さらに進んで、人は神の意志を行なうことすら欲してはならない それもまた渇望の一形態であるか ら とさえ、それを自明のこととして言う。何も欲することのない人物とは、何ものにも貪欲でない 人物である これがエックハルトの非執着の概念の本質である。 何も知ることのない人物とはだれか。ェックハルトは、それは無知でおろかな存在としての人間であ 教育も教養もない者であると断定しているのだろうか。まさかそんなことはないだろう。彼の主た る努力は教育のない人びとを教育することであったし、また彼自身が偉大な学識と知識の持ち主であっ て、それらを隠そうとも過小評価しようともしていないのだから。 ) 何も知ることがないというェック ( ルトの概念は、知識を持っことと知る行為、すなわち根元まで、 ひいては事物の原因まで洞察することとの間の違いにかかわっている。ェックハルトは、ある特定の思 工 考と考える過程とを、非常にはっきりと区別する。神を愛するより神を知る方がよいということを強調 スして、彼は書いている。「愛は欲望と目的とに関係があるが、一方知識は特定の思考ではなく、むしろ 「〔す・ヘての覆いを〕はぎ取るものであり、利己心を持たず、裸で神の元へ走り寄り、神に触れ、神をい おだくのである」 C フレ 1 クニー、断片。クヴィントは真正と認めていない ) 。 聖しかしまた別な水準では ( ェック ( ルトは終始幾つかの水準で語る ) 、エック ( ルトはず「と極端に 新 なる。彼は書いている。 約 章 さらに言おう。何も知らない者は貧しい。私は時として言ってきた。人間は自己のためにも、真理の 第 ためにも、〈神〉のためにも生きてはいないかのごとく、生きなければならない、 と。しかしその点
位についても、忘れてしまう。彼らは自我に妨げられることはない。彼らが相手の人物とその人物の考 えに対して十全に反応することができるのは、まさにこのためである。彼らは新しい観念を生み出すが、 それは、何ものにも固執することがないので、生産し与えることができるからである。持つ人物が持「 ているものにたよるのに対して、ある人物はあるという事実、生きているという事実、そして抑制を捨 てて反応する勇気がありさえすれば、何か新しいものが生まれるという事実にたよる。彼らは持「てい るものに対する不安な気がかりのために自分を押し殺すことがないので、会話の際には十全に活気づく 彼ら自身の活気は伝染しやすいので、しばしば相手が彼もしくは彼女の自己中心性を超越するための助 けとなる。かくして会話は商品 ( 情報、知識、地位 ) の交換ではなくなり、もはや誰が正しいかは問題 にならない対話となる。決闘者たちは一緒に踊り始め、勝利あるいは悲しみーーーこれらはともに不毛で あるーーをもってではなく、喜びをもって別れる。 ( 精神分析療法の本質的な要因は、治療医のこの活 と気を与える資質である。どれだけ精神分析的解釈を行な「ても、治療の雰囲気が重苦しく、活気のない、 退屈なものであれば何の効果もないだろう。 ) っ け お 読書すること に 常 第 会話について言えることは、読書についても同じように言える。読書は著者と読者の会話である 二あるいは、そうあるべきものであるー・ーからである。もちろん、読書においては ( 直接の会話の場合と 同様に ) 、だれの本を読むか ( あるいはだれと語るか ) が重要である。非芸術的な安「ほい小説を読む
この類型を記述する 〈市場的性格〉という用語は、決してこの類型を記述する唯一の用語ではない。 ためには、疎外された性格というマルクスの用語を使うこともできる。この性格の人物は仕事から、自 分自身から、ほかの人間から、自然から、疎外されている。精神医学の用語でなら、市場的人物は分裂 病質の性格と呼ぶことができるだろう。しかしこの用語はやや誤解を招きやすい、というのは、ほかの 分裂病質の人物と一緒に生活して、うまくやり成功している分裂病質の人物は、より〈正常な〉環境に おいて分裂病質の性格が持つはずの不安感を、欠いているものだからである。 マコ 1 ビ ーによる近刊予定の『辣腕 本書の原稿の最後の校訂に当たっていた時に、私はマイケル 新しい企業指導者』を、原稿で読む機会を得た。この洞察的な研究において、マコ 1 ビ 1 は合衆国 の最も経営状態のよい大会社のうち二つを選んで、その経営者や役職者や技術者たち二百五十人の性格 構造を分析している。