が出てくるのだ。 みち 道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。 ばんぶつ 名無きは天地の始め、名有るは万物の母。 きよう ゅうよく もっそ 故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。 げんい 此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又 しゅうみよう た玄は衆妙の門なり。 道可道、非常道。名可名、非常名。 無名天地之始、有名万物之母。 故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其徼。 上此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。 徳開巻第一のこの章では、『老子』の思想としてもっとも特色のある「道」のことが述べら 子れる。世俗の生活のなかで、私欲にとらわれて現実の利害にふりまわされているのが、われ われである。起伏の多いその波間にゆられて喜んだり悲しんだり、しかしその水底の静かな びみよう 深みを知るものは少ない。現象の奥底にひそむ微妙な根源世界、『老子』はそれを開示して、 あら しか こと
われわれをその深みへと誘うのである。しかも、その世界はこの現実世界と別なのではない しんこっちょう というところに、『老子』の真骨頂はあった。 こうし じゅ ◎「道 . はもと道路の意味。そこから道理・方法などの意味が生まれ、孔子を教祖とする儒 家では、仁義などの道徳が人のよるべき道として掲げられた。「道の道とすべきは、常の道 あら に非ず、というのは、そうした儒家の提示する道を排斥したことばである。『老子』のいう 「常の道」とは、単なる人間世界の約束ごとではなくて、宇宙自然をもあわせつらぬく唯一 絶対の根源的な道であって、それは「名」によってはあらわすことのできない窮極の原理で あった。「道」についての説明は、このほか、第四章、第十四章、第二十一章、第二十五章、 第三十七章などにも見えている ( 解説の説明をも参照 ) 。◎「名」とは、名称、言語、概念の 意味。それは必ずある実体に対してつけられて、一つの約束ごととして世間で通用すること になるが、物の名称は本来どのようにもつけられるわけであるから、「名ーは実に対して第 そうじ 二義的なものである。『荘子』にも「名は実の賓 ( 客 ) なり」とある。『老子』では「無名 , とうと や「不言」が貴ばれ、ことばや概念に対する不信の念は強い。「道」のあとにつづいて、な ぜ「名」が出てくるのか。もちろん、名づけようのない「道」の性格との関連で出てくるの ほうか だが、ここにはまた名目にとらわれて、ことさらに「名ーを立てようとする儒家や法家など に対する批判がこめられている。そして『老子』のいう「常の名、とは、「道」の不可思議 なありかたに沿ったおのずからなる「名」として、つまりは無名の名 ( 名づけることのない ひん はいせき
道の道とすべきは ( この世界の始源ー「道し これこそが理想的な「道」だといって人に示すことのできるような「道」は、一 これこそが確かな「名ーだといって言いあらわす 定不変の真実の「道」ではない。 ことのできるような「名」は、一定不変の真実の「名ーではない。 「名、としてあらわせないところに真実の「名」はひそみ、そこに真実の「道」が ゆいいっ あって、それこそが、天と地との生まれ出てくる唯一の始源である。そして、天と 地というように「名、としてあらわせるようになったところが、さまざまな万物の ぼたい 生まれ出てくる母胎である。 びみよう だから、人は常に変わりなく無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始源を認識 できるのだが、いつも変わりなく欲望のとりこになっているのでは、差別と対立に まったん みちたその末端の現象がわかるだけだ。 この二つー微妙な唯一の始源と末端のさまざまな現象との二つは、根本的には同 じでありながら、「名」の世界では、道といい万物というように、それぞれ違った呼 げん びかたになる。その根本の同じところを「玄ーーはかり知れない深淵と名づけ、そ の深淵のさらにまた奥の深淵というところから、もろもろの微妙な始源のはたらき しんえん
