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検索対象: 老子 : 無知無欲のすすめ
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1. 老子 : 無知無欲のすすめ

216 あった。『老子』のこのことばは、それと似ているようで、実は違っている。わかったこと をわかったとはしないのである。わかったことをわかったとするような合理主義は、単純で せんばく 浅薄だということであろう。現象の奥にひそむ「道」は、日常的な知によって求められるも おとしあな のではない。わかったと思うことは、そう思うことによってすでに一つの陥穽となるのだ。 ほんとうにはっきりわかったといえるのかどうか、そのわかったように思えることを、さら ぎんみ に懐疑して吟味してゆく必要がある。それが知を棄ててみずからを洗いあげていく過程でも ある。こうして、ついに「道」にゆきついたときは、それが「道」の体得であり「道」との 合一であるからには、もはや何がわかった何を知ったという境涯はすっかり抜けきっている ことになるだろう。なぜなら、何かがわかったとか知ったとかい朝かぎりは、それ以外の知 らないわからない世界をいつまでも残しているのであって、それでは「道」に到達したとは いえないからである。 ここもっ ◎「夫れ唯だ病を病とす、是を以て病あらず」という中間の二句は、このあとの「聖人は」 はくしょ より以下の文と意味が重なっている。道蔵本や碑石本に二句の無いものがあり、新出の帛書 にも甲・乙本ともに無いから、たぶん古い注のまぎれこんだものであろう。カッコにはさん で区別をしたが、除いたほうがよいかとも思う。◎「病」は難の意。短所・欠点のこと。 かいぎ

2. 老子 : 無知無欲のすすめ

「道」の説明として、「聞きとろうとしても聞こえないもの、それを希と名づける」という ことばが、第十四章にあった ( 五二ページ ) 。「希言」はだから無言の言である。真実の 「道」は、何もいわなくても、無言のうちにすべてを語っている。その声なきことばこそが、 まれ 人間の営みとは違った自然なありかたである。人はそれを模範にしなければならない。「希 」と洋」 ( 稀 ) な言」として少言の意味にとることもできるが、むしろ不言の意味とみるのがよい。 「不言の教え、無為の益」といわれている ( 第二章・第四十三章 ) その「不言」を説く章で ある。 人は一般にそのさかしらによってことばを並べたがる。沈黙を守ることはむしろ勇気のい ることだ。そして、話せば話すほど、己れの本来の自然なありかたから離れ、真実から遠ざ かり、やがて他人からも見放される。ことばとはいったい何だろう。「名として言いあらわ せるような名は、不変の真実の名ではない ともあった ( 第一章 ) 。『老子』において、こと ばに対する懐疑と不信は強い。 ◎「そこで、道に従って行動するもの」より以下の中間の一段は、意味がとりにくい という主旨で連続を考え や「徳」を対象として従事していくのにことばの媒介はいらない、 たが、文章のいれちがいなどの誤りがあることも考えられる。底本では「従事於道者 , の下 にまた「道者」の二字があり、下文の「徳者。「失者」との対応がよいが、古くはなかった えなんじ どうおう はくしょ らしい。『淮南子』道応篇、帛書甲・乙本ともにない。「徳者」「失者ーはそれぞれに「従事

