山の好きな人は 山岳部に入って山男になることもできるし、演劇の好きな人は演劇部に入って俳優になるこ ともできる。政治運動の好きな人は学生運動をやることもできる。また、医学部で言えば、 その期間中に生理学の研究をすることもできれば、病理学の研究をすることもできる。 しかしながら、このモラトリアムの段階でいろいろなものになって、演じているからとい って、すべての人が一生山男になるわけでもないし、俳優になるわけでもない。また、生理 学の勉強に一生懸命になった人がすべて生理学者になるわけではない。普通の臨床医になる ことが多一一い つまり、いろいろな役割と人間像を同一化して、自分の可能性を試す。そして、いろいろ