自由 - みる会図書館


検索対象: 生きるということ
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1. 生きるということ

たいていの人びとは自分は自らの意志に従っているのだと信じ、その意志自体が条件づけられ、操作さ れていることに気付かないのである。 この意志の抑制が最も困難なのは、性愛に関する場合である。というのは、ここで私たちがかかわる のは自然の秩序に属する強力な傾向であって、それを操作するのは、ほかの多くの欲求の場合ほど容易 ではないからである。このために、社会はほかのほとんどいかなる人間的欲求にも増して、性的欲求に 対して戦おうとするのである。セックスに対する悪口には、道徳的根拠 ( セックスは悪である ) から健 康上の根拠 ( 自慰はからだに害を与える ) に至るまで、さまざまな形があるが、それらを例にあげるま でもない。教会は産児制限を禁止しているが、これは実は生命の神聖さへの配慮からではなく ( その配 慮があれば、死刑や戦争を非難するまでに至るだろう ) 、生殖に役立たないセックスを悪としてきめつ けるためである。 セックスを抑制するために払われている努力は、もしそれがセックスそのもののためだとすれば、理 解しにくいものだろう。しかしながら、セックスではなく人間の意志をくじくことが、セックスを悪 ものとする理由なのである。非常に多くのいわゆる原始社会が、何らセックスのタブ 1 を持っていない。 何 これらの社会は搾取や支配なしに機能するので、個人の意志をくじく必要はないのである。これらの社 様会はセックスをおとしめる必要はないし、罪悪感を持たずに性的関係の快楽を味わうことができる。こ っ 持れらの社会において最も注目すべきことは、この性的自由が性的貪欲をもたらしはしないということ、 四比較的短い性的関係の期間を過ごしたあとで、夫婦の組み合わせができるということ、それ以後は相手 を交換する欲求は持たないが、愛がなくなれば別れることも自由であること、である。これらの財産的

2. 生きるということ

安心感ーー不安感 前進しないこと、今いる所にとどまること、退歩すること、言い換えれば自分が持 0 ているものにた よることは、私たちを強く誘惑する。というのは、持「ているものはわか「ているからである。私たち はそれを固守して、それに安心することができる。私たちは未知のもの、不確かなものの中 ~ 足を踏み 入れることを恐れ、その結果、それを避ける。というのは、実際その一歩はそれを踏み出したあとでは 危険に見えないかもしれないが、それを踏み出す前には、その向こうに見える新しい局面はたいそう危 険に、ひいては恐ろしいものに見えるからである。古いもの、試みられたものだけが安全である。ある いはそう見える。すべての新しい一歩は失敗の危険をはらんでいて、それこそ人びとがこれほど自由を 恐れる理由の一つなのである。 ( 1 ) これは『自由からの逃走』の主題である。 当然、生涯のすべての場合において、古いもの、慣れたものはそれぞれ異な 0 ている。幼い時には、 第六章持っこととあることの新たな側面

3. 生きるということ

方向づけを持たない集団にとって、セックスの楽しみはあることの表現であって、性的所有関係の結果 ではない。 こうは言うものの、私たちがこれらの原始社会のような生き方にもどるべきだという含意は、い てこ」によ、 たとえ望んだとしても、できることではない。その理由は簡単であって、個別化およ び個人間の区別や隔たりという文明のもたらした過程は、個人の愛に原始社会におけるそれとは異なっ た特質を与えるからである。私たちは退歩することはできない。前へ進むことしかできない。重要なこ とは、新しい形の無産状態がすべての持っ社会に特徴的な性的貪欲を、除去するだろうということであ 性的欲求は独立の一つの現われであって、人生の非常に早い時期に表現される ( 自慰 ) 。それを弾劾 することは、子供の意志をくじき、子供に罪悪感を負わせ、ひいては子供をいっそう従属的にするのに 役立つ。性的タブーを破ろうとする衝動の大部分は、本質的には自由を回復することを目標とした反抗 の試みである。しかし性的タブ 1 の打破自体は、より大きな自由をもたらしはしない。その反抗はいわ ばおばれてしまう。性的満足の中に : : : そして反抗者がのちに感じる罪悪感の中に。内的独立の達成の みが自由をもたらし、無益な反抗の必要に終止符を打つのである。これと同じことが、自由を回復する 試みとして、禁じられたことをなそうと目ざすほかのあらゆる行動についても言える。実際、タブ 1 は 性的強迫と倒錯を作り出すが、性的強迫と倒錯は自由を作り出すことはないのである。 子供の反抗にはほかにも多くの現われ方がある。清潔のしつけの決まりを受けつけないこ、 J 、食べな いこと、あるいは食べすぎること、政撃とサディズム、そして多くの種類の自己破壊的な行為。反抗は スロー・タウン・ストライヤ しばしば一種の全面的〈操短罷業〉ーー世界への関心の消去、怠惰、受動性から最も病的な形の緩

