「へ、海千山千の女を、というわけですか ? 」 「わたしはそんなふうに言おうとしたのじゃありません。それにしても、ほんとにあんたはそれ ほどまでにあの女の眼をくらますことができたのかえ ? 」 この間いカ ゝけには突然並々ならぬいらだたしさがひびいた。ガーニヤはじっと突ったったまま、 一分間ばかり考えこんでいたが、やがて冷笑の色を隠そうともせずに、しゃべりだした。 「お母さん、あなたはついまたひきずられて、辛抱しきれなくなりましたね。ぼくたちの話はい つでもこんなふうに火ぶたがきられて、 ッと火の手があがるんですよ。ついいましがた、もう 編うるさく質問もしないし、非難もしないっておっしやったばかりじゃありませんか。それなのに、 も、プそいつがはじまったじゃありませんか ? も一つよしましょ - つ、ほんとに、よしましよ、つ、そ 一のほうがいいんです、少なくも、お母さんにはその意志があったんですから : : : ぼくはどんなこ とがあっても絶対にお母さんを見捨てはしませんから。ほかのやつだったら、少なくともこんな 第妹のところからは逃げだすでしようね。ほら、いまもあんな眼つきでぼくをにらんでますよー いや、こんな話冫 まよしましよう ! ぼくはとてもうれしく思っていたんですから : : : でも、なん でぼくがナスターシャさんをだましてるってことがわかるんです ? ワーリヤのことなら、どう ともご勝手に、もうたくさんです。いや、もうほんとに、たくさんですよ ! 」 ガーニヤはひとことごとに興奮していき、あてもなく部屋の中を歩きまわった。こうした会話 はたちまち家族みんなの痛いところへふれるのだった。 「あたしはちゃんと言いましてよ、もしあの女がここへやってくるのなら、あたしこの家から出 ていきます、ってね。あたしだって自分の言ったことは守りますわよ」ワーリヤが言った。 187
てやるというんでしよう」 「いや、そのことならわたしも聞きましたよ、たしかに。でも、公爵、そんなことはあるはずが ないでしよう ! だって、エヴゲーニイ・ ーヴルイチが手形なんか出すはすは、絶対にないじ ゃありませんかー なにしろ、あれだけの財産があるんですから : : : もっとも、昔は軽はずみの ためにそんなことがあって、わたしが始末をしてやったことさえありますが : : : しかし、あんな に財産があるくせに、高利貸に手形を渡して気をもむなんて、とても考えられませんね。それに、 彼が、ナスターシャ・フィリポヴナからあんたなんて気やすく呼ばれたり、親しい口をききあう 編ほどの関係にあるなんて論外ですよ。つまり、問題は、おもにこの点にあるのです。彼はなんだ かちっともわけがわからないと言っていますが、わたしもそれをまったく信じています。ところ 二で、公爵、あなたにおたずねしたいのはほかでもありません、この件で何かお心当りはありませ んか ? つまり、その、何かひょんなことで、せめてあなたのところへなりとも、何か噂が伝わ 第りはしませんでしたか」 「いや、なんにも知りません。はっきり申しますが、私は、この件についてはなんの関係もあり ません」 「あっ、あなたはどうなさったんです ? まるできようは人がちがったようじゃありませんか。 いや、あなたがこんな事件の関係者だなんてどうして想像できるものですか : : : それにしても、 あなたはきようだいぶお加減が悪いようですね」 せっぷん 彼は公爵を抱いて、接吻した。 「でも《こんな》事件の関係者だなんて、いったいどんな事件なんです ? 私には《こんな〉事 563
ることは、むろん、さしつかえありません。男の人でもあまり気が進まない人は解放してもいい ですよ」 「それにしても、ぼくが嘘をつかないってことは、。 とうやって証明するんだね」ガーニヤがたず ねた。「だって、もし嘘をついたら、せつかくの思いっきも台なしになってしまうからね。それ に、嘘をつかない人なんているだろうか ? 誰だってきっと嘘をつくに決ってるさ」 「でも、この場合どんなふうに嘘をつくか、それ一つだけでも大いに好奇心をそそるじゃないか。 いや、ガーネチカ、きみはなにもむりして嘘をつかんでもいいさ。だって、きみのいちばんけが 痴らわしい行いはもうみんなに知れわたっているからね。さあ、そこで、みなさん、ひとっ考えて ごらんなさい」ふいにフ = ルディシチ = ンコはまるで何かに感動したかのように叫んだ。