3. 老子 : 無知無欲のすすめ

の意味としてはそれでも通用するが、下文の「まこと、有ると無いとは相い生じ」以下の一 段との連続で考えると、ここを「有心」「無心」で解釈するのは適当でない。なお、下文の はくしょ したが 一段の最後、「前と後と相い随う」の下には、帛書甲・乙本とも「恒也 , の二字がある。「常 なり」と読んで、上に述べた相対性を一定不変の真理であるとおさえたことばである。帛書 だけにあることばであって、もちろん無くて通ずる。◎「聖人ーは『老子』のなかでの理想 そうじ しじん しんじん ぎよう 的人格。『荘子』では「至人ー「真人」なども見えるが、『老子』にはない。儒家のいう尭・ しゅん 舜などの特定の人物をさす聖人とは違って、絶対不変の「道」と合一した最高の境地にある ことさ 理想者である。◎「無為」は「為すこと無し」であるが、何もしないことではない。 らなわざとらしいことをしないで、自然にふるまうこと、人間としてのさかしらの知恵やか ってな感情をすてて、自然界のおのずからなありかたに従って行動するのである。「無為を 為す」ということばもあるように ( 第三章 ) 、「無為」は『老子』の理想的な行動様式であっ 上た。◎「万物が活発に動いても・ : 」より以下は、上文の「無為の事に処り、不言の教えを行 なう」という聖人のありかたを、さらに内容的に詳しく解説したものとみられる。そして、 徳第三十四章や第五十一章で、ここと同じことばが「道」のはたらきとして述べられているの 子を参照すると、この聖人のふるまいは、そのまま「道」のはたらきと一致しているのだとわ ここおこ ことば はくしょ かる。「万物焉に作るも而も辞せず ( 万物作焉而不辞 ) 」の句は、帛書乙本では「万物昔而弗 始」とある。「昔」は「作。と、「始」は「辞ーと発音が近くて通ずる。「焉。字のないテク

4. 老子 : 無知無欲のすすめ

どおりになることを望むのは、人情である。おれがわたしがと、人をおしのけてその前に進 みたいと思うのも、競争社会に養われた悪いくせである。そうしないと敗北者になってしま ゅうきゅう うという強迫感、あわれなちつばけな人間の苦闘である。天地の悠久に比べて、なんとはか ないあがきではないか。天地自然の悠久の生命は、自分の永遠を求めたりするような、ちっ いのち ばけな意識を離れたところにこそある。人びとが生命をちぢめるのは、わが生命を意識して かまいすぎるからだ、ともいわれている ( 第五十章 ) 。おれがわたしがと自分をむき出しに していると、敵もできて足もとをすくわれる結果になる。自分を放ち棄てて無私になるこ すく と、つまりは我欲を棄てて無欲になること。「私を少なくし、欲を寡なくす」 ( 第十九章 ) と わたくし いうように、「私ーは「欲」と連なっている。「道」と一つになって自然な流れに身をまか せていくなら、そこに自分の個性をつらぬく道がひらけてくる。 ◎「天長地久」は、天皇と皇后の誕生日をそれぞれ天長節・地久節といった、そのことばの 出典である。天地の悠久をたたえるめでたいことばとされてきた。◎聖人がその身を後にし ていてかえって前に立っというのは、同様のことばが第六十六章にもみえる。そこでは「民 ろうかい の先頭に立とうとするなら、必ず後になれ」とあって、世俗的な関心があらわで老獪な策謀 のようにもとれる。ここで「無私」であるから「私」がとげられるというのも、そのように しよせい 逆転して読むこともできるだろう。『老子』では政治や処世の現実的な関心も強いから、確 かに世故にたけた狡猾ともみえることばもあるのだが、それにとらわれていては『老子』の こうかっ

5. 老子 : 無知無欲のすすめ

140 さし、また、陰と陽の気のことでもある。次の章でいう「二 , に当たるのであろう。 この章は、短いことばでありながらまとまりが悪く、これまで学者を悩ませてきた。いま はくしょ 帛書に従って章の順序を改め、さらに前半と後半とに二分して解釈することによって、疑問 は氷解した。 犯道は一を生じ ( 柔軟なへりくだり ) 「道」が一を生み出し、一が二つのものを生み出し、二つのものが三つのものを生 せお み出し、三つのものが万物を生み出す。万物は陰の気を背負って陽の気を胸に抱き、 ちゅうき この二つのものを媒介する沖気によって調和をなしとげている。 ろくでなし みなしご 人びとが嫌うことは、「孤ーとか「寡」とか「不穀」こそがそれだが、王や公 族たちはヘりくだって、そのことばを自称としてそれで高い身分を保持している。 だから、ものごとはそれを減らしたことによってふえるということがあり、それを ふやしたことによって減るということもあるのだ。 いまし 人びとが戒めとして教えてくれたことを、わたしもまた教えとして伝えよう。「カ にまかせてむり押しをするものは、まともな死にかたをしない」ということだ。わ じゅうじゃく たしは、ヘりくだって柔弱でいるのがよいというこのことばを、教えの根本として ひとりもの