116 たの しかことば 大道は汎として其れ左右すべし。万物はこれを恃みて生ずるも、而も辞せず。功 たも いよう しゅな 成るも、而も名を有たず。万物を衣養するも、而も主と為らず。常に無欲なれば、 しよう 小と名づくべし。万物焉れに帰するも、而も主と為らざれば、大と名づくべし。 もっ みずか 是を以て聖人の能く其の大を成すは、其の終に自ら大と為らざるを以て、故に能 く其の大を成す。 大道汎兮、其可左右。万物恃之而生而不辞。功成而不名有。衣養万物、而不為主。 常無欲、可名於小。万物帰焉、而不為主、可名於大。是以聖人之能成其大也、以 其終不自為大、故能成其大。 偉大な「道」は、ひろくゆきわたってすべての万物の存在をささえているが、それでい て、その成果を自分の働きとして誇ったりはしない。そこに真の偉大さがある。聖人の偉大 さもまたそれを模範としたものだという。 はん とど おうひっ はんらん ◎「大道汎としてーの句は、第二十五章の「周行して殆まらず」と同じ。王弼の注に「氾濫 しか たも して適かざる所なし」というのがその意味である。「功成るも而も名を有たずーの「而」の かじようこう はくしょ 字は、底本にはないが、河上公本と傅奕本に従って補った帛書甲本にもある。「不名有ー はん ふえき 」、つ
110 てんたん そうじ きよせい 右のどちらを貴ぶかには変化があったらしい。◎「恬淡」は、『荘子』のなかでも「虚静恬 淡」とか「恬淡無為」とかいわれていることばであって、無欲で執着のない自然な態度をい う。武器をふりまわして戦争にひきずられないよう、さらりとした冷静な態度でいることで ある。◎「志を天下に得る」というのは、文字どおり天下を統一する志望をとげること。当 時の大諸侯に共通する欲望をかかげて、そんなことを志望したところで、武力を主としてい るようではとてもだめだという。世俗の立場に降りた発言である。 道は常に無名なり ( 理想の政治④ ) 真実の「道」は、本来いつも無名であって、名としてはあらわせないものである。 あらき 手を加えない素朴な樸は、微小なつまらないものであっても、それを道具として働 かせることは世界中だれにもできない。諸侯や王たちが、その統治のうえで、もし こうした「道」の素朴な立場を守りつづけることができるなら、あらゆる物はおの ずからに服従してくるであろう。天と地とは和合して豊かな恵みの雨露をふらせ、 人民はことさら命令をしなくとも、おのずからに統一される。 素朴なものがはじめて切りさかれると、そこに道具ができて名がつけられる。そ して、すでに名ができたとなると、そこから無限の差別が出てくるから、その名を
これを視れども見えず、名づけて夷と曰う。これを聴けども聞こえず、名づけて ら きっ いた 希と日う。これを搏うるも得ず、名づけて微と曰う。此の三つの者は詰を致すべ もと からず、故より混じて一と為る。 あきら じようじよう むぶつふつ 其の上は皦かならず、其の下は昧からず。縄縄として名づくべからず、無物に復 むじよう 」っこう 帰す。是れを無状の状、無物の象と謂い、是れを惚恍と謂う。 したが しりえ これを迎うるとも其の首を見ず、これに随うとも其の後を見ず。古えの道を執り ぎよ レ J 、つき て、以て今の有を御すれば、能く古始を知る。是れを道紀と謂う。 視之不見、名日夷。聴之不聞、名曰希。搏之不得、名日微。此三者不可致詰、故 混而為一。 上其上不皦、其下不昧。縄縄不可名、復帰於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂 迎之不見其首、随之不見其後。執古之道、以御今之有、能知古始。是謂道紀。 根源者としての「道」を説く章であるが、ここでは、感覚や知識をこえたそのおばろげな ものを、なんとか手さぐりでたずねあてて自分のものにしようとする実践性がある。小川環 こん 」、つべ くら しようい
てんどう 天道 : ・ 天道は親無し : 天に配す : 天の悪む所 : ・ 天の道 : ・ 天は一を得て以て清く : 天は清きこと無くんば : 天は乃ち道なり : 天は長く地は久し : のっと 天は道に法り : てんもうかいかい 天網恢恢・ : てんもんかいこう 天門開闔して : ・ てんたん 恬淡なるを上と為す : とうお′」 盗の夸り道に非ざる哉 : どうき 道紀 : 動には時を善しとす : とおうつ 索 遠く徙 ( 移 ) らざら使む・ : 遠ければ日に反る : 徳 : すなわ かな けいっかさど 徳有るものは契を司り・ : 徳を失いて後に仁あり : : 徳に同ずる者 : : 徳は交これに帰す : 独立して改らず : ・ あや 止まるを知れば殆うからず : ・ 搏うるも得ず : ・ 執る者はこれを失う : な行 名・ : いず 名と身と孰れか親しき : 名の名とすべきは : ・ : 燗為さずして成す : ・ ・ : 為して而して争わず : ・ 為すこと無からんか : 為すも而も恃まず : ・ 為す者はこれを敗り : : 燗縄を結んでこれを用い な な な とら こも′、も たの : 難と易と相い成り : ・ にぎ 握ること固し : 濁れるが若し : ・ ・ : 二は三を生ず : ・ のぞみ : 志を弱くし : は行 始めて制して名有り : ははやしな 母に食 ( 養 ) わるるを貴ぶ : 早く服するは : 腹を為して目を為さず : ・ 腹を実たし : ・ 春に台に登るが如し : 万物焉に作るも而も辞せず・ : 万物焉れに帰するも : ・ : 万物草木の生まるるや : 万物の自然を輔け : 万物生ずること無くんば : 万物の宗 : ・ ばんぶつこ はら こ・」おこ み 」と たす しかことば たっと 26 132 197 227 116 19 23 141 57 171 19 74 23 46 183 75 Ⅲ
