編 467 しんし い真摯な感情と、あのような見るからに明らかな毒々しい嘲笑とをいっしょにすることができた のだろうか、という疑問である。そこに嘲笑の要素があったことは彼も疑わなかった。彼にはそ れがはっきりわかっていたばかりでなく、そう考える理由を持っていた。それはほかでもない 訳注ナスターシ・フ・リポ ) にあ アグラーヤは朗読にさいして、 <t 、、の文字を、・中・ 6 ( ヴ えて替えたからである。それが言いちがいでもなく、また彼の聞きちがいでもなかったことは、 疑う余地もなかった ( それが事実であったことは後になって証明された ) 。いずれにしても、ア グラーヤの行為は もちろん、冗談ではあるが、ただあまりにも激しい軽率な冗談ではあるが あらかじめもくろんだものにちがいなかった。『あわれな騎士』については、もう一月も前 からみんなが話題にして ( そして《笑って》 ) いたのである。ただ、あとになって公爵が想いお 二こしたところによると、あの頭文字をアグラーヤはすこしも冗談らしい様子を見せず、またばか にした調子もなく、そこに秘められた意味をはっきり浮きださせるためにわざとその文字に力を 入れるというでもなく、ただ前と変らぬまじめさと無邪気な罪のない自然な態度で発音したとい うことである。したがって、これらの文字がほんとうに詩のなかにあったのではないか、まった く書物にそのとおり印刷されているのではないかと思われるほどであった。ただ何かしら重苦し い不愉快なものが、公爵の胸をちくりと刺したように思われた。リザヴータ夫人は、もちろん 何もわからず、文字の変ったことも、そのあてこすりにも気がっかなかった。イワン・フヨード ロヴィチ将軍はただ詩を朗読されたということ以外には、なんにもわからなかった。が、それ以 外の人びとの多くは事の真相を解して、アグラーヤの大胆なやり方と企みにびつくりしたが、み ーヴロヴィチだけ んな黙りこんで表情に出すまいとっとめていた。ただひとりエヴゲーニイ・。ハ ちょうしよう
アレクサンドラとアグラーヤは、仲よく小さなソフアにすわって、両手を組んで話を聞く姿勢 をとった。公爵は、四方から一種特別な注意が自分のほうにむけられているのを感じた。 「あんなふうに命令されるような調子だったら、あたしだったらなんにも話しやしないわーアグ ラーヤが口をはさんだ。 「どうして ? 何か変なことがあるの ? あのかたにお話しできないはずはありませんよ ! 舌 がおありになるじゃないか。わたしは公爵がどれくらいお話がおできになるか知りたいんですか ら。さあ、何か話して聞かせてください。スイスはお気に召しまして、第一印象はいかがでした 編の ? さあ、みんな見ててごらん、公爵はいますぐおはじめになるから、とてもごりつばにお話 をしてくださるから」 「印象は強烈なものでしたよ : : : 」公爵は話しはじめた。 「それ、ごらん」気短かなリザヴータ夫人は、娘たちのほうを向いて、すかさず口をはさんだ。 第「おはじめになったしゃないのー 「まあ、ママったら、お話の邪魔になるじゃありませんか」アレクサンドラがさえぎった。それ から、アグラーヤにむかって、「ひょっとすると、この公爵はまるつきりおばかさんじゃなくっ て、かえってとんでもない悪者かもしれなくてよ」とささやいた。 「きっと、そうね、あたし、さっきからそう思ってたのーアグラーヤは答えた。「あんなふりを するなんて、この人もずいぶん卑劣ね。それにしても、 ったい何をしようというんでしようね、 何かあてにしてることでもあるのかしら ? 」 「いや、最初の印象は、しつに強烈なものでした」公爵はくりかえした。「私はロシアを出てド
グラーヤの運命は決して単なる運命ではなく、実現可能な、この地上の楽園の理想として、最も すばらしいお手本として、姉妹たちのあいだで考えられていたのである。アグラーヤの未来の夫 は、富についてはもちろん、ありとあらゆる完全と成功をそなえている者でなくてはならなかっ た。二人の姉は、ことさら余計な口出しはしなかったけれど、もし必要とあれは、アグラーヤの けた ために自分の身を犠牲にしてもいい 、と決心していた。アグラーヤの持参金には桁はずれに莫大 な額が割りあてられていた。両親もこの二人の姉たちの気持を知っていたので、トーツキイから 相談を求められたとき、二人のうちのどちらかは両親の希望をむなしくすることはあるまいと、 編ほとんど少しも疑わなかった。ましてトーツキイは持参金のことであれこれ言うはずがなかった からなおさらであった。