6. 老子 : 無知無欲のすすめ

くものは人にねらわれる。小賢しい知恵のままにしゃべりまくって、己れの教養を人まえに ひけらかす愚かさ、そうした通俗的立場をのりこえた境地が玄同である。この玄妙の同一世 界では己れの姿は現象の奥底に隠されてしまう。突出したかたちがない。対象としてのひっ かかりがない。そこで、人が思いのままにしようとしてやってきたところで、どうすること もできないのだ。そして、外からのカでどうしようもないその超然としたありかたこそが、 最高の尊貴そのものだというのである。 そうじ ◎「知る者は言わず」の二句、『荘子』天道篇などにもみえるが、「不言の教え」を説き ( 第 四十三章 ) 、「多言はしばしば窮す」といわれる ( 第五章 ) ように、 ことばに対する不信は 『老子』の全体をつらぬいている。真実の「道」はことばではあらわせない、 ことばは要す あなふさ るに皮相なものでまた有限なものだからであった。◎「其の兌を塞ぎ」の二句は第五十二章 わこうどうじん に重出しており、「其の鋭を挫きーより以下「和光同塵」の句までは第四章に重出している げんどうい が、ここではそれらの六句が二句ずつで韻をふんで緊密に連なり、「是れを玄同と謂う」と あな いう句によってまとめられている。「其の兌」は欲望を誘い出す耳目などの感覚器官、「其の 門」は知識や欲望の出入口。下文の「其の鋭」などの句もあわせて、それぞれの「其の」 老が、有道者をさすのか一般の俗世間をさすのかについて説が分かれているが、ここはそのよ うにはっきりした指示詞ではない。むしろ音調を整える助字としての意味が強い。「紛、の かじようこう 字は底本では「分。とあるが、河上公本などに従って改めた。「玄同。ということばは『荘 こざか おの げんみよう

7. 老子 : 無知無欲のすすめ

そうかっ はやや違っているから、曲全は四句の古語を総括したことばであろう。◎「一を抱く、は第 十章でもいわれていた。「一、は「道」をさしているが、上文の「少なければ則ち得られ、 みずかあら とあい応じている。「式、は法則の意味。◎「自ら見わさず」以下は聖人のありかたで、前の 章の裏がえし。◎「虚言」は空言の意味で、根拠のないでたらめなことば。 きげん 幻希言は自然なり ( 旧第二十三章 ) ( 沈黙のすすめ ) 聞きとれない無声のことばー「不言」ーこそが、自然なありかたである。 だから、さわがしい暴風は半日とはつづかず、うるさい豪雨は一日じゅうはつづ かない。そうしているのはだれかといえば、それは天地である。天地でさえも長く つづけることができないものを、まして小さな人間ではなおさらつづかない。大声 を張りあげてしゃべりまくる不自然なことは、やめたほうがよい。 そこで、「道」に従って行動するものは「道」と一つになろうとし、「徳」に従っ て行動するものは「徳」と一つになろうとし、「徳」を失った仁義や礼に従って行動 するものは、その失徳と一つになろうとする。よけいなおしゃべりはいらない。 「道」と一つになろうとするものには、「道」もまた喜んでかれを受けいれ、「徳」と 一つになろうとするものには、「徳」もまた喜んでかれを受けいれ、失徳と一つにな

