これがはじめての頼みでもあり、彼の受けとったはじめての手紙でもあった。彼はそう説明しな がら、自分の言葉を裏づけするために、自分が受けとった手紙を出して見せた。アグラーヤは遠 慮なしに読んでみた。コ 1 リヤあての手紙はつぎのようなものであった。 とうかお願いですから、同封の封書を、アグラーヤ・イワー / ヴナ 親愛なるコーリヤ君、。 に渡してください。お大事に。 きみを愛するレフ・ムイシュキン公爵 こつけい 「それにしても、こんな小僧っ子を信用して頼むなんて滑稽だわ . アグラ 1 ヤは、手紙をコーリ 二ヤに返しながらいまいましそうにつぶやくと、さも軽蔑しきった態度でそばを通りすぎていって しまった。 第これにはコーリヤももう我慢がならなかった。彼はこのときわざとのように、ガーニヤから理 えりまき 由もあかさずにねだってもらった、まだ真新しいグリーンの襟巻をしていたのである。彼はすっ かり腹をたててしまった。 351 六月はじめのことであった。ペテルプルグには珍しく、もうまる一週間も上天気がつづいてい ぜいたく た。工パンチン家は。 ( ーヴロフスクに贅沢な別荘を持っていた。リザヴータ夫人が急にさわぎ
371 「で、今度もあなたはまた二人を引きあわせたんですね ? 「公爵さま、どうして : ・・ : どうしてそうせずにおれましよう ! 」 「いや、もうたくさんです。私は全部自分で調べますから。ただたった一つだけ聞いておきたい んだが、いまあの女はどこにいるんです、彼のとこですか ? 」 ひと 「いや、とんでもない ! 決してそんな ! あの女は、おひとりでおられますよ。あの女のおっ しやるには、あたしは自由だ、あたしはまったく自由な身たって、くりかえし主張なさっている んですよ、公爵。いまでも相変らずべテルプルグ区の、わたしの家内の妹の家におられますよ、 編先日手紙でお知らせしたとおりです」 「いまでもそこなんですね ? 」 二「そこですよ。もっともお天気があまりいいから、 ーヴロフスクにあるダリヤ・アレクセーエ ヴナの別荘においでになるかもしれませんがね。なにしろ、あの女は、あたしは自由だ、あたし 第は自由な身だって、よくおっしゃいますからね。きのうもコーリヤに自分が自由な身だってこと を、さんざん自慢なさいましたよ。どうもよくない兆候ですがねー レーベジ = フはそう言って、作り笑いをした。 「コーリヤはしよっちゅうあの女のところへ行ってるんですか ? 」 「あれはどうも軽はすみで、おしゃべりで、秘密の守れないやつですな」 「もう長いことそこへは行っていないんですね ? 」 「いや、毎日、毎日行ってますよ」 「それじゃ、きのうも行ったんですか ? 」
右をして、また爪先立ってドアのほうへ引きかえしていくのだった。しかも、そのあいだじゅう 『もう決してひとことも口をききません、ほら、このとおり出ていきますよ、もうこれつきり一一 度とやってきません』と言わんばかりに両手を振りつづけるのであった。ところが、十分か、せ いぜい十五分もたっと、またぞろ姿をあらわすのであった。コーリヤは公爵のところへ自由に出 入りする権利を持っていたが、そのことがレーベジフにとって残念至極でもあり、また侮辱に すら思われていた。コーリヤは、ときどきレーベジフが三十分もドアの外に立って、自分と公 爵の話を立聞きしているのに気づいて、そのことを、むろん、公爵にも知らせた。 痴「あなたはこの私を幽閉しちまって、まるで自分の思いのままにしているじゃありませんか」公 爵は抗議した。「少なくとも、別荘にいるあいだだけでも、そんなことはやめてもらいたいです ね。私は誰とでも会って、どこへでも好きなところへ出かけていきますから、そのつもりでいて ください」 白「それはもうすこしもかまいませんとも」レーベジ = フは両手を振った。 公爵は彼を頭のてつ。へんから足の爪先まで、じっとながめまわした。 「ときに、ルキャン・チモフェ ーエヴィチ、あなたの寝台の枕もとにつってあったあの小さな戸 だな 棚は、こちらへ持ってきましたか ? 」 「いや、持ってきませんでした」 「じゃ、あすこへ置いてきたんですか ? 」 「あれはとても持ってこられません。なにしろ壁をこわして取りださなければなりませんので : : それはもうしつかり、しつかり取りつけられていまして」 440
