生産 - みる会図書館


検索対象: 生きるということ
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1. 生きるということ

であって、不安感の反映であり、内的な自己逃避の反映であることを知るだろう。彼らはたえず次にな すべきことを捜したり、たえず最新の小道具を捜して使ったりすることは、自分が自己あるいは他人に 近づくことを防ぐ手段にすぎないことに、気付くだろう。 政府は望ましい商品や事業を生み出す計画には、それらが利益をあげるようになるまで助成金を出す ことによって、この教育過程を大いに促進することができる。これらの努力とともに、正気の消費のた めの一大教育運動を進める必要があるだろう。正気の消費への欲求を刺激するための協力が、おそらく は消費の型を変えるだろう。たとえ現在の産業が用いている洗脳的な広告手段を使わないとしても しかもこれは必須の条件である この努力が、産業の宜伝に比べてもそう引けを取らない効果を生む と期待することも、不当ではないと思われるのである。 、全体計画に対する大 「何が福利を増進するのか」の原理による選択的消費 ( あるいは生産 ) という 方の反論は、自由市場経済では消費者は自分の望みどおりのものを手に入れるから、〈選択的〉消費の 必要はない、 とするものである。この論法は、消費者は自分のためになるものを望むという仮定に基づ 色いているが、この仮定はもちろんだれの目にも明らかにまちがっている。 ( 麻薬の場合、いやおそらく のはたばこの場合でも、だれもこんな論法は用いないだろう。 ) この論法が明らかに無視している重要な 社 事実は、消費者の願望は生産者によって作り出されるということである。品種間の競争はあるけれども、 新広告が生み出す全体的な効果は、消費への渇望を刺激することである。すべての会社は広告を通じてこ 九の基本的な影響を及ぼすことにおいて、互いに助け合っている。買い手は、競争する幾つかの品種の中 から選ぶという怪しげな特権を、二次的に行使するだけである。消費者の願望が全能なのだと論じる大

2. 生きるということ

能動性の持っ特質をさすのである。絵や科学論文でも、まったく非生産的、すなわち不毛であるかもし れない。 一方、自分自身を深く意識している人物、あるいは一本の木をただ見るだけでなく、ほんとう に〈観る〉人物、あるいは詩を読んで、詩人が言葉に表現した感情の動きを自己の内部に経験する人物 大いに生産的でありうる。生産的能 の中で進行している過程ーー、、その経過は何も〈生産〉はしないが、 動性は、内的能動性の状態を表わす。それは必ずしも芸術作品の創造や、科学的創造や、何か〈有用 な〉ものの創造と結びつくわけではない。生産性は情緒的に不具でないかぎり、すべての人間に可能な 性格的方向づけである。生産的な人物は、彼らが触れるすべてのものを活気づける。彼らは自己の能力 を生み出し、ほかの人びとや物に生命を与える。 〈能動性〉と〈受動性〉のそれぞれが、二つのまったく異なった意味を持ちうる。単なる忙しさの意 味での疎外された能動性は、実は生産性の意味においては、〈受動性〉である。一方、忙しくはないと このことを理解するのが今日これほ いう意味での受動性は、疎外されない能動性であるかもしれない。 ど困難なのは、ほとんどの能動性が疎外された〈受動性〉であり、一方では、生産的受動性がめったに 経験されないからである。 何 様能動性ーー受動性、偉大な思想家たちによる ・あ 〈能動性〉と〈受動性〉とは、前産業社会の哲学的伝統においては、現在の意味で用いられてはいな 五かった。それも当然であって、仕事の疎外は現在のそれに匹敵するところにまでは、至っていなかった からである。このため、アリストテレスのような哲学者は、〈能動性〉と単なる〈忙しさ〉との間の明