「われ われはいったいどんな眼つきでおたがいの顔をながめるでしようね、たとえばあす、こんな話を したあとで ! まあ、考えてもごらんなさい ! 」 白「でも、はたしてこんなことができるでしようか ? 実際に、これはまじめな話なんですか、ナ スターシャ・フィリポヴナ ? 」 トーツキイはしかつめらしくたずねた。 おおかみ 「狼がこわけりや、森にはいるな、ですわ、ナスターシャ・フィリポヴナはあざけるように答え た。 「いや、失礼ですが、フ = ルディシチ = ンコ君、いったいそんなことをして。フチジョーになるも んでしようか ? 」ますます不安にかられながら、トーツキイは言葉をつづけた。「わたしは断一言 しますが、そんなことは決してうまくいくものじゃありませんね。もう、一度失敗したことがあ るって、現にきみも言ってるじゃありませんか」
てしまうわ ! あなたはちっともこわくはないでしようけれど、あたしはあなたをだめにして、 あとで責められるのがこわいのよ ! あなたはあたしのほうこそ、あなたに名誉を与えると言っ てたけれど、そのことならトーツキイさんがよく知ってますわ。それからアグラ 1 ャさんのこと は、ガーネチカ、あんたは見そこなったわね、わかってたの ? あんな駆引きなんかしなければ、 きっとあの人はお嫁にきたのにねえ ! あなたがたはみんなそういうふうな人たちなのよ。浮気 な女だろうと身持ちのいい女だろうと、いつでも同じ気持で接しなくちゃだめなのよ ! でなけ れは、かならず迷ってしまうわ : : : まあ、将軍のあの顔つきはどうでしよう、ロをぼかんとあけ 訳注死近くにあ「た淫風 ) だ、ソドムの町だ ! 」将軍は両肩を揺すりな 「こりや、もうソドムの町 ( の がら、くりかえした。彼も同じくソフアから立ちあがった。みんなはふたたび総立ちになってい た。ナスターシャ・フィリ。ホヴナは無我夢中みたいであった。 白「まさかそんなことが ! 」公爵は両手を握りしめながら、うめくように言った。 「じゃ、こんなことにはならないと思ってたの ? あたしはひょっとすると、とっても高慢ちき かんべき な女かもわからないわ、むろん恥知らずの女よ ! さっきあたしのことを、完璧なものだってあ なたは言ったわね。完璧だなんてとんでもない、ただの空威張りのために、百万ループルと公爵 ひんみんくっ の位を踏みにじって、貧民窟へはいっていくんですからねえ ! さあ、こんなことでどうしてあ トーツキイさん、さあ、あたしほんとに、百万ループルとい なたの奥さまなんかになれるの ? うお金を窓の外へほうりだしたんですよ ! あたしがガーネチカと結婚するのを、いえ、あなた の七万五千ループルと結婚するのを、幸福と思うなんて、よくもそんなことが考えられたものね 320
んできた。彼は新来の客のなかにまじっていたイボリートと、熱心に話しこんでいた。イボリー トは耳を傾けながら、にやにや笑っていた。 公爵は客たちを席に着かせた。彼らはみんなとても若い、まだ一人前にもなっておらぬ人たち ばかりだったので、こんな連中のために、そんなことになったのも、またこれほどもったいぶつ た接待をするのも、不思議に思われるくらいであった。たとえば、この《新しい事件》のことを、 なんにも知らないエバンチン将軍は、こんなに年の若い連中を見て急に腹をたてたほどであった。 いや、もし夫人が公爵の個人的な特殊な利害について、不可解なほどの熱心さを示しておしとど 痴めなかったら、たしかに異議を申したてたにちがいない。い ずれにしても、彼はなかば好奇心か ら、なかば人のよさから、できれば助け舟をだそうと考え、なんといっても、自分は一座の権威 として役にたっことができると思って、その場に居残ったのである。しかし、あとからはいって きたイヴォルギン将軍が、遠くから会釈したとき、彼はまたもやいまいましい気持にかられて顔 白をしかめ、もうどんなことがおころうとも、絶対に口をきくまいと決心した。 四人の若い訪問客のなかに、ただひとり、もう三十歳はかりの男がいたが、それはロゴ 1 ジン けんとう 一派に属していた ( ( 退役中尉で、希望者に十五ループルで拳闘を教えている男》であった。彼が ほかの連中のお伴をしてきたのは、単に誠実な親友として、みんなの元気を鼓舞するためで、も すけだち し必要が生した場合には、助太刀をするつもりであることがわかった。残りの三人のうちで主役 を勤めていたのは、例の。ハヴリーシチ = フの息子と呼はれる男であったが、自分ではアンチー りよ・つひじ 。フ・プルドフスキーと名のっていた。彼は貧乏くさいだらしない身装りの若者で、両肘が油で鏡 あふら のように光っているフロックコートに、いちばん上までボタンをかけた脂じみたチョッキと、ど 478