彼の発見の多くは、私がサイバネティックス的人物の特徴として記述したこと、 : 己述した経 とくに情緒的分野の発育不良と並行した頭脳的性質の優越を、裏付けている。マコ 1 ビ 1 カ言、 営者や役職者が、アメリカ社会の指導者の仲間であること、あるいはやがてそうなるだろうことを考え 会ると、彼の発見の社会的重要性は大きい 社 次のデータは、マコ 1 ビ 1 がこの集団の構成員の一人一人と三回から二十回に及ぶ個人面接を行なっ 性 て得たものだが、この性格類型をはっきりと描き出している。 宗 ( 3 ) 転載許可済。イグナシオ・ミラン (lgnacio Mi11an) による類似の研究である、近刊予定の『メキシコの経営者の性格』 ( 7S6 Ch & 、 & c 、ま 6 ざミ E きミぎ ) ) 参照。 七 第 203
的現実をわがものとすることである」。これはある様式においてわがものとする形態であって、持っ様 式ではない。 マルクスはこの非疎外的能動性の形態を、次の一節で表現した。 人間が人間であり、彼の世界に対する関係が人間的な関係であるとしよう。その時は愛を引き出しう るのは愛のみであり、信頼を引き出しうるのは信頼のみであり、以下同様である。もし君が芸術を楽 しみたければ、君は芸術的な素養のある人物でなければならない。 もし君が他人に影響を与えたいと 思えば、君はほんとうに他人を刺激し、励ます力を持った人物でなければならない。人間および自然 に対する君の関係のひとつひとつが、君の意志の対象に対応した、君の現実の個人的な生命の特定の 表現でなければならない。 もし君が人を愛しながら、その相手の中に愛を呼び起こさないとすれば、 すなわち、もし君が愛する人物としての自分を表わすことによって、自分を愛される人物とすること ができないとするならば、その時は君の愛は不能であり、一つの不幸である。 しかし、マルクスの思想はやがてゆがめられた。それはおそらく、彼が生きたのが百年早すぎたから だろう。彼もエンゲルスも、資本主義はすでにその可能性の限界に到達しているので、革命は間近に迫 っていると考えた。しかし、エンゲルスがマルクスの死後に述べることとなったように、 彼らはまった くまちがっていた。彼らは資本主義の発達の絶頂において彼らの新しい教えを宜言したのであって、資 本主義の衰退と究極的な危機が始まるためには、さらに百年を要することを予知しなかった。歴史的必 然としては、資本主義の最盛期に広められた反資本主義思想が成功を収めるためには、それは資本主義 2 1 2
能動性の持っ特質をさすのである。絵や科学論文でも、まったく非生産的、すなわち不毛であるかもし れない。 一方、自分自身を深く意識している人物、あるいは一本の木をただ見るだけでなく、ほんとう に〈観る〉人物、あるいは詩を読んで、詩人が言葉に表現した感情の動きを自己の内部に経験する人物 大いに生産的でありうる。生産的能 の中で進行している過程ーー、、その経過は何も〈生産〉はしないが、 動性は、内的能動性の状態を表わす。それは必ずしも芸術作品の創造や、科学的創造や、何か〈有用 な〉ものの創造と結びつくわけではない。生産性は情緒的に不具でないかぎり、すべての人間に可能な 性格的方向づけである。生産的な人物は、彼らが触れるすべてのものを活気づける。彼らは自己の能力 を生み出し、ほかの人びとや物に生命を与える。 〈能動性〉と〈受動性〉のそれぞれが、二つのまったく異なった意味を持ちうる。単なる忙しさの意 味での疎外された能動性は、実は生産性の意味においては、〈受動性〉である。一方、忙しくはないと このことを理解するのが今日これほ いう意味での受動性は、疎外されない能動性であるかもしれない。 ど困難なのは、ほとんどの能動性が疎外された〈受動性〉であり、一方では、生産的受動性がめったに 経験されないからである。 何 様能動性ーー受動性、偉大な思想家たちによる ・あ 〈能動性〉と〈受動性〉とは、前産業社会の哲学的伝統においては、現在の意味で用いられてはいな 五かった。それも当然であって、仕事の疎外は現在のそれに匹敵するところにまでは、至っていなかった からである。このため、アリストテレスのような哲学者は、〈能動性〉と単なる〈忙しさ〉との間の明