和とについて、。フチーツインの知っていることは残らず知ることができたはずだし、もちろん、実 際に知っていたからである。しかも、。フチーツインは誰よりもいちばんくわしく知っていなけれ ばならぬはずであった。もっとも、彼はワーリヤには知らせたにちがいないが、実際的な方面で は、おそろしく口数の少ない男であった。将軍夫人はすぐそれに気づくと、前よりいっそうワル ワーラを毛ぎらいするようになった。 しかし、いずれにしても、沈黙の水は破れてしまったのである。公爵についても急に大声で話 してもかまわなくなってしまった。、 しや、そればかりか、彼がエバンチン家へ残していったあの 痴並々ならぬ印象と大きな関心とが、さらにはっきりとその本性をあらわしたのであった。将軍夫 人は、モスクワからのニ = ースが娘たちに与えた印象に、びつくりしてしまった。一方、娘たち もまた母親の態度にびつくりしていた。というのは、将軍夫人は、『わたしの生涯でいちばん大 きな特徴は、ひっきりなしに人を見そこなっていることだ』などともったいぶって言っておきな 白がら、そのロの下からモスクワにいる《勢力家》のべロコンスカヤのおばあさんに公爵をよろし くと頼んでいるからであった。しかもこの〈おばあさん》ときたら、ときによっては、ずいぶん しり お尻の重い人であるから、この人によろしくやってもらうには、神仏を持ちだして拝み倒すよう にして頼まなければならないのであった。 ところで、沈黙の水が破れて、新しい風が吹きはじめると、たちまち、将軍もあわてて打明け 話をするのだった。彼も並々ならぬ関心をもって事件の成行きをながめていたことがわかった。 もっとも彼はただ《事件の事務的な面》についてのみ報告した。それによると、彼は公爵のため を考えて、公爵と、その後見役のサラースキンの行動を監視するように、モスクワのその方面で
彼らのほうは尊敬を強いるのですからねえ。ワーリヤがその随一ですよ。公爵、あなたもお気づ きかもしれませんが、現代の人間はみんな山師ですね ! しかも、とりわけ、ロシアにおいて、 わが愛すべき祖国においてそうなんですよ。どうしてそんなことになったか、ぼくにはわかりま せんけれど。昔はじつにしつかりした足場に立っていると思われましたのに、いまはいったいど うでしよう ? このことはみんながしゃべったり、いたるところで書いたり、暴露したりしてる ことです。わが国では誰でもみんな暴露していますからね。だいいち、親たちがまっさきに態度 をひるがえして、自分たちの以前の道徳を恥ずかしがってる始末ですからねえ。現に、モスクワ 編である父親が息子にむかって、金もうけのためには何ものも恐れてはならないと説教したって、 新聞に書いてありましたよ。いや、うちの将軍をごらんなさい。とんでもない人間になったもの 一でしよう ? それでも、公爵、ぼくにはうちの将軍は潔白な人に思えるんですがね。ええ、ほん とうですとも ! あれはただふしだらな生活と酒のためなんです。ええ、ほんとうですともー 第むしろ気の毒なくらいです。でも、ぼくは笑われるのがいやだから、誰にもそんなことは言いま せん。でも、ほんとうに気の毒なんですよ。それじゃ、あの連中は、あの賢いと言われる連中は いったい何者です ? 高利貸ですよ、一人残らずみんな。イボリ ートは、高利貸でもかまわない と言うんです。それも必要なんだ、経済界の激動だの、潮の満干だの、何がなんだかわからない ことばかり一一一一口うんですよ。ぼくは彼がこんなことを言うのが癪なんですけれど、向うはむきにな っているんです。でも、どうです。彼の母親のあの大尉夫人ときたら将軍から金をもらっておき ながら、それをまた相手に高利で貸しつけているんですからねえ。まったく恥すかしいかぎりで すよ。ところがですね、お母さんは、つまり、ぼくのお母さんですが、将軍夫人は、イボリート 251
