を守ることが、さらに必要である。 夫婦間の愛は最もこまやかなものといわれている。しかしそれがただ愛のみで結びつけられ ていたなら、絶対に永続しないであろう。なぜならば、愛は感情であるから動きやすい。だか ら愛のみで結びつけられた夫婦は、もし相互にその欠点を知り合ったなら、その愛は消えて、 嫌悪の情が起こるからである。ところが、夫はその妻の美点を認めて尊敬し、妻はその夫の長 所を見て尊敬するというように互いに尊敬し合ったなら、愛情はときに動かされることがあっ 財ても、夫婦の関係は動かないのである。 大愛の最もこまやかな夫婦の間でさえも、このように相互の尊敬が必要である。いわんや友人 のの間においては、ゝ しっそう必要なものである。友人とか同僚とかが、単に親しいというだけで、 互いにその尊敬すべき点を発見しなかったなら、その関係は何らかの動機で動かされるであろ 、つ ざ 友人や同僚は、互いに愛するほかに、相互の尊敬を必要とする。尊敬は礼節の基となり、友 こ人や同僚間のきずなとなる。 さ 実 誠 6
782 の奥に残り、それが親友以外の人に対しても必ず同情となって発露する。 もちろん親友とその他の人とに対する情は多少程度を異にするであろうが、同情を表わすと いう点においては異なることがない。 つまり、親友は同情心を磨き出す一つの道具となると思 う。たとえば親友に対して胸襟を開いて話をするとか、病気に対して同情を表わすときは、そ れが親友に対してばかりでなく、他の周囲の人々にも披瀝されるようになる。 ただしここで注意すべきことは、情を表わした相手は亡くなっても、表わした情だけはそれ を修養していかねばならないという点である。親友に対する情にしても、また男と女の間の愛 情にしても、相手が亡くなったときは失意や失恋となり、往々にして自暴自棄に陥ることがあ る。相手が生きていた頃は深いこまやかな同情があったにもかかわらず、その相手が亡くなっ た後にはまったく異なった人物になってしまうことはしばしば見ることである。私は、ひとた び注いだ愛は、その対象が亡くなったのちになっても永久にこれを愛し、かっその愛情を養い たいと思う。これは必ずしも男女の間の愛情に限ったことではない。男と男との間でもそうで ある。相手が亡くなってもその愛情を失わなかったなら、同じ愛情をもって他人を見るように なる。そしてこの情を利用すれば、同情もいっそう強く深くなるものである。 愛する人の死亡によって自暴自棄に陥るのも、生き残った者に対し同情をいっそう深くして いくのも、心がけしだいである。私はいかなる場合をも利用して、同情の修養に努めてもらい たいと思う。
6 で客に応接し、暑いといっては裸になって人に挨拶し、痰が出るからといってただちに人の面 きんじゅう 前で吐いたりする。これは天真爛漫どころでなく、まるで禽獣と選ぶところがない。そして、 そのために人に不愉快の感を与える。礼節に反した天真爛漫は、人に不快を与え、人を侮辱す るものであり、犬猫と異ならない。真の天真爛漫とはいえない。元来礼節というものは、決し て人工的なものではない。人間社会が進化するための自然的必要条件であって、国家や教育や 衣食住と相並ぶものだと思う。 相手の六の長所に目を向けて四の短所には目をつむれ 同等の人々の間には、往々にして競争心が起こりやすい。対抗して相手を凌ごうとする。し たがって常に相手の短所や欠点のみを探している。人間は神や仏ではない。短所や欠点を探し たなら、 いくらでも発見できる。そして相手の短所を発見すれば、おのずからその人に対する 尊敬の念が消え、無礼をもあえてするようになる。だから私は、しばしばいうように、人の短 所を見ないで長所を見るように心がけたい。長所を見れば、自然にその人に対する尊敬の念が 湧き、礼節を守れるようになる。 同等の人々の間に円満な交際を永続しようとしても、単に相互に愛があるだけではそれは期 待できない。愛ももとより必要である。しかしそのほかに、相互の間に尊敬の念があって礼節 たん
