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検索対象: 老子 : 無知無欲のすすめ
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1. 老子 : 無知無欲のすすめ

258 そうし ではこの現実の世俗世界についての関心が強いという点である。荘子のほうは、世 俗をこえた自然世界に飛びこんでそれに合一するという宗教的な立場が強いが、老 子はそうした宗教的神秘的な面をも持ちながら、絶えず現実世界との関係を考えて がしこ いるというところに、その特色がある。世間的なずる賢さともみえるのは、そのた じゅうじゃく めである。無為であれば万事がうまく運ぶとか、柔弱であれば強いものにも勝てる とかいうのは、世俗の立場に降りてきて大衆をひきつけるための言いかたであって、 つまり、それだけ世俗に対する親切な配慮が濃厚だということである。 こうとうてき ぐみん 荘子にはそれがない。 もっと高踏的である。老子の思想が愚民の専制政治に利用 ひょうほう されたり、兵法のかけひきをささえるものとして応用されたり、さらには現世的宗 どうきよう 教としての道教で重要な役割を果たしたりしたのは、みなこのためであろう。 この世界を支えるもの 老子の思想の深みは、「道」の思想によって明らかになる。老子の「道」は、それ じゅか までとはまったく違った新しい意味を帯びて登場した。それまでの儒家の道は、道 じっせんよ 義的な実践の拠り所として、はっきりと指し示された道であった。しかし、老子の ぼんやり 「道」は、見えもせず聞こえもせず ( 第十四章 ) 、恍惚としてとらえどころがなく ( 第二十一章 ) 、したがって名づけようもないものである ( 第一章 ) 。だから「道」と

2. 老子 : 無知無欲のすすめ

とくきよ、つ 咫八章以下 ) の徳経と対している。『老子』のことを『老子道徳経』ともいうのは、そのため である。 第一章は『老子』の巻頭としてふさわしい内容であるうえに、この形で長く伝承されてき たが、馬王堆の帛書では甲・乙本ともに上篇と下篇との順序がいれかわっている。したがっ て、この第一章も今の下篇の文章が終わったあとにおかれている。 天下みな美の美たるを知るも ( 世俗の価値にとらわれるな ) 世界の人びとは、だれでも美しいものを美しいとしてわきまえているが、実はそ れは醜いものなのだ。だれでも善いことを善いとしてわきまえているが、実はそれ は善くないことなのだ。世間でいう善とか美とかいうものは、みな確かなものでは なく、それにとらわれるのはまちがっている。まこと、有ると無いとは、こ、、いに やさ むつか 有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、 たがいに相手があってこそ成りたち、長いと短いとも、たがいに相手があることに よってはっきりし、高いと低いとも、たがいに相手があることによって傾斜ができ、 楽器の音色と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、 こがいに相手によって順序づけられている。世間のものごとはすべて相対的で依存

3. 老子 : 無知無欲のすすめ

いうのも仮のよび名にすぎない。「無」とか「無名」とかよばれるのもそのためであ る ( 第四十章・第四十一章・第三十二章 ) 。 しかし、これこそが、この宇宙の全体をつらぬく唯一絶対の根源者として、大き なはたらきをとげている二、であり、「大ーである ( 第三十九章・第二十五章 ) 。 ばんぶつ そして、天地万物を生み出す始源としてまた「母 , ともよばれている ( 第五十二 章 ) 。老子にとって、これこそが真実の世であった。世俗の現象世界にとらわれて はいけないというとき、老子はこの空々第たる無限定無制約の「道」の世界に入 れといっているのである。それは天地の根源への復帰であった。 老子は復帰ということの重要性をしばしば力説する。 はんも 「いったい物は盛んに繁茂しているが、それぞれにその生まれ出た根もとに帰って せいじゃく いくものだ。根もとに帰るのは深い静寂に入ることだといわれ、それはまた本来の 運命にたち戻ることだともいわれる , ( 第十六章 ) 。 どうさっ 哲人による世界の真相の洞察である。万物は生成をつづけてやまないが、それは 説ただ真っ直ぐに伸びていくだけではない。実は生成の始源へと復帰する動きでもあ 解る。万物が生まれ出てきたその元の始源、定かではないけれども無限の深みをもっ た静けさの世界。それこそ「道」の世界そのものでもあるだろう。現象に流される ことをやめて、人はこの根源に復帰すべきだといわれる。

