きっとそうに違いありません。早い話が、二度目に訪ねて来た時に、もう承知の返事を受け取って から、よもやまの話の間にその人の申しますには、まだドウーニヤを知らない前から、潔白なとい う事は必要たけれど、しかし持参金などもっていない、そして一度は必す苦しい境涯をくぐった事 のある娘を、めとりたいと思っていたとの事です。それはつまり、ご当人の説明するところによる と、夫が女房に少しも恩を着る事がなく、妻の方たけが夫を恩人と思うようにしたいからだ、とこ ういうのです。断わっておきますが、その人はわたしが書いているよりか、もう少し柔かい優しい 言い回しを使ったのです。わたしは本当の言い方を忘れてしまって、たた意味だけを覚えているの ですから。それに、けっして前から用意していったのではなく、つい話に実がはいって、うつかり 口をすべらしたに違いありません。だから、あとで言い直したり、ことばを濁そうとしたくらいで す。けれどそれでもわたしには、やはりことばが過ぎるような気がしたので、あとでドウーニヤに そういったら、ドウーニヤはかえっていまいましそうな顔をして『ただ言っただけなら本当にそう したのと違います』と申しました。それはむろんその通りです。いよいよの返事をする前に、ドウ ーネチカは夜っぴて眠りませんでした。あの娘はわたしがもう寝ているものと思って、床から起き 出し、夜通し部屋をあちこち歩き回っていましたが、しまいには聖像の前に膝をつき、長いこと執 心に祈っていました。そしてあくる朝、わたしに向かって心を決めたと申しました。 。ヒ ートル・ペ トローヴィッチがペテルブルグへ立っ準備をしている事は、もう先ほど書きまし たが、その人はそちらにいろいろ大切な用向きがあって、ペテルブルグに弁護士の事務所を開こう という考えなのです。もう長らくいろんな訴訟事件を扱っていられ、三、四日前もある大きな訴訟 に勝ったばかりです。ペテルプルグへぜひ出かけなければならぬというのも、大審院に大切な用が
いなけりや、なんの気もありやしない、何もかも蜃気楼さ ! 「ほら、でたらめだ ! 服はその前にこしらえたんだよ。新調の服ができたについて、君らをか ついでやろうという考えが起こったのさ」 「実際あなたは、そんなに白っぱくれる名人なんですか ? 」とラスコ 1 リ = コフは無造作に尋ね . 「あなたはそうじゃないと思ったんですか ? 待ってらっしゃい、今にあなたも一杯くわしてあ いや、なんですよ、あなたにすっかり本当の事を言ってしまいまし げますからーーーは、は、はー 題こ関連して、今ふと思い出したんで よう。犯罪とか、環境とか、女の子とか、すべてそういうⅢ冫 いや、今までもずっと興味を持っていたんですが、あなたの書かれたちょっとした論文な んです。犯罪に就いて : : : とかなんとかいいましたね、題はよく記憶しませんが、二月ばかり前に べリオジーチェスカヤ・レーチ 『定期新聞』で拝見の栄を得ました」 「僕の論文 ? 『定期新聞』で ? 、とラス「ーリ = 「フは驚いて問い返した。「僕はじ「さい半年 ばかり前、大学をよす時に、ある本のことで論文を一つ書きましたが、そのとき君はそれを『週 ジェーリナヤ・レーチ 巻刊新聞』に持 0 て行ったんで、『定期新聞』じゃありません、 べリオジーチェスカヤ・レーチ 上 「ところが、『定期新聞』にのったんですよー リナヤ・レーチ エジェネジェー 新 「ああ、全く『週刊新聞』が廃刊したので、そのとき掲載されなかったんです : : : 」 罪 「それはそうに違いありませんが、『週刊新聞』は廃刊すると同時に、『定期新聞』と合併したので、 あなたの論文も二月前に『定期新聞』に、のったわけです。いったいご存じなかったんですか ? 」 ラスコーリニコフは事実少しも知らなかった。