ナスターシャ・フィリポヴナの訪れは、しかもほかならぬこんなときに来たということは、みん なにとって、じつに奇怪で、面倒な、思いもかけぬことであった。少なくとも、ナスターシャ・フィ リポヴナがはじめてやってきたということだけでも、そう思わせるのに十分であった。これまで 彼女はおそろしくお高くとまっていて、ガーニヤと話すときでも、彼の身内の人たちと近づきに なりたいという希望すら、あらわしたことがないほどであった。しかも最近では、そんな人たち - カーニヤも はこの世にいないもののように、まるでまったく一 = ロ葉の端にも出さなくなっていた。・ 自分にとって面倒な話が遠のくのを多少は喜んでいたものの、それでも内心では相手の高慢さを 編ちゃんと計算にいれていた。いずれにしても、彼は相手から自分の家族にたいする冷笑や虔肉こ そ期待していたが、彼女のほうからたずねてくるなどとは夢にも思っていなかった。今度の結婚 一をめぐって彼の家庭でどんなことがおこっているか、また彼の家族が彼女をどんなふうにながめ ているか、すべて彼女は聞きおよんでいることを、ガーニヤはちゃんと承知していたからである。 第彼女の訪問はいまやそれが写真を贈ったのちでもあり、また自分の名の日の祝い、つまり、彼の 運命を決めると約束をした日でもあるから、ほとんどその決定それ自体を意味するものであった。 公爵をながめていたみんながいだいた疑惑は、それほど長くはつづかなかった。ナスターシ ヤ・フィリポヴナはもう自分で客間の入口に姿をあらわして、部屋の中へはいりながら、またも や公爵を軽く突きとばしたからである。 「やっとのことではいれましたわ : : : なんだってベルを結わえつけておくんですの ? ーあわてて 駆けよったガーニヤに片手をさしのべながら、彼女はさも愉快そうに言った。「何をそんなにぼ かんとした顔をしていらっしやるの。さあ、紹介してくださいな、どうぞ : : : 」
「ニュ 1 スがあるのよ ! 」と、よく透る声がつづけた。「ク。フフ = ルの手形のことはむ配しない で。ロゴージンが三万ループルで買っちゃったから。あたしが説得したのよ。だから、三月ばか りは安心していられるわ。それに、ビスクー。フやそのほかのインチキ連中のほうも、知合いとい うことで、なんとか話がつくでしようよ ! まあ、こんなわけで万事うまくいってるわ。ごきげ んよう。じゃまたあした ! 」 幌馬車は動きだして、見る間に消えてしまった。 「まったく気ちがい女だ ! 」怒りのために真っ赤になって、不審そうにあたりを見まわしながら、 編エヴゲ 1 ニイ・ ーヴロヴィチは叫んだ。「なんの話をしたのかとんと見当もっきやしないー どんな手形のことだ ! いったいあの女は何者だ ! 」 一一リザヴェータ夫人はなおも二秒はかりじっと彼をにらんでいたが、いきなりくるりと向きなお って、自分の別荘のほうへ歩きだした。みんなもそれにつづいた。きっかり一分間後に、エヴゲ ーヴロヴィチがすっかり興奮しながら、公爵の立っているテラスへ引きかえしてきた。 「公爵、正直のところ、いまのことがなんだかあなたはご存じないのですか 2 「いいえ、なんにも知りません」公爵は答えたが、自分でも並々ならぬ病的な緊張に襲われてい 「ご存じないんですね ? 」 「存じません」 ーヴロヴィチは笑いだした。「いや、ほん 「ぼくも知らないんですよ」ふいにエヴゲーニイ・。ハ : おや、どうなさっ とに、あんな手形とかなんとかとは無関係です。いや、ほんとですともー 第 た。
