院をはじめあらゆる手を尽くしている。にもかかわらずどうしても三カ月ぐらいまでの間に 流産してしまう。あと一、二年して四十を過ぎたら、もうあきらめるほかはないというせつ ば詰まった気持ちでいる。 しかし、この年になって夫人はいままでとはまた違った悩みを持つようになった。気が ついてみると、最初の子を流産してからかれこれ十五年たっている。その間、彼女は一方で しつもいつもいっ妊娠するかばかりを気にして暮ら 専業主婦として暮らしながら、同時に、、 してきた。 いざ妊娠すると、その前後の何カ月かは夫も全面的に協力し、何とか流産しないようにす べての努力を傾ける。そして流産すると、夫人だけでなく夫も、失望で寝込むほどがっか りしてしまう。その繰り返しで十五年たってしまった。もしここでもうあきらめるというこ とになったら、一体私は、この十五年間何をやってきたのだろうか。最近、子供を生むだけ が妻の役割じゃない、母親になることだけが女の人生じゃないと考えると、一体どうしてい ままで子供を持っことばかりこんなに考えてきたのか、不思議な気がし始めた。 危周りの同年世代の妻たちは、ある人は早く子宝に恵まれ、もう子供たちは中学、高校進学 婦が近づいている。そろそろ子離れをして、その次のステップに向かおうとしている。また別 な妻たちは、ずっと仕事を持ってやってきて、立派な社会人になっている。自分にはどちら も手に入らなかった。でも、いまからでも遅くはない。そこでふと気がついたら、夫と自分
子が親に″秘密〃をもつ意味〈手が利かなくなった娘と親離れ 親離れとか自立という一言葉は、一種の流行語化した観がある。しかし、親離れとは何なの かをもっときめこまかく考える必要がある。たとえばその一つに、親に秘密を持っても平気 でいられるようになる心理がある。あるいは、適当に親にうそがつけるようになること。本 当のことを言わなくても、罪悪感にさいなまれておかしくならないでいられること。 こう一言うと、うそをつくことはよくないことだ、親に秘密を持つなんてけしからんという 親が多いのではなかろうか。しかし、子供のことを何でもすべて知っていなければ気が済ま ないという親は、子離れができていない親である。親のこの気持を顧みれば、子供が親に知 折られない世界を持っことの意味がおわかりになるだろう。 の 特に、思春期の子供の心の発達と親離れでは、このことがとても重要である。たとえば男 」の子がマスターベーションを始める。いちいち母親にマスターベーションを報告しなければ 発 いられないという男の子がいたら、その子は母親離れができていないと言えるだろう。母親 の に対してそれを隠す、あるいは知られないように苦労する心理を通して、自我の発達が始ま の 春る。同じことが、女の子にも当てはまる。 子さん ( 高校一年生 ) は、数カ月前からだんだん手に力が入らなくなった。学校に行っ てもノートをとることができない。それが理由で登校拒否の状態に落ち込んだ。いろいろな
第三に思春期の子供たちにとって大切なのは、同世代の同性の親密な友達、仲間を持っこ とだ。交換日記をしたり、ポルノ写真の回し読みをしたり、夜遅くまで長電話をする。親に してみると、何であんなにうちに帰ってまでペチャクチャしゃべっているのかと腹立たしく なって、「早くいいかげんでやめろ」と怒ることもある。しばしばこうしたいさかいがトラ 。フルのきっかけになる。 しかし子供たちにしてみると、昼間は勉強、そしてまた、塾での勉強でにしい。せめて、 夜、くつろいだときに友達と電話でおしゃべりすることが必要である。現代っ子にとっては そうした親密なおしゃべりの対象を持てることは、とても大切だ。またタレントやグループ サウンズのお兄ちゃんに熱を上げてみんなで大騷ぎするのも、同世代の仲間をつくるのも、 すべてとても健全な心理である。 こうして同世代の仲間を持ち、また同世代の親密な友を持っことが親離れと並行して順調 に進むかどうかが、思春期の心の発達の一つの分かれ目である。ところが親から見ると、何 か悪い友達ができて、いままでに比べていろいろと蔭で悪いことをしているかのように目に 映ることが多い。また自分たちがつんばさじきに置かれて不安にもなる。しかしじっとこの 不安に耐えて子供の自我の発達を見守る心がけが必要だ。 第四に、思春期の子供は自我の意識が目覚めるとともに、大変自己中心的な心の状態に取 りつかれる。自分の容姿とか顔つきに異常にこだわったり、何とか自分を格好よく見せよう
