存在と現実は〈真正な、首尾一貫した、真実のもの〉 ( サンスクリットではミーー〈存在している〉、 〈ほんものの〉、〈真実の〉。最上級は s ミざき 〈最上の〉 ) と定義される。〈あること〉はかくして その起源となった語根においては、主語と属性との同一性の論述以上のものである。それは或る現象の 記述的用語以上のものである。それはあるところの人または物の存在の現実性を表示する。それは彼が ( 彼女が、それが ) 真正で真実であることを述べる。だれかが、あるいは何かがあると述べることは、 その人物あるいは物の本質に言及することであって、彼の ( 彼女の、それの ) 外観に言及することでは 持っこととあることの意味についてのこの概観から、次にあげる結論が導かれる。 ( 1 ) あること、あるいは持っことによって私が言及しているのは、「私は車を持っている」とか、 「私は白い」とか、「私は幸福だ」などの論述に例証されているような、言語の或る種の個々の 特質ではない。私が言及しているのは二つの基本的な存在様式であり、自己と世界に対する二つ の異なった種類の方向づけであり、またそのどちらが支配するかによって人の思考、感情、行為 の総体が決定されるような、二つの異なった種類の性格構造である。 ( 2 ) 持っ存在様式においては、世界に対する私の関係は所有し占有する関係であって、私が自分自 身をも含むすべての人、す・ヘての物を私の財産とすることを欲するという関係である。 ( 3 ) ある存在様式においては、私たちはあることの二つの形を確認しなければならない。 一つはデ ・マルセの所説に例示されているように、持っことと対照をなすもので、生きていること、世 界と真正に結びついていることを意味する。あることのもう一つの形は見えることと対照をなす ュ
私たちが生きている社会は財産を取得し利益をあげることに専念しているので、ある存在様式のあか しはめ 0 たに見られず、たいていの人びとは持っ様式が最も自然な存在様式であると思い、受け入れう る唯一の生き方であるとさえ思 0 ている。これらすべては、人びとがある様式の本質を悟ることを、ま た持っことは可能な一つの方向づけにすぎないと理解することさえも、とくに困難にしている。とはい え、この二つの概念は人間経験に根ざしている。どちらも抽象的に、ま「たく頭だけで検討すべきもの ではないし、またそれはできることでもない。両者ともに私たちの日常生活に反映しているので、具体 的に扱わなければならない。次にあげるのは、持っこととあることとが、日常生活においていかに明ら かに現われているかの簡単な例であって、読者がこの二つの選択的な存在様式を理解する助けになるだ ろう。 第一一章日常経験における持っこととあること
自分を開き〈空虚〉とすること、自分の自我にじゃまされないことが、精神的富と力を達成するための 条件であると教えた。マルクスはぜいたくが貧乏に劣らず悪であること、そして私たちの目的は多くあ ることでなければならず、多く持っことであってはならないと教えた。 ( 私がここで言及しているのは ラ一アイカル・ヒュ 1 マニストとしての真のマルクスであって、ソ・ヒエトの共産主義が描き出している俗 悪なにせものではない。 長年にわたって私はこの区別を深く心に刻みつけ、その経験的な基礎を求めて、精神分析の方法によ る個人および集団の具体的な研究を行なってきた。私の見たものは私を次のような結論に導いた。すな わち、この区別は生命 ~ の愛と死せるもの ~ の愛との間の区別とともに、存在の最も重大な問題として の意味を持っこと、そして経験的、人類学的、精神分析的データは、持っこととあることとは二つの基 本的な存在様式であ「て、そのそれぞれの強さが個人の性格やいろいろな型の社会的性格の間の違いを 決定する、ということを明らかにする傾向を持っということ。 2 さまざまな詩的表現の実例 持っ存在様式とある存在様式との間の違いを理解するための序論として、故鈴木大拙が「禅に関する 講義」において言及した、類似の内容を持っ二つの詩を実例として用いたい。一つは日本の詩人芭蕉 ( 一六四四ー一六九四 ) の俳句であり、もう一つの詩は十九世紀のイギリスの詩人テニソンの作である。 それぞれの詩人が類似の経験、すなわち散歩中に見た花に対して起こした反作用を記述している。テニ