しや、これはかえって自分を尊敬 礼をしたからといって、決して自分を卑下するものでない。 ) させることになる。また相手が先に礼をしても、決して相手が自分より劣った者と見なされる わけではない。だから私は、知人に対しては自ら進んで礼をするのがよいと思う。 あら 友人、ことに青年の間では「オイ、おまえ、何々をしろ」というような粗い言葉を用い、ま たそれを動作に表わして、自分を偉そうに振舞う者がたくさんいる。即ち、言語動作で他人を 凌ごうとするのである。これらの人はこういう一言葉や振舞いによって自分をはるかに他人より また、そういわれたり振舞われた人を侮辱したように思うのである。 財偉いと思い の 心ある 大 しかし、言語動作でいかに自分の偉さを表わそうとしても、そううまくはいかない。、 の人がこれを見ればかえって卑しいと感じる。かって十数人の友人が集まって話をした席上で、 一婦人が次のようにいったことがある。 なにがし 「皆さんが偉そうなことをいったり行なったりしていても、某さんだけは平生通り、少しも改 ざ まったことをいわない。何をいわれても笑っている。よほど大きな人であろう。大言壮語をし こないだけ、いっそうあの方の心の大きいことがわかって、かえって偉そうに見える」 さ激しい言葉づかいをしたからといって、その人の値うちが上がるものではない。私はかえっ 贓て、礼節を厳守することで他人を凌ぐのがよいと思う。 ところが世間には、 いかに親しい友人の間でも、遠慮すべきところは遠慮せねばならない。 9 てんしんらんまん 親友の間は天真爛漫でなければいけないという者がいる。そして寒いからといっては布団の中
9 は調和のむ得が最も大切である。世間には自分を頑固に主張し、他人と調和のできにくい人が 5 いる。こういう人は主義の人としてはに貴重だが、ちょっと寄れば、何事にも反対しやす仲 これに反して、人の間に立ち、数人の説を容れ、反対の主張を調和するのに最も妙を得た人 つぐみち もある。たとえば西郷従道 ( 隆盛の弟 ) などは、自らを機械の油と称していた。ある内閣とあ る政党との間の意見が衝突したとか、あるいは大臣同士の間で意見がまとまらないときには、 ふたまたこう 彼はその間に立ち、うまく仲介の役を果たしていた。もしそのやり方が拙劣であれば、二股膏 やく 歩 薬となり、最も醜いものとなるが、巧みにやれば世の不和をまとめ、調和を図るうえで最も重 を んずべき人となる。 本 自己の一身をきれいにし、世の非難攻撃を受けず、潔白に世を渡ることだけを祈る者は、何 常も仕事をせず、ことに責任ある地位にはつかずにいるのが得策である。また、たとえ仕事をす てるにしても、批評家のような態度を保ち、自分は何の仕事にも直接手を下さなければ、安全に を 世渡りすることもできる。だが、小さな範囲であっても世の中を相手にするとか、何らかの責 分 自 任ある地位に立って仕事をする者は、必ず団体内部の調和を図るよう心がけなければ、一日た さ りとも仕事などできはしない。 店をもつ人は、その使用人の中に必ず、円満に世を渡らない者を見るであろう。学校を預る 者は、必ずその教師や同僚に円い人と、四角の人がいるのを発見するだろう。いわんや数百人 まる
りに無礼な振舞いと思う。 やみ 昔の武士は名を名乗らずに暗討ちすることや、後ろから斬りつけることを、最も卑怯として 恥じ、かっ排斥したものである。匿名で人を評論するのは、暗討ちや後ろから斬るのと同じで ある。たとえその議論はあくまで公平なものだとしても、何かためにするところあっての所説 と思われ、少しも重きを置くことができない。 私は、このような卑怯なことをしたくない。敵に最善の力を用いて立派に戦わせるだけの雅 財量を備えて戦いたい。敵に対する礼節とはこのようなものであろう。 の 大 最 の き 4 親しい仲だからこそなれなれしさを慎め と 第三に、親しい友人や同僚その他知人との間でも、それ相応の礼節を守らねばならない。 しの そ ころが面識のある同等の人々の間には、一種の競争心が潜み、他を凌ごうとする心があるから、 さとかく相手の短所を見つけようと努め、礼節が行なわれにくくなる。ことに友人同僚に対して 少しでも礼節を正しくすると、「友人を他人扱いする」といって非難する者もあり、とかく礼 節がゆるがせにされやすくなるものである。 しかし、友人同僚らに対する礼節は、あくまでも守らねばならない。英国の諺に、
膩 IIIIIII 間脚川川旧川 9784857914167 1 91 0 0 5 0 01 1 0 0 8 I S B N 4 ー 8 3 7 9 ー 1 4 1 6 - 0 C 0 0 5 0 P 1 1 0 0 E 三笠書房 定価円 ( 本体 1068 円 )