かもしれない。それとも、何か思わくがあるのかもわからん : : : あの男はなかなか聰明らしいから : そこには、 ね : : : もしかすると、知ってるふりをして、僕をおどかそうとしたのかもしれない よしてくれ ! 」 : だが、こんなことを説明するのは汚らわしい 君、またそれ相当の心理があるよ : 「全く侮辱だ、侮辱だ ! 君の気持はよくわかる ! しかし : : : 僕らはもう今はっきり言い出し 、ことだ、僕は喜んでるよ ! ) 、だから今こ たんだから ( とうとうはっきり言い出したのは、実にいし そ僕も率直にぶちまけていうが、僕はすっと前から、やつらがそんな考えをいだいているのに、・気 がついてたんだ、ずっとこの間じゅうからね。もちろん、ほんのあるかなしの疑念で、かすかにう いったいなぜだろう ? ど ごめいている程度なんだがね。しかし、うごめいている程度にもせよ、 どこに、どこにそんな根拠がひそんでるんだろ うしてそんな失敬な考えを起こしたんだろう ! いったいなん う ? それで僕がどんなに憤慨したか、君にはとても想像ができないくらいだよー てえことだ ? 貧乏とヒボコンデリイに悩み抜いてる不遇な大学生が、熱に浮かされ通しの恐ろし い大病になる前日、ことによると、もう病気が始まっていたかもしれない時にさ、 ( いい力い ! ) こ の疑り深くって自尊心の強い、おのれの真価をわきまえている男が、もう半年も前から自分の部屋 巻に閉じ籠って、誰にも会わずにいたあげく、ぼろを身につけ底の破れた靴をはいてさ、どこの馬の 上 骨ともしれない警官連の前に立ち、彼らの毎辱をじっと辛抱している。そこへ思いがけぬ借金 罰 ーロフに渡った期限の切れた手形を、鼻先へ突きつけられる。それに、腐ったペンキ と 七等官チエバ 罪 のにおい、摂氏三十度の暑さ、しめ切ったむんむんする空気、人混み、前の日にたすねたばかりの こうしたものがし 、つときに、空腹の体へきたんだからね ! これがどうして 人間が殺された話 ところがこれを、これをいっさいの根拠にしようてんだからな 卒倒しないでいられるもんか !
「あなたはカベルナウモフのところにお住まいですかい ! 」と彼はソーニヤを見て笑顔で言った。 「昨日わたしはあの男に、チョッキを直してもらいましたよ。わたしはついお隣のマダム・レスリ ゲルトル 1 ダ・カールロヴナのところに下宿してるんですよ。妙な事があればあるもので すなあ ! 」 ソーニヤはじっと注意深く彼を見つめた。 「お隣同士ですな」と彼は何かかくべっ愉快らしく話し続けた。「わたしはペテルプルグへ来て からやっと三日めなんです。では、またお目にかかりましよう ソーニヤは答えなかった。ドアが開くと、彼女は自分の部屋へすべり込んだ。なぜか恥かしくな り、なんとなくおじ気づいたような風情だった : ラスーミヒンは、十ルフィーリイのところへ案内する道みち、かくべっ興奮したような気分にな っていた。 僕もうれしい 「いや、君、じつによかったよ」と彼は幾度もくりかえした。「僕もうれしい 『いったい何がそんなにうれしいんだ ? 』とラスコ 1 リニコフは腹の中で考えた。 巻 上 「だって僕は、君もあの婆さんのところに質を置いてたなんて、まるで知らなかったよ。で : しで : : : それはよほど前かね ? つまり、もうだいぶ前にあすこへ行ったのかね ? 」 『ちょっ、なんて頭の単純な馬鹿だ ! 』 とラスコーリニコフは考えながら立ち止まった。「そう、殺された三日ばか 「いつって ? ・ り前に行ったかなあ。しかし、僕はいま代物を受け出しに行ってるんじゃないよーと彼は妙にせき
の影を加えたにすぎない。光りはすぐに消えうせたが、苦悶はそのまま残った。治療を始めたばか りの医者に特有の若人らしい熱心さで、自分の患者を観察し、研究していたゾシーモフは、肉親の 来訪に接した喜びの代わりに、このさき一、二時間、のがれられない拷問を忍・ほうとする、人しれ ぬ重苦しい覚悟の色が彼の顔に浮かんだの見て、驚きの念に打たれたのである。それからしばらく して、続いて起った会話のほとんど一語一語が、患者の隠している何かの傷口に触れて、それをか き回すような風に見えるのも認めたけれど、同時に、昨日はちょっとした言葉の端にも、ほとんど 気ちがいじみるほど興奮したあの偏執狂が、今日はよく自己を制御して自分の感情を隠す手ぎわに も、かなり一驚をきっしたのである。 「ええ、僕はもう自分でも、ほとんど健康体になったのがわかりますよー愛想よく母親と妹を接 吻しながら、ラスコーリニコフは言った。この一言で、プリへーリヤの顔は見る間に輝き渡った。 ーミヒンの方へ向いて、親しげに 「しかも、これは昨日の流儀で言ってるんじゃないよー彼はラズ その手を握りながら、こう言い足した。 「いや、僕も今日はこの人を見て、面くらったくらいですよ、もう十分ばかりの間に、患者との 「この調子 舌こ継ぎ穂を失っていたゾシーモフは、三人がはいって来たのに大喜びで言い出した。 上 で行け、は、三、四日後には、それこそすっかりもともと通りになりますよ。つまり一月前、し 罰 月 : : : あるいは三月前と言った方がいいかな ? だって、この病気はだいぶ前からきざして、潜伏 罪 期が長かったんですからね : ・ : ・え、どうです ? 今となったら白状なさい、もしかしたら、君自身 にも責任があるんしゃないですか ? ーまだ何かで患者をいら立たせてはと心配するように、彼は用 心深い微笑を浮かべて、言い足した。 ぶん
