行動 - みる会図書館


検索対象: 生きるということ
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1. 生きるということ

現代の用法では、能動性はふつうエネルギーの費消によって目に見える結果を生じる行動の特質と、 定義される。それゆえ、たとえば土地を耕す農夫は能動的と呼ばれる。そのように、流れ作業で働く労 働者も、顧客に買いものを勧める外交員も、自分の、あるいは他人の金を投資する投資家も、患者を治 療する医者も、切手を売る局員も、書類を整理する官僚も、能動的と呼ばれる。これらの能動性の中に : 、、〈能動性〉に関しては は、ほかのものより多くの関心と集中を必要とするものもあるかもしれなカ それは問題ではない。 概して言えば、能動性とは社会的に認められた目的行動であって、その結果とし て、それに対応する社会的に有用な変化を生じるものである。 現代的な意味での能動性は、ただ行動のみをさして、行動の背後の人物をさしてはいない。それは人 びとが収隷のように外的な力にかりたてられるために能動的である場合も、不安にかりたてられる人物 のごとく、内的強迫によって能動的である場合も、区別しない。彼らが大工や創作家や、科学者や庭師 のンよ、つこ、 仕事に関心を持っていようと、あるいは流れ作業の労働者や郵便局員のように、自分のして いることに何の内的関係も満足も持たずにいようと、問題ではない。 能動性の現代的な意味は、動性と単なる忙しさとを区別しない。しかし、この二つの間には根本的 何 な相違があって、それは能動性に関連した〈疎外された〉と〈疎外されない〉という用語に対応してい 様る。疎外された能動性においては、私は能動性の行動主体としての自分を経験しない。むしろ、私の能 ・あ動性の結果を経験するーーしかも、〈向こう〉にある何ものかとして、私から切り離され、私の上に、 五また私に対立して存在するものとして。疎外された能動性においては、私はほんとうに働きかけはしな 9 い。私は外的あるいは内的な力によって働きかけられるのである。私は能動性の結果から切り離されて

2. 生きるということ

私たちが行なっているのは今までになされた最大の社会的実験であって、それは快楽 ( 能動的情動、 福利、喜びに対立する受動的情動としての ) が人間存在の問題に対する満足すべき解答となりうるか、 」、、つロ 門いに答えるための実験なのである。歴史上初めて、快楽動因の満足が少数者の特権にとどまら ず、人口の半分以上にとって可能となっているのだ。この実験はすでにその リいに対して否定的に答え ている。 産業時代の第二の心理学的前提、すなわち個入的利己主義の追求は調和と平和、すべての人間の福利 の増大をもたらす、という前提も同様に誤りであることは、理論的根拠から言えることだが、この場合 、爬訳注。十八世紀から十九世紀にかけ もまたその誤りは観察しうるデ 1 タによ「て証明される。この原理は古典学沂〔 て、イギリス経済学の主流となった カ 1 ド、ミルら 学派で、スミス、マルサス、 カ . 1 ・ヾー冖 ~ 択に代表され、自由経済論を基調の一つとする 〕の偉大な経済学者たちの中ではただ一人、デーヴィッド・リ る よってのみしりぞけられたが、これがどうして正しいものでありえようか。利己主義者であるというこ とは私の行動ばかりでなく、私の性格にもかかわることである。それの意味するところはこうだ。私は 折すべてのものを私自身のために欲するということ、分かち合うことでなく、所有することが私に快楽を そ与えるということ、私は貪欲でなければならない、なぜならもし私の目標が持っことであるのなら、私 疎が持てば持つほど私はあるのだから、ということ、私はほかのすべての人びと、すなわち私がごまかし なたいと思う顧客や、やつつけたいと思う競争者や、搾取したいと思う労働者に対して敵意を持たなけれ 大ばならない、 ということ。望みにはきりがないので、私は決して満足することができないし、より多く 章 持つ人びとをうらやみ、より少なく持つ人びとを恐れなければならない。しかし私はこれらすべての感 情を抑圧しなければならない。それは私自身を ( 自分に対しても他人に対しても ) すべての人がそう見

