わらくずとして棄てられる ( 『荘子』天運篇第四章 ) 。無為自然のはたらきが、人情や目を たと ふいごう かじゃ こえた非情なものであることを述べようとする喩えである。◎「吹子 , は、鍛冶屋や鋳物師 とって が火力をあげるのに使う送風器。からの箱あるいは袋で、把手を押したり引いたりして強い 風を送り出す。からつばであるからこそ、いくらでも空気が入ってまた風になって出てくる わけである。◎「多言」はおしゃべり。ここでは仁愛に関係する温いことばを意味するであ ろう。それが「しばしばゆきづまるーのは、それを裏づける実行がとてもおしゃべりについ ていけないことから起こるはずである。甘いことばに馴れて増長する不良児の例も思いあわ ほ , つか かんびし せてよいであろう。法家の韓非子は、「民衆は愛情をかけられると図にのるものだ」といっ そうじ はくしょ た。帛書では、甲・乙本とも「多聞」とあり、想爾注本と合う。それに従えば、おしゃべり ではなくて博識の否定となる。「学を絶てば憂いなし」 ( 第二十章 ) などという『老子』の主 旨に一致しているが、上文との連続の意味はさらに薄くなる。 し / し 、この章は三段に分かれ、第二段は第一段の前半をうけて天地の生成を述べ、第 三段は第一段の後半をうけて聖人の政治を述べたものとして解釈したが、もとはそれぞれ独 立した文章であったらしい。とくに、第三段は処世的な多言のいましめとみて切り離すこと もできるわけで、もしそうするなら、「中を守る」の「中」の意味は、多言にならないほど ほどの発言という解釈でもよいことになるだろう。「中ーにはまた心のなかとみる解釈もあ しやくじ りうるが、上文との関係から前の章の「沖」と同様に「霊」の借字として読んだ。
あいだ いよいよ 天と地との間は、其れ猶お稾籥のごときか。虚しくして屈きず、動きて愈よ出ず。 たレんし・はしばきゅう ちゅう 多言は数窮す、中 ( 盥 ) を守るに如かず。 天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。 天地之間、其猶稾籥乎。虚而不屈、動而愈出。 多言数窮、不如守中。 天地自然のはたらきは、慈愛に満ちた仁の徳を行なっているようにみえる。しかし、その はたらきは仁の徳などにしばられたものではない。それをこえた、非情な、自然無心なはた らきである。聖人の政治も同じこと、からつばの無心でいて、慈愛にあふれたおしゃべりな どはしないものだという。政治家が猫なで声でやさしいことをいうときは、くせものであ る。政治を意識させない政治が、ほんとうの平和な政治であろう。 じゅか 徳◎「仁」はいうまでもなく儒家の提唱した慈愛の徳目である。ここは、それに対抗したこと 子ばである。「聖人は仁ならず . というのは、儒家的な聖人像を思う人びとの意表をつくこと すうく ばであって、当時でもショッキングなひびきをもったに違いない。◎「芻狗ーわらの犬ころ」 四というのは、祭礼に用いられるもので、祭りのあいだは手厚く並べられるが、祭りがすむと たくやく むな
囲あるいは「淵として」の句を四句の後に移すべきか。◎「帝、天帝はふつう天地創造の造物 者とされている。『老子』はそれをふまえて、それをのりこえる創始の始源を「道」として 考えたのである。 天地は仁ならず ( 理想の政治図 ) いつくしみ ぞうか 天地の造化のはたらきには、仁愛の徳があるわけではない、藁で作った犬ころの ように万物をとりあっかって、それを生み出しては棄てている。聖人の政治のやり いつくしみ かたにも、仁愛の徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万民をあっか って、用がすめば知らぬ顔でそれを放任している。 ふいごう 天と大地とのあいだのこの世界は、いわば風を送り出す吹子のようなものであろ うか。からつばでありながら、そこから万物が生まれ出て尽きはてることがなく、 動けば動くほどますます多く出てくる。それが、天地自然の無心のはたらきだ。 口かずが多いと、しばしばゆきづまる。黙ってからつばの心を守っていくにこし たことはない。それが聖人のおのずからなやりかただ すうく じん ばんぶつ 天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為 えん わら ひやくせい