3. 生きるということ

できるだろう。 市民が消費者の力を示すことのできる一つの効果的な方法は、戦闘的な消費者運動を組織して、〈消 費者ストライキ〉のおどしを武器として使うことである。たとえば、アメリカの車消費人口の二十・ハ セントが、もう自家用車を買わないと決めたと仮定しよう。決定の理由はこうである。すぐれた公共輸 送に比べると、自家用車は経済的にむだであり、生態学的に有毒であり、心理学的に有害であるーー人 と、 g じるから。それが・目動 為的な力の感覚を生み、羨望を増大し、自己逃避を助ける麻薬である どれほど大きな経済的脅威になるかは、経 車産業にとってーーーまたもちろん、石油会社にとっても 済学者だけがリ 定しうることだが、もしこのような消費者ストライキが起こったとすれば、自動車生産 を中心とした国民経済が重大な困難に陥ることは、明らかである。もちろん、だれもアメリカ経済が重 大な危機に陥ることを望んではいないが、このようなおどしは、それを信じさせることができるならば ( たとえば車の使用を一月やめてみたまえ ) 、生産の全体制における変革を引き起こすだけの強力な手 段を、消費者に与えるだろう。 色消費者ストライキの大きな利点は、政府の動きを必要としないこと、それに反抗することが困難であ 特 のること ( 政府が市民に買いたくないものをも強制して買わせるという手段を採らないかぎり ) 、そして 社 1 セントの賛成を待つ、という必要がないことであ 政府の条例によって実施するために市民の五十一。 新る。というのは、実際二十。ハ 1 セントの少数者でも、変革を引き起こすにはきわめて強力になりうるか 九らである。消費者ストライキは政治的傾向やスロ 1 ガンを乗り越えることができるだろう。自由主義や 第 〈左翼〉のヒュ 1 マニストだけでなく、保守主義者も参加することができるたろう。一つの動機づけ、 239

4. 生きるということ

ズム的〈人間〉科学に専心すべく、自己の力を動員するかどうかにかかっている。というのは、こうい う人びとの協力がなければ、すでにここであげた諸問題を解決し、以下で論じる諸目的を達成する助けち になるものは何もないからである。 〈生産手段の社会的所有〉のような全体的目標を持った青写真は、主として社会主義の不在をおおい 隠すための、社会主義者や共産主義者の合言葉となってしまった。〈プロレタリア独裁〉や〈知的エリ ト〉の独裁が、漠然とした誤解されやすい言葉であることは、〈自由市場経済〉の概念にも劣らない し、またその点では〈自由〉国民の概念にも劣らない。 マルクスからレーニンに至る初期の社会主義者 や共産主義者は、社会主義あるいは共産主義の社会の具体的な計画を持っていなかった。これが社会主 義の大きな弱点であった。 あることの基礎となる新しい社会形態が生まれるためには、多くの企画、モデル、研究、実験によっ て、必要なことと可能なこととの間の隔たりに橋を渡すことを始めなければならない。 これは結局は大 規模な長期計画と、最初の段階に取りかかるための短期的な案ということになるだろう。問題はそれら に取り組む人びとの意志と、ヒュ ーマニズム精神である。そのうえ、理想を描くと同時に、それを達成 するために何ができるかを一歩一歩具体的に認めることができるならば、人びとは恐怖ではなく、勇気 づけと熱意を感じるようになるだろう。 社会の経済的、政治的分野を人間的発達に従属させるべきものとするならば、新しい社会のモデルは、 疎外されていない、ある方向づけを持った個人の必要とするものによって決定されなければならない。 このことが意味するのは、人間は非人間的貧困ーーー今なお大多数の人びとのおもな問題である , ーー・の中

5. 生きるということ

精神へ完全に変貌しなければならなかった。そしてこれが実際に起こったことであった。 西洋の社会民主主義者と、彼らにきびしく対立するソ連内外の共産主義者とは、社会主義を、最大限 の消費と最大限の機械の使用を目的とする、純粋に経済的な概念に変貌させた。フルシチョフは彼の 訳注。より多くの消費物資の生産と、生活水準の向上を強調 〈グ 1 ラシ↓共産主義〔 〕の概念によって、例の素朴であけ 0 する共産主義。グ 1 ラシュはハンガリ 1 式シチュ 1 のこと びろげなやり方で、本音をのぞかせた。すなわち、社会主義の目標は、資本主義が少数者だけに与えて いたのと同じだけの消費の快楽を、全住民に与えることである、と。社会主義と共産主義は、プルジョ ワ的な物質主義の概念の上に築かれた。マルクスの初期の著作 ( それらは概して、〈若き〉マルクスの 〈理想主義的〉な誤りという汚名を着せられたのだが ) の幾つかの文句が、西洋における福音書の言葉 のごとく、うやうやしく唱えられた。 マルクスが資本主義の発達の頂点に生きていたことは、さらに別の結果をもたらした。すなわち、マ ルクスは時代の子として、ブルジョワ的思考と実践の中に行き渡っていた態度や概念を、採用せざるを 得なかった。かくして、たとえば彼の著作のみならず、彼の。 ハーソナリティにも見られる或る種の権威 会主義的傾向は、社会主義の精神というよりは家父長制的なプルジョワ精神によって、形成された。彼は 〈科学的〉社会主義対〈空想的〉社会主義という組み立て方において、古典学派の経済学者の型に従っ 格 性 た。経済は人間の意志とはまったくかかわりなく、それ自身の法則に従うと経済学者が主張したのとま 教 宗さに同じよ、つに、 マルクスは社会主義が経済の法則に一 従って必然的に発達することを、証明することが 七必要であると悟った。その結果、彼は時として、決定論と誤解されやすい定式を発展させる傾向を見せ、 歴史の過程における人間の意志と想像力に十分な役割を与えなかった。資本主義の精神に対するこのよ 2 13

