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検索対象: 老子 : 無知無欲のすすめ
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1. 老子 : 無知無欲のすすめ

とかこれ有らん。 故に天子を立て、三公を置くに、拱璧以て駟に先んずる有りと雖ども、坐して 此の道を進むるに如かず。 たっとゆえん 古えの此の道を貴ぶ所以の者は、何ぞ。求むれば以て得られ、罪有るも以て免る と日わずや。故に天下の貴きものと為る。 道者万物之奥。善人之宝。不善人之所保。美言可以市尊、知行可以加人。人之不 善、何棄之有。 故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。 古之所以貴此道者何。不日お以得、有罪以免耶。故為天下貴。 篇 下「道」は万物を生み出すだけでなく、また万物の奥底に深くこもっていて、すべての存在を 軽そのようにあらしめている根源者である。「善人」であれ「不善人、であれ、この「道」か 道らはみ出たものは何もない。「道」に従っていくなら、世俗的な効果でさえも思いのまま、 老「求めるものは得られ、罪があってもまぬがれる」。「道 , こそは世界じゅうでの最も貴重な ものだ。「故に天下の貴きものと為る」。この結びのことばは第五十六章にもあったが、そこ げんどう では現象をこえた「玄同、の境地についていわれていた ( 一七四ページ ) 。「道」そのものと いにし こうへき さき

2. 老子 : 無知無欲のすすめ

178 さじゅっ かわ 「無為自然」の政治の強調である。「正」しいまっとうなやりかたと「奇、った詐術とは対 立しているが、どちらも人のしわざであることに変わりはない。天下を取るためには、それ らを越えた「無事」でなければならない。すでに第四十八章でも、「天下を取るは、常に無 うらみち 事を以てす、とあった。「政とは正なり」とは『論語』のことばである。「兵とは詭道なり」 ふしよう とは『孫子』のことばである。『老子』でも「兵は不祥の器」とあって ( 第三十一章 ) 裏道 であることが言われるが、その「正」といい「奇」ということがはなはだ当てにならないこ とは、次の章で言われている。 では、どうして「無事」のよいことがわかるか。それは、こまごました禁止や法令がかえ って国家社会の混乱をまねく、という事実によってである。そこで、聖人の政治は無為自然 であり、そのことによって、万民の生活が束縛を離れた自由のなかで、自然素朴の豊かな営 みをとげていくのだという。 もっ ◎「吾れ何を以て・ : 知るや、此れを以てなり、という句法はほかにもあるが、ここ以外では、 そうかっ 文章の最後にあって総括する意味があり、「此れ」はその前で述べられたことをさしている。 はくしょ ここでは「次のとおり」と訳しておくが、帛書には甲・乙本とも「此れを以て、の二字がな いから、それに従って除いたほうがよいのかも知れない。「民に智慧多くして」の二句は、 はんし ふえき かじようこう 底本や河上公本では「人多伎巧、奇物滋起」となっているが、傅奕古本や范氏本に従って改 もっ

3. 老子 : 無知無欲のすすめ

えがた し、第三章で「得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざらしむ」とあったように、 それは一般の民衆の生活にも影響を及ばす。普遍的な人間性の弱点をついているといってよ いであろう。そして、それが、見せかけのけばけばしい繁栄を嫌う老子流の文化批判につら なっていることも、明白である。 きゅうしようかくち ◎「五色」は青・黄・赤・黒・白。「五音」は「五声」と同じで、宮・商・角・徴・羽の五音 にがみ 階。「五味、は酸・醵・甘・辛・苦。いずれも、それぞれにまじりあってさまざまな色や音 楽や料理ができあがり、それらが人びとの欲望を刺激して生活をくるわせることになる。 むな ◎「腹を為して目を為さず . は、第三章で「其の心を虚しくして、其の腹を実たす」とあっ たのと同じ主旨。空腹にならないようにものを食べて腹をいつばいにすること。それは同時 に、感覚的な欲望にひかれて外に散る心をなくして、自己の内部の力を充実させることであ る。「目」は感覚を代表している。◎「故に彼れを去てて此れを取る」の句は、第三十八章、 そうかっ 上第七十二章にもみえ、いずれも「故」の字があって文末で総括する形になっている。したが って、ここでも聖人の説明ではなくて、それを受けて総括する地の文とみるのがよい。「彼 かじようこう 徳れ」とは感覚の対象としての外界の事物、「此れ」とはわが身の内なる真実の力。河上公注 子は「彼の目の妄視を去てて、此の腹の養性を取る」という。 しおから たっと