間でもその能力を構成する資質を失えば、その権威は終わることを示した。 ある権威は、一個人が或る社会的機能を果たすための能力に基づくばかりでなく、高度の成長と統合 を達成した・ハ 1 ソナリティの本質そのものにも基づいている。このような人物は権威を放射するのであ って、命令を下したり、脅迫したり、買収したりする必要はない。彼らは高度に発達した人物であって、 彼らがある姿によってーー・なしあるいは言うことを主とするのではなく 人間がありうる姿を明らか にする。偉大なる〈人生の教師たち〉はこのような権威であった。また彼らほど完成してはいないとし ても、このような人物はあらゆる学歴の人びとの中にも、またあらゆる異なった文化の中にも、見いだ すことができるだろう。 ( 教育の問題はこの点にかかっている。もし親自身がより発達した人物であっ て、自己の核心を信頼しているならば、権威主義の教育と放任主義の教育との対立などほとんど存在し ないだろう。子供にはこのある権威が必要なので、子供は大きな熱意をもってそれに反応する。一方子 ・あ 供は、成長する子供に努力を期待しながら、自分はその努力をしていないことを自らの行動によって示 す人びとからの、圧力や放任や〈過保護〉には反抗するのである。 ) っ 階級的秩序に基づき、狩猟民と採集民の社会よりはるかに大きくまた複雑な社会が形成されると、能 け お力による権威は社会的地位による権威に位を譲る。これは必ずしも存在する権威が無能であることを意 経味するのではなく、皀・、 育カカ権威の本質的要素ではないことを意味する。私たちが問題にするのが君主制 常 の権威ーーーそこではくじ引きに等しい遺伝子が能力の資質を決定するーー、であれ、殺人あるいは裏切り 章 によって権威となることに成功する破廉恥な犯罪者であれ、あるいは現代の民主主義においてしばしば 見られるように、写真向きの顏だちや選挙に使える金の額のおかげで選ばれる権威であれ、そのすべて
し、美しくなっていた。ただ少数者の顔だけが、冷く無感動に見えた。 所有することを望まないで楽しむ例は、、 幻さな子供に対する私たちの反応にも、容易に見ることがで きる。ここでもまた、多くの自己欺瞞的行動が起こるのではないだろうか。というのは、私たちは子供 を愛する人間としての役割を演じる自分を見ることを、好むからである。しかし、こういう疑惑にも理 由はあるだろうが、幼児に対する真の生きた反応は決してまれではないと、私は信じる。その理由は、 一つにはこうだろう。つまり、青年や成人に対する感情とは対照的に、たいていの人びとは子供を恐れ ていないので、自由に愛情をもって反応できると感じるからなのである。恐れがじゃまをすれば、それ は不可能なのだが。 楽しみながらも、持っ渇望は覚えないという最も適切な例は、対人関係に見いだすことができるだろ う。男と女が互いに楽しむには、多くの理由があるだろう。それぞれが相手の態度、趣味、思想、気質、 あるいは全バーソナリティを好むかもしれない。しかし、自分の好むものをどうしても持ちたいと思う 人びとの場合にのみ、この相互の楽しみの結果は、常に性的所有の欲求となる。ある様式が優位を占め る人びとにと「ては、たとえ相手が楽しみの対象となり、性的な魅力を持「ていたとしても、彼もしく は彼女を楽しむためには、テニソンの詩の用語を用いるなら、「摘み取る」必要はない。 持っことを中心とする人物は、自分の好きな人物、あるいは賞賛する人物を持っことを望む。このこ とは、親と子、教師と学生、そして友だちどうしの関係に見ることができる。どちらの側も、相手をた だ楽しむだけでは満足しない。それぞれが、相手を彼もしくは彼女自身のものとして持ちたいと思う。 それゆえそれぞれが、自分の相手をやはり〈持っ〉ことを望む人びとに嫉妬する。それぞれは、難破し
そして究極的には征服し、奪い、殺すための自己の能力の中にある。ある様式においては、それは愛す ること、分かち合うこと、与えることの中にある。 持っ様式をささえる他の要因 私たちはみな名前を持 一一一口語は持っ方向づけを強化する時の重要な要因である。或る人物の名前は っている ( そしてもし現在の非人格化への傾向が続くなら、おそらくは番号を持つだろう ) ーーー彼もし くは彼女が究極的な、不減の存在であるという幻想を生み出す。人物と名前とは等価値となり、名前は その人物が永続的で不朽の実体であるーーそして過程ではない ことを、明示する。普通の名詞も同 じ機能を持っている。すなわち、愛、誇り、憎しみ、喜びは一見不変の実体のようだが、このような名 詞には実在性がないうえに、私たちが問題にしているのは或る人間の内部で進行している過程である、 という洞察を曇らせるだけである。