6. 生きるということ

しまったのだ。精神病理学の分野で観察できる疎外された能動性の最も適切な症例は、強迫Ⅱ強制症状 の人物の症例である。自分の意志に反して何かー ーたとえば、歩数を数えたり、或る文句を繰り返した 、或る個人的な儀礼を行なったりーーをせよという内的衝動に強要されて、彼らはこの目標を追求す ることにおいては、極端に能動的になることができる。しかし、精神分析的研究が十分に示しているよ 、彼らは自分でも意識しない内的な力によってかりたてられているのである。疎外された能動性の 例として、これと同じようにはっきりとしているのは、後催眠行動である。催眠状態からさめた時にあ れをせよ、これをせよという催眠暗示を与えられた人物は、そのとおりにするものだが、彼らは自分が 望むことをしているのではなく、それぞれの施行者からさきに与えられた命令に従っている、というこ とには何ら気付かない。 疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。疎外されない能動性 は、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを保つ過程である。このこと はまた、私の能動性は私のカの現われであって、私と能動性と能動性の結果とは一体であるという意味 ( 2 ) も含んでいる。私はこの疎外されない能動性を、生産的能動性と呼ぶ。 ( 2 ) 私は『自由からの逃走』では〈自発的能動性〉という用語を使用し、これ以後の著作では〈生産的能動性〉という用語を 使用した。 ここで用いる〈生産的〉という言葉は、画家や科学者が創造的である場合のように、 何か新しいもの、 あるいは独創的なものを創造する能力を、さしてはいない 。またそれは能動性の産物をさすのでもなく、 ー 30

7. 生きるということ

方の人びとが持ち出す実例の一つは、フォ 1 の〈 = ドセル〉〔訳注。フォ 1 ドが多大の期待を掛け の名〕の失敗である。 しかし、エドセルは成功しなかったが、エドセルのための広告宣伝も、自動車を買わせる宜伝であった それによって不運なエドセルのほかのあらゆる車種が利益を得た という事実は、変わらない。 そのうえ、産業は人間にはより健康的だが、産業にはより利益の少ない商品を生産しないことによって、 人の好みを左右するのである。 正気の消費は、大企業の株主や経営者が企業の利益と発展のみに基づいて生産を決定する権利を、私 たちが大幅に制限しえた時に、初めて可能となる。 このような変革は、西洋民主主義の組織を変えなくとも、法律によって実現することができる。 ( 私 たちはすでに公共の福祉のために財産権を制限する、多くの法律を持っている。 ) 問題は生産の方向を 決める力であって、資本の所有権ではない。いったん広告の暗示力に終止符が打たれたなら、結局は消 費者の好みが何を生産すべきかを決めるだろう。新しい要請を満たすために、現存の企業は設備を変え なければならないだろうが、それが不可能な場合には、政府が必要な資本を使って、要求される新しい 生産品や事業を生み出さなければならない。 これらす・ヘての変革は、ゆっくりと時間を掛け、しかも住民の大多数の同意を得て、初めてなしうる ことである。しかし、それらはやがて新しい形の経済体制になる。今日の資本主義とは異なるが、ソビ エトの中央集権的国家資本主義や、スウェ 1 デンの総合福祉的官僚制とも異なる経済体制に そもそもの初めから大会社がその途方もない力を利用して、このような変革と戦おうとするであろう ことは、明らかである。正気の消費を求める市民の圧倒的な欲求のみが、会社の抵抗を打ち破ることが

8. 生きるということ

この記述においては、歴史の目的は人間が知恵と神の知識の研究にまったく専念できるようにするこ メシアの時代は世界の平和、羨望の欠如、物質的豊富 とであって、カでもなければぜいたくでもない。 の時代である。この描写は、マルクスが『資本論』の第三巻の終わり近くで表明した人生の目的の概念 自由の領域は、必要と外的効用に強制された労働が要求されなくなった時に、ようやく始まる。そ もそも当然のことながら、それは厳密な意味での物質的生産の領域を超えた所に存在する。未開人が 文明人 自らの要求を満たし、生命を維持しかっふやすために、自然と戦わなければならないように、 もそれをしなければならない。しかも彼は、あらゆる形の社会において、あらゆる可能な生産様式に おいて、それをしなければならない。彼の発達とともに、 この自然的必要性の領域は拡大する。なぜ なら彼の要求が増大するからである。しかし、それと同時に生産力が増大して、それによってこれら 会の要求は満たされる。この分野における自由を構成しうるものは、ただ次の事実があるのみである。 社 すなわち、社会化した人間が合同の生産者として、自然とのやり取りを合理的に調整し、自然を共同 格 性 で管理し、盲目的な力によるかのごとく自然に支配されることをやめること、およびこの仕事を成し 宗遂げるに当たって、エネルギーの費消を最小にし、人間性に最もふさわしく、最もよく値する条件の もとで行なうこと。しかし、それはあくまで必要性の領域である。それを超えた所から始まるのが、 第 かのそれ自身を目的とする人間的な力の発達であり、真の自由の領域であるが、それはしかしあの必 209

