216 あった。『老子』のこのことばは、それと似ているようで、実は違っている。わかったこと をわかったとはしないのである。わかったことをわかったとするような合理主義は、単純で せんばく 浅薄だということであろう。現象の奥にひそむ「道」は、日常的な知によって求められるも おとしあな のではない。わかったと思うことは、そう思うことによってすでに一つの陥穽となるのだ。 ほんとうにはっきりわかったといえるのかどうか、そのわかったように思えることを、さら ぎんみ に懐疑して吟味してゆく必要がある。それが知を棄ててみずからを洗いあげていく過程でも ある。こうして、ついに「道」にゆきついたときは、それが「道」の体得であり「道」との 合一であるからには、もはや何がわかった何を知ったという境涯はすっかり抜けきっている ことになるだろう。なぜなら、何かがわかったとか知ったとかい朝かぎりは、それ以外の知 らないわからない世界をいつまでも残しているのであって、それでは「道」に到達したとは いえないからである。 ここもっ ◎「夫れ唯だ病を病とす、是を以て病あらず」という中間の二句は、このあとの「聖人は」 はくしょ より以下の文と意味が重なっている。道蔵本や碑石本に二句の無いものがあり、新出の帛書 にも甲・乙本ともに無いから、たぶん古い注のまぎれこんだものであろう。カッコにはさん で区別をしたが、除いたほうがよいかとも思う。◎「病」は難の意。短所・欠点のこと。 かいぎ
朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帯利剣、厭飲食、財貨有余。是謂盜夸。盜夸、 非道也哉。 広い大きな道は歩きやすい。そのように、真実の「道」の実践も実は最も行ないやすいも こざか のだ。ところが、人は小賢しい知恵のために、ことさらに脇道に出て先まわりをしようとす る。「道」の実践のむつかしさはそこに生まれる。欲望のとりこになってしまうと、もはや どろぼう 泥棒と同じことである。民衆の窮乏をかえりみないで、美服美食のぜいたくに明け暮れる貴 ぬすっと 族たちのありさまは、今や盗人のぜいたくといってよいであろう。「道に非ざるかなー道を がいたん ふみはずすこともはなはだしいー」と老子は慨嘆する。当世の為政者、貴族たちに対する烈 いきどお しい憤りが、ここに噴出している。 ◎「介然」は微細の意味に読み、「知」のほうも否定すべき世間知と解した ( 呼瓏の説 ) 。 しやくじ 下堅固の意味にみて「しつかりした認識」と解する説もあるが、よくない。「施」は進の借字 こみち であって、斜・邪の意。わき道にはずれることで、後文の「径を好む」と同義になる。◎ そうじ よなま 「朝はだ除」の「除」の字は掃除の意。きれいに掃き清め手入れをすること。一説に「渝」 おだく まじよりん 老の借字で汚濁の意味とするのは ( 暦叙倫の説 ) 、「田」と「倉」の句に合わせて朝廷もきたな いとしたものであるが、それでは為政者と民との対立の意味が薄れる。ここは民衆サイドに 立って為政者である貴族たちを非難する文気を尊重して読むべきであろう。「盗夸」の意味 あら
きんこっ スト、「始」字になっているテクストは、ほかにもある。「万物の興る始源とはならない と、「始」の字の意味で読む説もあり、「辞」を辞退の意味にみて「世俗の労をいとわない」 というように解釈するのもあるが、上文の「不一言」との関係でいえば、「辞」はやはり言辞 の意味であろう。 けんたっと 3 賢を尚ばざれば ( 理想の政治田 ) 為政者が、才能すぐれた者をとくに尊重するということをやめれば、人民が競争 に熱をあげたりはしなくなるだろう。手にはいりにくい珍しい品を貴重だとするよ うなことをやめれば、人民が人のものを盗んだりはしなくなるだろう。欲望を刺激 するようなものが人民の目にふれないようにすれば、人民の心は乱されなくて平静 になるだろう。 それゆえ、「道」と一体になった聖人が行なう政治では、人民の心をつまらない知 識でくよくよしないようにからつほにして、その腹のほうを空腹にならないように ゝつばいにし、人民の望みを欲にとらわれないように弱く小さくして、その肉体の 筋骨のほうを強くじようぶにする。こうして、いつも人民を知識ももたず欲望もな い状態にならせて、あの知恵者たちが人民をたぶらかそうとしても、どうしようも