本書は私のこれまでの著作の二つの方向をたどるものである。まず第一に、本書はラディカル・ヒ = 1 マニズムの立場からの精神分析において展開された私の仕事をさらに広げて、二つの基本的な性格的 方向づけとしての利己心と利他心の分析を集中的に行なっている。次いで本書の最後の三分の一を占め る第三篇は、私が『正気の社会』 ( 。 sane society) 」巴および『希望の革命』 ( ご。やききミ、 H 。、、 ) 翫伊〕で扱。た主題をさらに推し進めている。すなわち現代社会の危機とその解決の可能性 とである。これまでに表明したもろもろの考えの繰り返しは避けえないものとなったが、このささやか な仕事の立脚点とな「た新しい視点と、それをさらに拡大した諸概念とには、私のこれまでの著作に詳 しい読者でも報いられるところがあると期待している。 実は本書の表題と、以前に出た二つの書物の表題とはほとんど同じなのである。ガプリエル・マルセ ル (Gab 「 iel Ma 「 cel) の『存在と所有』 (Being よミ一ぎ g ) 〔秋社、中公論社と , ノ ン (Balthasar staehelin) の『所有と存在』 ( H 。 sein) と。これら三つの書物はすべてヒ ュ 1 マニズムの精神で書かれているが、主題へのアプロ 1 チのしかたは大いに異な 0 ている。マルセル 丿ンの著書は現代科学における物質主義に関す は神・学的および哲学的見地から書いている。シ = テ 1 工 1 はしがき
は助かるが、その夜は寒くて雨が降っていた。そして家の中は暖かく居心地がよかった。そこで彼はと どまり、捕虜となった。そして何週間ものちに、彼に好意を持ったジャ 1 ナリストたちの努力によって、 ほとんど奇跡的に生命を救われたのであった。この種の行動はまた、大手術を要する重病だという診断 をされるのがいやさに、検査を受けるよりは死の危険を冒そう、とする人びとにも見られることなので ある。 生死にかかわる問題において人間が見せる致命的な受動性については、これらの説明のほかにさらに 別な説明があって、それこそ私が本書を書いた理由の一つなのである。私が言っているのは、企業資本 主義、社会民主主義的あるいはソビエト的社会主義、あるいは技術家政治的な〈ほほえむファシズム〉 のモデルに代わるモデルはないという考え方のことである。この考え方が一般に普及しているのは主と して、まったく新しい幾つかの社会モデルの実現可能性を研究し、それらについての実験をするだけの 努力がほとんどなされていない、 という事実によっている。実際、社会の改造の問題がたとえ部分的で あっても、現代の最高頭脳の専念の対象としての科学および技術に取って代わらないかぎり、新しい現 実的な選択を思い浮か・ヘるだけの想像力は生まれないだろう。 本書の主たる眼目は二つの基本的な存在様式、すなわち持っ様式とある様式との分析である。最初の 章において、私はこの二つの様式の違いに関する幾つかの〈瞥見的〉観察を提示している。第二章は、 読者が自分自身の個人的経験において容易にかかわりを持っことができるような、日常経験からの例を 幾つか用いながら、この違いを明らかにしている。第三章は旧約・新約聖書およびマイスター・エック ハルトの著作に見られる、持っこととあることについての考え方を提示している。それ以後の数章が扱
宗教的要求は、人類という種の存在の基礎的な条件に根ざしている。人類は単独で一つの種である。 ちょうどチン・ハンジ 1 やウマやツバメの種がそうであるように。それぞれの種は、特有の生理学的およ び解剖学的特徴によって定義することが可能であるし、また実際にそのように定義されている。人類に ついては、生物学的な観点からの一般的な合意がある。私は、人類ーーすなわち人間性ーーは精神的に も定義することができると示唆した。動物界の生物学的進化において人類が出現するのは、動物進化の 二つの傾向が合する時である。一つの傾向は、本能 ( ここで言う〈本能〉とは、学習を排除したという 時代遅れの意味ではなく、有機体的動因という意味である ) 0 よる行動の決定の度合いの絶え間ない低 下である。