4. 生きるということ

ェッウ , 、レ -z—キま、 持たないという彼の概念をこれ以上ラディカルに表現することは、できなかっただ ろう。何よりもまず、私たちは自分の物や自分の行為から自由にならなければならない。 これは何も所 有してはならず、何もしてはならないということを意味してはいない。それの意味するところは、自分 が所有するもの、自分が持つものに、また神にさえも、縛られ、自由を奪われ、つなぎとめられてはな らない、 とい、つことである。 ェックハルトはさらに違った水準で持っ間題に接近して、所有と自由との関係を論じている。人間の 自由は、私たちが所有、仕事、そして最後には自我に縛られる範囲内に限定されている。私たちの自我 に縛られること ( クヴィントは原文の中世ドイツ語の E ご心を、・ b ぎミミ g あるいはま c ミ、 すなわち〈自我の東縛〉、あるいは〈病的自己中心性〉と訳している ) によって、私たちは自分を阻害 するのであって、実を結ぶことも、自己を十全に実現することも、妨げられるのである ( クヴィント・ ・・、序論二九ペ 1 ジ ) 。 ・ミ 1 ト (). Mieth) が次のように主張しているのは、私の考えで はまったく正しい。すなわち、真の生産性の条件としての自由は自我を捨てること以外の何ものでもな く、それは・ハウロ的な意味での愛が、あらゆる自我の束縛から自由であるのと同様である、ということ。 東縛を受けず、物や自我に執着することへの渇望から自由であるという意味での自由は、愛と生産的に あることとの条件である。私たちの人間的な目的は、エックハルトによれば、十全にあることに到達す るために、自我の東縛、自己中心性、すなわち持っ存在様式の足かせを取り除くことである。ェックハ ルトにおける持っ方向づけの性質に関して、 ( 一九七一 ) ほど私自身の考え方に似た考えを表明

5. 生きるということ

し、美しくなっていた。ただ少数者の顔だけが、冷く無感動に見えた。 所有することを望まないで楽しむ例は、、 幻さな子供に対する私たちの反応にも、容易に見ることがで きる。ここでもまた、多くの自己欺瞞的行動が起こるのではないだろうか。というのは、私たちは子供 を愛する人間としての役割を演じる自分を見ることを、好むからである。しかし、こういう疑惑にも理 由はあるだろうが、幼児に対する真の生きた反応は決してまれではないと、私は信じる。その理由は、 一つにはこうだろう。つまり、青年や成人に対する感情とは対照的に、たいていの人びとは子供を恐れ ていないので、自由に愛情をもって反応できると感じるからなのである。恐れがじゃまをすれば、それ は不可能なのだが。 楽しみながらも、持っ渇望は覚えないという最も適切な例は、対人関係に見いだすことができるだろ う。男と女が互いに楽しむには、多くの理由があるだろう。それぞれが相手の態度、趣味、思想、気質、 あるいは全バーソナリティを好むかもしれない。しかし、自分の好むものをどうしても持ちたいと思う 人びとの場合にのみ、この相互の楽しみの結果は、常に性的所有の欲求となる。ある様式が優位を占め る人びとにと「ては、たとえ相手が楽しみの対象となり、性的な魅力を持「ていたとしても、彼もしく は彼女を楽しむためには、テニソンの詩の用語を用いるなら、「摘み取る」必要はない。 持っことを中心とする人物は、自分の好きな人物、あるいは賞賛する人物を持っことを望む。このこ とは、親と子、教師と学生、そして友だちどうしの関係に見ることができる。どちらの側も、相手をた だ楽しむだけでは満足しない。それぞれが、相手を彼もしくは彼女自身のものとして持ちたいと思う。 それゆえそれぞれが、自分の相手をやはり〈持っ〉ことを望む人びとに嫉妬する。それぞれは、難破し