Ⅱこれを視れども見えず ( 「道」の体験田 ) 目を見はってよく見ようとしても見えない、そこで、形のないものという意味で、 それを「夷ーと名づける。耳をそばだてて聞きとろうとしても聞こえない、そこで 音のないものという意味で、それを「希ーと名づける。手でさぐりとろうとしても びみよう とらえられない、そこで、微妙なかすかなものという意味で、それを「微」と名づ ける。これら三つのことは、もはやそれ以上には、たずねてつきとめることはでき ない。それらは、もともとまじりあって一つになっているのだ。 それの上だからといって明るいわけではなく、それの下だからといって暗いわけ でもなし ) 。はっきりしないおばろげなありさまで、これといって名づけようがなく、 結局は何ものも存在しない無の世界へとまたもどっていくことになる。これを「す すがた かたち がたのない状」「物のかたちのない象」といし また「おばろげなもの」とよぶ。 やってくるのを前から迎えてみてもその先頭はみえず、さきへ行くのをあとから ついていっても、その後ろ姿はみえない。古いむかしの本来の「道」の立場をしつ かりと守って、それによって現在の目の前のものごとをとりしきっていけば、古い はじまり そもそもの始原を知ることができる。それを「道の中心」とよぶのだ。
じようとく 「道」の体得としていわれている。第三十八章に「上徳は徳とせず」とある、その「上徳」 こっ もの は「孔徳」に近い。◎「恍たり惚たり、其の中に物有り」の句は、底本では下の句といれか かじようこう おうひっ わって順序が逆になっているが、今は河上公本と帛書に従って改めた。王弼本もその注から 考えると、もとはこうであったらしい。「物 [ は対象としてある何か、まだ形をとらないも の。◎「精」は精気。エネルギーの根源としてのエッセンス。もと精白した米の意味から、 そうじざいゅう ようようめい 精粋の意味になった。「道」の活力をあらわしている。『荘子』在宥篇「至道の精は、窈窈冥 冥たり」。◎「今より古えに及ぶまで」は、一般に「古えより今に及ぶまで、となっている。 ただ、帛書は甲・乙本ともこうなっていて、古い王弼本もそうであったらしい。高亨は、 「道」という名は老子が今つけたのであって、それがむかしからの「道」の実質によく対応 していることをいったものだから、帛書のほうがよい、 という。下の句の「道の名が消え去 らない というのは、「道」の実質的なはたらきがおおむかしからつづいていて、今つけた 道の名がそのまま適用できることをいう。「古えより今に及ぶ」というほうは、ふつうの言 しゅうほす いかたでわかりやすいから、後人が改めたものであろう。逆は考えにくい。◎「衆甫を閲ぶ の「衆甫」は、衆父とも書かれていることから、族長・父老などの意味にみる説があるが、 よくない。王弼、河上公ともに甫を始めとみているのが正しい。父は甫に通ずる。「閲。は とうかっ 総統の意味。さまざまな万物の始源を根本で統括すること。◎「衆甫の然る」の「然」は、 底本では「状」とある。今、第五十四章、五十七章の同じ句法から考えて、別本に従う。 はくしょ
