いか。それは自分にもわからない。 平吉はただ酔うと、自分が全く、別人になるということを知っている。もちろん、馬鹿踊りを ゅうべ 踊ったあとで、しらふになってから、「昨夜はご盛んでしたな」と言われると、すっかりてれてし まって、「どうも酔っぱらうとだらしがありませんでね。何をどうしたんだか、今朝になってみる と、まるで夢のような始末で」と月並なうそを言っているが、実は踊ったのも、眠てしまったの も、いまだにちゃんと覚えている。そうして、その記憶に残っている自分と今日の自分と比較す ると、どうしても同じ人間だとは思われない。それなら、どっちの平吉がほんとうの平吉かとい うと、これも彼には、判然とわからない。酔っているのは一時で、しらふでいるのは始終である。 そうすると、しらふでいる時の・平吉のほうが、ほんとうの平吉のように思われるが、彼自身では 妙にどっちとも言い兼ねる。なぜかというと、平吉があとで考えて、ばかばかしいと思うことは、 たいてい酔った時にしたことばかりである。馬鹿踊りはまだいい。花を引く。女を買う。どうか すると、ここに書けもされないようなことをする。そういうことをする自分が、正気の自分だと は思われない。 Janus という神様には、首が二つある。どっちがほんとうの首だか知っている者は誰もいない。 平吉もその通りである。 ふだんの平吉と酔っている時の平吉とはちがうと言った。そのふだんの平吉ほど、うそをつく 人間は少いかもしれない。 これは平吉が自分で時々、そう思うのである。しかし、こう言ったか らといって、何も平吉が損得の勘定すくでうそをついているというわけでは毛頭ない。第一彼は、 けさ
上へころげ落ちた。 「冗談じゃあねえや。けがでもしたらどうするんだ」これはまだ、平吉がふざけていると思っ かしら ちゅうばら た町内の頭が、中っ腹で言ったのである。けれども、平吉は動くけしきがない。 かみゆいどこ すると頭の隣にいた髪結床の親方が、さすがにおかしいと思ったか、平吉の肩へ手をかけて、 「旦那、旦那 : ・もし・ : 旦那 : ・旦那」と呼んでみたが、やはりなんとも返事がない。手のさきを握 ってみると冷たくなっている。親方は頭と一一人で平吉を抱き起した。一同の顔は不安らしく、平 吉の上にさしのべられた。「旦那 : : : 旦那 : : : もし : : : 旦那 : ・・ : 旦那 : ・・ : 」髪結床の親方の声が うわずってきた。 するとその時、呼吸とも声ともわからないほど、かすかな声が、面の下から親方の耳へ伝って きた。「面を : : : 面をとってくれ : : : 面を」頭と親方とはふるえる手で、手ぬぐいと面をはずし しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。小鼻が落ちて、 ひとめ 脣の色が変わって、白くなった額には、油汗が流れている。一眼見たのでは、誰でもこれが、 あのあいきようのある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。ただ変わらない 「のは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の赤毛布の上にあおむけて、静かに平吉 ひの顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。 ( 大正三年十ニ月 ) くちびる めん
当てに誰とでも死にたがっていたのである。 それから二十の年におやじがなくなったので、紙屋を暇をとって自家へ帰って来た。半月ばか りするとある日、おやじの代から使っていた番頭が、若且那に手紙を一本書いていただきたいと 言う。五十を越した実直な男で、その時右の手の指を痛めて、筆を持っことができなか「たので ある。「万事つごうよく連んだからそのうちにゆく , と書いてくれと言うので、その通り書いて やった。宛名が女なので、「すみへは置けないぜ」とかなんとか言ってひやかしたら、「これは手 前の姉でございます」と答えた。すると三日ばかりたつうちに、その番頭がお得意先をまわりに ゆくと言「て家を出たなり、いつまでたっても帰らない。帳面をしらべてみると、大穴があいて いる。手紙はやはり、なじみの女のところ〈や 0 たのである。