152 不出戸知天下、不閥見天道。其出弥遠、其知弥少。是以聖人、不行而知、不見 而名、不為而成。 いよいよ 「其の出ずること弥遠ければ、其の知ること弥少なし」とは、これまた『老子』流の名 きやっかしようこ 言である。「脚下照顧」、まず足もとを見よ、「灯台もと暗し」ともいうではないか。いや、 足もとよりも、さらに自分の内を見よ。外に向かって見開いた眼を逆に内に転じて、わが心 けんしようじようぶつ の奥底を凝視せよ。そこに一切は備わる。「見性成仏」、わが本性を見きわめて仏になると みずか いうのは、禅の教えであるが、『老子』はすでに「人を知る者は智、自ら知る者は明」とも 説いて、反省的な「自知」の重要性を説いていた ( 第三十三章 ) 。知ることを求めて外に向 かうのは常識である。しかし、真知はそこには得られない。遠くに行けば行くほど、追求は しようまっせつ 枝葉末節になって本質から離れてしまう。春を求めて山野を歩きまわったが、帰ってみれば なんと庭樹の枝さきに春は十分であったと、詩人は唱っている。「春は枝頭にありてすでに かくりんぎよくろ 十分」、ひろく出歩くことはなかったのである ( 『鶴林玉露』 ) 。 ◎「天道、は、第九章や第七十三章などにみえる「天之道」と同じ。自然界の動きをとおし て知られるその法則性。本来は自然の観察によって知られるものであろうが、『老子』では あきら そうした科学的認識をこえたところに真の認知があると考えられている。◎「見ずして名か , の「名」の字は、文字どおりに「名づける」と読む説もあるが、「明、の字と通用するから
の宇宙のなかには四つの大なるものがあって、王はその一つを占めているのだ。 人は大地のありかたを模範とし、大地は天のありかたを模範とし、天は「道」の ありかたを模範とし、「道」はそれ自身のおのずからなありかたを模範としている。 さき かわ しゅう もの こん しようせき 物有り混 ( 渾 ) 成し、天地に先んじて生ず。寂たり寞たり、独立して改らず、周 とど こう あざな 行して殆まらず。以て天下の母と為すべし。吾れ其の名を知らず、これに字して ここ みち 道と日う。強いてこれが名を為して大と曰う。大なれば日に逝く、逝けば曰に遠 ここかえ 遠ければ日に反る。 いきちゅうしだい 故に道は大、天も大、地も大、王も亦た大なり。域中に四大有り、而して王は其 の一に居る。人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。 有物混成、先天地生。寂兮寞兮、独立不改、周行不殆。可以為天下之母。吾不 知其名、字之日道。強為之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。 故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法 道、道法自殀。 万物の根本であり始源である「道」を説く章である。さきの第二十一章や第四章と関係が のっと しか
らいきだいそく てゆくこと、つまりは「道」をおさめることである。「礼記』内則篇注に「乳母」のことと あるのに従って「食母を貴ぶ . と読むのが多い。 こうとくよ、つ 幻孔徳の容 ( 「道ーの体験④ ) 偉大な「徳」をそなえた人のありさまは、ただひたすら「道」に従うばかりだ。 「道」というものは、まことにおばろげで、とらえどころがない。おばろげでとら えどころはないが、そのばんやりとしたなかに何かの存在がある。とらえどころが なくておばろげではあるが、そのばんやりとしたなかに何かのかたちがある。奥深 くてほの暗い、 そのかすかななかに霊妙な精気が動いている。その精気はとても純 粋で、その純粋な動きのなかに確かなものがある。 今の時代からはるかなむかしにさかのばるまで、「道」とかりに名づけたその名は 消えることがない。そして、その名は、万物の起こるそもそもの始源を統べくくっ てくれるのだ。万物の始源がそのとおり始源であるということが、どうしてわたし にわかるのか。この「道」という名によってである。 ′」、つとくよ、つ みちこ こ、つ 孔徳の容は、惟だ道に是れ従う。道の物たる、惟れ恍惟れ惚。恍たり惚たり、其 もの こ こっ う