3. 生きるということ

して、その価値を証明しようとする願望の現われにほかならない。過去および現在の多くの違った社会 の構成員にとっては、人間の生まれつきの利己心や怠惰という概念は、その反対の概念が私たちにとっ て空想的に聞こえるのと同じほど、空想的に思われるだろう。 実際には、持っ存在様式もある存在様式も、ともに人間性における可能性であり、生存を求める私た ちの生物学的衝動は、持っ様式を促進する傾向を持つが、利己心と怠惰だけが人間の生来の性癖である わけではない。 私たち人間には、ありたいという生来の深く根ざした欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動 性を持ち、他人と結びつき、利己心の独房からのがれ出たいという欲求である。この所説の真実性を証 明する証拠はあまりにも多いので、それだけで容易に一冊の本が埋まるだろう。・ O ・ヘップ (D. 0. Hebb) はこの問題の要旨を最も一般的な形に定式化して、述べている。行動に関する唯一の難問は、 能動性ではなく、ト皀 ョ育動性を説明することである、と。以下のデータは、この一般的命題の証拠となる ( 4 ) ものである。 ( 4 ) 私はこれらの証拠の幾つかを『破壊』で扱った。 ( 1 ) 動物行動に関するデ 1 タ。実験と直接的観察は、多くの種は物質的報酬が与えられない場合で さえ、困難な仕事を喜んでしようとすることを、示している。 ( 2 ) 神経生理学的実験は、神経細胞に内在する能動性を明らかにしている。 ( 3 ) 幼児の行動。最近の研究は、幼児には複雑な刺激に能動的に反応する能力と要求があることを 142

4. 生きるということ

ロイト以前の産物で今なお広まっている行動主義的見解、すなわち行動と意見とは、今世紀の初めに原 子がそう考えられていたのと同じように分割できない、 二つの究極的データであると主張する単純な見 解を乗り越えているからである。ェックハルトはこの考え方を数多くの所説で表明したが、中でも次 にあげるものが特徴的である。「人びとは何をなすべきかより、自分が何であるかを考えるべきである かくしてなすべきことの数や種類でなく、善くあることに重点をおくように心掛けよ。あなたの 仕事のよって立っ基本を、むしろ重視せよ」。私たちがあることこそが実在であり、私たちを動かす精 神であり、私たちの行動を推進する性格である。対照的に、私たちの動的な核心から切り離された行為 や意見は、実在性を持たない。 第二の意味はより広く、より基本的である。すなわち、あることは生命、能動性、誕生、再生、流出、 横浴、生産性である。この意味では、あることは持っこと、自我の束縛、自己中心主義の反対である。 ェックハルトにとって、あることは忙しいという現代的な意味ではなく、自らの人間的な力の生産的表 現という古典的な意味において能動的である、ということを意味する。能動性は彼にとっては、「自分 の外へ出ること」 ( クヴィント・・・ 6 、翻訳はフロム ) を意味するのであって、彼はそれを多 くの絵画的な描写で表現している。彼はあることを「沸騰する」過程、「生み出す」過程と呼び、「自ら の内にも外にも流れ流れる」何ものかと呼ぶ ( ・べンツ〔 E. Benz) ほか、クヴィント・ 三五ペ 1 ジに引用、翻訳はフロム ) 。時として彼は能動的性格を表わすために、走るというシンポルを 用いる。「平和へ走れ ! 走る状態、平和を目ざして絶え間なく走る状態にある人間は、聖なる人間で ・・ 8 、翻訳はフロム ) 。 ある。彼はたえず走り、動き、走りながら平和を求める」 ( クヴィント・

5. 生きるということ

第五章ある様式とは何か 示しているーー幼児は外部の刺激を脅威として経験するので、その脅威を除去するために攻撃性 を動員する、というフロイトの仮定とは対照的な発見である。 ( 4 ) 学習行動。多くの研究が示すところによれば、児童や青年がなまけるのは、学習材料が無味乾 燥な生気のないやり方で与えられるために、彼らの真の関心を呼び起こすことができないからで ある。もし強制や退屈がなくなり、材料が生きたやり方で与えられるならば、驚くべき能動性と 創意が動員される。 ( 5 ) 仕事行動。・メ 1 ョ (). Mayo) の古典的な実験の示すところでは、たとえそれ自身として は退屈な仕事であっても、それをする人びとが次のことを知っていたら、それは興味深い仕事と なる。すなわち、彼らの好奇心と協力心を呼び起こすだけの能力を持ち、しかも生命力と天賦の ロ 才に恵まれた人物の行なう実験に自分が参加しているのだ、ということ。同じことが、ヨ 1 ハとアメリカの多くの工場において、明らかになっている。経営者が考える定型的な労働者はこ うである。「労働者は、実際には能動的参加に関心を持っていない。彼らが望むすべてはより高 い賃金であり、それゆえ、利益の分配はより高い生産性の誘因となるが、労働者の参加はそうは ならない」。経営者が与える労働手段に関するかぎりでは、彼らの考えはまちがっていないが、 もし労働者が自分の 経験が示すところでは これを信じている経営者も少なくないのだが 仕事の役割において真に能動的になり、責任を持ち、十分な知識を持っことができたら、かって は関心を持たなかった者も大いに変化し、驚くほどの創意性、能動性、想像力、そして満足感を 示すのである。 143