書かせられた平吉ほどばかをみた ものはない。 これが皆、うそである。平吉の一生 ( 人の知「ている ) から、これらのうそを除いたら、あと には何も残らないのに相違ない。 平吉が町内のお花見の船の中で、お囃子の連中にひょ 0 とこの面を借りて、舷へ上「たのも、 やはりいつもの一杯きげんでやったのである。 それから踊「ているうちに、船の中へころげ落ちて、死んだことは、前に書いてある。船の中 の連中は、皆、驚いた。いちばん、驚いたのは、あたまの上へ落ちられた清元のお師匠さんであ る。平吉の体はお師匠さんのあたまの上から、のり巻や、うで玉子の出ている胴の間の赤毛布の
ほとんど、うそをついているということを意識せすに、うそをついている。もっともついてしま 、現についている時には、全然結果の予想などをする余裕 うとすぐ、自分でもそうと気がつくが は、ないのである。 カ人と話していると自然に言おう 平吉は自分ながら、なぜそううそが出るのだかわからない。、、、 とも思わないうそが出てしまう、しかし、格別それが苦になるわけでもない。悪いことをしたと いう気がするわけでもない。そこで平吉は、毎日平気でうそをついている。 みなみでんまちょう * 平吉の口から出た話によると、彼は十一の年に南伝馬町の紙屋へ奉公に行った。するとそこの 旦那は大の法華気違いで、三度の飯もお題目を唱えないうちは、箸をとらないといった調子であ る。ところが、平吉がお目見得をしてから二月ばかりするとそこのおかみさんがふとしたできご ころから店の若い者といっしょになって着のみ着のままでかけ落ちをしてしまった。そこで、一 あんのん 家安穏のためにした信心がい っこう役にたたないと思ったせいか、法華気違いだった日一那が急に、 かけじ たいしやく * みえい 門徒へ宗旨替えをして、帝釈様のお掛地を川へ流すやら、七面様の御影を釜の下へ入れて焼くや ら、大騒ぎをしたことがあるそうである。 っそれからまた、そこに二十までいる間に店の勘定をごまかして、遊びに行ったことがたびたび ひあるが、そのころ、なじみになった女に、心中をしてくれと言われて弱った覚えもある。とうと いっすん う一寸のがれを言って、その場はおさまったが、あとで聞くとやはりその女は、それから三日ば ふかま かざりや かりして、錺屋の職人と心中をしていた。深間になっていた男がほかの女に見かえたので、つら ほっけ はたち かま
こまぎらせ したことはない。「山村さん、何かお出しなさいな」などと、すすめられても、冗談冫 みき て逃げてしまう。それでいて、少しお神酒がまわると、すぐに手ぬぐいをかぶって、ロで笛と太 鼓の調子を一つにとりながら、腰をすえて、肩をゆすって、ひょっとこ舞というのをやりたがる。 そうして、一度踊りだしたら、いつまでも図にのって、踊っている。はたで三味線を弾いていよ うた うが、謡をうたっていようが、そんなことにはかまわない。 ところが、その酒がたたって、卒中のように倒れたなり、気の遠くなってしまったことが、二 せんとう 度ばかりある。一度は町内の洗湯で、上がり湯を使いながら、セメントの流しの上へ倒れた。そ うち の時は腰を打っただけで、十分とたたないうちに気がついたが、二度目に自家の蔵の中でたおれ しようき た時には、医者を呼んで、やっと正気にかえしてもらうまで、かれこれ三十分ばかりも手間どっ た。平吉はそのたびに、医者から酒を禁じられるが、殊勝らしく、赤い顔をしすにいるのはほん ますかず のその当座だけで、いつでも「一合くらいは」からだんだん枡数がふえて、半月とたたないうち もくあみ いつの間にかまた元の杢阿弥になってしまう。それでも、当人は平気なもので「やはり飲ま すにいますと、かえって体にいけませんようで」などとかってなことを言ってすましている。 心理的に っしかし平吉が酒をのむのは、当人の言うように生理的に必要があるばかりではない。 ひも、飲ますにはいられないのである。なぜかというと、酒さえのめば気が大きくなって、なんと なく誰の前でも遠慮がいらないような心持ちになる。踊りたければ踊る。眠たければ眠る。誰も それをとがめる者はない。平吉には、何よりもこれがありがたいのである。なぜこれがありがた