9. 生きるということ

に生きることもなく、またーー産業化世界の裕福な人びとのようにーー生産のたえざる成長を要請し、 ホモ・コンスーメンス ひいては消費の増大を強要する資本主義生産の内在的法則によ「て、消費人となることを強制され ることもない、 ということである。かりにも人間が自由となり病的な消費で産業を養うことをやめるべ きものとするならば、経済体制におけるラディカルな変革が必要である。すなわち、人間を不健康にし て初めて健康な経済が可能になるという、現在の事態に終止符を打たなければならない。なすべきこと は、健康な人びとのための健康な経済を作り上げることである。 この目的に向かう最初の決定的段階は、生産を〈正気の消費〉のための方向に向けることである。 も力なる種類の使用をさすのか 「利益のためでなく使用のための生産を」という伝統的な定式は、、、 すなわち健康な使用と病的な使用のいずれをさすのかを限定していないので、不十分である。ここでき わめて困難な実際的疑問が生じる。どの要求が健康でどの要求が病因的であるかを、だれが決定するの か。一つのことは確かである。すなわち、国家が最上と決めるものーーたとえそれが実際に最上であっ ても , ーーの消費を市民に強制するようなことは、問題にならないということ。官僚制支配によって強制 かっ 色的に消費を妨げようとすれば、人びとはかえ「てますます消費に飢えることになるだろう。正気の消費 のは、ますます多くの人びとが消費の型と生活のしかたを変えることを望む場合に、初めて行なわれうる。 社 そしてこのことはまた、人びとに今慣れているよりも魅力的な消費の類型を提供することによって、初 新めて可能となる。これは一夜にして起こりうるものでもなければ、法令によって行なわれうるものでも 九なく、ゆっくりとした教育過程を必要とするものであって、この点において政府は重要な役割を演じな 第 ければならない。 2 3

10. 生きるということ

た水夫が板切れを求めるようにー。ー生存のためにーー相手を求める。〈持っこと〉が支配する関係は、 重苦しく、負担が大きく、葛藤と嫉妬に満ちている。 もっと一般的に言えば、持っ存在様式の個人間の関係における基本的要素は、競争、敵意、恐れであ る。持っ関係における敵意の要素は、その関係の本質に由来する。もし「私は私が持っているものであ る」ゆえに、持っことが私の同一性の基礎であるならば、持っ願望は、多くを持ち、より多くを持ち、 最も多くを持っ欲求を生むにちがいない。言い換えれば、貪欲が持っ方向づけの当然の結果である。そ れは守銭奴の貪欲にも、利益を追求する人間の貪欲にも、女狂いや男狂いの貪欲にもなりうる。彼らの 貪欲を構成するものが何であれ、貪欲な人物は決して十分に持っことができないし、〈満足〉すること もできない。空腹のような、肉体の生理による一定の飽和点を持っ生理的要求とは対照的に、精神的貪 は飽和点を持た 欲ーーーたとえ肉体を通じて満足を与えられようとも、すべての貪欲は精神的である 面 なない。なぜなら、それを完全に充足したとしても、それが克服するはずの内的な空虚、退屈、孤独、抑 新鬱が満たされることはないからである。そのうえ、持っているものは何らかの形で奪われることもあり こうるので、そのような危険に対して自己の存在を強化するためには、人はより多くを持たなければなら ・あよ、 0 もしすべての人がより多く持っことを望むならば、すべての人は自分の持っているものを奪おう ことする隣人の政撃的な意図を、恐れるにちがいない。そのような攻撃を防ぐために、人は自分も強くな っ 予防攻撃の備えをしなければならない。そのうえ、どれほど大量に生産をしても、限りない欲求に 六歩調を合わせることは決してできないから、最も多くを得る戦いにおいて、個人間に競争と敵意が生まロ 第 れるにちがいない。そして絶対的豊富の状態に到達しえたとしても、争いはなおも続くたろう。肉体的