しかし〈テ 1 ブル〉や〈ラン・フ〉のように、物の名前としての名詞 でさえも、誤解を招く。これらの言葉は私たちが不変の実体について語っていることを示しているが、 物とは私たちの肉体組織の中に或る種の感覚を生じさせる、エネルギーの過程にすぎないのである。と ころがこれらの感覚は、テ 1 プルやラン・フのような特定の物の知覚ではない。 これらの知覚は学習とい う文化的過程、すなわち或る種の感覚に特定の表象の形を執らせる過程の結果である。私たちはテ 1 ブ ルやランプのような物は、見たとおりに存在していると単純に信じて、社会が私たちに感覚を知覚に変 貌させるように教えていることに、気付かない。 ところがこの知覚によって、私たちは与えられた文化 1 1 8
は相手の意見が変わることを予期してはいない。それぞれが自分の意見を変えることを恐れているので あって、そのわけはまさに、それが自分の所有物の一つであるので、それを失うことはそれだけ貧しく なったことを意味するからである。 論争するつもりのない会話の場合は、事態は少し異なる。だれでもきわだって有名な、声望のある、 いやすぐれた資質をほんとうに持っている人物とか、何か よい職、愛されること、崇拝されること を得る当てのある人物に会った経験のない人はないだろう。 つでもこういう場合には、多くの人 びとは少なくとも軽い不安はおぼえるものであ「て、しばしばその重要な会見のために〈準備〉する。 彼らは相手の関心をそそるような話題を考え、どのように会話を始めようかと、あらかじめ考える。自 分のしやべることに関するかぎり、会話のすべてをあらかじめ決めておく人もある。あるいは彼らは自 分の持っているものを考えて、それを自分のささえとするかもしれない。すなわち、過去における成功、 魅力的なバ 1 ソナリティ ( あるいはこちらの役割がより効果的なら、威圧的な・ ( 1 ソナリティ ) 、社会 的地位、縁故関係、容貌と服装。要するに、彼らは心の中で自分の価値をはかりに掛け、この評価に基 づいて、その後の会話で彼らの商品を展示するのだ。これの非常にじようずな人物は多くの人びとに感 銘を与えるが、この作られた感銘のごく一部がその人の演技によるもので、大部分はほとんどの人びと の判断力の貧しさによるものである。演技者があまり巧みでなければ、その演技はぎこちなく、わざと らしく、退屈なものに見え、あまり関心を惹かないだろう。 これと対照的なのが、あらかじめ何の準備もせず、どのようなささえもしないで事態に臨む人びとで ある。彼らはその代わりに、自発的、生産的に反応する。彼らは自分についても、自分の持っ知識や地
よみがえらせなければならない。 この種の想起はいつでも容易であるとはかぎらない。顔あるいは風景 を十全に思い出すためには、以前にそれを十分に集中して見ていなければならない。 このような想起が 十全に達成された時、顔を思い出したその人物が生命にあふれ、想起された風景が生き生きとしている さまは、あたかもその人物またはその風景が、現実に物理的に自分の前にあるかのごとくである。 持っ様式の人びとが顔あるいは風景を想起する方法は、たいていの人びとが写真を見る時の見方に代 表されている。写真は或る人物あるいは或る光景を確認する時に記憶の助けとしてのみ役立つのであっ て、写真が引き出す通例の反応は、「そうだ、彼た」とか、「そうだ、ここは行ったことがある」とかで ある。写真はたいていの人にとって、疎外された記憶となるのである。 紙にゆだねられた記憶は、また別な形の疎外された思い出となる。覚えておきたいと思うことを書き 留めることによって、私はその情報を持っことが確かとなる。だから私はそれを脳に刻みつけようとは しない。私は自分の所有を確信する ただ筆記を失った時、私は情報の記憶をもまた失ったことにな る。私の想起能力は私を去ってしまった。というのは、たくわえられた記憶は筆記の形を執って、私の 外在化した部分となっていたからである。 現代社会の人びとが覚えなければならないデ 1 タの多さを考えると、或る分量の記録や情報をノート に託すことは避けられない。しかし覚えようとしなくなる傾向は、常識的な釣合をまったく超えて強ま りつつある。物事を書き留めることが想起能力を弱めるということは、自分自身を省みることによって 容易に、また最もよく観察することができるが、幾つかの典型的な例も助けになるだろう。 日常的な例は商店で見られる。今日では店員は二、三の品目の簡単な足し算もめったにしないで、す