4. 老子 : 無知無欲のすすめ

あっ 圧して、その上に出ようとするような強ばった姿勢では、やがて破滅と死が待ちう けんきようしゃ なかま けるだけである。「堅強者は死の徒」である。そして「柔弱者は生の徒」、柔らかい 草木の芽が新しい生命にあふれているように、柔軟な弱々しいものこそが生きのび るのである ( 第七十六章 ) 。 現実への関心 じゅうじゃく ただ、ここで気になるのは、「柔弱はかえって剛強に勝つ」といわれていること である。競争そのものを否定しているのではなく、競争の方法を問題にしているだ けんか けではないか、ともみえる。謙下のほうにも同じ疑問がある。「聖人はわが身を人の 後において、それでかえって人に推されて先だっことになるー ( 第七章 ) というが、 む これも、先頭になることを予想して手段的に後になる、と取れないこともない。 為でいて、それで万事が立派に成しとげられる」というのも、同じである。 ろ、つかい 老子は世故に長けた老獪な知恵者として、人びとの意表を突く逆説によって、結 説局は、この世俗世界での成功者を目ざしたということであるのか。実際、老子には けんぼうじゅっさく 解そうした一面がないわけではない。しかし、もしそれだけなら、老子は権謀術策の 人ということで、終わってしまう。事実はもちろんそうではない。 そうし 老子と荘子との違いは、どちらも自然思想といってよいものでありながら、老子 こわ

5. 老子 : 無知無欲のすすめ

われわれをその深みへと誘うのである。しかも、その世界はこの現実世界と別なのではない しんこっちょう というところに、『老子』の真骨頂はあった。 こうし じゅ ◎「道 . はもと道路の意味。そこから道理・方法などの意味が生まれ、孔子を教祖とする儒 家では、仁義などの道徳が人のよるべき道として掲げられた。「道の道とすべきは、常の道 あら に非ず、というのは、そうした儒家の提示する道を排斥したことばである。『老子』のいう 「常の道」とは、単なる人間世界の約束ごとではなくて、宇宙自然をもあわせつらぬく唯一 絶対の根源的な道であって、それは「名」によってはあらわすことのできない窮極の原理で あった。「道」についての説明は、このほか、第四章、第十四章、第二十一章、第二十五章、 第三十七章などにも見えている ( 解説の説明をも参照 ) 。◎「名」とは、名称、言語、概念の 意味。それは必ずある実体に対してつけられて、一つの約束ごととして世間で通用すること になるが、物の名称は本来どのようにもつけられるわけであるから、「名ーは実に対して第 そうじ 二義的なものである。『荘子』にも「名は実の賓 ( 客 ) なり」とある。『老子』では「無名 , とうと や「不言」が貴ばれ、ことばや概念に対する不信の念は強い。「道」のあとにつづいて、な ぜ「名」が出てくるのか。もちろん、名づけようのない「道」の性格との関連で出てくるの ほうか だが、ここにはまた名目にとらわれて、ことさらに「名ーを立てようとする儒家や法家など に対する批判がこめられている。そして『老子』のいう「常の名、とは、「道」の不可思議 なありかたに沿ったおのずからなる「名」として、つまりは無名の名 ( 名づけることのない ひん はいせき

6. 老子 : 無知無欲のすすめ

せいち せいしゃ ある。「聖智」や「仁義」を棄ててしまえというのは、為政者としての君主自身に対するこ とでもあれば、またさらに世界の風潮をそのように変えてしまうことでもある。知恵者や道 徳家をもてはやす世界、精巧な技術やそれによって作られた便利なものを慕う世俗の関心、 それをひっくりかえしてしまえば、どんなにせいせいすることだろう。そこに真実なものが みえてくるはずである。これは、はっきりした一つの文明批判である。人間的な営みとして だらく 築かれてゆく文化文明が、反面で人間を束縛し人間を堕落させていくという現実は、確かに ある。現代においてとくにはなはだしい。「素朴」を重視してしつかりと守ること、個人の わがままとかってな欲望の解放とを戒めることは、今も必要である。 ここでは世 ◎「聖を絶っ」の「聖」は、もちろん『老子』の理想人としての聖人ではない。 りくしん 俗的な意味での人並み以上のとくべつな聖知をさす。◎「孝慈」は、前の章で「六親不和」 の結果とされていたのと矛盾するようであるが、前はお題目としての標語、ここでは孝慈な どととくに意識しないその実質。もっとも、ここの前段は「民の利」といい「盗賊」ともあ って、世俗の関心に従った書きかたをとっているとみられる。◎「利を棄つ」の「利」は、 功利・利益の意味ともみられるが、上の「巧 , との関係からすると便利なものごと一般とみ るのがよかろう。第三章には「得がたい珍品を貴ぶのをやめれば、人民は盗みをしなくなる おうひっ だろう」とあった。◎「此の三者ーより以下の一段は難解で、異説も多い。今は王弼以来の せんばく ふつうの解釈に従った。前段の三事は社会的な効果を主にしていて、それだけに浅薄にうけ