ニヤは心臓がとまるような苦しみを覚えながら、一部始終を見まもっていた。 「それじゃ、四万ループル、一万八千じゃなくて、四万ループルだそ ! 」ロゴージンは叫びだし た。「。フチーツインとビスクー。フが七時までに、四万こさえてくると約束したんだ。四万ループ ルだぞ ! そいつをみんなテープルの上に並べてやる ! 」 その場の光景は常軌を逸して醜悪なものとなった。ところが、ナスターシャ・フィリポヴナは なおも笑いつづけて、立ちさろうとはしなかった。どうやら、わざとそれを長びかせておこうと しているみたいであった。ニーナ夫人とワーリヤは、ともに席を立って、このさきどうなること 編かと、おびえたように無言のまま、待ちもうけていた。ワ 1 リヤの眼はぎらぎら輝いていたが、 ニ 1 ナ夫人にはその場の光景がおそろしく病的に作用して、いまにも気を失って倒れそうに思わ 一れるほど、身を震わせていた。 「えい、そんなら、ーー十万ループルだ ! きようじゅうに、ちゃんとそろえてみせる ! 。フチー 第ツイン、頼んだぞ。おめえだって、ふところが暖まるじゃねえか ! 」 「おい、気でもちがったのか ! 」すばやく彼のそはヘ歩みよって、その手百をつかみながら、。フ チーツインがふいにささやいた。「おまえは酔っぱらってるんだ、交番へ突きだされるそ。ここ をどこだと思ってるんだ , 「酔っぱらってでたらめを言ってるんだわ」ナスタ 1 シャ・フィリポヴナはからかうように言っ た。 「なんの、でたらめなんか言ってねえ、そろえてみせる ! 夕方までにやそろえてみせるとも : ・ : 。フチーツイン、頼んだぞ、おい、高利貸、利息はいくらでもいいから、夕方までに十万ループ 215
213 いたが、ふとワーリヤとニーナ夫人に眼を走らせ、ガーニヤをちらっとながめてから、いきなり その調子をがらりと変えた。 「決してそんなことはしませんわ。でも、あなたはいったいどうなさったの ? なぜそんなこと をきこうという気におなりになったの ? 」彼女は静かにしんみりと、いくぶんおどろいたような 顔つきで、答えた。 「しないだって ? しないんだない , ロゴージンはうれしさのあまり気も狂わんばかりになって 叫んだ。「しや、ほんとにしないんだね ? あいつらの話じゃ : : : ああー : いやねえ ! ナス 編ターシャ・フィリポヴナ ! あんたがガンカと婚約したって言ってるんだよ ! あんなやっと ? いや、そんなことがあってたまるもんか ! ( だから、おれの言わねえこっちゃねえ ! ) そうだ、 一おれはこいつに手をひかせるために、身ぐるみ百ループルで買ってやるんだ。いや、千ループル くれてやろうか、いや、三千ループルだっていい。そうすりや、こいつは婚礼の前の晩に花嫁を 第おれの手に残して逃げだすに決ってるんだ。おい、そうじゃねえか、ガンカの豚野郎 ! なあ、 きっと、三千ループル手にとったほうがいいんだろう ! ほら、こいつがそれだ、さあ ! おれ はきさまからその受取りをもらおうと思ってやってきたんだ。買うと言ったからにや、かならず 買ってやるんだ ! 」 「さあ、ここから出ていけ、きさまは酔っぱらってるんだ ! 」ガーニヤは赤くなったり、蒼くな ったりしながら叫んだ。 この叫び声につづいて、突然、幾人かの声が爆発するようにひびきわたった。ロゴ 1 ジンの一 団はもうずっと前からこの一瞬を待っていたのである。レ 1 ベジフは一生懸命になって何やら
「なにもあなたに根掘り葉掘りおたずねして、ガーニヤのことを何か聞きだそうというわけでは ございません」ニーナ夫人は弁明した。「この点はどうぞ誤解のないようにお願いいたします。 あれに何か自分でも言われぬようなことがあれば、わたしとしてもあれに内証でそれを知りたい などとは思いません。ところがですね、じつはさきほどガーニヤがあなたのいらしたときと、そ れからあなたがあちらへ行かれたあとで、わたしが何かあなたのことをたずねますと、『公爵は なんでもみんな 1 、存じだから、いまさらもったいぶってもだめだよ ! 』と申しましたので。これ はいったいどんな意味でございましよう ? いえ、つまり、わたしの知りたいのは、どの程度ま そのとき突然、ガーニヤと。フチ 1 ツインがはいってきたので、ニーナ夫人はすぐ口をつぐんで わき しまった。公爵は夫人のそばの椅子に腰をかけたままでいたが、ワーリヤは脇のほうへ離れてい った。ナスターシャ・フィリポヴナの写真は、ニーナ夫人のすぐ前の仕事机の上の、いちばん目 まゆ 白につく場所にのっていた。