8. 老子 : 無知無欲のすすめ

愚民政治を説くあからさまなことば。とくに「民の治めがたきは、その智の多き以なり」 というのは、いかにも封建君主のかってな独善的せりふとも聞こえる。この章がそうした意 味で読まれてきたことも、事実であろう。しかし、たいせつなことは、これがさかしらの知 恵の害を知ったもののことばだということである。知恵は欲をひきおこし、欲はまた知恵に みが 磨きをかける。人間はそれによって文化を築きあげてきたのだが、さてそれで幸福だけがひ ろがってきたであろうか。文化の恩恵のかげに重なっている新しい困難、大きな不幸が、深 どうくっ い洞窟のロをあけているではないか。なまじいの知恵は棄てるべきである。知恵をいうな ら、それは世俗をこえた真実の明知でなければならない。「民を愚直にする」とは、実はこ おうひっ の明知に近づけることである。王弼の注はいう、「愚とは無知のこと、真を守って自然に従 たいぎ うことである」と。知の害を説くことばは「智慧出でて大偽ありー ( 第十八章 ) 、「聖を絶ち 智を棄つれば、民の利は百倍」 ( 第十九章 ) のほか、これまでに多くみられた。世俗の知恵 篇 下を棄てるところに真実の「道」があらわれてくる。そして、天地自然のおのずからなはたら 軽きと合致した「大順」の立場にゆきつけるのである。知恵を貴ばない政治、それは「道」に 近従う政治であり、天地自然の法則に従う政治であった。 けいしき こ げんとく 老◎「稽式」は二字とも法則の意味。「是れを玄徳と謂う」の句は、第十章・第五十一章にもみ えるが、「生じて有とせず , などのことばを受けていて、こことは意味内容が違う。ここと おろ 囲関係が深いのは『荘子』天地篇の第八節であって、天地とびったり合一して、愚かなるがご そうじ ため

9. 老子 : 無知無欲のすすめ

めた。「天下に忌諱多くして」より以下の句は、たがいに因果関係でつづいている。禁止条 こざか 項が多いと民は貧しくなり、そのために生活に役立っ便利な道具を求め、小賢しい知恵をめ ぐらして悪事をはたらくこととなり、そこで法令がいよいよ煩多に整備されると、その裏を かく盗賊が横行するというわけである。民衆をとりしまろうとする作為が逆に民衆の悪知恵 を助長し国家を混乱させるのである。「民に利器多し」の「利器」ということばは、第三十 六章にも「国の利器は人に示すべからず」としてみえている。その注 ( 一一三ページ ) を参 おのずか 照されたい。◎聖人のことば「我れ無為にして民自ら化す」より以下は、類似した主旨が 第三十七章では「道」の「無為ーのはたらきと関係づけて説かれている。「無為ーとか「無 事」とか言われていることが、本来「道」のはたらきそのものであったことは、それによっ てはっきりする。ここには「道」ということばは出てこないけれども、「道」にもとづき、 しうまでもない。「樸ーは、第十九章に 「道」を模範とする政治を説くものであることは、ゝ 篇 あら 下「素を見わし樸を抱け」、第二十八章に「樸に復帰す」とあるほか、これまでにたびたび出て 軽きた理想状態。人工の加わらない自然の純朴さである。 道 まつりごともんもん 子 老 其の政悶悶たれば ( おおらかな政治 ) 政治がおおらかでばんやりしたものであると、その人民は純朴で重厚であるが、

10. 老子 : 無知無欲のすすめ

240 じゅうはくき 文学へと継承されていくのである。「什伯の器」は十百の器、「器」はここで一般的な道具と そてつ ナいどう して解釈した ( 恫の説 ) が、十人百人にすぐれた人材と解する説 ( 蘇轍 ) や、十人組、百 人組の道具として武器のこととする説 ( 兪 ) などもある。『荘子』天地篇に、「機事あれば みずく から′、り 機心あり、機心あれば純白備わらずーといって、便利な機械を使わないで水汲みをする老人 かた の話があるが、ここもそれと同じ主旨であろう。「死を重んず、の「重」は重難の意味。第 七十五章の「死を軽んず」の反対で、死をはばかる、つまり生命をたいせつにすること。 「これを陳ぬ」は、並べて見せびらかすこと。つまりは戦争になって武器を使うことである。 えききようけいじ ◎「縄を結びて」は『易経』繋辞伝に「上古は縄の結びめをしるしとしてそれで治めた。後 きよきよう もじ 世、聖人はそれを改めて書契を使うようになった」とあり、『荘子』肱篋篇にも、これから しとく 終わりまでの句を「至徳の世」のありさまとして、ほば同文で掲げている。 なお、帛書では甲・乙本ともに、この第八十章と次の第八十一章とが、現在の第六十六章 と第六十七章との間に入っている。その理由は不明で、とくにその順序が良いとも思えない ので、それには従わない。 しんげん 信言は美ならず ( 結びのことば ) 実のあることばは飾りけがなく、飾りたてたことばには実がない じっ なわ つら はくしょ ゆえっ そうじ 。りつばな人物