6. 生きるということ

しまったのだ。精神病理学の分野で観察できる疎外された能動性の最も適切な症例は、強迫Ⅱ強制症状 の人物の症例である。自分の意志に反して何かー ーたとえば、歩数を数えたり、或る文句を繰り返した 、或る個人的な儀礼を行なったりーーをせよという内的衝動に強要されて、彼らはこの目標を追求す ることにおいては、極端に能動的になることができる。しかし、精神分析的研究が十分に示しているよ 、彼らは自分でも意識しない内的な力によってかりたてられているのである。疎外された能動性の 例として、これと同じようにはっきりとしているのは、後催眠行動である。催眠状態からさめた時にあ れをせよ、これをせよという催眠暗示を与えられた人物は、そのとおりにするものだが、彼らは自分が 望むことをしているのではなく、それぞれの施行者からさきに与えられた命令に従っている、というこ とには何ら気付かない。 疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。疎外されない能動性 は、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを保つ過程である。このこと はまた、私の能動性は私のカの現われであって、私と能動性と能動性の結果とは一体であるという意味 ( 2 ) も含んでいる。私はこの疎外されない能動性を、生産的能動性と呼ぶ。 ( 2 ) 私は『自由からの逃走』では〈自発的能動性〉という用語を使用し、これ以後の著作では〈生産的能動性〉という用語を 使用した。 ここで用いる〈生産的〉という言葉は、画家や科学者が創造的である場合のように、 何か新しいもの、 あるいは独創的なものを創造する能力を、さしてはいない 。またそれは能動性の産物をさすのでもなく、 ー 30

7. 生きるということ

れは必然的に受ける」 ( 『エチカ』三、定理一 ) 。 欲求は能動的欲求と受動的欲求 (actiones と。ミ s ) とに分けられる。前者は私たちの存在の条 件 ( 自然のままで、病的な歪曲でない ) に根ざし、後者はこれに根ざさないで、内部あるいは外部の歪 曲的条件を原因としている。前者は私たちの自由の度合いに応じて存在し、後者は内部あるいは外部の 訳注。 = を公。 = = には〕は善で 力を原因としている。すべての〈能動的情動〉は、必然的に善である。〈情熱〉「〈 も悪でもありうる。スビノザによれば、能動性、理性、自由、福利、喜び、自己完成は、互いに結びつ いていて切り離すことができないーー受動性、非合理性、束縛、悲しみ、無力、そして人間性の要請に 反する努力が、そうであるように ( 『エチカ』四、付録二、三、五。定理四〇、四二 ) 。 情熱と受動性に関するスビノザの観念を十全に理解することは、彼の考え方の最後のーーそして最も 現代的なーー段階にまで進んで初めて可能である。すなわち、非合理的な情熱にかりたてられることは、 精神的に病気であることだ、という考え方。最適度の成長を遂げるかぎり、それだけ私たちは ( 相対的 に ) 自由で、強くて、合理的で、喜びにあふれるだけでなく、精神的に健康でもある。この目標に到達 できないかぎり、それだけ私たちは不自由で、弱く、合理性に欠け、抑鬱的である。私の知るかぎり、 何 スビノザは精神面の健康と病気が、それぞれ正しい生き方とまちがった生き方の結果であることを自明 様のこととした、最初の近代思想家である。 ・あ スビノザにとっては、精神的健康は結局正しい生き方の現われであり、精神的病気は、人間性の要求 五に従って生きていないことの徴候である。「しかし、もし貪欲な人物が金と所有物のことばかり考え、 野心的な人物が名声のことばかり考えたとしても、人は彼らを精神異常とは考えず、ただ不愉快に思う