ガーニヤはそれに目をとめると眉をしかめて、いまいましそうにテー かたすみ ふづくえ プルから取りあげ、部屋の片隅にある自分の文机の上へほうりだした。 「きようなんですね、ガーニヤ ? 」ふいにニーナ夫人が問いかけた。 「何がきようなんです ? 」ガーニヤはぎくりとしてとびあがりそうになったが、いきなり公爵に くってかかってきた。「ああ、わかった。あなたはまたここへ来てまで : : : い や、ほんとになん ていう病気なんです、あなたには黙っていることができないんですか。すこしは私の身にもなっ てくださいよ、公爵さま : : : 」 「それはぼくの罪だよ、ほかならぬこのぼくがね」。フチーツインがさえぎった。 184
そのままなんですの ! それはなんでも、ライン地方の鉄道の車室の中で、あるフランス人とイ ギリス婦人とのあいだにおこったことなんですの。葉巻をひったくったのもそっくりそのままな ら、狆をほうりだしたのもそっくりそのままですし、事件の結末もあなたのお話とそっくりその ままでした。おまけに、明るい水色の服まで ! 」 フチーツィ 将軍はおそろしく赤面した。コーリヤもまた赤面して、両手で頭をかかえこんだ。。 ンはすばやく顔をそむけてしまった。ただ一人フ , ルディシチ , ンコだけが相変らず高笑いして いた。ガーニヤのことは一一一一口うまでもなかった。彼はずっと口にだせぬ耐えがたい苦痛を忍びなが 編ら、じっと立ちつくしていたのである。 「誓って申しあげますが」将軍はもぐもぐと言った。「わしにもそれと同じことがおこったので 「お父さんとべロコンスキー家の家庭教師のミセス・シ = ミットとのあいだには、たしかに不愉 第快な事件があったんです . コーリヤが叫んだ。「ぼくは覚えていますよ」 「まさか ! そっくりそのままにですか ? ョロ ッパの端と端とで細かいところまでそっくり 同じ事件がおきたんですかねえ、明るい水色の服まで同じな ? 」ナスターシャ・フィリポヴナは 情け容赦もなく追求した。「あたし、あなたに <lndépendance Belge> をお送りしますわー 「しかしですね、よく注意していただきたいのは」将軍はなおもがんばっていた。「わしの話は 二年前におこったことですよ」 「まあ、たったそれだけ ! 」 ナスターシャ・フィリ。ホヴナはヒステリックに笑いだした。 207
な調子で言葉を結んだ。 「ここにいる人は誰も、誰ひとりだってあんたのことを笑ったりしてませんよ、さあ、気を落ち つけて ! 」リザヴ = ータ夫人はまるで苦しそうな様子で言った。「あすになれば新しいお医者さ んが来ますよ、前のお医者さんは見たてちがいをしたんですよ。まあ、おすわりなさいよ、足も とがふらふらしてるじゃないの , うわごとばかり言って : ・・ : ああ、ほんとにこの子をどうした らいいだろうねえ ! 」夫人はおろおろしながら、彼をソフアにすわらせた。夫人の頬には一条の 涙がきらりと光った。 痴イボリートは、まるで打たれたように立ちどまると、片手を上げて、おずおずとその手をさし のべながら、その涙にふれた。彼は妙に子供っぽい笑い方で、につこりとほほえんだ。 「ぼくは : : : あなたが : : : 」彼はうれしそうに話しかけた。「あなたはご存じありませんね、ぼ くがどんなにあなたを : : : この子はいつもぼくにあなたのことを夢中になって話して聞かせたも 白のです、そら、そこにいるコーリヤがです : : : ぼくは、この子の夢中になるのが、好きなんです よ。ぼくはコーリヤを里落なんかさせやしませんでしたよ ! でも、ぼくはこの子だけを後継ぎ として残していくんです : : : はじめは誰もかれもみんな後継ぎにしたかったんですが、そんな人 は誰ひとりいませんでした、ひとりだっていませんでした : : : ぼくは活動家でありたいと願って いました、その権利は持っていました : : : ああ、ぼくはなんと多くのものを望んだことでしょ う ! でも、いまはもうなんにも望みません、なんにも望むことはないのです。ぼくはもうなん にも望まないと誓いをたてたのですから。ぼくなんかいなくても、ほかの人が勝手に真理を探求 するでしよう ! 実際、自然というものは皮肉なものですねえ ! なぜ自然というものは」彼は 550 ほお