もっ おうひっ と合い、王弼の注によってももとは有ったらしい。「既に其の母を得て、以て其の子を知る」 はくしょ は、底本では「得」が「知」、「以」が「復」となっているが、帛書および諸本に従って改め しゅうじようい た。最後の「是れを襲常と謂う」も、底本は「是れを習常と為す」とあるが、やはり帛書 しゅうめい と諸本に従って改めた。第二十七章の「是れを襲明と謂う」の句と合う。「襲ーと「習」、 あなふさ たい あな そな 「謂」と「為」は通用する字である。◎「其の兌を塞ぎ」の「兌」は穴のこと。人に具わった 耳や目やロなどの感覚器官をさし、人間の欲望はそれを通じてひきおこされると考えられて いる。下の句の「門 , も同じ。出入口の意味。「勤」はふつう「つとめる」と読まれるが、 とうとっ 労の意味であって、ここではつかれること。「小を見るを明と曰い」の句はやや唐突の感が あるが、下文の「其の明に復帰す」の「明 , を説明するものとしてある。「柔を守る」の句 は、「小を見る」の句と対になっているためにいっしょに挙げられたのであろうか、ここで はやや落ちつきが悪い。「明」は「光」と区別される。「光」が外を照らして輝き出る知恵で しんち 下あるのに対して、「明」は内面にむかって真相を洞察する真知である。「光を用いながら明に 帰る」というところに、この章の眼目がある。◎「襲常」の「襲」は第二十七章の「襲明 したが 道のばあいと同じで因り順う意味。入る、かさねるなどの意味にも読まれる。「常」は、第十 めい かえ 老六章で「命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う」 ( 六二ページ ) とあったその「常」で ある。そこでも「復帰ーと「明ーに関係して説かれている。世界の根源にある一定不変の常 炻道である。もちろん、それは母としての「道」そのもののありかたと深くかかわっている。
章である。「道」ということばはないけれども、「道」のはたらきと同じものを語っているこ レ」↓ま、 ) しうまでもない しやくじ ◎「谷神ーの「谷」を「穀ーの借字とみて、生成長養の神とする説もあるが、文字どおりに まさ じようとく 谷の神とするのが勝る。『老子』中では、たとえば「上徳は谷のごとし」 ( 第四十章〈旧四十 一章〉 ) というように、谷をものごとの根源あるいは始源として、理想的にあらわす例が少 なくないからである。◎「玄牝」は、「玄」が第一章で「玄の又た玄」とあったのと同義、 ひん めす ほうじよう 「牝」は牡に対する雌として、女性であり、母性である。それが生殖の力をもっ豊饒の神と めんめん して、天地の根源ともなるのは、自然である。◎「緜緜ーを「はっきりしないおばろげな」 こうこう みんみん しやくじ めいめい と訳したのは、やや特殊である。「昏昏 , の借字であって、「冥冥」の意味だという高亨の説 に従ったのである。文字どおりの意味では連続のありさま。「永遠につづいていて何かが存 在しているようだ」となる。◎「勤きずー尽きはてることがない」と読んだ最後のことばも、 つか えなんじ おうひっ 王弼の注に従って「労れず」と読むのが多いが、『淮南子』の注に従って「勤」を「尽」の おがわたまき 意味にみるのがよい。 これも高亨の説による。小 , Ⅱ環樹博士も同じ。 天は長く地は久し ( 無私のすすめ ) 天は永遠であり、地は久遠である。天地の大自然がそのように永久の存在をつづ
われわれをその深みへと誘うのである。しかも、その世界はこの現実世界と別なのではない しんこっちょう というところに、『老子』の真骨頂はあった。 こうし じゅ ◎「道 . はもと道路の意味。そこから道理・方法などの意味が生まれ、孔子を教祖とする儒 家では、仁義などの道徳が人のよるべき道として掲げられた。「道の道とすべきは、常の道 あら に非ず、というのは、そうした儒家の提示する道を排斥したことばである。『老子』のいう 「常の道」とは、単なる人間世界の約束ごとではなくて、宇宙自然をもあわせつらぬく唯一 絶対の根源的な道であって、それは「名」によってはあらわすことのできない窮極の原理で あった。「道」についての説明は、このほか、第四章、第十四章、第二十一章、第二十五章、 第三十七章などにも見えている ( 解説の説明をも参照 ) 。