6. 生きるということ

を崇拝する。彼らは自分たちの民主的な部族の生活を、東洋的専制政治の生活に変貌させる , ーー確かに 小規模ではあるが、当時の強大な諸国を模倣する熱意に変わりはなかった。革命は失敗した。その唯一 の達成ーーそれが達成であるとすれば は、ヘブライ人が今は支配者であって、奴隷ではないという ことであった。彼らはもし革命的な思想家や理想家の口から新しい託宜が発せられていなかったら、今 日では近東の歴史書に学者が付ける脚注でしか記憶されなかっただろう。これらの人びとは、モ 1 セの ように指導者としての重荷に毒されることもなく、とくに独裁者としての権力的な手段 ( たとえばコラ に率いられた反逆者たちを全滅させた時のように ) を用いる必要に毒されることもなか「た。 これらの革命的な思想家、すなわちへプライの予言者たちは、人間の自由のーー物に東縛されないこ とのーー理想と、偶像ーー人びと自らの手による作品 に屈服することへの異議とを、回復した。彼 らは妥協を知らず、次のように予言した。もし人びとが土地に近親愛的に固着し、自由な人間としてそ こに住むことができなければ , ーーすなわち、その中に自分を埋没することなしにその土地を愛すること ができなければーー・再びそこから追放されなければならないだろう、と。予言者たちにとって、土地か らの追放は悲劇ではあったが、最終的な解放への唯一の道であった。新しい荒野は一世代にとどまらず、 多くの世代にわたって続くはずであった。新しい荒野を予言しながらも、予言者たちはユダヤ人の信仰 をささえ、究極的には全人類の信仰をささえたのだが、それは或る土地の原住民の追放も絶滅も必要と しないで平和と豊富を約東する、メシア的理想によってであった。 へプライの予言者の真の後継者は、すぐれた学者のラビたちだが、そのことが最もはっきりしている のは、ディアスポラの始祖であるラビ・ヨハナン・べン・ザカイである。ロ 1 マ人との戦争 ( 紀元七〇

7. 生きるということ

になるためにたえず自我にみがきをかけるようなことは、しない。彼らは故意にせよ無意識にせよ常に をつくことによ 0 て、自分のイメ 1 ジを保護するようなことはないし、大多数の人びとがするように、 真実を抑圧するために精力を費やすこともない。そしてしばしば、彼らはその率直さによって年長者に というのは、年長者たちは真実を見たり告げたりすることのできる人びとを、ひそか 感銘を与える に賞賛しているからである。彼らの中にはあらゆる色合いの政治的、宗教的方向づけを持った集団もあ 〈模索している〉だけだと言うで るが、また特定のイデオロギーや教義を持たず、自分についてはただ あろう者も多くいる。彼らはまだ自分をも、また実際生活の指標を与える目的をも見いだしてはいない かもしれないが、持っためや消費するためでなく、自分自身であるために模索しているのである。 しかしながら、私の描写の中のこの肯定的要素には、修正を加える必要がある。この同じ若者たち ( そして彼らの数は六〇年代後期以後は、目立って減少しつつある ) の多くは、何ものかからの自由か ら何ものかへの自由へと進歩してはいなかった。彼らはただ反抗しただけで、制限と従属からの自由と いう目的以外には、それを目ざして進むべき目的を見いだそうとする試みはしなかった。彼らのプルジ ョワ的な親のそれと同様に、彼らの標語は「新しいものは美しい ! 」であって、彼らは最もすぐれた精 神が生み出した思想をも含めた、あらゆる伝統に対するほとんど恐怖症的とも言える無関心ぶりを示す ようになった。一種の単純なナルシシズムによって、彼らは発見するに値するす・ヘてのものを自分で発 見できると信じた。基本的には、彼らの理想は再び幼児となることであって、マルク 1 ゼのような著者 社会 たちがそれに好都合なイデオロギ 1 を生み出し、児童期への復帰がーーー成熟期への成長でなく 主義と革命の最終目的であるとした。彼らがまだ若くてこの陶酔感が持続するかぎりは、彼らは幸福で 1 10