ほかならぬトーツキイのこの結婚申込みは、将軍自身も彼一流の処世観 によって、きわめて高く評価した。ところが、トーツキイ自身はある特別な事情のために、いま のところ一歩一歩きわめて用心ぶかく探りを入れているので、将軍夫妻もまだとてもかけはなれ 第た想像のような形でしか、娘たちに相談できなかった。これにたいする娘たちの返事も、やはり はくぜん 漠然としたものではあったが、長女のアレクサンドラが、おそらくいやとは言わないだろうとい う、少なくとも親たちを安心させるだけの意向をもらした。彼女はなかなかしつかりした性格の 娘であったが、気だてがよく、分別があって、しかも並みはずれて素直であったから、トーツキ イのところへも喜んで嫁ぎそうであった。いや、いったん約束したからにはりつばに約束を守る にちがいなかった。彼女はあまり派手なことはきらいで、厄介なことを持ちだしたり、急に気が 変ったりする心配もなく、むしろ与えられた生活を楽しく穏やかなものにすることができた。顔 かたちもとくに印象的とは一言えなかったが、きわめて美しかった。ト 1 ッキイにとってはこれ以 とっ
のいいようにするさ。まず第一に、同姓なんだし、ことによったら、親類にあたるかもしれんの だし、第二に、どこへ落ちついたものやら途方にくれていたんでね。なにしろ、同族という点だ けでも、おまえにとって多少は興味があるんじゃないかと、考えたんでねー 「そうですとも、ママ、ねえ、もし遠慮のいらないかたでしたら。それに、長旅のあとで何か召 しあがりたいんでしよう。どこに落ちついていいかわからないなんてかたには、ご馳走してあげ なければいけませんわ」長女のアレクサンドラが言った。 「おまけに、まったくの坊やなんだからな、あれならいっしょに目隠しの鬼ごっこ遊びをしても 編いいくらいだよ」 「目隠しの鬼ごっこ遊びですって ? まあ、どんなふうに ? 一「ねえ、ママ、お顧いですから、そんなもったいぶったふうをなさるのはよしてちょうだい」ア グラーヤがいまいましそうにさえぎった。 第次女のアデライーダは笑い上戸だったので、もうたまりかねて、笑いだしてしまった。 そのかたをお呼びになって。ママはい いって言ってらっしやるわよ」アグラーヤが決め てしまった。将軍は呼鈴を鳴らして、公爵を呼んでくるように命じた。 「でも、お断わりしておきますけど、そのかたが食卓についたとき、忘れないで首にナ。フキンを 結わえつけさせるんですよ」夫人はひとりで決めてしまった。「それから、フヨードルかて なければ、マーヴルでもいいから呼んできて、食事のときにはそのうしろに立って世話をやかせ ましよう。それはそうと、発作がおこったとき、おとなしくしてますかね。あばれるようなこと はないでしようね ? 」
しいんですよ、まるで瓜二つみたいですものね。ただあなたは男で、わたしは女でスイスへ行っ たことがない、ちがっているのはそれだけじゃありませんか」 かんだか 「ママ、そうさきを急がないでくださいな」アグラーヤが甲高い声で言った。「公爵はちゃんと 持別なお考えがあったからこそあんなことをおっしやったので、いいかげんなおしゃべりではな いって、ご自分でもお断わりになっているんですからー 「そうよ、そうよ」ほかの二人も笑った。 「まあ、そんなにからかわないでちょうだい。いい子だから。ひょっとすると、公爵はあなたが 痴た三人をあわせたよりも、もっとお利ロなかたかもしれないからね。いまにわかるでしようがね。 それにしても、公爵、あなたはなぜアグラーヤのことはなんともおっしやらなかったんですの ? アグラーヤも待ってますし、わたしも待ってるんですのに 「いまのところはまだ私にはなんとも申しあげられません。あとで申しあげましよう」 白「なぜですの ? とても目だつでしよう ? 」 「ええ、それはもう。とても目だちます。アグラーヤさん、あなたはまれにみる美人ですね。な がめているのが恐ろしいほど美しいかたですー 「まあ、それだけですの ? じゃ、性質のほうは ? 」夫人はなおもしつこくたずねた。 「美しさを批評するのはむずかしいことです。私にはまだその用意ができていないのです。美し なそ さというのは謎ですからね」 「とおっしゃいますと、あなたはアグラーヤに謎をおかけになりましたのね」アデライーダが一一 = ロ った。「アグラ 1 ヤ、謎を解いてごらんなさい。でも、このひと美人でしよう、公爵、ねえ、美