るというのが一つのはやりだ。つまり彼女たちは、社会人としての自立を達成し、さらによ き妻になっただけでなく、子供も生もうというわけだ。しかし、これはなかなか一般の女性 こうしたスー ーウーマン には難しいいろいろな困難を持っている。現実が困難なだけに、 になりたいという理想がある。 こうした理想を持っている人々というのは、生きがいもあるし、また、社会に対して進歩 的、革新的な力にもなる。現代社会は、男たちの間での保守と革新の図式は失われたが、男 性対女性という図式で見ると、いまや女性こそ革新の主流である。 ところが、男たちはそれに対して次第に既得権を失い、そうかといって私のモラトリアム 人間論のように、男性にふさわしいアイデンティティというものは新しく再建されていない。 その結果、。 とうしても保守的になり、もっと人間味のある男性というと、家庭で家事を手伝 って、料理をつくったり、赤ん坊を抱っこしてミルクを飲ませたり、あるいは社会の中では ちょっとずつこけて女性のしりにしかれたりするような男が、男陸イメージになっている。 のそうでない場合には、もつばらお決まりの受験、進学コースに乗っかって、ひたすら立身出 世と、ワーカホリックになるほかはない。 年女性がますます強くなり、理想主義的になって活躍し、男性がますます保守的になり、無 青 気力になる。この図式はひとりアメリカだけのことではなく、わが国にも当てはまる問題の ようだ。その背景には、恐らく核時代の平和主義といった伝統的に男性的なものとみなされ
こうした家庭教育の機能不全の状態に対して、学校教育、特に初等・中等教育のレベルで 家庭教育の欠陥を補足していく必要がある。一人の子供が生まれ、一人前の心を持つに至る まで、国家、社会はどのようなヒューマン・サポート・ネットワークを子供たちに提供しな ければならないかといった発想から、家庭、学校、地域といった、各領域に一貫した教育シ ステムを再編成する必要がある。 いままでのように、教師は家庭に、家庭は学校に、それぞれ子供のしつけを期待し、結果 においてはだれもが子供の人格の形成について当事者になることが難しいような状況が進ん でいけば、子供たちの精神的な教育を、本当に身をもって実践することが見いだせないおそ れがある。この点についての今後の教育学の新しい研究と、新しい教育システムの開発に対 折する研究が期待される。 挫 の たとえばそれは、母子関係一つをとって考えても、精神医学的に見ると、いつも母親が二 そ 十四時間そばにいて子供を教育するのと、昼間働いて託児所に預け、そのかわり夜は母親と 達 発して充実した母子関係を持つのとでは、どちらが子供の幼児教育にとって望ましいかといっ 尻たことについて、旧来の伝統的な母子関係観を超えた、より科学的、合理的な母子関係のあ 春り方を研究することが必要である。こうした点について、女性の自立や、社会参加の増大に 思 伴う家庭教育のあり方の再検討が望ましい
の中でも、親の心を身につけることはできるし、妻の場合でも、また別の形でその可能性は いろいろある。 ところが、この夫婦の場合には、実の子供を持っことでそうなろうという気持ちにとりつ かれてしまったために、その肝心の子供を持っことができないと、いつになっても親になれす、 心の成熟も得られなかった。いつになっても新婚時代の夫婦のあり方以上の発達が見られな 子供のない夫婦によくこうした停滞が見られるが、この夫婦の場合も、その典型である。 しかし、夫人の心に、最近になって中年心理が芽生えている。子供を持っことに執着し て、そのために自分の人生そのものの発展の道が閉ざされてしまうくらいなら、」 な生き方、 別な人生観、別な夫婦のあり方を考える必要がある。こう思うようになった夫人には、た しかに心の変化が起こっている。しかもその変化は、、 しままでに比べてワン・ステップ成長 する可能性を持っている。 夫婦関係では、夫婦が同じような心の変化をともにすることが大切だ。もし夫人だけが いま述べたような心境になっても、肝心のご主人がまだまだ子供がほしい、 子供ができなけ 危ればわれわれ夫婦には幸せはないと思いつづけているとすれば、夫婦との間の溝は深まるば 婦かりだ。 夫婦の子供を持てない悩みを通して、夫婦とその心の成熟というものを考えていただけ れば幸いである。
な可能生を心の中に準備するが、最後に大人としての社会人になるときには、それらをまと め上げて、一個の社会的な自分というものをつくり上げる。そうした準備期間がモラトリア ムの期間なのである。 しかし、現代社会ではこれまでの社会のように、このモラトリアムが明確な準備期間とし ての性格を失い始めている点に問題がある。社会が人々に対して寛容で、自由で、いろんな しつまでもこのモラトリアムの状態を続けるよ 可能性を許容するようになっているだけに、、 うな心理構造が、現代人の社会的性格になっている。 こうした人間像のことをモラトリアム人間と呼ぶのだが、それだけにいつになっても従来 の意味での大人の社会人としての自己像を確立できなかったり、いつになってもどこまでが 仕事で、どこまでが趣味で、どこまでが学生気分で、どこまでが社会人かはっきりしない、 そうした心理の持ち主が若い世代にふえている。 