8. 生きるということ

活動の大部分が時に支配されること、である。そのうえ、時は時であるばかりでなく、「時は金なり」 である。機械は最大限に利用されなければならない。それゆえ、機械は自らのリズムを労働者に強要す 機械を通じて、時は私たちの支配者とな「た。自由時間にのみ、或る選択ができるように見える。し かし、私たちはたいてい、仕事を組織化するように、余暇をも組織化する。あるいは、完全になまける ことによ「て、時の専制君主に反抗する。時の要請にそむく以外には何もしないことによ「て、私たち は自由であるという幻想をいだくが、実際には時の牢獄から仮釈放されているにすぎないのである。

9. 生きるということ

確な区別さえ、していない。 アテネでは、疎外された仕事は奴隷によってなされていた。肉体労働を含 む仕事は、寰旁 ( 〈実践〉 ) の概念から除外されていたようである。、ミざ s とは、自由な人物が行な う可能性のあるほとんどすべての種類の能動性のみをさす用語で、本来、アリストテレスが人の自由な 能動性を表わすために用いた用語である。 ( ニコラス・ロプコウィッチ〔 Nicholas I 、 obkowicz 〕の『理 論と実践』〔ごきこ、こミミ〕参照。 ) この背景を考えると、主観的に無意味で、疎外された、まっ たくの日課となった仕事の問題は、自由なアテネ人にはほとんど起こりえなかったのである。彼らの自 由が含意していたのは、自分は奴隷ではないから、その能動性は生産的であって、自分にとって意味の あるものだという、まさにそのことであった。 アリストテレスが私たちの現在の能動性と受動性の概念を持っていなかったことを、誤解の余地なく 明らかにするためには、 彼にとって最高のーー政治的な能動性をさえ超えたーー・形の実践、すなわち能 動性は、真理の探求に専心する観照的生活であるということを、考えてみればよい。 観照が非能動性の 一つの形態であるとは、彼には考えられもしないことであった。アリストテレスは観照的生活を私たち 訳注。ギリシア語、 の最上の部分、すなわちき 〕の能動性であると考える。奴隷も自由人とま「たく同じ で精神、知性の意 感覚的快楽を楽しむことはできる。しかし、ミぎ & すなわち〈福利〉は快楽にあるので はなく、徳と合致した能動性にある ( 『ニコマコス倫理学』一一七七、二以下 ) 。 アリストテレスの立場と同じように、トマス・アクイナスの立場も、現代の能動性の概念とは対照的 ヴィタ・コンテンプラティヴァ である。アクイナスにとっても、内的な静けさと精神的知識に専心する生活、すなわち観照的生活 ヴィタ・アクティヴァ は、人間の能動性の最高の形である。彼はふつうの人の日常生活、すなわち能動的生活も有益であり、 1 3 2

10. 生きるということ

らの美は消滅する。彼らは失望し、戸惑う。自分たちはもはや同じ人物ではないのだろうか。初めから まちがっていたのだろうか。たいていの場合それぞれが相手の中に変化の原因を求め、詐欺にかかった と ように思う。彼らに見えないことは、彼らがもはや互いに愛し合っていたころと同じ人間ではない、 いうことであり、愛を持っことができるという誤解のために愛することをやめてしまったのだ、という ことである。今や互いに愛し合う代わりに、彼らは持っているもの、すなわち金、社会的地位、家庭、 子供の、共同所有で満足する。かくして或る場合には、愛に基づいて始まった結婚が仲のよい所有形態 に変貌してしまう。それは二つの自己中心主義を一つの合同資本とした会社であり、〈家庭〉という会 社である。 或る夫婦がかっての愛するという感情を回復したいという熱望を押え切れなくなった時、二人のうち どちらかが、新しい相手 ( あるいは相手たち ) ならその切望を満たしてくれるだろう、という幻想をい だくかもしれない。彼らは自分が持ちたいのはただ愛だけだと感じる。しかし彼らにとって、愛とは自 らの存在の表現ではなく、その前に屈服することを自ら望む女神である。彼らはもちろん愛において挫 折するが、それは「愛は自由の子である」 ( フランスの昔の歌にあるように ) からである。そして結局 愛の女神の崇拝者はあまりにも受動的になるために、退屈な人間になって、彼もしくは彼女に残された かっての魅力のすべてを失ってしまう。 このように述べたからといって、結婚は愛し合っている二人の人間の最上の解決ではありえない、 言うつもりはない。困難は結婚にあるのではなく、夫と妻の、そして結局は彼らの社会の、所有的な存 在構造にある。集団的結婚、相手の交換、集団セックスなどの現代的な形の共同生活を提唱する人びと