「ねえ、公爵」彼はまたしゃべりだした。「いま夫人たちはわたしのことを : : : あるまったく奇 怪な : : : また滑稽な事情から : : : しかもわたしになんの罪もないのに : : いや、もうこんなこと 。余計な話ですがーーー夫人たちはどうやらわたしにたいして、いくぶん腹をたてているらしいん ですよ。ですから、当分のあいだ、わたしは呼ばれないかぎり奥へ行きたくないのです。ところ が、わたしはいまなんとしてもアグラーヤさんとお話ししなければならないことがあるんです。 で、万一のことを考えて、一筆手紙にしたためておきました ( 彼の手の中には小さく折り畳んだ 紙片がはいっていた ) 。ところが、その、どうやってお渡ししたものかわからないでいるのです。 痴ねえ、公爵、これをひとつアグラーヤさんにいますぐ手渡してくれませんか。ただアグラーヤさ ん一人だけにですよ、つまり、その、誰にも見つからないように、、、・ してすね ? いや、これは なにも秘密なんてものじゃありません。そんなことは決してありません : : : でも : : : やっていた だけますか ? 」 白「そんなことをするのはあまり気がすすみませんねえ」公爵は答えた。 「でも、公爵、これはわたしにとってまったくのつびきならない用事なんですから ! 」ガーニヤ は嘆願しはじめた。「アグラーヤさんもきっと返事をくれると思います : : : お願いです、わたし だってただもう困りぬいて、まったく困りぬいたうえでのお頼みなんですから : : : ほかには誰ひ とりことづける人はいないんですから : : : これはとても重大なことなんです : : : わたしにとって はそりや重大なことなんですから : ガーニヤは、もし公爵が承知してくれなかったらどうしようとびくびくしながら、おずおずと まなざ 哀願するような眼差しで、相手の顔をのぞきこんだ。 146
103 もあなたがお見えになる前にすっかり腹をたてて、何が何やらさつばりわからな、 しいや、わか るはずもないといったふりをしていたんですの。よくそんなことがあるんですが、まるで赤ん坊 みたいですのよ。それでアグラーヤがお説教してくれましたの。アグラーヤ、ありがとうよ。で も、そんなことはみんなばかげたことですわね。わたしはこれでもまだ見かけほどには、娘たち の考えるほどにはばかじやございません。気の強いところもありますし、またそれほど恥ずかし がりやでもありませんからね。でも、わたしは何か含むところがあって、こんなこと言うのじゃ ありません。アグラーヤ、こちらへ来て、わたしにキスしておくれ、ああ、もうたくさん、そん くちびる せつぶん 編なに井ったれるのは」アグラーヤが情をこめて唇と手に接吻したとき、夫人はこう注意した。「さ あ、公爵、そのもっと先をつづけてくださいまし。ひょっとしたら、驢馬よりおもしろいお話を 一思いだされるかもしれませんわ」 「でも、やつばりあたくしにはわかりませんわ、なぜいきなりそんなふうにお話ができるのか」 第またもやアデライーダが口をはさんだ。「あたくしだったら、とてもできませんわ。 「でも、公爵にはできるんですよ。なにしろ、公爵は並みはずれて賢いおかたなんだから。まあ、 とにかく、あんたなんかよりは十倍も賢いおかたなんだからね。いえ、ひょっとしたら、十二倍 もね。あとになって、あんたもこのことに気がついてくれると、 しいけれども。さあ、公爵、どう かあの娘たちにその証拠を見せてやってくださいな。いまのつづきをなさって。でも驢馬のお話 はもうほんとにやめてもようございましよう ? じゃ、驢馬のほかにあちらでは何をごらんにな りまして ? 」 「ですけど、驢馬のお話も気がきいておりましたわ」アレクサンドラが言葉をはさんだ。「公爵
がてん 「どんなところがいし。 、まうへ変ったの ? 」どうも合点がいかぬといったいらいらした調子で、び つくりしながらリザヴェータ夫人がたずねた。「どこからそんなことを思いついたの ? よくな ったところなんかちっともありやしませんよ。 いったいどこがあんたにはよく見えるの ? 」 「『あわれな騎士』よりりつばなものなんてほかにありませんよ ! , ずっとリザヴェータ夫人の 椅子のそばに立っていたコーリヤが、急に大声で言った。 「私もやはりそう思いますねー取公爵は言って、笑いだした。 「あたくしもまったくそれと同意見ですわーアデライーダが勝ち誇ったように叫んだ。 痴「『あわれな騎士』ってなんのこと ? 将軍夫人はけげんそうに、またいまいましそうに、そう 言う人たちを見まわしたが、アグラーヤがばっと顔を赤くしたのを見つけると、急にかっとなっ てつけ足した。