7. 老子 : 無知無欲のすすめ

はあく る。それは世界の全体をまるごと総体的に把握するからである。現象を追って外に 走るさかしらの知恵は、全体の一部を切り取った局部的な知恵でしかない。「わか よ自然のあ る」は「分かるーであり、分けて切り取ったものである。そうした認識冫 るがままの実相から遠いといわなければならないが、それにもかかわらず人びとは それを絶対的なものと考えて、一喜一憂をくりかえす。世界の混乱はここから出て くるのだと、老子は考える。 さらに世間知の悪いことは、それが欲と結びついているからである。美しいもの と醜いもの、善いものと悪いものを分けると、人びとはすぐに美しく善いものを欲 しがる。「得がたい珍品を貴重だとしたりしなければ、人民は盗みをはたらいたりは しないだろう。欲望を刺激するものを見せなければ、人民は心を乱されないで平静 でおれるだろう」 そこで、聖人の政治は人民を無知無欲にならせるのだという ( 第三章 ) 。無知無欲 きじ あらき かえ こそは人間を自然素朴な本来の姿に復らせる。「外は素地のまま、内は樸の純朴さ。 説かってな心をおさえ、欲望を少なくせよー ( 第十九章 ) といし 「欲望をたくましく むさぼ 解して、満足を知らず、物を貪りつづける」のを、やがては戦争をもひき起こす最大 あやま の罪悪とも過ちともしている ( 第四十六章 ) 。 まことに、満足をわきまえないものほど哀れなものはない。欲求不満の不幸は、

8. 老子 : 無知無欲のすすめ

260 ・はうばく かえ 「無限定の茫漠とした状態 ( 無極 ) に復ろう」「純朴な素材の状態 ( 樸 ) に戻ろう」、 じゅうしやくけんか そして「純真な赤ん坊の状態に復ろう」。柔弱謙下は実はそれを可能にしてくれる ものだ、という ( 第二十八章 ) 。 「道」は、老子の思想の核心である。復帰は、その「道」の立場への合一であった。 めいごう 「道」を体得してそれとの冥合を果たすことが、老子の強調する窮極の目標であっ た。欲を去り知を棄て学を絶って柔弱謙下で暮らすこと、そして始源へとたち帰っ て赤ん坊のように、素朴な樸のようになること、それらはみな「道」との合一に連 なっている。 「道」が何であるかということは、本来言いあらわせないものである。それは名を あいまいもこ こえ、論理をこえたものであった。「道」の説明が曖昧模糊として、時に詩的幻想的 な表現になっているのは、むしろそうした形でしかあらわせないからであった。た だ、それは、はっきりしないけれども、この現象世界を根底でささえている根源的 ばんぶつ な何かだということは、確かである。万物生成の始源として、あるいは、万物の存 在をささえる秩序原理として、それは、この現象世界に即して活き活きとはたらい ゝ めいごう 老子はそれを人びとに指し示して、それとの冥合をすすめるのである。世俗に縛 めざ られて追いまくられる生活をやめよ。それがどんなに無意味なものか、「道」に目覚 0

9. 老子 : 無知無欲のすすめ

目次 学術文庫版まえがき・ 凡例 老子道徳経上篇 1 道の道とすべきは ( この世界の始源ー「道」 ) 天下みな美の美たるを知るも ( 世俗の価値にとらわれるな ) けんたっと 3 賢を尚ばざれば ( 理想の政治① ) むな 道は沖しきも ( 「道」のはたらき① ) ・ 天地は仁ならず ( 理想の政治 ) こくしん 谷神は死せず ( 「道」のはたらき⑦ ) ・ 天は長く地は久し ( 無私のすすめ ) ごと じようぜん 上善は水の若し ( 不争の徳① ) 12 3 35 32 31 28 25 22 18 14

10. 老子 : 無知無欲のすすめ

たいせい あの泰西の神話にも象徴的に示されている。われわれは自分の持ちものをかなぐり つ」す 棄てる必要がある。世間の常識に満たされた、この多くの知識をである。「道」のこ とはあとで述べるとして、ともかく「道」を修めるとそれが可能になるという。ど んどん減らして無知になって、やがて無為になる。無為はことさらなしわざをしな いことで、それでこそ万事がうまく成しとげられるのだという。 したい、人間の常識ほど当てにならないものはない。 「美しいものを美しいとして知っているが、果たして本当に美しいのか、実は醜い ものだ。善いことを善いこととして知っているが、果たして本当に善いことなのか、 実は善くないことだ」 人びとはその時その時の現象をつかまえて、かってな判断をしているだけである。 だから世界の真相をわきまえた聖人は「無為の事におり、不言の教えを行なう」の だという ( 第二章 ) 。現象に動かされるだけの世間知は「智ーとよばれる。それをこ えた聖人の英知は「明ーといわれる。「他人のことを知るのは智であるが、自分のこ とを知るのが明である」という ( 第三十三章 ) 。外に走る知ではなく、内に沈潜する どうさっ しんち 洞察こそが、すべてを見ぬく真知だというのである。 無為は一切なにごともしないというのではない。それと同じように、無知もまた 一切の知的なはたらきをやめよというのではない。聖人の明知は模範とすべきであ ちんせん