4. 老子 : 無知無欲のすすめ

鮖はしない。だから、あちらの外にあるものはうち捨てて、こちらの内にあるものを 取るのだ。 ろう ごいん 五色は人の目をして盲ならしむ。五音は人の耳をして聾ならしむ。五味は人のロ をして爽わしむ。馳騁畋猟は、人の心をして狂を発せしむ。得難きの貨は、人の さまた 行ないをして妨げしむ。 是を以て聖人は、腹を為して目を為さず。故に彼れを去てて此れを取る。 五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁畋猟、令人心発狂。難得之貨、 令人行妨。 是以聖人、為腹不為目。故去彼取此。 感覚的な欲望にとらわれて一時的な快楽を追い求めるとき、人はやがてその刺激のなかに 溺れて正常な感覚をくるわせてしまう。色のあることが悪いというのではなかろう。「柳は げんわく 緑、花は紅、とみればよいものを、五色の世界に眩惑されておのれを失ってしまう、真実 が見えなくなってしまう、そこがこわいところだ。ここでいうのは、「馬乗り狩猟」とか 「手にはいりにくい珍品」とかでわかるように、ぜいたくな貴族の快楽が目標である。しか ごみ

5. 老子 : 無知無欲のすすめ

が出てくるのだ。 みち 道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。 ばんぶつ 名無きは天地の始め、名有るは万物の母。 きよう ゅうよく もっそ 故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。 げんい 此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又 しゅうみよう た玄は衆妙の門なり。 道可道、非常道。名可名、非常名。 無名天地之始、有名万物之母。 故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其徼。 上此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。 徳開巻第一のこの章では、『老子』の思想としてもっとも特色のある「道」のことが述べら 子れる。世俗の生活のなかで、私欲にとらわれて現実の利害にふりまわされているのが、われ われである。起伏の多いその波間にゆられて喜んだり悲しんだり、しかしその水底の静かな びみよう 深みを知るものは少ない。現象の奥底にひそむ微妙な根源世界、『老子』はそれを開示して、 あら しか こと

6. 老子 : 無知無欲のすすめ

つ」ださん り・カし もちろん利害 の裁断でにくまれることになると、その理由はだれにもわからない。 打算とは無関係だ。 ( ーそれゆえ、聖人でさえもそれを知るのはむずかしいとしてい 天の道、つまり自然のはこびかたは、争わないでいてうまく勝ち、ものを言わな いでいてうまく答え、よびよせることをしないでいておのずからに来させ、ゆった りとかまえていてうまく計画をたてる。つまりは「無為」でいてすべてのことをり ほ、つも、つ つばになしとげる、ということだ。天の法網はたいへん広大で、網の目はあらいが 何ものをも逃さない。 すなわ ゅう 敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば、則ち活かさる。 ゆえ にく たれ 此の両者、或いは利あり、或いは害あり。天の悪む所、孰か其の故を知らん。 ( 是 かた を以て聖人すら猶おこれを難しとす。 ) おのずかき 天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召かずして自ら来たし、 てんもうかいかいそ しつ ぜん 綽 ( 坦 ) 然として善く謀る。天網恢恢、疏にして失せず。 勇於敢則殺、勇於不敢則活。此両者、或利或害。天之所悪、孰知其故。 ( 是以聖人 猶難之。 ) せん まね あみ こ

7. 老子 : 無知無欲のすすめ

ろうとするものには、失徳のほうでもまた喜んでかれを受けいれる。 こちらでよけいなおしゃべりをして誠実さがたりないと、先方でも信頼しなくな って、受けいれられなくなるものだ。 しゅうう ひょうふうあしたお きげん 希言は自然なり。故に飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰れか此れを為す あた しか 者ぞ、天地なり。天地すら尚お久しきこと能わず、而るを況んや人に於てをや。 どう 故に道に従事する者は、道に同じ、徳なる者は、徳に同じ。失なる者は、失に同 ず。道に同ずる者には、道も亦たこれを得るを楽しみ、徳に同ずる者には、徳も 亦たこれを得るを楽しみ、失に同ずる者には、失も亦たこれを得るを楽しむ。 しん 信足らざれば、焉ち信ぜられざること有り。 上希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰為此者、天地。天地尚不能久、而況於 人乎。 経 故従事於道者、守於道。徳者、同於徳。失者、同於失。同於道者、道亦楽得之、 子同於徳者、徳亦楽得之、同於失者、失亦楽得之。 信不足、焉有不信。 すなわ しつ