8. 生きるということ

あることと持っことに関するマルクスの概念は、彼の次の文章に要約されている。「君があることが 少なければ少ないほど、また君が君の生命を表現することが少なければ少ないほどーーーそれだけ多く君 は持ち、それだけ多く君の生命は疎外される。 : 生命と人間性に関して経済学者が君から奪うす・ヘて のものを、彼は金と富の形で君に返すのである」。 マルクスがここで言っている〈持っ感覚〉とは、まさにエックハルトの言う〈自我の束縛〉と同じで あり、物と自我への渇望にほかならない。 マルクスが言及しているのは持っ存在様式であって、所有そ のもの、疎外された私有財産そのものではない。 目的はぜいたくでも富でもなく、また貧乏でもない。 実際、ぜいたくも貧乏もともにマルクスによって悪徳と見なされている。絶対的な貧乏は、内的な富を 会生み出すための条件なのである。 社 この生み出すという行為は何だろうか。それは私たちの能力を、それに対応する対象に向けて能動的 格 性 に疎外されずに表現することである。マルクスはさらに続ける。「世界に対する彼の〔〈人間〉の〕すべ 宗ての人間的な関係ーー見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、考えること、観察す 七ること、感じること、欲すること、行なうこと、愛することーー要するに個人としての彼のすべての器 第 官は : : : その対象的行動〔対象に関する行動〕において、この対象をわがものとすることであり、人間 『二十一 1 ゲン』〔 E ぎミミミミこ g Bogen 〕のヘス〔 Hess 〕の論文参照 ) 。 ( 5 ) この一節と次の一節とは、マルクスの『経済学・哲学手稿』からの引用であり、『マルクスの人間観』 (Marx's ConcePt 。、ミを i) 合〕において翻訳したものである。 2 1 1

9. 生きるということ

ている永遠の乳飲み子である。これはアルコール中毒や麻薬中毒のような、病理現象に明らかである。 私たちがこの二つの中毒をとくに取り上げて問題にするのは、これらの及ばす影響が中毒者の社会的義 務の妨げになるからだと思われる。強迫的喫煙がこのような非難を受けないのは、それが中毒の程度で は劣らないけれども、喫煙者の社会的機能の妨げになることはなく、おそらく彼らの寿命を縮めるに 〈すぎない〉からである。 本書のあとの部分で、多くの形態の日常の消費主義に、より多くの注意が向けられている。ただここ で一言しておきたいことは、余暇に関するかぎり、自動車、テレビ、旅行、セックスが今日の消費主義 の主たる対象であり、私たちはそれを余暇活動〔能動性〕と呼んでいるが、むしろ余暇不活動〔受動 性〕と呼んだ方がよいだろう、ということである。 要約すれば、消費することは持っことの一つの形態であり、それもおそらくは今日の豊かな産業社会 にとっての最も重要な形態である。消費することの特質は多義的である。すなわちそれはまず不安を除 いてくれる。というのは、持っているものを奪われることがありえないからである。しかし、それはま たより多く消費することをも要求する。というのはさきの消費はすぐにその欲求充足的性格を失うから である。現代の消費者は次の定式で自分を確認するだろう。私はあるⅡ私が持つものおよび私が消費す るもの。

10. 生きるということ

能動性の持っ特質をさすのである。絵や科学論文でも、まったく非生産的、すなわち不毛であるかもし れない。 一方、自分自身を深く意識している人物、あるいは一本の木をただ見るだけでなく、ほんとう に〈観る〉人物、あるいは詩を読んで、詩人が言葉に表現した感情の動きを自己の内部に経験する人物 大いに生産的でありうる。生産的能 の中で進行している過程ーー、、その経過は何も〈生産〉はしないが、 動性は、内的能動性の状態を表わす。それは必ずしも芸術作品の創造や、科学的創造や、何か〈有用 な〉ものの創造と結びつくわけではない。生産性は情緒的に不具でないかぎり、すべての人間に可能な 性格的方向づけである。生産的な人物は、彼らが触れるすべてのものを活気づける。彼らは自己の能力 を生み出し、ほかの人びとや物に生命を与える。 〈能動性〉と〈受動性〉のそれぞれが、二つのまったく異なった意味を持ちうる。単なる忙しさの意 味での疎外された能動性は、実は生産性の意味においては、〈受動性〉である。一方、忙しくはないと このことを理解するのが今日これほ いう意味での受動性は、疎外されない能動性であるかもしれない。 ど困難なのは、ほとんどの能動性が疎外された〈受動性〉であり、一方では、生産的受動性がめったに 経験されないからである。 何 様能動性ーー受動性、偉大な思想家たちによる ・あ 〈能動性〉と〈受動性〉とは、前産業社会の哲学的伝統においては、現在の意味で用いられてはいな 五かった。それも当然であって、仕事の疎外は現在のそれに匹敵するところにまでは、至っていなかった からである。このため、アリストテレスのような哲学者は、〈能動性〉と単なる〈忙しさ〉との間の明