それはそれなりに自由で、個性的で、創造的な面を持っているのは確かなのだが、このよ 病 のうな心理から脱却しないまま会社に入ったり、結婚したりすると、そこで改めて〇〇会社の 〇〇としての責任や義務が期待される。また、夫、妻、あるいは父親、母親としての役割を 年きちんととることが期待されるときに、意外な心の脆弱さを露呈することがある。 青 それは、まだ自分はモラトリアムの状態にいるつもりでいるのに、周りから、お前は〇〇 会社の〇〇だ、あるいは、私の妻だ、この赤ん坊の母親だ、父親だ、という身分を強いられ
172 が見いだせないために、ただひとり空巣に取り残された専業主婦たちの心の空白から生する 症候群であった。しかし、いまこれらの中年の妻たちは、むしろより積極的に空白をどうや って埋めるか、あるいはそれを一つのチャンスとして、女性としての自立、自己実現の方向 を模索し始めている。 もう一つ、その際女性たちが目を向けるのは、夫との絆である。子供たちが親離れをした 後、夫婦中心の暮らしを大切にしたいとどの女性も思う。ところが、夫たちは仕事と男のつ き合いにしか生きがいを見いだせなく、文字どおり家庭から見ると、父親不在である以前に 夫不在の暮らしを続けてきた。これまでほとんど妻、そして子供のことを顧みるゆとりがな かった。自分は給料の運搬さえしていれば、あとは全部妻が責任を持ってやってくれるもの だと思い込んで、それに頼っていた ところが、一方で給料運搬人としての夫の働きがいも減り、家庭に目を向けなければなら ない。妻もまた、夫との間でこれを機会によい絆をつくり上げたいと思う。夫と妻の気持ち がお互いにそこで一致すれば、第二の人生は夫婦中心の豊かな心の暮らしが可能になるはず である。 しかしながら、現代のわが国の家庭を見ると、妻の側の意識変革は急速であるのに対して、 夫たちの心の変化はより保守的で、もっと立ち遅れている。このギャップが深刻になると、 中高年者の離婚がふえていると言われるような事態が生ずる。特に、妻たちの側には、もは
162 ざわざ息子や娘と話をしたりもする。 氏は、「単身赴任のおかげで夫婦、親子のありがたさが身にしみてわかった。かえって コミュニケーションもよくなって、思春期の子供を持っ場合、ときにはお互いが距離を持っ のも、 しいことなんじゃないでしようか」とっている。 同じ単身赴任でも、仕組みそのものの弊害を論ずるだけでは片手落ちである。お互い家族、 夫婦、親子の問題をどんなふうにやっていくか、それそれの家族のメンバーの心がけ一つと いうところがある。 氏のように、父親としての役割をどう全うしていくかを、単身赴任という仕組みを通し て逆に積極的に実現していく場合もあり得る。これからの夫婦、親子は、た。こ 一緒にいれば それでいい (being) という思い込みを捨て、お互いに何をなし、どういう努力をして家族 の絆をつくり上げ、維持していくかについての、ドウーイング (doing) の精神を持たなけ ればならない。 ホテル家族現代日本における最も一般的な家族の実態はホテル家族である、と小 此木は考えている。外出、食事、起きること、寝ること、それそれの時間が家族メ ーによって・ハラバラで、それそれが自分の部屋を持ち、ほとんど顔をあわせる 機会もない。あたかもホテルで暮らしているような家庭生活を送っている。
急増する自己愛人間〈ナルシシズムと自己評価〉 ナルシシズム ( 自己愛 ) は、だれにも大切なものである。自分で自分を愛するのが自己愛 であるが、どんな人間も自己愛をもっている。ただ、その自己愛があまりにも肥大し、ふつ うのつき合いの中では満たすことができなくなると、かえって緊張感が高まり、対人恐怖を 起こすのである。 ここで少し自己愛の心理について述べてみたい。 だれでも毎朝起きると鏡を見る。歯を磨き、髪をとかし、ひげをそったり、お化粧をした りする。そして、鏡に映る自己像が自分の気にいったイメージになって、初めて他人に会っ たり、外出したりしてもよいという気持ちになる。自己愛があまりにも強いと、長い時間髪 格 性 をとかしたり、お化粧をしたりして、なかなか自分の気にいった姿形をつくりあげることが わできない。 ここで、鏡に映っている自己像を「鏡像」という。 そもそも自己愛 ( ナルシシズム ) はギリシャ神話のナルシスという美少年の神話に起源を の 持っている。ナルシスは池に映った自己の鏡像にほれ込んで恋い焦がれる。そして、しまい 人 に池に身を投げて死んでしまう。ナルシシズム ( 自己愛 ) は、池、つまり、鏡に映った自己 像にほれ込む心理という意味である。