「覚えてますよ、よく覚えてますよ。あなたのみえたことは」と老婆はやはり彼の顔から、例の 物問いたげな目を離さないで、はっきりと言った。 「そこでその : : : また同じような用でね : ラスコ 1 リニコフは老婆の疑り深さに驚き、いさ さかうろたえ気味でことばを続けた。 『しかし、この婆あはいつもこんな風なのに、俺はこの前気がっかなか 0 たのかもしれない』と 彼は不快な感じをいたきながら心に思った。 老婆は何か考え込んたように、ちょ「と黙 0 ていたが、やがて脇の方〈身をひくと、中〈通する ドアを指さして、客を通らせながらこう言った。 「まあおはいんなさい」 青年の通「て行「たあまり大きくない部屋は、黄色い壁紙をはりつめて、窓に鋼かのぜにあお いを載せ、紗のカーテンをかけてあ「たが、おりしもタ日を受けて、か「と明るく照らし出されて いた。『その時もきっとこんな風に、日がさしこむに違いない : 』どうしたわけか、思いがけ なくこういう考えがラス「ーリ = 「フの頭にひらめいた。彼はすばしこい視線を部屋の中にあるい 0 さいのものに走らせて、できるだけ家の様子を研究し、記憶しようと努めた。しかし部屋の中に 上は、何もとりたてていうほどのものはなかった。 罰家具類はひどく古びた黄色い木製品で、ぐ「と曲「たもたれのある大きな長椅子と、その前に置 罪かれた楕円形のテーブルと、窓と窓との間の壁に据えられた鏡つきの化粧台と、壁ぎわの椅子数脚 と、小鳥を持「ているドイツ娘を描いた黄色い額入りの安「ぼい絵ーーこれが全部であ「た。片隅 に冫灯明が一つ大きからぬ聖像の前で燃えている。全体が中々こざ「。はりとしてい、家具も、床も、
160 また最後にこういうことが一一『ロえるーーー大学生のベストリヤコフは、二人の庭 たくらみ過ぎるよー 番と町人の女房に、門をはいって行くところを見られたんだぜ。この男は三人の友たちと一緒に来 て、門の所で別れたんたが、また友だちのいる前で、庭番に住まいを尋ねてたということだ。ねえ、 もしそんな計画をいだいて来たものなら、まさか住まいを尋ねもしなかろうじゃないか ? またコ ッホの方だが、これは婆さんの所へ行く前に、階下の銀細工屋に三十分もすわり込んで、かっきり 八時十五分前に、そこから婆さんの所へ上って行ったんだ。そこで考えてみたまえ : : : 」 「しかし、失礼ですが、どうして彼らの言うことにあんな矛盾が生じたんでしよう ? はしめは 自分たちがたたいたとき、戸はしまっていた、と自分で断言してるでしよう。それが、わすか三分 たって、庭番と一緒に来た時には、ドアがあいていたなんてフ 「そこのところにいわくがあるのさ。犯人はきっと中にいて、栓をさしていたんだ。だから、も しコッホがばかなまねさえしなけりやー、ーー自分で庭番を呼びに行ったりしなかったら、きっとその 場でつかまえてしまったに相違ない。つまりやつはそのわずかな隙に、うまく階段をおりて、どう かして皆の儚をすりぬけたのた。コッホのやっ両手で十字を切りながら、『もしわたしがそこに残っ ていたら、奴はいきなり飛び出して来て、きっとわたしを斧で殺してしまったに違いありません』 と言ってやがる。ロシア式の感謝祈疇でもやりかねない勢いたぜ , 、ーーは、は : : : 」 「だが、誰も犯人を見たものはないじゃありませんか ? 」 はこぶわ 「どうして見られるもんですかね ? あの家はノアの方舟ですからな」自席から耳を傾けていた 事務官が、こうロをさしはさんだ。 めいりよう 「事件は明瞭た、すこぶる明瞭だ ! 」とニコジーム・フォミッチは熱心にくり返した。 おの