ないときは、時代は大いに忠臣をミッスする。そのような人がいないことをものたりなく感ず るのである。 このいない人をミッスすることは、大きな国家または社会の事柄に限らない。各自の家庭に あってもまた同じである。使用人でさえも、忠実に勤めた者であれば、しばしばその人をミッ いなくなればものた スする。はなはだしい場合は動物でさえもーー・自分に馴れた犬でさえも、 りない感じを起こす。何だか、生命から一片を取られたように思う。 私が札幌にいた頃、べンケイという犬を飼っていた。私が外出から帰れば、門で尾を振りな がら歓び迎えるのが常であった。ところがそれがいなくなると、帰宅して門に入っても、何だ かものたりなく思うようになった。ゆえに我々は、何物によらず、それがいなくなったときミ ッスする程度によって、そのものの価値を測り得るものと思う。 ところが人は、実際に物に接している間は、その価値をほとんど感じないものである。毎日 太陽の光に浴する者が、日光の恩を感じないようなものである。雨や暴風雨が続いて、しばら く日光を見ることができないと、そのときにはじめて太陽をミッスする。諺に「親孝行したい 時分に親はなし」というのも、親をミッスする情をいい表わしたものである。・ ) ⅵ幻引田・「 ) その価値がわかり、価値がわかるから孝行したいという気持ちが深くなる。 賀茂真淵はいかなる生涯を送った人か、私は詳細には知らないが、その細君が生きていた間 にかたわらで裁縫をしていたのをいちいち改めて見てはいなかっただろうに、さていよいよそ
3 人の顔色を見て生きる人生のおそまっさ 深人は生まれながらにして同情心があるが、他人からこれを受けるのは、人によっておのずか の ろら相違がある。同じ同情心のある人でも、相手によってそれを表わす程度が違う。とすれば、 と同を受けるのはどのような人であるかという問題が起こってくる。 同じ人でも、甲からは多大な同情を受けるが、乙からは何だか嫌な奴だと嫌われ、反感を受 配 ろ けることもある。同一の人でありながら、同情を表わす人によって相違がある。キリストでも こ孔子でも、その一生の間に多くの同情も反感も受けた。いかなる聖人でも、百人が百人からあ の 人まねく同情を受けるものではない。まして聖人ではない人が、すべての人から同情を受けるこ じ とは望めない。一方に同情者があれば、他方には反感者ができる。 通 したがって多数の人々と交際する者は、この覚悟を固め、他人から同情を受けたいなどとい 学 しわゆる八方美人主義は最も愚策であると思う。 間う考えをもたないほうがよい。 ) 人 私の友人はときどき私に忠告してくれることがある。「君は誤解を受けても、それを解こう 7 と 1 ) 、なし。カり・カ = = 誤解に誤解を重ねさせるようなことをする」といってくれる。実際、私は 他人の同情を失うようなことを口にもするし、また受けた誤解を一度でも正そうとしたことが
8 といったことがある。私はこの一言を見るだけでも、彼がさすがに一世の豪傑たる値のある 人物だと思う。 私は、貧困や不幸という重荷を負っている者を見ると、常にナポレオンのこの言を想起せざ るを得ない。あえてこの英雄のロまねをするわけではないが、これらの不幸な人を見ると、 「彼らはあんな状態でも自活しようと努力しているが、おれがもし同じ状態だったらどうであ ろう。恐らくャケになり盗賊をするか、人を殺して金を奪うか、あるいは自殺するようなこと がありはしまいか。彼らはこれほど困難な境遇にありながら、よくあの辛抱ができたものであ る」 と思うことが多い。こう思えば、彼らの生活いかんにかかわらず、なおその人間に尊敬すべ き値が発見されるのである。 目下の人に礼をつくせとはいうものの、私は、道で会ったときにいちいち脱帽して礼をせよ というのではない。彼らに対してその人格を認め、彼らの労働を尊敬せよというのである。 わらじ 世の中は「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまた草鞋をつくる人ーと種々さまざまであるが、 三者の間の関係はすこぶる近い。甲は乙、乙は丙、回り回って丙は甲のためというように、互 いに相持ちで暮らしができる。労働問題には、もちろん経済的理由もあるが、雇い主と労働者 との間の道徳的関係が円満でないことも大原因をなしている。それは今日の経済学者が一般に 承認している。そしてこの道徳的関係のうちで、礼節の欠けていることがそのまた大原因であ