たいえい だから幾らでも出てくるというのと同じである。第四十五章では「大盈 ( ほんとうの充満 ) はたら は沖のようで、その用きは尽きない ともある。「道」のからつばは、実は「大盈 , とい うべきものである。そして、それは奥深い万物の根源であり、また中心であって、おばろげ な存在のすがたをとりながら、この世のそもそもの肇まりの、さらにまたその前からあった もののようだ、という。 から しやくじ ◎「沖 . の字を空虚の意味に読むのは、「盥、の借字としてである。「盥」となっているテク ストもある。「或、を「又」と読むのも借字である。「又 , となっているテクストが多く、 書は「有」となっているが、この三字は通用する。下文の「存する或る」の「或 . のほう とんこう は、敦煌本など唐代では「常」の字になっている。それによると、「常に存す ( 一定不変の こう こっ 存在があるようだ ) 」となる。それでも意味は通るが、第二十一章の「恍たり惚たり、其の 中に物あり」 ( 七九ページ ) というおばろげなありようが、ここでもよりふさわしいものに 思える。ふつうの存在ではないが、何かがあるように見える、ということである。 くじ わこうどうじん ことわざ ◎「其の鋭を挫き」より以下の四句は、「和光同塵」という諺ともなって有名で、第五十六 徳章にも重出している。「道」のはたらきとして、鋭いけばけばしさをおさえて平凡なおのず この 子からなありかたに沿うことである。ただ、ここでは、前後の連続は必ずしもよくない。 四句を除いて考えると、上の「底知らずの淵のように ( 淵として ) 」と下の「たたえた水の ように ( 湛として ) 」とが対応して、連続もよい。四句は後からのまぎれこみとみられる。 しょ からつぼ たん はじ
わたしは、それが何ものの子であるかを知らないが、万物を生み出した天帝のさ らに祖先であるようだ。 ばんぶっそう 道は沖 ( 盥 ) しきも、これを用うれば或 ( 又 ) た盈たず。淵として万物の宗たる に似たり。 じんどう やわら 其の鋭を挫いて、其の紛を解き、其の光を和げて、其の塵に同ず。 たん 湛として存する或るに似たり。 吾れ、誰の子なるかを知らず、帝の先に象たり。 道沖、而用之或不盈。淵兮似万物之宗。 挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。 湛兮似或存。 吾不知誰之子。象帝之先。 「道」についての内容的な解説である。本来、説き明かすことのできないものであるからに は、それがあいまいな詩的なことばになるのは、むしろ自然である。「道」はからつばで、 から はたらきむじん からつばだからこそその効用が無尽だというのは、次の第五章で稾籥の例によって中が空虚 むな たれ くじ ふん み えん
4 道は沖しきも ( 「道」のはたらき① ) むじん 「道」はからつばで何の役にもたたないようであるが、そのはたらきは無尽であっ て、そのからつばが何かで満たされたりすることは決してない。満たされていると、 上それを使い果たせば終わりであ「て有限だが、から「ばであるからこそ、無限のは たらきが出てくるのだ。それは底知らずの淵のように深々としていて、どうやら万 経 徳物の根源であるらしい 子それは、すべての鋭さをくじいて鈍くし、すべてのもつれを解きほぐし、すべて の輝きをおさえやわらげ、すべての塵とひとつになる。 それは、たたえた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしい。 て世を混乱させるだけだとして反対したのである。◎「あの知恵者たちも、どうしようもな い」というその「知恵者」も、「尚賢 , の賢と同じであって、具体的には当時の諸子百家の 人びとをさしている。人民がまったく無知無欲になってしまえば、他人の誘惑にのせられる こともなく、かれらの小ざかしい知恵も手がかりがなくてどうしようもないというのであ る。◎「無為を為す、ということばは第六十三章にもある。その注 ( 一九四ページ ) を参照 されたい。 むな ちり にぶ
きんこっ スト、「始」字になっているテクストは、ほかにもある。「万物の興る始源とはならない と、「始」の字の意味で読む説もあり、「辞」を辞退の意味にみて「世俗の労をいとわない」 というように解釈するのもあるが、上文の「不一言」との関係でいえば、「辞」はやはり言辞 の意味であろう。 けんたっと 3 賢を尚ばざれば ( 理想の政治田 ) 為政者が、才能すぐれた者をとくに尊重するということをやめれば、人民が競争 に熱をあげたりはしなくなるだろう。手にはいりにくい珍しい品を貴重だとするよ うなことをやめれば、人民が人のものを盗んだりはしなくなるだろう。欲望を刺激 するようなものが人民の目にふれないようにすれば、人民の心は乱されなくて平静 になるだろう。 それゆえ、「道」と一体になった聖人が行なう政治では、人民の心をつまらない知 識でくよくよしないようにからつほにして、その腹のほうを空腹にならないように ゝつばいにし、人民の望みを欲にとらわれないように弱く小さくして、その肉体の 筋骨のほうを強くじようぶにする。こうして、いつも人民を知識ももたず欲望もな い状態にならせて、あの知恵者たちが人民をたぶらかそうとしても、どうしようも