しゆく * とりかじ 頭に言いつけた。すると、伝馬はどうしたのか、急に取舵をと 0 て、舳を桜とは反対な山の宿の 6 かし 河岸に向けはじめた。 橋の上の見物が、ひょ「とこの頓死したうわさを聞いたのはそれから十分ののちである。もう 少し詳しいことは、翌日の新聞の十把一東という欄にのせてある。それによると、ひょ 0 とこの のういつけっ 名は山村平吉、病名は脳浴血ということであった。 えのぐや 山村平吉はおやじの代から、日本橋の若松町にいる絵具屋である。死んだのは四十五で、あと にはやせた、そばかすのあるおかみさんと、兵隊に行「ている息子とが残 0 ている。暮しはゆた かだというほどではないが、雇人の一「三人も使 0 て、どうにか人並にはや 0 ているらしい。人 いわろくしよう のうわさでは、日清戦争ごろに、秋田あたりの岩緑青を買占めにかか 0 たのが、当「たので、そ れまでは老舗というだけで、お得意の数も指を折るほどしかなか 0 たのだという。 まるがお ! ) 、頁の少しはげた、眼尻に小皺のよ 0 ている、どこかひょうきんなところのあ 平吉は、円レ豆 る男で、誰にでも腰が低い。道楽は飲む一方で、酒の上はどちらかというと、ますいいほうであ る。ただ、酔うと、必す、馬鹿踊りをする癖があるが、これは当人に言わせると、昔、町の豊 旺の女将が、巫女を習 0 た時分に稽古をしたので、そのころは、新橋でも芳町でも、お神楽が 大流行だ 0 たということである。しかし、踊りはもちろん、当人が味囎を上げるほどのものでは きせん ない。悪く言えば、でたらめで、よく言えば喜撰でも踊られるより、いやみがないというだけで ある。も 0 ともこれは、当人も心得ていると見えて、しらふの時には、お神楽のおの字も口〈出 こじわ むすこ みよし
作として書かねばならぬ作家は不幸だといえよう。「老年ーのわびしさは〈死を予想しない快楽 ぐらい、無意味なものはない〉という「青年と死」の断言にも通じ、「ひょっとこ」の平吉の仮 うそ 面と嘘に終始した人生、所詮は影でしかなからた生のむなしさとも重なる。「仙人」の李小二は、 ねずみ 人間は鼠よりもっとみじめだと信じながら〈なぜ、苦しくとも、生きてゆかなければならない か〉という問いに答えることができない。 芥川龍之介が最初に書いた傑作は「羅生門」である。少なくともこの短篇小説によって、作者 の資質と可能性にはじめて過不足ない表現が与えられた。という意味でなら、「老年」以下の四 作はなお習作にとどまるといわざるをえない。しかし、それにもかかわらす、これらの作品群は しやばく あまりにも人間的な苦悩に見入る作者の暗い眼と、のちに〈娑婆苦〉ということばで呼ばれるは ずの厭世的な想念とを介在させることで、芥川の文学がどういう場所から出発しなければならな かったかを明示するのである。 こうち くうレ」う しかも、そうした底しれぬ空洞をはらむ作品の世界は意外に玲瓏として静止する。巧緻にしく ちょうたく まれ、均整のとれた構成や彫琢の限りを尽くした文体もみごとである。作者の計算は小説のどう 説いう細部にも行き届いて、この作家固有の古典主義的な完成をほ・ほ終えている。「老年ー以下の 品習作は、習作の本来的な特性である混沌、さまざまな可能性のひしめく多様な東としてのカオス 作からはるかに遠い。作者は人間や人生や世界や文学などに対する態度をすでに決定しているので あって、習作は選ばれた唯一の可能性をためす孤独なエチ、ードでしかなかったのである。 めいせき こうした明晰な選択を伴う文学的出発とほ。ほ表裏一体をなして、一高時代に書かれた「大川の れいろう たば
李陵・弟子・名人伝中島敦青春論亀井勝一郎足摺岬・絵本田宮虎彦 悦ちゃん獅子文六現代俳句山本健吉別れて生きる時も田宮虎彦 コーヒーと恋愛獅子文六二十歳の = チ、ード原口統三春の海図井上靖 草福田清人新版俳句歳時記新角川書店編真田軍記井上靖 月若 雲林芙美子藤村詩集島崎藤村戦国無頼井上靖 知二十四の瞳壷井栄高村光太郎詩集草野心平編青衣の人井上靖 草の実壷井栄中原中也詩集河上徹太郎編春の嵐・通夜の客井上靖 あしたの風壷井栄新編立原道造詩集中村真一郎編満ちて来る潮井上靖 井上靖 白秋詩集北原隆太郎編次郎物語全二冊下村湖人愛 坂円地文子風と雲と砦井上靖 学まざあ・ぐうす北原白秋訳女 本萩原朔太郎詩集伊藤信吉編私も燃えている円地文子ある落日井上靖 日 