「どうせ、また何かくだらないことでしようよ ! 『あわれな騎士』って、い / い何者です ? 」 白「このママのお気に入りのおちびさんが他人の言葉をはきちがえるのは、なにもいまにはじまっ ごうまん たことじゃないじゃありませんか ! 」アグラーヤが腹だたしげに傲慢な調子で答えた。 アグラーヤの腹だちまぎれな動作のなかには ( 彼女はしよっちゅう腹をたてた ) 、そのたびご とに、そのまじめなかたくなな態度にもかかわらず、何か子供らしい、我慢づよくない / じみた、妙に隠しそこなったような、とらえがたいあるものがのぞいて出るので、ときにはそれ しやく を見ている者は、笑いださずにいられぬほどであった。それがまたアグラーヤには癪でたまらな かった。何がそんなにおかしいのか、《どうしてあんなふうに笑ったりできるのか》と彼女には 合点がいかなかった。いまも二人の姉とⅢ公爵が笑いだした。それに、ムイシ = キン公爵までが、」 456 シチャー
ラーヤがたずねた。 「まったくそのとおりでございます : : : もう十五年もやっとります・ : ・ : 」 うわさ 「あんたの噂を聞きましたわ。いっかは新聞にものりましたわね ? 」 あとがま 「いや、あれはほかの人のことでございます。その人はもう亡くなりまして、わたしがその後釜 になったようなわけでして」レーベジェフはうれしさにわれを忘れて言った。 「じゃ、お願いですから、いっか近いうちに、あたしにも講読してくださいな、ご近所のよしみ でね。あたし、『黙示録』がちっともわかりませんので」 編「さしでがましいようですが、アグラーヤさん、そんなことはみんなこの男のでたらめですよ。 いや、ほんとですとも」いきなりイヴォルギン将軍がロ早に言葉をはさんだ。彼はなんとかして 二そばにすわっているアグラーヤと話をはじめようと、まるで針のむしろにすわったようにいらい らしながら、待ちかまえていたのだった。「もちろん、避暑地にはそれなりの権利もあれば、満 せんえっ 第足もあります。しかし、こんな僣越きわまる男を『黙示録』講読のためにお招きになるなどとい うのは、一つの思いっきでしよう、いや、むしろその知的な点において、すばらしい思いっきと 言っていいかもしれません。しかし、わたしは : : : おや、あなたはわたしをびつくりして見てお いでですな ? 自己紹介いたしますが、わたしはイヴォルギン将軍です。アグラーヤ・イワ 1 ノ ヴナ、わたしはこの腕に抱いてあなたをお守をしたものでしたよ」 「たいへんうれしゅうございます。あたくしはワルワーラさんともニ 1 ナ夫人とも、お親しくし ていただいております」笑いだすまいと一生懸命にこらえながら、アグラーヤは小声で言った。 リザヴ = ータ夫人はかっと腹をたてた。何かしら前々から胸の中に積りつもっていたものが、 451
Ⅲ念ですわ。あたくし、ひとっ伺いたいことがあるんですけど」 「私は死刑を見たことがありますよ」公爵が答えた。 「まあ、ごらんになったことがあるんですの ? 」アグラーヤは叫んだ。「どうしてあたくしには 察しがっかなかったのでしよう ? これで何もかもそろったことになりますわね。でも、それを ごらんになったのなら、いつも幸福に暮しできたなんておっしゃれないんじゃないかしら ? ね え、あたくしの言うことちがっていまして ? 「あなたのいらした村で死刑なんかするんですの ? 」アデライーダがたずねた。 痴「私はリョンで見たのです。シュネイデル先生といっしょにそこへ行きましたので、先生がいっ しょに連れていってくださったんです。着くといきなり、死刑にぶつかったんです」 「いかがでした、とてもお気に召しまして ? いろいろと教訓になる有益なことがございました でしよう ? , アグラーヤがたずねた。 白「ちっとも気に入りませんでしたよ。おまけに、そのあと病気になったくらいです。でも、白状 しますと、まるで釘づけにでもなったみたいに、じっと見つめたまま、どうしても眼を離すこと ができませんでした」 「あたくしだってやつばり眼を離すことはできないでしようね」アグラーヤが言った。 「あちらでは女の人が見物に行くのをひどくきらっておりまして、見物に来た女の人のことはあ とで新聞にまで書きたてていますよ」 「ということは、女の見るべきものでないとわかると、それはつまり男の見るべきものだって一一一一口 いたいんですのね ( いえ、そう言って、それを肯定しようというわけでしよう ) 、けっこうな論理