の意味としてはそれでも通用するが、下文の「まこと、有ると無いとは相い生じ」以下の一 段との連続で考えると、ここを「有心」「無心」で解釈するのは適当でない。なお、下文の はくしょ したが 一段の最後、「前と後と相い随う」の下には、帛書甲・乙本とも「恒也 , の二字がある。「常 なり」と読んで、上に述べた相対性を一定不変の真理であるとおさえたことばである。帛書 だけにあることばであって、もちろん無くて通ずる。◎「聖人ーは『老子』のなかでの理想 そうじ しじん しんじん ぎよう 的人格。『荘子』では「至人ー「真人」なども見えるが、『老子』にはない。儒家のいう尭・ しゅん 舜などの特定の人物をさす聖人とは違って、絶対不変の「道」と合一した最高の境地にある ことさ 理想者である。◎「無為」は「為すこと無し」であるが、何もしないことではない。 らなわざとらしいことをしないで、自然にふるまうこと、人間としてのさかしらの知恵やか ってな感情をすてて、自然界のおのずからなありかたに従って行動するのである。「無為を 為す」ということばもあるように ( 第三章 ) 、「無為」は『老子』の理想的な行動様式であっ 上た。◎「万物が活発に動いても・ : 」より以下は、上文の「無為の事に処り、不言の教えを行 なう」という聖人のありかたを、さらに内容的に詳しく解説したものとみられる。そして、 徳第三十四章や第五十一章で、ここと同じことばが「道」のはたらきとして述べられているの 子を参照すると、この聖人のふるまいは、そのまま「道」のはたらきと一致しているのだとわ ここおこ ことば はくしょ かる。「万物焉に作るも而も辞せず ( 万物作焉而不辞 ) 」の句は、帛書乙本では「万物昔而弗 始」とある。「昔」は「作。と、「始」は「辞ーと発音が近くて通ずる。「焉。字のないテク
天下皆知美之為美、斯悪已。皆知善之為善、斯不善已。 故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。 是以聖人処無為之事、行不言之教。 万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃。功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。 「道」のことから一転して、ここでは現実の世界の真相が語られ、それに対処する聖人のあ りかたが述べられる。われわれが日常生活のなかで認識する価値概念はすべて相対的なもの である。それを絶対的なものと考えて固執するところに、人びとのあわただしく悲しいうご めきがある。何が真の美であり、何が真の善であるのか。いったい真善・真美という極致の どうさっ 一点があるのか、ないのか。そこを考えてみなければならない。世界の真相を洞察した聖人 は、「無為」「不言」の行動に従ってあるがままに自然である。それこそ、実は「道」のあり かたそのものであった。 ◎「美しいものを美しいとわきまえる ( 美の美たるを知る )- というその「知る」の意味を重 みにく こともなってそこに醜さが出てくる」とする解 くみて、「美しいとわきまえると、その認識冫 釈もある。下の「善ーの場合も同じで、「善いと認識すると、そこに不善が生まれる」と解 きんらんさい こくじかい 釈される。金蘭斎『老子経国字解』のいうように「無心なれば真にかなう」わけである。句 こしつ
しあった関係にあるのだ。 それゆえ、「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あ くせくとことさらなしわざをするようなことのない「無為」の立場に身をおき、こ とばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実 行するのである。 すなわち、万物が活発に動いても、聖人はそれについてとかくの説明を加えず、 ものを生み出しても、それを自分のものとはせず、大きな仕事をしても、それに頼 ることはしない りつばな成果があがっても、その栄光に居すわることがない。そ もそもその栄光に居すわらないからこそ、またその栄光から離れることもないのだ。 あく ふぜん ぜん 天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。みな善の善たるを知るも、斯れ不善 上のみ。 まことゆうむ ちょうたん あら こうげ . 経做に有と無と相い生じ、洋と易と相い成り、長と短と相い形われ、高と下と相い 徳傾き、音と声と相い和し、前と後と相い随う。 ここもっ 子是を以て聖人は、無為の事に処り、不の教えを行なう。 しよう ここおこ しかことば 万物焉に作るも而も辞せず、生ずるも而も有とせず、為すも而も恃まず。功成る も而も居らず。夫れ唯だ居らず、是を以て去らず。 なんい こ たの こう