峡井上靖 様々なる意匠・〈の手紙小林秀雄愛情の系譜円地文子海 現ドスト = フスキイの生活小林秀雄女の繭円地文子白い風赤い雲井上靖 壽井上靖 録無常という事小林秀雄千姫春秋記円地文子波 ロ井上靖 私の人生観小林秀雄エデンの海若杉慧河 火大岡昇平淀どの日記井上靖 対 ゴッホの手紙小林秀雄野 井上靖 モオッアルトト / 林秀雄中原中也大岡昇平渦 角 常識について小林秀雄愛の渇き三島由紀夫昨日と明日の間井上靖 砦井上靖 我が精神の遍歴井勝一郎純白の夜三島由紀夫城 の恋愛論亀井勝一郎夏子の冒険三島由紀夫傾ける海井上靖 舞井上靖 愛の無常について亀井勝一郎不道徳教育講座三島由紀夫群
山本健吉編芥川龍之介 ( 『文芸読本』昭三七・七、河出書房 ) 吉田精一芥川龍之介 ( 『近代文学注釈大系 1 』昭三八・五、有精堂 ) 吉田精一編芥川龍之介 ( 『近代作家研究アル・ハム』昭三九・六、筑摩書房 ) 進藤純孝芥川龍之介 ( 昭三九・一一、河出書房 ) 森本修芥川龍之介伝記論考 ( 昭三九・一二、明治書院 ) 駒尺喜美芥川龍之介の世界 ( 昭四一一・四、法政大学出版局 ) 久保田正文芥川龍之介その前後 ( 昭四一一・四、現文社 ) 長野嘗一古典と近代作家ー芥川龍之介 ( 昭四一一・四、有精堂 ) 三好行雄編芥川龍之介 ( 『現代のエスプリ』昭四二・六、至文堂 ) 雑誌特集号 芥川龍之介追悼号 ( 『文芸春秋』昭一一・九 ) 芥川龍之介特輯 ( 『改造』昭一一・九 ) 特輯・芥川龍之介の「死」とその芸術 ( 『中央公論』昭二・九 ) 芥川龍之介特輯 ( 『三田文学』昭二・九 ) 文芥川龍之介特輯 ( 『浪漫古典』昭九・五 ) 参芥川龍之介特輯 ( 『文学』昭九・一一 ) 主芥川龍之介研究 ( 『早稲田文学』昭一三・四 ) 芥川龍之介研究特集 ( 『明治大正文学研究』昭二九・一〇 ) 芥川龍之介読本 ( 『文芸』臨時増刊、昭二九・一一 l) 特集・芥川龍之介における生活と文学の問題 ( 『近代文学』昭三一・
305 年譜 堂」に改めた。この号はこの年一月二一日小穴あ て書簡にはじめて用いた。同月二五日から五月三 〇日まで、長崎に再遊、途次一〇日間余り京都に 寄った。七月九日、森外死去。一一月、多加志 誕生。健康衰え、「神経衰弱、。ヒリソ疹、胃痙攣、 腸カタル、心悸昻進」などを病んだ。この年の創 作には「俊寛」 ( 中央公論一月 ) 、「藪の中」 ( 新 潮同 ) 、「将軍」 ( 改造同 ) 、「トロッコ」 ( 大 観三月 ) 、「報恩記」 ( 中央公論四月 ) 、「六の 宮の君」 ( 表現八月 ) 、「魚河岸」 ( 婦人公論 同 ) 、「お富の貞操」 ( 改造五・九月 ) 、「百合」 ( 新潮一 0 月 ) などがある。 三一歳 大正一二年 ( 一九二三 ) 一月、『文芸春秋』巻頭に「侏儒の言葉」を連載 した。三月から四月にかけて湯河原に湯治した。 五月、第六短篇集『春服』 ( 春陽堂 ) を刊行。八 月、山型県法光寺の夏期大学で、「文芸について」 などと題して講演した。同月避暑のため鎌倉に転 地、岡本一平・かの子夫妻と知り合った。一〇月、 一高在学中の堀辰雄を知った。一二月、京都に旅 行、「あばばばば」を『中央公論』に発表、作風 に一転機を示した。この年の創作には、ほカ冫 「三つの宝」 ( 良婦之友一月 ) 、「保吉の手帳か ら」 ( 改造五月 ) 、「子供の病気」 ( 局外八月 ) 、 「お時儀」 ( 女性一〇月 ) などがある。 大正一三年 ( 一九二四 ) 一月、「糸女覚え書」を『中央公論』に、「一塊の 土」を『新潮』に発表、四月、「少年」を『中央 公論』 ( 四ー五月 ) に、「寒さ」を『改造』に発表。 七月、第七短篇集『黄雀風』 ( 新潮社 ) を刊行。ま た七月から翌一四年三月まで "The M0dern Ser- ies 0 「 English Literature" ( 全七巻 ) を編集し、 興文社より刊行。九月、第二随筆集『百艸』 ( 新潮 社 ) を刊行。一〇月、叔父を失い、さらに義弟塚 本八洲の喀血にあい、自身も感冒・神経性胃アト ニー・痔疾・神経衰弱などを病み、健康も次第に 衰えた。斎藤茂吉と知ったのも同じころである。 大正一四年 ( 一九二五 ) 三月、「泉鏡花全集」の編集に参加。四月、「現代