「公爵さま ! 」突然、レーベジフは感きわまったように叫んだ。「ジェマリン家の人びとが皆 殺しにされた事件を、新聞でごらんになりましたか ? 」 「読みましたよ」公爵は少々おどろいたように答えた。 「ところで、じつはこの男がジェマリン家殺人事件のほんとうの犯人なんです、ほかならぬこい つが犯人なんですー 「何を言うんです ? , 公爵は言った。 「つまりその、譬喩的に申しますと、もし第二のジマリン家殺人事件がおこったら、その犯人 編だというわけですな。もしそんなものがおこるとすればですがね。こいつはそれを手ぐすね引い て待っているんですよ : : : 」 二みんなは笑いだした。ひょっとすると、レーベジェフはほんとうに公爵がいろんなことをたす ねるだろうと感づいて、それになんと答えていいやらわからないので、なんとか時間を稼ごうと だじゃれ 第して、こんな苦しまぎれの駄洒落をとばしてるのではあるまいか。公爵はふとそんな気がした。 「反抗しているんですよ ! 陰謀をたくらんでいるんですよ ! 」レーベジェフはもうどうにも我 ほうとうもの 慢ができないといったふうに叫んだ。「ねえ、いったいわたしはこんな毒舌家を、こんな放蕩者 の無頼漢を、血をわけたたったひとりの甥と、死んだ妹のアニーシャの一人息子と思わねはなら んのでしようか ! 」 「さあ、もうおよしなさいよ。酔っぱらってるんだから ! ねえ、公爵、どうでしよう、この人 は弁護士をはじめて、訴訟事件を手がけようと思いたったんですからねえ。雄弁術とやらをおっ ばじめて、家にいるときも子供たちを相手にしかつめらしい言葉づかいで話しかけてるんですか アレイリック かせ
だった。 「もしご自分でそれをご存じなら」公爵はかなりおずおずとたずねた。「なぜそんな苦しみを進 んで背負おうとなさるんです、とてもそれが七万五千ループルの値打ちがないことをご存じでい ながら」 「いや、ぼくはそのことを言ってるんじゃありません」ガーニヤはつぶやいた。「それはそうと、 ひとつおたずねしたいんですが、あなたはどうお考えです、ぼくはあなたのご意見が知りたいの です、ねえ、この《苦しみ》は七万五千ループルの値打ちがあるでしようか、それとも、ないで 痴しよ、つか 2 ・」 「私の考えでは、ありませんねえ」 「なるほど、そうだろうと思っていました。こんな結婚をすることも、そんなに恥ずかしいこと ですか ? 」 白「じつに恥ずかしいことですとも」 「それじゃ、はっきり申しあげておきますが、ぼくは結婚します、いまはもうどんなことがあっ ても。ついさっきまではまだ決心がぐらついていましたが、いまはもうそんなことは断じてあり ません ! いや、もう何も言わないでください ! あなたの言おうとしていらっしやることはち ゃんと知ってますから」 「いえ、私の言いたいのは、あなたの考えていらっしやることとはちがいますよ。私はあなたの 並々ならぬ自信にびつくりしているのです : : : 」 「何にたいして ? どんな自信ですか ? 226
「なんだって終りまで言わないんだい ? 」ロゴージンはにやりと笑いながらつけくわえた。「な んなら、このおれがあんたの腹の中の考えを言ってやろうか。《ああ、いまとなってしまっては、 あの女をこの男といっしょにするわけにいかん。どうしてそんなことをあの女にさせられるもの か ! 》なあに、あんたが何を考えてるかぐらい、ちゃんとわかってるのさ : : : 」 、。ハルフョン、はっきり一一一一口っておくけれど、私はそ 「私はそんなことのために来たんじゃないよ んなことを考えちゃいなかったよ」 「そりや、きっとそんなことのために来たんじゃなかったろう、そんなことは考えてもみなかっ へ ! しかし、もうた 編たろうよ。でも、たったいま、たしかにそれをしにやってきたのさ。へ、 くさんだよ ! なんだってあんたはそんなにびつくりするんだい。まさかほんとにそれに気づか 二ないわけじゃないだろう ? まったく人さわがせじゃねえか ! 」 「それはみんな嫉妬だよ 、パルフョン、みんな病気のせいだよ、きみがやたらに誇張して考えて 第るからだよ : : : 」公爵はすっかり興奮しながらつぶやいた。「きみはどうしたんだ ? 」 「やめろよ」ロゴージンは言って、公爵が本のそばにあったのを取りあげて持っていたナイフを すばやく取りあげて、もとの場所へ置いた。 「私にはさっきペテルプルグにはいってきたときから、なんだかそんな気がしたんだよ : : : 」公 爵は言葉をつづけた。「だから私はここへやってくるのが気が進まなかったんだ。私はこの土地 であったことを何もかもすっかり忘れてしまいたいんだよ。胸の中からえぐりだしてしまいたか ったんだよ。じゃ、さようなら : : : おい、きみ、どうしたんだい ! 」 公爵は放心したような様子でこんなことを言いながら、またもや例のナイフを取りあげようと 403