8. 老子 : 無知無欲のすすめ

しやくじ なれ親しんであなどること。そのままでは意味が通りにくい。「厭」は圧の借字として読ん だ。「厭くーと読んで満足の意味にとる解釈もある。「夫れ唯だ」の句も「厭ーの読みかたと みずか 関係して解釈がわかれる。◎「自ら知る」は、第三十三章で「人を知る者は智、自ら知る者 めい は明」とあったその明知にあたる。外に向かって拡散する一般知でなく、己れ自身に集中し あら てその内面を洞察する英知である。「自ら見わさず」は、第二十三章 ( 旧二十二章 ) に「自 ら見わさず、故に明らか」、第二十二章 ( 旧二十四章 ) に「自ら見わす者は明らかならず」 とあったのと同じ。自分で自分を目立つようにして印象づけようとするのは逆効果であっ て、愚かなことだという。聖人はそんなことはしない。「彼れを去てて」の句は、第十二章、 第三十八章にもあった。「彼、と「此」の内容については、河上公の注が、「彼」を自見・自 貴、「此」を自知・自愛とするのが、文章の構成からして順当である。自見・自貴が威令威 ばっ しうまでもない。 罰による政治と通じていることは、 ) 篇 下 あ 経 敢えてするに勇なれば ( 天の理① ) 徳 道 老裁判官が、思いきった決断に勇敢であると、罪人は殺される。思いきらないで保 留にすることに勇敢であると、罪人は生きのびる。この二つの勇断は、裁判官にと って、それぞれ利益があったり害があったりということで決められる。しかし、天 ゅうかん り

9. 老子 : 無知無欲のすすめ

218 れを去てて此れを取る。 民不畏威、則大威至。 無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。 是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。 人民に対して君主の威勢を示し、刑罰によって統制してゆくだけの政治は、破綻する。そ い′」、つ れが長くつづくと、人民は棄てばちになってお上の威光も刑罰も恐れなくなる。やがては反 乱という大きな天罰をまねくことにもなるからである。そこで、為政者は人民の生活をむり に圧迫するようなことをしてはいけないのであって、聖人が自分を誇示したり高ぶったりし ないことに見習うべきだという。これは、第十七章で、人民を恐れさせる政治をおとしめて ほうか いたのと、同じである。法家流の力による厳罰主義の政治に反対して、為政者のおしつけが ない無為自然の政治を待望するものであった。 ◎「威」は威令・威罰、あるいは威勢・威光。政治権力にもとづく威圧である。「大威」は君 てんぶく 主の威圧をこえたもっと大きな圧力、天罰。ここでは人民の反乱による国家の転覆などをさ こう かじようこう きよう すのであろう。◎「狎」は河上公本などでは「狭」となっているので、その意味に読んだ。 ばじよりん 馬叙倫は両字は通用すると言い、本字は「秤」であって閉じて囲う意味だとする。「狎 , は はたん

10. 老子 : 無知無欲のすすめ

以上の三つのことは、これではまだことばが足りないだろうと思う。そこでさら に根本的なことばをここにつづけておくことにしよう。 あらき 飾りけのない素地のままを外にあらわし、伐り出したままの樸のような純朴さを 内に守れ。自分かってな利己心をおさえ、世俗的な欲望を少なくせよ。外から学ぶ ことをきつばりとやめ、くよくよと思いわずらうのをやめよ。 こ、つじ たみ 聖を絶ち智を棄つれば、民の利は百倍せん。仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に ふく レ」 - っぞ・、 復せん。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有ること無からん。 ぶん 此の三者、以て文足らずと為す、故に属ぐ所あらしめん。 ま・く いだ 素を見わし樸を抱け。私を少なくし欲を寡なくせよ。学を絶ち憂いを無くせよ。 上絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。 経此三者、《以為文不足、故令有所属。 3 見素抱樸、少私寡欲、絶学無憂。 子 老 「仁義」や「智慧」を第二義的なものだとした前の章をうけて、それらをきつばりと棄てて しまえという。人民のことがいわれているので明らかなように、政治的な立場からの発言で あら すく うれ