きなりこうそうな目で、舟親のあとを追いながら、なんでもわかっているような顔をしようと、一 いちんち 生懸命に苦ししていた。、、、、 カちょうどこの時ポーレンカは、一日気分のすぐれなかった弟を寝かせ つけようと、着物を脱がせているところだった。今夜のうちに洗っておかねばならぬシャツを、取 つまさき り替えてくれるのを待っ間、子供はしかつめらしい顔をして、をつけて爪先だけ開き、びったり りようあし そろえた両脚を前へ突き出しながら、黙って身動きもせずに、しゃんと椅子の上にすわっていた。 くもびる 彼は唇をとがらせ目をみはったまま、すべて一般にりこうな子供が、寝に行く前に着物を脱がせて もらう時、きまってする事になっている型どおり寸分たがわす、身動きもせすに母と姉の話を聞い ていた。その下の女の子は、それこそ全くの・ほろ・ほろ着物を着て、衝立の儚に立ちながら、自分の 番を待っていた。階段へ向かった戸はあけ放しになっていた。それは奥の部屋部屋から煙草の煙の 波が絶えず流れ込んで、不幸な肺病やみの女をいつまでも悩ましげに咳き人らせるので、それを少 しでも防ぐためたった。カチェリ ーナはこの一週間に、、 しっそうやせが目立ってきたようで、頬の 赤いしみは、前よりすっとあざやかに燃えていた。 「お前はとてもほんとうにできないだろう、考えてみることもできないたろう。ねえ、ポーレン 力」と彼女は部屋を歩きながら言った。「おじいさまのおうちにいるころ、わたしたちはどんなに面 白く華やかに暮していたか。それを、あの酔っ払いがわたしを破減さしてしまった上に、お前たち まで破減させようとしているんだよ ! おしいさまは五等官たから、軍人なら大佐で、まあいわば 知事様みたいたったんだよ。もうほんの一息で知事様というところだったのよ。だから、みんなが おじいさまのところへ来ては、『わたしどもはあなたを知事さま同様に思っているのでございます、 イヴァン・ミハイルイチ』なんていったものさ。わたしがね : : : ごほん ! わたしが : ・。こほん、 ついたて
ゅうふるわしてるんだからねー 「ナスターシャ・ : どうしてかみさんはぶたれたんだい ? 」 彼女は穴のあくほど彼を見つめた。 「誰がかみさんをぶったの ? 」 「今しがた : : : 三十分ばかり前に、イリャー へトローヴィッチが、警察の副署長が、階段の上 で : : : なぜあの男があんなにおかみを打ちのめしたんたいー そして : : : なんのために来たんだ まゆ ナスターシャは黙って眉をひそめながら、じろじろ彼を見回した、いつまでも見つめているので あった。彼はこの長い凝視のために、不愉快でたまらなくなった、それどころか、恐ろしくさえな 「ナスターシャ、なんたって黙ってるんだい ? 、とうとう彼は弱々しい声で、おずおすと言った。 「それは血だよ」やがて彼女は小さな声で、ひとり言のように答えた。 「血 ! : ・なんの血だー : 」彼はさっと青くなって、壁の方へじりしりさがりながら、こうつ 巻ぶやいた。 上 ナスターシャは無一言のまま彼をながめつづけた。 罰 と 「誰もかみさんをぶちゃしないよ」と彼女はまたもや、いかつい、きつばりとした調子で言い切 彼はほとんど息もしないで彼女を見つめていた。 「おれはこの耳で聞いたんだ : : : おれは寝てやしなかった : : : 腰かけていたんた」と彼は前より
「いや、きわめて不明瞭ですよ」と副署長は釘をさした。 ラスコーリニコフは帽子を取ってドアの方へ歩き出した。が、彼は戸口まで行きっかなか 9 た : 気がつくと、彼は椅子に腰をかけて、右の方から一人の男にささえられているのに気がついた。 左の方にはもう一人の男が、黄色い液を満たした黄色いコップを持って立っていた。ニコジーム・ フォミッチは、彼の前に突っ立って、じっと彼を見つめている。彼は椅子から立ち上がった。 「これはどうしたことです、病気なんですかね ? 」かなりきっとした口調で、ニコジーム・フォ 、、ツチは尋ねた。 「この人は署名する時にも、やっとのことでペンを動かしていたほどですからね、と事務官は自 席について、また書類に取りかかりながら言った。 「もう前から病気なのかね ? 」と副署長も同じように書類を繰りながら、自席からどなった。 もちろんかれも、ラスコーリ = コフが気絶している間は、やはり病人を観察していたのだが、正 気に返ると、すぐそばを離れたのである。 とラスコーリニコフはつぶやくように答えた。 巻「昨日から : 上 「きのう外出しましたか ? 」 「しました」 「病気なのに ? 」 「病気なのにー 「何時ごろ ?