本能の性質についての見解が、多くの論争を起こしていることを勘定に入れても、動物が達 した進化の段階が高ければ高いほど、その行動が系統発生的に計画された本能によって決定されること が少なくなるということは、一般に認められていることである。 本能による行動の決定の度合いの絶え間ない低下の過程は、一つの連続として表わすことができるの であって、そのゼロの端には最も下等な形の動物進化があり、この場合の本能による決定の度合いは 会最も高い。これは動物進化に伴って減少し、哺乳動物に至って或る水準に達する。これは霊長類へ発 達するうちにさらに減少するが、ここでさえサルと類人猿との間には、大きな隔たりが見いだされる 性 ( ;< ・・ヤ 1 キ 1 ズ〔 R. M. Yerkes 〕と・・ヤーキ 1 ズ〔 A. V. Yerkes 〕が、古典的な研究 宗 〔一九二九〕で示したように ) 。 ヒト (Homo) の種では、本能による決定は最低限度に達している。 匕動物進化に見いだされるもう一つの傾向は、脳、とくに新皮質の成長である。ここでもまた、進化を 一つの連続として表わすことができる。一方の端には最も下等な動物がいて、最も原始的な神経構造と、
し事情が変われば反対の意見を生じるかもしれない底流に関しては、何も語らない。同じように、政治 的選挙の投票者は、いったん或る候補者に投票すれば、自分はもはや事の成り行きに対して現実的な影 響力を持たないことを知っている。或る意味では、政治的選挙における投票は、半催眠術的な技巧によ って思考力を鈍らされるために、世論調査より悪いとさえ言える。選挙は候補者の望みや抱負がーー政 賭けられた、はらはらするようなソ 1 。フォペラ 治的論点でなく 〔訳注。ラジオやテ」どで昼間放送される主婦向け ることが多かったの で、こう呼ばれる 〕となる。投票者は自分が味方する候補者に投票することによ。て、このドラマに参加する ことさえできる。住民の大部分はこの参加のジェスチ = アをすることを拒否するとしても、たいていの 人びとは、剣闘士ならぬ政治家が闘技場で戦うという、現代におけるロ 1 マ式の見せものに夢中になる のである。 真正な信条を形成するためには、少なくとも二つのことが要求される。すなわち、十分な情報と、自 分の決定が効果を持っという知識と。無力な傍観者によって形成される意見は、彼もしくは彼女の信条 一つのゲ 1 ムであって、或る種類のたばこがほかのたばこより好きだという を表明するものではなく、 色のに似ている。これらの理由から、世論調査や選挙で表明される意見は、人間の判断力の最上ではなく の 最悪の水準を構成することになる。この事実は、人びとの最上の判断力のただ二つの例をあげるだけで 会 社 裏付けられる。すなわち、人びとの決定は次の場合において、彼らの政治的決定の水準よりはるかにす 新ぐれている。 ( ) 私的なことがらにおいて ( ョ 1 ゼフ・シンペ 1 タ 1 CJoseph Schumpeter 〕がき ビジネス 九わめてはっきりと示したように、とくに仕事において ) 。 (= ) 陪審員になった時。陪審員はふつうの市 民から成り、しばしば非常に複雑で理解しにく い事件において、決定を下さなければならない。しかし 24
れは私たちを精神異常に陥れるだろうー、ーを感じないためには、私たちは同胞および自然との新しい合 一を見いださなければならない。 この他人との合一への人間的要求は、多くの方法で経験される。母親、 偶像、部族、国民、階級、宗教、結社、職業的組織との共棲的きずなの中に。もちろん、これらのきず なはしばしば重複し、或る種の宗派の信者やリンチを加える暴徒に見られるように、あるいは戦時の国 民的ヒステリ 1 の爆発のように、忘我的な形状を帯びることもしばしばである。たとえば第一次世界大 戦の勃発は、これらの忘我的な〈一体化〉の最も極端な形態の一つを引き起こした。突然、一夜のうち に入びとは生涯の確信であった平和主義、反軍国主義、社会主義を放棄した。科学者は生涯訓練されて きた客観性、批判的思考、公正さを捨てて、大いなる〈われわれ〉に加わった。 