◎「名」とは、名称、言語、概念の 意味。それは必ずある実体に対してつけられて、一つの約束ごととして世間で通用すること になるが、物の名称は本来どのようにもつけられるわけであるから、「名ーは実に対して第 そうじ 二義的なものである。『荘子』にも「名は実の賓 ( 客 ) なり」とある。『老子』では「無名 , とうと や「不言」が貴ばれ、ことばや概念に対する不信の念は強い。「道」のあとにつづいて、な ぜ「名」が出てくるのか。もちろん、名づけようのない「道」の性格との関連で出てくるの ほうか だが、ここにはまた名目にとらわれて、ことさらに「名ーを立てようとする儒家や法家など に対する批判がこめられている。そして『老子』のいう「常の名、とは、「道」の不可思議 なありかたに沿ったおのずからなる「名」として、つまりは無名の名 ( 名づけることのない ひん はいせき
「道」の説明として、「聞きとろうとしても聞こえないもの、それを希と名づける」という ことばが、第十四章にあった ( 五二ページ ) 。「希言」はだから無言の言である。真実の 「道」は、何もいわなくても、無言のうちにすべてを語っている。その声なきことばこそが、 まれ 人間の営みとは違った自然なありかたである。人はそれを模範にしなければならない。「希 」と洋」 ( 稀 ) な言」として少言の意味にとることもできるが、むしろ不言の意味とみるのがよい。 「不言の教え、無為の益」といわれている ( 第二章・第四十三章 ) その「不言」を説く章で ある。 人は一般にそのさかしらによってことばを並べたがる。沈黙を守ることはむしろ勇気のい ることだ。そして、話せば話すほど、己れの本来の自然なありかたから離れ、真実から遠ざ かり、やがて他人からも見放される。ことばとはいったい何だろう。「名として言いあらわ せるような名は、不変の真実の名ではない ともあった ( 第一章 ) 。『老子』において、こと ばに対する懐疑と不信は強い。 ◎「そこで、道に従って行動するもの」より以下の中間の一段は、意味がとりにくい という主旨で連続を考え や「徳」を対象として従事していくのにことばの媒介はいらない、 たが、文章のいれちがいなどの誤りがあることも考えられる。底本では「従事於道者 , の下 にまた「道者」の二字があり、下文の「徳者。「失者」との対応がよいが、古くはなかった えなんじ どうおう はくしょ らしい。『淮南子』道応篇、帛書甲・乙本ともにない。「徳者」「失者ーはそれぞれに「従事
もうし ◎「仁義」は、孟子がとくに強調した儒教の徳目。愛のまごころと、それを実践するための たいぎ じゅんし 規準。下文の「大偽 . は、荀子によると「偽ーは人為、作為の意味で礼のことであるから、 ちえ 前の「仁義」との関係からすると、儀礼をさしているとみることもできる。ただ、「智慧」 との関係で考えると、やはり虚偽の意味が強い。知恵さかしらは欲望と深く結びついてい えいち る。欲をとげるためのさかしらは、そのまま大きな虚偽の始まりである。底本は「慧智」と りくしん あるが、諸本に従って改めた。◎「六親」は、親子・兄弟・夫婦の関係で、近親家族のこと。 ていしん 「貞臣ーは、一般に「忠臣」とあり、底本もまた同じ、「国家昏乱して、忠臣あり」といわれ はんおうげん おうひっ て有名である。ただ、范応元本では「貞臣」とあり、王弼本ももとはそうであったといい、 ふえき 傅奕本と帛書甲・乙本もまた同じであるから、原本はこうであったに違いない。「貞臣」は 実直な正しい臣下。忠臣と同じ意味とみてよい 聖を絶ち智を棄つれば ( 素朴に帰れ ) 英知を絶ちきって知恵分別をすて去るなら、人民の利益は百倍にもなるであろう。 仁愛を絶ちきって正義をすて去るなら、人民はまことの孝心と慈愛にたちかえるで と、つぞく あろう。小手先の技巧を絶ちきって便利なものをすて去るなら、盜賊どもはいなく なるであろう。 ふんべっ