他人との一体化の経験への欲求は、理想や確信に基づく連帯という最も高度な種類の行動のみならず、 最も低級な種類の行動、すなわちサディズムや破壊の行為にも現われる。それはまた、順応への要求の 主たる原因でもある。人間は死ぬことよりも、社会ののけものになることの方を恐れるからである。す ・ヘての社会にとって決定的なことは、その社会Ⅱ経済的構造の与えられた条件のもとで、それが育成す る一体化と連帯の種類であり、またそれが促進しうるそれらの種類である。 これらの考察は、人間には両方の傾向が存在することを指摘しているようである。一方は持っーー所 有するーー傾向であって、その強さの根拠は究極的には生存への欲求という生物学的要因にある。他方 はあるーー分かち合い、与え、犠牲を払う 傾向であって、その強さの根拠は人間存在の独特の条件 と、他人と一体になることによって孤立を克服しようとする生来の要求にある。すべての人間の中にこ の二つの矛盾した努力が存在するので、社会構造、すなわち社会の価値と規範が、この二つのいずれが 148
ている永遠の乳飲み子である。これはアルコール中毒や麻薬中毒のような、病理現象に明らかである。 私たちがこの二つの中毒をとくに取り上げて問題にするのは、これらの及ばす影響が中毒者の社会的義 務の妨げになるからだと思われる。強迫的喫煙がこのような非難を受けないのは、それが中毒の程度で は劣らないけれども、喫煙者の社会的機能の妨げになることはなく、おそらく彼らの寿命を縮めるに 〈すぎない〉からである。 本書のあとの部分で、多くの形態の日常の消費主義に、より多くの注意が向けられている。ただここ で一言しておきたいことは、余暇に関するかぎり、自動車、テレビ、旅行、セックスが今日の消費主義 の主たる対象であり、私たちはそれを余暇活動〔能動性〕と呼んでいるが、むしろ余暇不活動〔受動 性〕と呼んだ方がよいだろう、ということである。 要約すれば、消費することは持っことの一つの形態であり、それもおそらくは今日の豊かな産業社会 にとっての最も重要な形態である。消費することの特質は多義的である。すなわちそれはまず不安を除 いてくれる。というのは、持っているものを奪われることがありえないからである。しかし、それはま たより多く消費することをも要求する。というのはさきの消費はすぐにその欲求充足的性格を失うから である。現代の消費者は次の定式で自分を確認するだろう。私はあるⅡ私が持つものおよび私が消費す るもの。
産業社会は自然を軽蔑しているーー機械製でないすべてのもの、そして機械製造者でないすべての人 びと ( 最近の日本と中国を例外とする非白入種 ) を軽蔑しているように。 今日の人びとは機械的なもの、 強力な機械、生命のないものに惹かれるとともにますます破壊に惹かれつつある。 3 人間の変革の経済的必然性 本書のこれまでの議論は私たちの社会Ⅱ経済体制、すなわち私たちの生き方が生み出した性格特性は 病因的であって、結局は病める人間を、ひいては病める社会を生みだす、ということであった。しかし ながらまったく異なった観点から、経済的および生態学的破局に代わる選択としての〈人間〉の根本的 な心理学的変革を支持する、第二の議論がある。それを提起しているのは、ロ 1 マクラブの委託による 二つの報告書であって、一つは・・メド 1 ズ (). H. Meadows) ほかによるもの、他の一つは・ ・メサロヴィック (). D. Mesarovic) と・ベステル (). pestel) によるものである。これらの報 告書はともに世界的な規模における科学技術的、経済的、人口的傾向を扱っている。メサロヴィックと ベステルの結論によれば、或る基本計画に従った地球的規模での極端な経済的および科学技術的変革の みが、「広範囲の、そして最終的には全地球に及ぶ破局を避ける」ことができるのであって、彼らがそ の命題の証拠として列挙するデ 1 タは、今まで行なわれた中で最大の地球的規模を持「た体系的な研究 に基づいている。 ( 彼らの書物はメドーズの報告書に比べて、或る種の方法論的な点でまさっているが、 先に発表されたメド 1 ズの研究の方が、破局に代わる選択としてより極端な経済的変革を考えている。 )